均衡の記憶
三度目の修復作業。海底の広間で、リーシャが結晶球に向かった。
前回残した青い領域は——拳ほどの大きさを保っていた。赤い脈動の海の中に浮かぶ、小さな碧の島。リーシャの魔力がその島に接続し、再び拡張を始めた。
レイドが背後から魔力を補充する。二人の呼吸が合い、碧の光が静かに広がっていく。
「ゆっくり。焦らず」ヴェルディアが指示した。
拳から——掌へ。掌から——頭ほどの大きさへ。青い領域が少しずつ結晶球の表面を取り戻していく。赤い脈動が抵抗するように揺れたが、前ほど激しくはない。
一時間が過ぎた。青い領域が結晶球の一割ほどを占めた。
そのとき——また声が来た。
リーシャの手が震えた。だが今度は——手を離さなかった。
「聞こえます。声が——でも、前と違う。怒りや嘲りではなく——何かを語りかけている」
「内容は」ヴェルディアが尋ねた。声は平静だが、琥珀色の瞳に緊張が走っている。
「『均衡とは何か——お前たちは知っているか。世界を支える力の——本当の意味を』」
ヴェルディアが唇を引き結んだ。
「イルヴァーンの常套手段だ。対話を試みてくる。言葉で惑わせ、封印を緩めようとする。——無視しろ」
「でも——」リーシャの碧眼が揺れた。「この声は——嘘を言っていない気がします。少なくとも、今の言葉には悪意が——」
「悪意がないように聞こえるのが——あの存在の恐ろしさだ。三千年前もそうだった。封印される直前まで、理知的に語り続けた。そして——隙を突いて、一人の仲間を殺した」
リーシャが息を呑んだ。手の震えが止まった。修復に集中する。
二時間。青い領域が二割に達した。リーシャの額に汗が流れ、呼吸が浅くなっている。
「今日はここまで」レイドが宣言した。
リーシャが手を引いた。青い領域は——二割を維持した。確実に進んでいる。だがまだ八割が赤い脈動に覆われている。
「このペースなら——あと三日で半分。六日で全体を取り戻せるかもしれない」フェリクスが計算した。
「六日か。——通路の状態が心配だ」ジークが壁面の亀裂を見た。水の滴りが昨日より増えている。
「通路の補強をしましょう」リーシャが言った。「修復の合間に、壁面の亀裂を塞ぐ処置を」
「それは——可能だが、魔力を分散させることになる」ヴェルディアが懸念を示した。
「必要な投資です。通路が崩壊したら——私たちが海底に閉じ込められる」
ヴェルディアが頷いた。リーシャの判断は正しい。
帰路、通路の壁面をリーシャが修復した。小さな亀裂を一つずつ、魔力で塞いでいく。地味な作業だが、通路の寿命を延ばす。レイドが魔力を補充し、ヴェルディアが構造的に重要な箇所を指示した。
作業中、ガレスがリーシャに水筒を差し出した。
「飲め。顔色が悪い」
「ありがとうございます。——ガレスさん」
「何だ」
「あの声を聞いた時——怖かった。封印の向こうに、確かに誰かがいる。意思を持って、私を見ている。それが——」
「怖いだろうな。俺には魔力はねえから——お前の感じるものは分からない。だが」
ガレスが大盾を壁に立てかけた。
「俺にできることがある。お前が声に耐えている間——俺は体を守る。天井が落ちようが、通路が崩れようが。それだけは任せろ」
リーシャが微笑んだ。疲れた顔に、碧眼の光が戻った。
「頼りにしています」
「おう。——さっさと水飲め。体力は明日の分まで残しておけ」
通路の補強が終わり、地上に出た。潮が満ちかけていたが、間に合った。船に乗り、レヴァルスに帰還した。
船上でジークがレイドの隣に来た。
「一つ確認する」
「何だ」
「あの声——イルヴァーンとか言ったか。リーシャの嬢ちゃん以外にも聞こえるのか」
「分からない。リーシャは結晶球に直接触れていたから——魔力の回路を通じて声が伝わったんだろう。普通に立っているだけなら聞こえないと思う」
「なら——リーシャの嬢ちゃんにかかる負担が一番大きいってことだ。修復の魔力を注ぎながら、同時に声に耐える。二重の消耗だ」
「ああ」
「六日で終わるとフェリクスは言ったが——嬢ちゃんの体が六日持つか。そっちの方が心配だ」
レイドは黙った。ジークの指摘は正しい。リーシャの消耗は日に日に増している。修復だけでなく、通路の補強にも魔力を使う。そしてイルヴァーンの声への精神的負荷。
「代わりは——いないのか」
「いない。守り手の力を持っているのはリーシャだけだ」
ジークが腕を組んだ。
「なら——無理をさせるしかねえな。だが、限界を見極めろ。壊れたら終わりだ」
「分かっている」
◇
レヴァルスの宿に戻った夜。食堂で食事を取りながら、全員で状況を整理した。
「修復は進んでいる。だが——問題が二つある」ヴェルディアが指を立てた。「一つは通路の劣化。もう一つは——イルヴァーンの干渉」
「干渉については——対策はあるのか」レイドが聞いた。
「リーシャに耐えてもらうしかない。声を無視し、修復に集中する。だが——声が強くなれば、集中が乱される可能性がある」
リーシャが箸を置いた。
「ヴェルディアさん。一つ聞いてもいいですか」
「何だ」
「三千年前——イルヴァーンは何者だったんですか。深淵の眷属の親玉、というだけではないんでしょう」
ヴェルディアの手が止まった。食卓の上の魚の煮込みから湯気が立ち上り、その向こうで琥珀色の瞳が揺れた。
「イルヴァーンは——かつて、六番目の術者だった」
全員の動きが止まった。
「六番目——」レイドが復唱した。「五人で封印を施したと言っていたが——元は六人いたのか」
「ああ。六人の術者が集い、深淵の眷属を封じる計画を立てた。だが——計画の途中で、一人が離脱した。いや——裏切った」
「裏切った」
「イルヴァーンは——深淵の力に魅了された。眷属を封じるのではなく、その力を取り込もうとした。結果——深淵の力と融合し、深淵の王となった。人間の知性を持ったまま、深淵の力を手にした存在。それが——最も危険な封印対象になった」
食堂が静まり返った。窓の外で波の音が響いている。
「元は——人間だったのか」ガレスが低く言った。
「人間だった。最も優秀な術者の一人だった。私の——友だった」
ヴェルディアの声は平坦だった。だがその平坦さの下に——三千年の痛みが沈んでいる。
「友を封じたのか」
「友が——友でなくなったから。深淵の力に呑まれた時、イルヴァーンの瞳は——もう人間のものではなかった。だが——言葉だけは、人間のまま残った」
「だから——言葉で惑わせる」
「ああ。あの存在が最も危険なのは——力ではなく、知性だ。三千年の間に何を考え、何を計画してきたか。封印を削りながら——何を準備してきたか。それが——分からない」
レイドは椅子の背に寄りかかった。天井を見上げ、息をついた。
「六人目の術者か。——世界は、どこまでも複雑だな」
「ああ。だが——やることは変わらない。封印を修復する。イルヴァーンを封じ直す。言葉に惑わされず、力で押し切る」
「ヴェルディアの言う通りだ」レイドが立ち上がった。「明日も行くぞ。——一日ずつ、取り戻す」
全員が頷いた。
だがレイドは——ヴェルディアが「友だった」と言った時の瞳を、忘れられなかった。
三千年前の友を——三千年間、海底に封じ続けている。その重さを——想像することすらできない。
窓の外の海は暗く、波音だけが絶え間なく響いていた。




