深淵の声
休息日の夜。レヴァルスの宿で、ヴェルディアがレイドに語った。
部屋の窓が開いていた。海風が薄い布のカーテンを揺らし、潮の匂いが部屋に満ちている。港の灯台が一定の間隔で光を回し、その光が壁を横切るたびに影の形が変わった。
蝋燭の炎が揺れ、テーブルの上に広げた海図の端がめくれた。リーシャは隣の部屋で眠っていた。修復の疲労がまだ抜けておらず、夕食の途中で箸を持ったまま眠りに落ちた。ガレスが背負って部屋に運んだ。
「あの存在の名を——覚えている」ヴェルディアが窓辺に座り、暗い海を見つめていた。
「三千年前の存在か」
「ああ。——イルヴァーン。深淵の王と呼ばれていた」
レイドは椅子に座ったまま、ヴェルディアの横顔を見た。琥珀色の瞳が、闇の中で微かに光っている。
「三千年前——五人の術者が封印を施した時。最も手強かったのが、あの海底の存在だった。他の四つは——力は強大だったが、知性がなかった。獣のような存在だ。封じればそれで終わった」
「だが——海底の存在は違った」
「違った。イルヴァーンは——言葉を持っていた。思考を持っていた。封印される直前に、私に言った。『千年で出る。三千年はかかるまい』と」
「三千年——」
「あの存在は——三千年かけて、計画的に封印を削ってきた。赤い脈動はその証拠だ。急がず、焦らず、一日一層ずつ。時間は——あの存在の味方だった」
沈黙。波が桟橋を打つ音が規則的に響いている。
「勝てるのか」
「封印を修復することは——できるはずだ。だが——三千年前とは条件が違う。あの時は五人の術者がいた。今は——リーシャと私しかいない」
「俺の魔力も使える」
「レイドの魔力は——補助にはなるが、封印の構造を組み直すには——専門の技術が要る。それは私の知識とリーシャの魔力でしかできない」
ヴェルディアがレイドに向き直った。
「一つ、聞きたいことがある」
「何だ」
「お前の——一周目。世界が崩壊した時。海はどうなった」
レイドは記憶を辿った。一周目の終わり。魔王が倒され、均衡が崩れ、世界が崩壊していく中で——海は。
「海が——割れた。水平線の向こうまで、巨大な裂け目が走った。海水が渦を巻いて奈落に落ちていった。その裂け目の底から——何かが這い出そうとしていた。見えたのは一瞬だ。だが——巨大だった。山のように」
「イルヴァーンだ」ヴェルディアの声が低くなった。「一周目では——均衡の崩壊で全ての封印が同時に壊れた。イルヴァーンも解放されたはずだ。世界崩壊の原因の一つが——あの存在だった可能性がある」
「均衡の柱だけじゃなかったのか。崩壊の原因は」
「柱の崩壊が引き金だ。だが——柱が崩れた後、封印も連鎖的に壊れる。地中と海底から深淵の眷属が溢れ出し、世界を物理的に破壊する。崩壊は——二重構造だった」
レイドは椅子から立ち上がった。窓辺に歩き、ヴェルディアの隣に立った。
「つまり——柱を修復しただけでは足りなかった。封印も修復しなければ、いずれ同じことが起きる」
「そうだ。だから——この旅がある。五つの神殿の封印修復は、柱の修復と同じくらい重要な仕事だ」
「分かっている。——だからやる」
ヴェルディアが微かに笑った。笑い方は——旅の中で少しずつ自然になっている。
「お前はいつもそうだ。分かったら——即座にやると言う。考える隙間がない」
「考えすぎると動けなくなる。俺の流儀だ」
窓の外で、灯台の光が海面を撫でた。波頭が白く光り、すぐに闇に呑まれる。
「流儀か。——三千年前の仲間にも、お前に似た者がいた」
「どんな奴だ」
「五人の中で一番若かった。一番無謀で——一番頼りになった。口癖が——『やるしかないだろう』」
「いい口癖だな」
「ああ。その者は——イルヴァーンの封印を最後まで支え、力尽きて死んだ。最期の言葉が——」
ヴェルディアの声が途切れた。琥珀色の瞳に——三千年の記憶が過ぎっている。
「最期の言葉が?」
「『後は頼む』だった。——三千年間、その言葉を忘れたことはない」
レイドはヴェルディアの肩に手を置いた。
「俺も——同じことを言う。だが意味が違う。後は頼む、じゃない。一緒にやる」
ヴェルディアの瞳が揺れた。三千年の孤独に——初めて、別の言葉が重なった。
「……ああ」
短い返事。だがその一言に——三千年分の重みがあった。
◇
翌朝。休息を終えた一行は、再び海に出た。
ハルトの漁船が沖に向かう。波が穏やかで、風が帆を膨らませた。
だが魔の海域に近づくにつれ、海の色が変わった。前回よりも——暗い。藍色ではなく、ほとんど黒に近い。
「色が変わっている」ガレスが海面を覗き込んだ。
「深層の水が上がってきている」ヴェルディアが言った。「封印の不安定化で——海底の水流が乱れ始めている」
断崖に着いた。干潮を待ち、通路の入口に入った。
通路の状態が——悪化していた。壁面の亀裂が増え、水の滴りが前回より多い。足元に水が溜まり、靴が濡れた。
「急ぎましょう」リーシャが先を促した。
広間に辿り着いた。結晶球は——前回と同じ赤い脈動を続けていた。だが、リーシャが残した青い点が——まだあった。
「足がかりは生きている」リーシャの碧眼に光が戻った。
修復を再開した。
リーシャが両手を翳し、青い点から魔力を注入していく。レイドが背後から魔力を補充する。ヴェルディアが指示を出した。
今回は——前回よりもスムーズだった。足がかりがあることで、赤い脈動への干渉が容易になっている。青い領域が少しずつ広がり——爪先ほどから、掌ほどへ。
一時間。二時間。青い領域が拳ほどに広がった。
そのとき——結晶球の奥から、何かが響いた。
音ではない。振動でもない。意思だ。
リーシャの手が震えた。碧眼が見開かれる。
「何か——聞こえます。結晶球の中から——声が」
ヴェルディアの顔が強張った。
「手を離すな。声に引き込まれるな。あれは——イルヴァーンの干渉だ」
「何と言っている」レイドが聞いた。
リーシャが唇を震わせた。
「『——久しいな、ヴェルディア。お前の後継者か。——力が足りないな』」
広間の温度が——下がった気がした。結晶球の赤い脈動が速まり、天井の結界が揺れた。
「手を離せ」ヴェルディアが叫んだ。「今日はここまでだ」
リーシャが手を引いた。青い領域は——拳ほどのまま残った。前回より大きい。進歩はしている。
だが——向こう側に、確かに知性がいた。声を持ち、言葉を操り、三千年の封印の向こうから——こちらを嘲笑う存在。
帰りの船上で、しばらく誰も口を開かなかった。
ハルトが舵を握りながら、一行の顔を見回した。何があったかは聞かない。だが老漁師の目は——海の底に何かがいることを、長年の勘で察している。
「……あの海域にゃ、近づかねえ方がいい。昔から——そう言い伝えられてきた。海の底に何がいるか、漁師は知らなくていい。知っちまったら——海に出られなくなる」
「知ってしまった」レイドが言った。「だが——海に出る。出なきゃならない」
ハルトが白い眉を上げた。
「お前さんは——大した奴だな。海の底のものを知って、それでも向かうってのは」
「怖いさ。だが——逃げる方がもっと怖い」
ハルトが笑った。漁師の皺だらけの笑みだ。
「明日も船を出してやる。——漁師ってのは、怖いから海に出るもんじゃねえ。海の向こうに、何かがあると信じるから出るんだ」
夕陽が海を赤く染めていた。波が船底を叩く音が規則的に響き、海鳥が船の後を追って飛んでいる。
レヴァルスの港が見えてきた。灯台の光が回り始めている。
明日、また海底へ降りる。深淵の王イルヴァーンの声が待つ——赤い闇の底へ。




