魔の海域
翌朝、一行は漁船を借りて沖に出た。
船はレヴァルスの深海漁船団の一隻だった。頑丈な船体に太い帆柱。船長は白髪の老漁師で、名をハルトと言った。日焼けした顔に深い皺が刻まれ、目だけが鋭く光っている。
「魔の海域に行きたいってのは——お前さんたちか」ハルトが舵を握りながら言った。「正気じゃねえな」
「知っている。だが行かなきゃならない」レイドが答えた。
「理由は聞かねえ。金は十分もらった。——だが、約束してくれ。何があっても海には飛び込むな。あの海域は——海流が渦を巻いている。一度落ちたら二度と上がれん」
朝の海は穏やかだった。風が帆を膨らませ、船は東に進んだ。海面が陽光を弾き、飛び魚が船首の波を越えていく。
ガレスが船縁に座り、水平線を見つめていた。
「こういう船は——懐かしいな。親父の漁船はもっとぼろかったが」
「ガレスさん、酔わないんですか」リーシャが青い顔で聞いた。
「漁師の息子だからな。——お前、酔ってるのか」
「少し——」
「水平線を見ろ。遠くを見てれば楽になる」
リーシャが言われた通り水平線に目を向けた。碧眼が海の色と溶け合っている。
三時間ほど進んだ頃、海の色が変わった。
碧から——藍へ。深い、底の見えない藍色。海面の波が不規則になり、船体が軋み始めた。
「来たぞ」ハルトが声を低くした。「ここから先が——魔の海域だ。帆を下ろせ。櫂で進む」
帆が下ろされ、水夫たちが櫂を握った。波に逆らうように、慎重に船が進む。
海流が——おかしい。通常の海では潮の流れは一定の方向に動くが、ここでは四方八方から海流がぶつかり合い、渦を作っている。船が左右に揺れ、リーシャの顔がさらに青くなった。
「レイド」ヴェルディアが船首に立ち、海面を見下ろしていた。「下を見ろ」
レイドが船縁から海中を覗き込んだ。
藍色の水の奥に——光が見えた。微かな青い光。深い深い水底から、脈動するように明滅している。
「結晶球の光だ」
「ああ。だが——あの脈動は不安定すぎる。四つ目の神殿に着いた時よりも——悪い」
ヴェルディアの声に緊張が滲んだ。琥珀色の瞳が水底の光を映している。
「連絡通路の入口は——陸側にある。船をもう少し北に寄せてくれ」
ハルトが舵を切った。船が渦潮の縁を滑るように北に移動する。
断崖が見えた。海に向かって切り立った岩壁。高さは二十尋ほど。波が岩に砕け、白い飛沫を上げている。
「あの崖の下だ」ヴェルディアが指差した。「岩壁の根元——海面すれすれに、入口があるはずだ」
「海面すれすれ——」ジークが眉を寄せた。「満潮時には水没するな」
「だから三十年前に崩落した後、誰も修復しなかった。潮が引いている間にしか作業ができない」
ハルトが潮汐表を確認した。
「干潮は——今から二時間後だ。四時間の猶予がある。それを過ぎれば入口は水没する」
「四時間か。——十分だ」
船を断崖の近くに寄せた。岩壁の根元に——確かに何かがあった。崩れた石の塊が積み重なり、洞窟の入口を塞いでいる。石の表面に——古い紋様が微かに残っていた。
「間違いない」ヴェルディアの声に安堵が混じった。「通路の入口だ。紋様が残っている——通路自体はまだ生きている可能性が高い」
干潮を待った。
水が引いていく。岩壁の根元が露出し、崩落した石の全貌が見えた。大小の岩が入口を塞いでいるが、隙間から——微かに空気が流れている。通路の中に空間が残っている証拠だ。
「ガレス」
「任せろ」
ガレスが岩場に降り、崩落した石を一つずつ動かし始めた。傭兵二人が手伝う。潮の匂いと岩の粉塵が混ざり合い、汗が額を伝った。
一時間で、人が一人通れる隙間が開いた。
レイドが先に入った。松明を持ち、狭い隙間を這って進む。石の壁面に紋様が浮かんでいる。三千年前の古代文字だ。
三歩進んだ先で——通路が広がった。高さ二歩、幅三歩の石造りの通路。壁面の紋様が松明の光に反応し、微かに光り始めた。
「通路は生きている」レイドが振り返って叫んだ。「入れるぞ」
一行が次々と通路に入った。ハルトと水夫は船に残る。
「四時間後には戻れ」ハルトが言った。「潮が満ちれば——入口は閉じる」
「分かった」
通路を進んだ。壁面の紋様の光が、松明の代わりに道を照らし始めた。薄い青緑の光。海底に近づいていることを示している。
通路は——下りだった。緩やかな傾斜で海底に向かって降りていく。空気は——通路の紋様の力で維持されているのだろう。三千年前の魔法が、まだ機能している。
百歩。二百歩。三百歩。
壁面から——水が滲み始めた。水圧が増している。通路の石壁に小さな亀裂があり、そこから海水が滴り落ちている。
「通路の防水封印も劣化しています」ヴェルディアが壁に手を当てた。「ですが——まだ持っている。急いで進めば——」
「急ぐ必要はあるか?」
「ある。この亀裂が広がれば——通路が水没する可能性がある」
足を速めた。通路の傾斜がきつくなり、耳に圧力を感じ始めた。深海に近づいている。
五百歩。壁面の亀裂が増え、水が足首を濡らし始めた。だが通路は続いている。紋様の光が——微かに脈動している。結晶球の光と同期しているのだ。
そして——通路が開けた。
広間だった。
だがこれまでの四つの神殿とは——全く違った。
天井が——ない。いや、天井はある。だがそれは石ではなく——水だった。広間の上方に、透明な膜のようなものが張られ、その向こうに深い藍色の海水が見える。魔法の結界が天井の代わりに海水を押し留めている。
結界の向こうで——魚が泳いでいた。深海魚の蒼い燐光が、広間に幻想的な光を落としている。光の筋が海底の砂に影を作り、ゆっくりと移動していく。
空気は冷たく湿っていた。潮の匂いが濃く、呼吸のたびに塩の味がする。足元の石は苔に覆われ、滑りやすい。
ガレスが天井を見上げた。
「海の底に——こんな場所があるとはな」
「三千年前の術者たちの力だ」ヴェルディアが呟いた。「海水を結界で押し留め、空間を維持し続けている。三千年間——一度も破れずに」
「だが——揺らいでいる」リーシャが天井の結界を観察した。「結界の端——あの角の部分。微かに薄くなっています」
確かに、広間の隅で結界が僅かに歪み、海水が膨らんだ水滴のように垂れ下がっていた。
広間の中央に——結晶球があった。
他の四つより、遥かに大きい。人間の三倍ほどの高さがある。そして——色が違った。
黒ではない。赤だった。
結晶球の表面が——赤黒い脈動で覆われている。青い光は——中心に点一つだけ。その点が弱々しく明滅し、赤い波に呑み込まれそうになっている。
「これは——」リーシャが息を呑んだ。
ヴェルディアの顔が——蒼白になった。
「予想していたより——遥かに悪い。赤い脈動は——封印の内側からの力だ。深淵の眷属が——内側から封印を食い破ろうとしている」
結晶球の脈動が一度強く震え、広間全体が軋んだ。天井の結界が揺れ、海水の一滴が落ちてきた。
「ヴェルディア。修復は——できるのか。この状態で」
ヴェルディアは結晶球を見つめたまま——長い間、答えなかった。
「……分からない」
その声は——旅が始まって以来、初めて聞く響きだった。




