南への道
ラトリアを発ったのは、夜明け前だった。
町が目覚める前に南門を抜け、街道を急いだ。背後でラトリアの鐘が朝を告げる頃には、三人は町から十分に離れていた。
「追手は」
「ありません。——少なくとも今のところは」
リーシャが背後を確認した。守り手の力は失ったが、魔法使いとしての感知能力は健在だ。
街道は南に向かって緩やかに下り、平原が広がっていく。風が暖かくなり始めた。南の大陸に近づいている証だ。
歩きながら、ヴェルディアが足を止めた。
「これは——」
街道の脇に、枯れた花畑が広がっていた。かつては色とりどりの花が咲いていたのだろう。だが今は茎だけが立ち枯れ、茶色い残骸が風に揺れている。
「地脈の損傷です」リーシャが膝をつき、土を手に取った。「この辺りの土壌は、数ヶ月前の地脈の乱れで魔力が枯渇しています。泉の柱が世界を安定させても、一度死んだ土は——すぐには蘇りません」
「どのくらいかかる」
「自然に任せれば——数年。だが」リーシャが考え込んだ。「もし誰かが地脈の流れを誘導して、この区域に魔力を集中させれば——数ヶ月に短縮できます」
「誰かが?」
「守り手の力があれば可能でしたが、今はもう……。ただ、私にはまだ魔法がある。地脈そのものを操ることはできなくても、土壌に魔力を注ぐことはできます」
リーシャが両手を土に押し当てた。碧眼を閉じ、魔力を集中させる。手の下の土が微かに光り、湿り気が戻っていく。
「……これで、この一帯は半年で回復するはずです。花が咲くまでは——もう少しかかりますが」
ヴェルディアが枯れた茎を見つめていた。
「花畑か。——南の大陸にあった花畑のことを、昨日話した」
「ああ。三千年前の花畑」
「あれも——枯れているのだろうか」
「行ってみなければ分からない」
「……ああ。そうだな」
三人は再び歩き始めた。枯れた花畑を背に、南へ。
◇
三日後。港町カレンに到着した。
潮の匂いが鼻を刺した。波の音。カモメの鳴き声。港に停泊する帆船の帆が、風をはらんで膨らんでいる。
カレンは東の大陸と南の大陸を結ぶ交易港だ。商人、船乗り、旅人が行き交い、多種多様な言語と文化が混じり合っている。聖教会の影響力が比較的薄い、自由な空気の町。
「船を探す。南の大陸に渡る商船があるはずだ」
港の掲示板に船の出航予定が書かれていた。三日後にヴェスタ港行きの商船が出る。運賃は一人銀貨五枚。
「三人分で銀貨十五枚。——足りるか」
「資金はアルヴィンが出してくれたものがまだ残っています」リーシャが財布を確認した。「渡航費と、南大陸での数週間分の生活費は確保できます」
「ジークが南の大陸にいる。合流すれば——」
「お金の心配はなくなる、ですか」リーシャが微笑んだ。「ジークさんなら、借りを高くつけてきそうですが」
「ああ。だがあの男は——約束は守る」
船の出航まで三日。その間にカレンの町を回り、情報を集めることにした。
港の酒場は、商人と船乗りの情報が集まる場所だ。レイドが一杯の麦酒と共に聞き耳を立てると——気になる話が聞こえてきた。
「南の大陸で——海の魔物が出たらしい」
「海の魔物? 暴走は収まったんじゃなかったのか」
「陸の魔物は大人しくなった。だが海の底から——見たことのない生き物が浮かんできてるって話だ。漁師が三人行方不明。船が一隻沈んだ」
「聖教会は何と言ってる」
「聖教会はそれどころじゃないだろ。王都がごたごたしてるし。南の大陸の支部は独立しようとしてるって噂だ」
レイドは麦酒を下ろした。
海の魔物。見たことのない生き物。——世界の均衡が乱れた影響は、陸だけではなく海にも及んでいるのか。それとも——。
宿に戻り、ヴェルディアに聞いた。
「海の底から、見たことのない生き物が出てきているらしい。心当たりはあるか」
ヴェルディアの琥珀色の瞳が曇った。
「……あるかもしれない」
「何だ」
「五つの柱は——世界の均衡を保つだけではなかった。太古の時代に封じられた存在がある。柱の力で——海底の裂け目を塞いでいた」
「封じられた存在?」
「詳しくは覚えていない。私が柱の管理者になる前——最初の千年の記録に、断片的に残っていた。『深淵の眷属』と呼ばれる存在。柱が安定している限り、目覚めることはなかった」
「今は柱が泉に変わった。新しい永遠の柱が世界を支えている。だが——封印は」
「泉の柱は世界の均衡を保つ。だが——古い封印は、元の五つの柱の力で作られていた。泉の柱が新しい封印として機能するかは——分からない」
沈黙が落ちた。
リーシャが顎に手を当てて考えている。
「つまり——世界の均衡は回復したが、五つの柱が個別に維持していた封印の一部が、新しい柱では代替できない可能性がある」
「ああ。——可能性の話だ。確証はない」
「確証がなくても——海の魔物が出ているのは事実です。南の大陸に渡ったら、確認する必要がありますね」
レイドは窓の外を見た。港の向こうに、海が広がっている。夕陽が水平線を金色に染め、穏やかに見える。だがその下に——三千年前の封印が、ほころび始めているかもしれない。
「旅の目的が一つ増えたな」
「はい。景色を見るだけでは——済まなくなりそうです」
リーシャの碧眼に、学者の光が灯った。
三人の旅は、穏やかな散策から——少しずつ、新たな使命の色を帯び始めていた。
◇
その夜、ヴェルディアは宿の屋上で一人だった。
海風が黒髪を撫でている。星空の下で、ヴェルディアは自分の手を見つめていた。
力のない手。柱の力を全て手放した、ただの人間の手。
三千年間、世界のあらゆる脅威を感知し、対処してきた。海底の封印も、大地の亀裂も、魔物の暴走も——全てを一人で背負っていた。
今はもう、何も感じ取れない。世界の痛みも、地脈の叫びも。
それは自由だった。だが同時に——怖かった。
「眠れないのか」
レイドが屋上に現れた。
「……お前もか」
「習慣だ。夜は——まだ怖い」
二人は並んで星を見上げた。
「深淵の眷属のこと——気になっているのだろう」
「ああ。だが今の俺たちには確認する術がない。南に渡って、現地で調べるしかない」
「もし——封印が破れていたら」
「その時は——また戦う。今度は一人じゃない」
ヴェルディアが微かに笑った。
「お前に助けられてばかりだ」
「借りはジークに請求しろ。あいつなら高くつけてくれる」
ヴェルディアの笑い声が、夜の港に響いた。小さな、だが確かな笑い声。
三千年ぶりの夜空は——美しかった。




