真実の声
王都に戻ったのは、ヴェルデ聖堂を発ってから五日後だった。
帰路は往路より穏やかだった。森の獣は大人しく、海は凪ぎ、風は追い風。世界の地脈が安定したことで、自然そのものが優しくなったかのようだった。
ミラは帰りの船でも船酔いしたが、行きよりはましだと言い張った。
王都の西門をくぐると、ジークが待っていた。
「遅かったな」ジークが腕を組んで壁に寄りかかっていた。「世界が急に静かになったから、成功したんだろうとは思っていたが」
「ジーク。——王都の状況は」
「マルティウスは大聖堂の地下牢に収監中。浄罪の目は解散。聖騎士の半数はアルヴィンへの忠誠を表明、残り半数は様子見。——まあ、俺の報酬さえ払ってくれりゃ、どうでもいいが」
「払う。約束通り」
「冗談だ。——金で買えないものを見せてもらった。それで十分だ」
ジークの目が——ヴェルディアに向いた。レイドの隣を歩く、黒髪の女性。琥珀色の瞳。白い肌。まだ足取りは弱々しいが、自分の足で歩いている。
「この人が——」
「ああ。ヴェルディアだ」
ジークは暫く無言でヴェルディアを見つめた。そして——深く頭を下げた。
「三千年、世界を支えてくださったそうで。——感謝する」
ヴェルディアが僅かに目を見開いた。人間に頭を下げられることに——まだ慣れていない。
「礼を言われるようなことではない。——私はただ、壊れるのが怖かっただけだ」
「怖がれる人間は、強い人間だ。——傭兵の信条だ」
フェリクスが城門の影から姿を現した。情報屋の目がヴェルディアを一瞬捉え、すぐに逸らした。
「状況報告。各地の聖堂から、異変の収束を報告する鴉が続々と届いています。魔物の暴走は完全に収まり、地震も嵐も——全て止まりました。人々は理由を知りたがっています」
「予想通りだ」レイドが頷いた。「アルヴィン、セレナ——準備はいいか」
アルヴィンが深く息を吸った。白銀の鎧が朝日を反射している。
「いい。——覚悟はできている」
セレナが白い衣の裾を整えた。
「私も」
◇
大聖堂の広場に、人が溢れていた。
市民、商人、職人、兵士。王都の住人が、大聖堂の前に集まっている。聖教会の異変と、世界の急激な安定を目の当たりにして——何が起きたのかを知りたがっていた。
大聖堂のバルコニーに、四人が立った。
アルヴィン。勇者。白銀の鎧が聖堂の壁を照り返し、金髪が風になびいている。
セレナ。聖女。白い衣が陽光に透け、穏やかな緑の光を纏っている。
レイド。かつて異端と呼ばれた男。剣を帯びず、腕を組んで立っている。
リーシャ。かつて守り手と呼ばれた女性。碧眼は銀色ではなく、元の色に戻っている。
広場が静まり返った。何千もの目が、バルコニーの四人に注がれている。
アルヴィンが一歩前に出た。
「王都の民よ。——私は勇者アルヴィンだ」
声が広場に響いた。勇者の声には——力がある。聖剣の力ではなく、真実を語る者の力が。
「今日、私は——嘘を正すためにここに立っている」
広場にざわめきが走った。
「千年の間、聖教会は一つの嘘をついてきた。魔王は絶対悪であり、勇者は正義の使者であると。——それは嘘だ」
ざわめきが大きくなった。だがアルヴィンの声は揺るがない。
「魔王と呼ばれた存在は——世界を支える柱だった。千年前、聖教会の初代大司教が五つの柱のうち四つを砕き、その力を聖教会の基盤とした。残る一つの柱——魔王ヴェルディアだけが、壊れかけた世界を一人で支え続けてきた。三千年もの間」
広場が静まった。信じられないという顔。怒りの顔。困惑の顔。様々な表情が、波のように広がっている。
「私はその嘘に乗り、魔王を討伐しようとした。だが——真実を知った。この男が教えてくれた」
アルヴィンがレイドを示した。
「レイドは異端者ではない。世界の真実を知り、世界を救おうとした男だ。聖教会が彼を異端と呼んだのは——真実を恐れたからだ」
セレナが前に出た。聖女の声は——アルヴィンとは対照的に、静かで穏やかだった。
「私は聖女として、信仰の力を使ってきました。ですが——その力の源は、柱と同じものでした。神の力も、魔王の力も、聖女の力も——全て同じ根源から来ています。名前が違うだけ」
広場の聖職者たちが動揺した。信仰の根幹を揺るがす言葉だ。
「信仰を捨てろと言っているのではありません。祈りの力は——本物です。ですが、祈りの対象を間違えていました。私たちが祈るべきは——世界そのものです。この大地。この空。この風。全ての命を支える、世界の均衡」
リーシャが一歩前に出た。
「私は守り手でした。世界を支える柱を補助する、古い血筋の者です。五つの残滓を体に取り込み——世界の核に還しました。今、世界は新しい柱によって安定しています。魔王の力も、守り手の力も、もう必要ありません。世界は——自分自身の力で、立っています」
広場に風が吹いた。穏やかな、温かい風。地脈が安定した世界の、自然な呼吸。
人々はそれを感じた。言葉ではなく——体で。足の裏から伝わる大地の安定。肺を満たす空気の清浄さ。頬を撫でる風の温かさ。
世界が——確かに変わったことを。
広場の隅で、一人の老婆が膝をついた。祈りの姿勢。だがその祈りは——聖教会に向けたものではなかった。大地に。空に。風に。世界そのものに向けた祈り。
一人、また一人と——同じ姿勢を取る者が現れた。聖職者もいた。兵士もいた。市民もいた。
全員が同じものに祈っていた。世界の安定。命の継続。日常の営み。——当たり前の、だが最も大切なもの。
アルヴィンが最後に言った。
「聖教会は改革される。嘘の上に建てられた信仰ではなく、真実の上に立つ機関として。——それが、勇者としての私の最後の仕事だ」
広場から拍手が上がった。最初は疎らに。やがて大きく。波のように広がり、大聖堂の壁に反響した。
レイドはバルコニーの端に立ち、広場を見下ろしていた。何千もの人々が——真実を受け入れようとしている。すぐには無理だろう。反発も混乱もあるだろう。だが——始まった。
リーシャが隣に立った。
「終わりましたね」
「終わった——のか。始まったのか」
「両方でしょう」リーシャが微笑んだ。「一つの物語が終わって、新しい物語が始まる」
レイドは広場を見つめた。人々の間を——一人の黒髪の女性が歩いている。琥珀色の瞳。白い肌。ヴェルディアだ。
誰もヴェルディアに気づかない。魔王の威圧がない今、彼女はただの旅人にしか見えない。人混みの中を歩き、露店で果物を見つめ、子供の笑い声に目を細めている。
三千年。こうして人の中を歩くことは——一度もなかった。
レイドの目が——少しだけ、潤んだ。
「行こう」レイドがリーシャの手を取った。「下に降りよう。まだ——やることがある」
「やること?」
「ヴェルディアに王都を案内する。三千年分の——」
リーシャが笑った。
「それは大変ですね。三千年分は——一日では足りません」
「足りなくていい。明日もある。明後日もある。——時間は、もう足りないことはない」
二人はバルコニーを離れ、広場に下りた。人混みの中を歩き、ヴェルディアの元に向かった。
世界は穏やかに呼吸していた。新しい柱が地脈を支え、大地は安定し、空は高く青い。
千年の嘘が終わり、新しい真実が始まった日。




