帰還
地上に戻る道は、下りより遥かに長く感じた。
ヴェルディアは自力で歩けなかった。レイドが背負い、螺旋階段を一段ずつ上っていく。ヴェルディアの体は驚くほど軽い。千年間世界を支え続けた存在が——羽のように軽い。
「重くないか」ヴェルディアが背中から囁いた。
「軽すぎて不安になるくらいだ」
「力を全て手放した。肉体だけが残っている。——もう少し太れば、まともな体重になるだろう」
「食事が必要だな。人間の体なら」
「人間の体——か。食事をするのは、三千年ぶりだ」
ガレスが先頭を歩き、カイルが殿を務めた。ミラが中間で周囲を警戒し、アルヴィンとエドモンが側面を固めている。セレナがリーシャの隣を歩き、時折治癒の光を当てていた。
リーシャも消耗が激しかった。五つの残滓を泉に還したことで、体は軽くなったが——五つの力を通した反動が残っている。額に汗が浮かび、足取りが重い。
「リーシャ、大丈夫か」レイドが背中のヴェルディアを気にしながら聞いた。
「大丈夫です。守り手の力は——なくなりました。でも、体は元に戻っただけ。少し休めば——」
「休め。急ぐ必要はもうない」
リーシャが微かに笑った。
「はい。——急ぐ必要は、もうないんですね」
世界が安定した。泉が新しい柱となり、地脈は一つの中心に収束している。もう崩壊の心配はない。ヴェルディアが背負っていた千年の重荷は——泉が永遠に引き受けた。
螺旋階段を上り終え、守護者の洞窟を通過した。守護者の残骸——結晶の破片が床に散らばっている。青い光はもう消えていた。結晶が残滓を守る必要がなくなったからだ。
さらに上の階段を登り、石板があった場所に出た。石板は割れたまま、両側に開いている。エリアスが祭壇の前で待っていた。
「おお——」エリアスが目を見開いた。「その方は——」
「ヴェルディアだ」レイドが背中からヴェルディアを下ろした。「元魔王。今は——ただの人間だ」
エリアスの手が震えた。だが老神官は深く頷いた。
「千年の封印の奥にいた方——。この聖堂が守ってきたものの、本当の意味が——今、分かりました」
聖堂の外に出ると、朝だった。
森の空気が変わっていた。昨夜感じた不穏な気配——地脈の乱れが、完全に消えている。木々の緑が鮮やかで、鳥が高く歌い、朝露が葉を銀色に輝かせていた。
「空気が——違う」カイルが深く息を吸った。「澄んでいる。昨日までとは全然違う」
「地脈が安定した影響です」リーシャが目を閉じた。守り手の力はもうないが——体が覚えている感覚で、大地の変化が分かる。「世界中で——同じことが起きているはずです。魔物の暴走は収まり、地震も嵐も——」
「世界が——元に戻ったのか」ミラが森を見回した。
「元にではありません。新しくなったんです。五つの柱が一つに戻り——世界はこれまでより安定しています。もう崩壊の心配は——ない」
ヴェルディアは聖堂の壁に背を預け、朝日を浴びていた。琥珀色の瞳が——眩しそうに細められている。
「眩しい」
「陽の光か」レイドが隣に座った。
「ああ。魔王城にいた頃は——陽の光を浴びることはなかった。地下でずっと——世界を支えていた」
「三千年も」
「三千年。長かった。——いや、長くなかった。時間の感覚が消えていた。ただ支え続けることだけが全てで——他の全てを忘れていた」
「忘れていた?」
「太陽が温かいことを。風が頬を撫でることを。木の葉が光に透けることを。——全部、忘れていた」
ヴェルディアの手が陽の光を掬うように持ち上げられた。白い指の間から光が漏れ、地面に影を落とした。
「思い出した。——今、全部思い出した」
レイドは何も言わなかった。ただ隣に座って、同じ朝日を見ていた。
セレナがヴェルディアに近づき、治癒の光を当てた。緑の光がヴェルディアの体を包み、損傷を少しずつ修復していく。
「魔王——いえ、ヴェルディアさん。体の状態は——かなり消耗しています。しばらくは安静が必要です」
「安静か。——三千年、休まなかった体に、どれだけの安静が必要だ」
「まずは食事と睡眠です。人間の体に戻ったのなら——人間の回復方法が一番です」
ヴェルディアが小さく笑った。笑い方がぎこちない。千年以上笑っていないから。
「食事。何を食べればいい」
「温かいものを」セレナが微笑んだ。「温かいスープから始めましょう」
エリアスが聖堂の台所から、野菜のスープを運んできた。湯気が立ち上り、香草の匂いが漂った。
ヴェルディアが木の匙を手に取った。スープを一口飲んだ。
琥珀色の瞳が——大きく見開かれた。
「温かい」
声が震えていた。
「温かくて——味がする。甘い。塩辛い。酸っぱい。——何だこれは。こんなに——」
涙が一筋、ヴェルディアの頬を伝った。三千年。味覚も、温度も、全てを忘れていた存在が——初めてのスープに涙している。
誰も何も言わなかった。ただ静かに、ヴェルディアがスープを飲み終えるのを見守った。
「もう一杯」ヴェルディアが空になった器を差し出した。
「何杯でもどうぞ」エリアスが笑った。
ヴェルディアはスープを三杯飲んだ。それから——壁に背を預けたまま、眠った。穏やかな寝息。千年ぶりの——本当の眠り。
レイドはヴェルディアの隣に毛布を掛けた。
◇
午後になり、七人は聖堂の前庭に集まった。ヴェルディアはまだ眠っている。
「これからのことを話そう」レイドが切り出した。
「世界は安定した。ヴェルディアは自由になった。——残る問題は」
「聖教会だ」アルヴィンが言った。「マルティウスは拘束したが、千年の組織は一夜で消えない。各地の聖堂に、まだマルティウスの教えに従う者がいる」
「ここの聖教会支部は——勇者と聖女の権威で押さえた。だが他の場所は分からない」
「ジークとフェリクスが王都を押さえている。だが——聖教会の改革は、長い時間がかかる」
「改革は俺たちの仕事じゃない」レイドが言った。「俺たちは世界を救った。聖教会の後始末は——聖教会がやるべきだ」
「同感だ」アルヴィンが頷いた。「だが——真実を伝える必要がある。柱のこと。魔王のこと。千年の嘘のこと。人々が——正しい判断をできるように」
「セレナ」レイドがセレナを見た。「お前の言葉なら、人々は聞く」
「聖女の言葉——ですか」セレナが考え込んだ。「聖女の権威で語れば、人々は信じるでしょう。ですが——権威で信じさせることは、マルティウスと同じです」
「じゃあどうする」
「証拠を見せます。この聖堂の地下。泉の光。世界の地脈が安定したという事実。——真実は、言葉ではなく現実で語るべきです」
「現実で語る——か」ミラが腕を組んだ。「地脈の安定は世界中で感じられるはずよ。魔物の暴走が収まり、地震が止まり、嵐が消えた。人々は——理由を知りたがる」
「その時に——真実を伝える」
「ああ。だがそれは明日からの話だ」レイドが立ち上がった。「今日は——休もう。全員、限界だろう」
確かに限界だった。リーシャは目を開けているのがやっとで、ガレスの腕には新しい傷が幾つも増えている。カイルは弓弦を張り直す気力もなく、ミラは船酔いの延長で顔色が悪い。アルヴィンとエドモンだけは比較的元気だが、それでも連日の強行軍の疲れは隠せない。
「一つだけ」カイルが手を挙げた。「飯は。まともな飯は出るのか。ここ」
エリアスが笑った。
「西大陸の海の幸をお出ししましょう。焼き魚と、果物のワイン。——世界を救った方々に、質素な食事で申し訳ありませんが」
「質素で結構だ」ガレスが目を輝かせた。「焼き魚。——最高じゃねえか」
その夜、八人は聖堂の食堂で食事を取った。レイド、リーシャ、ガレス、ミラ、カイル、アルヴィン、セレナ、そしてヴェルディア。
ヴェルディアは夕方に目を覚まし、自分の足で食堂まで歩いた。まだ覚束ない足取りだが——誰の助けも借りずに。
「焼き魚」ヴェルディアが皿を見つめた。「これは——」
「魚だ。食え」ガレスが自分の皿をがつがつと食べながら言った。
ヴェルディアが魚を一口食べた。目を閉じ、咀嚼し——呑み込んだ。
「美味い」
「だろう。魚は焼きたてが一番だ」
「三千年前に食べた魚は——もっと不味かった気がする」
「三千年前の調理技術と一緒にするな。人類は進歩してんだ」
ヴェルディアが——笑った。今度は、ぎこちなくなく。自然に。
食堂に笑い声が広がった。世界を救った八人が——焼き魚を食べて笑っている。英雄譚の結末としては、あまりにも地味だ。だがそれでいい。
レイドは杯を傾けながら、仲間たちを見回した。
リーシャが隣で微笑んでいる。ガレスが魚の骨を器用に取り除いている。ミラがワインで顔を赤くしている。カイルが果物を丸かじりしている。アルヴィンがエドモンと静かに杯を交わしている。セレナがヴェルディアにパンを渡している。
一周目では——こんな風景は、一度もなかった。
二周目で手に入れたもの。仲間。信頼。真実。そして——未来。
レイドは窓の外を見た。星空が澄み渡っている。地脈の乱れが消え、世界は穏やかに呼吸している。
終わった。
全てが——終わった。
いや。終わりではない。ここから始まる。新しい世界が。新しい日々が。
レイドは杯を持ち上げた。
「みんな。——ありがとう」
短い言葉。だがそれで十分だった。
七つの杯が——レイドの杯にぶつかった。ヴェルディアは杯を持つ手が震えたが、確かに、全員の杯に触れた。
八つの音が、夜の聖堂に響いた。




