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勇者だった俺は死に戻りして知った――魔王を殺せば世界が滅ぶので、今度は勇者を止めることにした  作者: ぽんぽこライフ


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港町カレン

 三日目の夕刻、潮の匂いが風に混じり始めた。


 街道は丘陵地帯を抜け、緩やかな下り坂に変わっていた。西に向かうにつれて気温が上がり、街道沿いの木々は王都付近の針葉樹から、葉の広い南方の樹木へと変わっている。


 レイドは馬の背で、左手の紋様を見つめていた。ヴェルディアとの繋がりは——薄くなっている。距離のせいではない。ヴェルディアの力そのものが、少しずつ弱っているのだ。


「見えますか」リーシャが馬を寄せた。「丘の向こう——海です」


 丘の稜線の向こうに、青い帯が広がっていた。夕陽を受けて橙色に染まった海面が、空との境界を曖昧にしている。潮風が髪を巻き上げ、馬が鼻を鳴らした。


「海か」ガレスが目を細めた。「久しぶりだな」


「ガレス、海を見たことあるの?」ミラが少し驚いた声を出した。


「故郷が海沿いだったからな。盾使いになる前は——漁師の息子だ」


「盾使いの前が漁師って。振り幅がすごい」


「うるせえ。網を引く腕力が盾に活きてんだ」


 カイルが弓を背に負い直しながら、丘の先を指差した。


「あれだろう。港町カレン」


 丘を越えると、眼下に港町が広がっていた。


 白い壁と赤い屋根の建物が斜面に段々と連なり、港に向かって下っている。入り江に停泊した船のマストが林のように立ち並び、夕陽を受けた帆布が橙色に輝いていた。波止場には荷を運ぶ人夫たちが行き交い、魚売りの声が風に乗って微かに聞こえる。


 王都の重苦しさとは全く違う空気だった。海風が石畳を乾かし、鷗の声が高い空に響いている。


「西大陸行きの船は——明朝出るはずだ」レイドが地図を仕舞った。「今夜は宿を取る」


「ようやく屋根の下で眠れる」カイルが肩を回した。「三日間、野宿はきつかった」


「カイル、猟師だったくせに」


「猟師だからって野宿が好きなわけねえだろ」


 五人は坂道を下り、港町の門をくぐった。門番は旅人に慣れた様子で、通行証も求めなかった。王都から遠い港町では、聖教会の影響力は薄いのだろう。


 門を抜けると、海産物の匂いが濃くなった。干物が軒先に吊るされ、貝殻を敷き詰めた路地が入り組んでいる。酒場からは歌声と笑い声が溢れ、船乗りたちが陽気に杯を傾けていた。


「宿を探す前に——情報を集めたい」レイドが足を止めた。「アルヴィンたちが先に通ったはずだ。それと、浄罪の目の動きも気になる」


「あたしが酒場を回る」ミラが即座に手を挙げた。「船乗りは噂好きだから。酒を奢れば何でも話す」


「頼む。カイル、お前も一緒に」


「了解」


 ミラとカイルが路地に消えた。レイドとリーシャ、ガレスは港沿いを歩き、船着場の様子を確認した。


 入り江には大小十数隻の船が停泊していた。漁船、商船、そして——一隻だけ、明らかに格の違う帆船がある。船首に翼を広げた鷲の紋章。


「あれは——聖教会の紋章だ」ガレスが低く言った。


「聖教会の船がなぜここに」


「マルティウスの部下か。それとも——」


 レイドは波止場の端に腰を下ろした。夕陽が水平線に沈みかけ、海面が赤く染まっている。鷗が低く飛び、波が船底を叩く音が規則的に響いていた。


「リーシャ。体の調子は」


「大丈夫です。四つの残滓は安定しています。——でも」


「何だ」


「この町にも——地脈の乱れがあります。小さいですが。王都で感じたものと同じ種類の」


「世界の均衡が崩れていることの余波か」


「はい。ヴェルディアの負荷を四割引き受けても——残り六割で世界を支え続けるのは、もう限界に近い。地脈の綻びは、各地で広がっています」


 レイドは海を見つめた。夕陽の最後の光が水平線に消え、空が紫から藍へと変わっていく。星が一つ、二つと瞬き始めた。


「一周目では——ここに来たことがなかった」


「来なかったのですか」


「ああ。西大陸には行かなかった。魔王を倒した後、世界が崩壊し始めて——あっという間だった。この港町も、あの海も——見る暇がなかった」


 リーシャが隣に座った。肩が触れるほど近く。


「今は——見られていますね」


「ああ。お前のおかげだ」


「私だけではありません。ガレスも、ミラも、カイルも。アルヴィンも、セレナも」


「分かってる。——だからこそ、守りたい。この景色を。この海を。この町で笑っている人たちを」


 波が静かに岸壁を洗った。潮の匂いが二人を包んでいる。


 ガレスが少し離れた場所で、港の漁師と話し込んでいた。故郷が海沿いだったというガレスは、漁師たちとすぐに打ち解けた。網の結び方について熱心に議論している。


 しばらくして、ミラとカイルが戻ってきた。


「情報あり」ミラが簡潔に言った。「三つ」


「話せ」


「一つ。アルヴィンたちは昨日ここを通過した。勇者と聖女ということで、かなり目立ったらしい。港長が直々に船を手配して、今朝の便で西大陸に渡った」


「予定通りだ」


「二つ。あの聖教会の船——三日前にカレンに着いた。乗組員は船に籠もったまま、港には下りていない。船乗りたちは気味悪がっている」


「浄罪の目の残党か」


「可能性が高い。ジークが王都で押さえたつもりでも、港に向かった組がいたんだろう」


「三つ目は」


「西大陸行きの定期船は明朝。でも——船長が渋っている。聖教会の船が港を出ないから、嫌な予感がすると言っていた」


 レイドは立ち上がった。


「聖教会の船を——片付ける必要がある」


「片付けるって、沈めるのか」ガレスが振り返った。


「沈めない。——だが、動けなくすることはできる」


 レイドの視線がミラに向いた。ミラが口の端を上げた。


「あたしに任せろ、と言いたいところだけど。夜間の船への潜入は一人じゃ危険よ」


「俺が行く。ミラと二人で」


「レイドが?」リーシャが声を上げた。


「船の構造は一周目で学んだ。聖教会の軍船は——舵を外せば動けなくなる。舵の位置も知っている」


「一周目の知識か」ガレスが唸った。「便利だな」


「便利なもんか。死んで覚えた知識だ」


 夜が更けるのを待つ。その間に宿を取り、軽い食事を済ませた。カイルが宿の窓から港を監視し、聖教会の船の見張りの交代を記録した。


「見張りは二人。二刻ごとに交代。甲板の明かりは船尾のみ。——潜入するなら、船首の錨鎖からだ」


「さすが猟師。観察眼は一流だな」


「猟師ってのは待つのが仕事だからな」


 深夜。港町は静まり返っていた。酒場の喧騒も収まり、波の音だけが響いている。月は雲に隠れ、闇が港を覆っていた。


 レイドとミラは黒い外套を羽織り、波止場の影を移動した。足音を殺し、石畳を滑るように進む。


 聖教会の船は入り江の奥に停泊していた。船体は大きいが古い。船首の鷲の紋章が月明かりに鈍く光っている。甲板の見張りは船尾に二人。カイルの報告通りだ。


 ミラが水面に下り、船底の錨鎖に手を掛けた。レイドが後に続く。鎖を伝い、船首の縁に指を掛ける。水が冷たいが、声は出さない。


 船首から甲板に上がった。見張りの視線は船尾——こちらには向いていない。


 レイドは船底への階段を見つけ、音を立てずに下りた。ミラが背後を警戒しながら続く。


 船底は暗く、木材と潮の匂いが充満していた。積荷が並んでいる。木箱。武器。そして——聖教会の紋章が刻まれた書状の束。


 ミラが書状を一枚抜き取り、月明かりの差す窓に翳した。


「命令書だ」ミラの声が険しくなった。「マルティウスの署名。——『守り手を確保せよ。手段は問わない。西大陸への渡航を阻止し、対象を生きたまま捕らえよ。失敗した場合は——殺害も許可する』」


 レイドの目が鋭くなった。


「マルティウスは拘束されたはずだ。この命令書は——」


「日付は五日前。マルティウスが拘束される前に出された命令よ。鴉の伝書で送られたんでしょう。ジークが言っていた通り——全ては押さえきれなかった」


「リーシャが狙われている」


「ええ。この船の連中は、アルヴィンがマルティウスを捕らえたことをまだ知らないかもしれない。命令だけを受けて、ここで待ち伏せしていた」


 レイドは舵室に向かった。舵の軸を確認し、連結部の楔を抜いた。金属が軋む微かな音。ミラが見張りの気配を探りながら、背後に立つ。


 楔が外れた。舵が軸から外れ、操舵不能になった。修理には最低でも三日かかる。


「終わりだ。戻るぞ」


 二人は来た道を逆に辿り、錨鎖を伝って水面に下りた。冷たい海水が腰まで浸かる。波止場の影に泳ぎ着き、石段を上がった。


 宿に戻ると、ガレスが腕を組んで待っていた。


「無事か」


「無事だ。舵を外した。あの船はしばらく動けない」


「命令書も見つけた」ミラが濡れた外套を脱ぎながら言った。「リーシャを狙っている。生け捕りか、最悪——殺害」


 ガレスの目が据わった。


「殺させねえ。俺の盾がある限りはな」


 リーシャが部屋の奥から歩み出た。眠れなかったのだろう。碧眼が銀色に微かに光っている。


「聞こえていました」


「リーシャ——」


「大丈夫です。覚悟はしています。守り手として——狙われることは分かっていました」


 リーシャの声は静かだった。だがその中に、鋼のような芯がある。


「明朝、船に乗りましょう。西大陸で——アルヴィンたちが待っています」


 レイドは頷いた。窓の外で、東の空が白み始めていた。港町の一夜が終わろうとしている。


 鷗が一声鳴いた。朝の気配が、潮風に混じり始めた。



  ◇



 朝靄の中、五人は港の船着場に立っていた。


 西大陸行きの定期船は中型の商船で、帆が三枚。船長は日焼けした中年の男で、五人を見ると渋い顔をした。


「客か。——あの聖教会の船、まだ港にいるぞ。本当に出ていいのか」


「問題ない」レイドが言った。「あの船は動けない」


 船長が怪訝な顔をしたが、それ以上は聞かなかった。港の男は詮索しない。金を受け取り、出航の準備を始めた。


 船が岸壁を離れた。帆が風を受け、船体が緩やかに入り江を進んでいく。聖教会の船は微動だにしない。甲板に人影が見えたが——追ってくる気配はなかった。


「うまくいったな」カイルが船縁に肘をついた。


「舵がなきゃ船は船じゃねえからな」ガレスが腕を組んだ。


 入り江を抜けると、外海に出た。風が強くなり、波が高くなる。船体が大きく揺れ、ミラが顔色を変えた。


「——ちょっと。揺れすぎじゃない」


「船酔いか」カイルが笑った。


「笑うな。あたしは陸の生き物なの」


 ミラが船縁にしがみつき、青い顔をしている。大聖堂に忍び込み、禁術を破壊した少女が、波に負けている。


「二日の航海だ」レイドが水筒を渡した。「水を飲め。空を見るな。水平線を見ろ」


「一周目で——船酔いの対処法も学んだの」


「いや。これはガレスに教わった」


「俺か」ガレスが笑った。「漁師の知恵だな」


 船は西に向かって進んだ。王都の騒動が嘘のように、海は穏やかだった。空は青く、白い雲が流れている。時折、飛び魚が水面を跳ねた。


 リーシャは船首に立ち、目を閉じていた。海の下の地脈を感じているのだろう。守り手の力が、大陸の境界を越えて世界の脈動を捉えている。


「ヴェルディアの状態は」レイドが隣に立った。


「変わりません。安定はしていますが——回復はしていない。三千年の損傷は、負荷を減らしただけでは治らない」


「五つ目の残滓を取り込んだ後——何か変わるか」


「負荷は五割以上になります。でも——ヴェルディアの体を直接治す方法は、まだ分かりません」


 レイドは海を見つめた。水平線は果てしなく、空と海の境界が溶け合っている。


「一つずつだ」


「はい。一つずつ」


 船は風を受けて西へ進んだ。波が船首を叩き、飛沫が朝日に虹を描いた。


 最後の残滓の待つ大陸へ。一歩ずつ、確実に。

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