禁術の影
エルステッドの裏通り。ミラが息を切らせて駆け込んできたのは、夜明け前の薄闇の中だった。
レイドたちは北嶺を越え、三日の強行軍で中継都市に辿り着いていた。カイルの案内で山の民だけが知る獣道を通り、聖騎士の追跡を完全に撒いた。だが身体の疲労は隠せない。ガレスの脚の傷は再び開きかけ、リーシャの顔色は三つ目の残滓の影響で青白いままだ。
「レイド。やばい情報を持ってきた」
ミラの猫目が鋭く光っていた。飄々とした口調が消え、声に緊張が滲んでいる。レイドは壁にもたれかけていた体を起こした。
「何があった」
「大聖堂の地下に潜入した。マルティウスが禁術を準備してる」
ミラが懐から紙を取り出した。薄暗い部屋で、蝋燭の光にかざす。書き写された注釈。術式の配置図。聖遺物の一覧。
「『守り手の共鳴を逆転させ、残滓を引き剥がす。対象の生存は——保証されない』」
ミラが読み上げた言葉に、部屋の空気が凍った。
リーシャの手が、自分の胸に触れた。三つの残滓が宿る場所。守り手として世界を支え始めた力。それを——引き剥がす。
「リーシャの命が——」
「そう。あたしが見た限り、この術はリーシャを殺す可能性がある。体に馴染んだ残滓を無理やり引き抜くってことは、体ごと壊すのと同じだ」
レイドの拳が白くなるまで握りしめられた。
「完成はいつだ」
「あと一日半って話だった。でもあたしが聖遺物の配置を少しずらしておいた。起動が遅れるか、不完全になるはず。でも——時間稼ぎにしかならない」
ガレスが大盾を壁に立てかけ、腕を組んだ。
「なら急ぐしかねえだろ。王都に行って、その禁術をぶっ壊す」
「聖騎士がうじゃうじゃいる王都にか」
「うじゃうじゃいようが関係ねえ。リーシャを守るんだろ」
カイルが窓の外を見た。空が白み始めている。
「俺は王都の地理は詳しくないが——戦う覚悟はできてる」
リーシャが口を開いた。声は静かだが、震えていない。
「私のために王都に乗り込むのは危険すぎます。禁術は私を対象にしている以上、私が遠ければ効果は薄い。それよりも——」
「それよりも?」
「残りの残滓を先に確保すべきです。四つ目を取り込めば、禁術が完成しても私の力が上回る可能性がある。守り手の力が十分に強ければ、引き剥がしに抵抗できます」
リーシャの碧眼が銀色に微かに光った。覚醒した守り手の直感が、そう告げている。
レイドは考えた。リーシャの言葉には論理がある。だが——四つ目の残滓があるヴェルデ聖堂は西の大陸だ。王都からさらに遠い。往復する時間はない。
「四つ目は遠すぎる。だが——五つ目は王都の大聖堂の地下だ」
「一度侵入して中断された場所」リーシャが頷いた。
「ああ。あの時は聖教会の兵士に見つかって覚醒が中断された。だが今のリーシャなら——三つの残滓を持つ今なら、短時間で取り込める可能性がある」
「つまり——」ミラが目を細めた。「王都に乗り込んで、禁術をぶっ壊しつつ、大聖堂の地下で五つ目を取る。一石二鳥ってわけ」
「無茶だ」カイルが呟いた。
「無茶でもやる」レイドが言い切った。「ジークが内側で動いている。アルヴィンが表でマルティウスと対峙している。今なら——隙がある」
レイドはジークからの最後の伝書を思い出した。マルティウスの三日の猶予。アルヴィンが時間を稼いでいる。だがその三日は——もうほとんど残っていない。
◇
作戦を練るのに、一刻もかからなかった。
ミラが大聖堂の内部構造を紙に描いた。東翼の足場、屋根裏の保守通路、地下への螺旋階段。禁術の儀式の間の位置。そして——大聖堂の地下深く、柱の残滓が眠る場所。
「儀式の間は地下二階。柱の残滓はさらに下の地下三階。距離は近いけど、階層が違う」
「二手に分かれる」レイドが決めた。「俺とガレスで儀式の間に突入して禁術を止める。リーシャとカイルは残滓の回収に向かう」
「ミラは」
「案内役。地下まで全員を導いた後、ミラはジークと合流して外からの陽動を担当する。聖騎士の目を引きつけてくれ」
ミラが軽く口笛を吹いた。
「あたしが一番危ないじゃん」
「お前が一番上手いからだ」
「褒めても何も出ないよ」
だがミラの目は笑っていた。仲間のために走れる。それが——居場所を持つということだ。
「出発は今夜。王都まで馬で半日。夜明け前に到着して、暗いうちに侵入する」
レイドが全員を見回した。四人の仲間。一周目にはいなかった仲間たち。
「カイル。お前は巻き込むつもりはなかった。ここで残ってもいい」
カイルは首を振った。
「北嶺であんたに借りがある。それに——世界がどうなってるか、俺はこの目で見てきた。山が崩れ、魔物が狂い、仲間が傷ついた。それを止められるなら——俺は行く」
レイドは頷いた。言葉はいらなかった。
四人は支度を始めた。武器を研ぎ、傷の手当てをし、馬を用意した。日が昇り、街が動き始める前に——出発する。
リーシャがレイドの隣に立った。
「左手は」
レイドは左手を見た。ヴェルディアの紋様が微かに脈動している。三つの残滓がリーシャに宿ったことで、紋様の光は以前より弱まっている。だが——完全には消えていない。
「大丈夫だ。使わない」
「約束ですよ」
「ああ。約束だ」
リーシャが微かに笑った。その笑顔の奥に、覚悟が見えた。守り手として——世界を支える覚悟。
窓の外で、東の空が赤く染まっていた。嵐の前の朝焼け。
王都へ。全てが始まる場所へ。全てを終わらせるために。




