覚醒の代償
光が収まった時、レイドは地下空間の床に膝をついていた。
魔法陣の光は消えている。壁の古代文字も沈黙し、部屋は暗闇に戻っていた。だが——空気が変わっている。魔力の密度が薄くなっている。柱の残滓が、消費されたのだ。
リーシャが魔法陣の中央に倒れていた。
「リーシャ!」
レイドが駆け寄り、リーシャを抱き起こした。銀髪が汗で額に張り付き、顔は蒼白。だが呼吸はある。脈も安定している。
——気絶しているだけだ。
横穴の方を見た。審問官たちの姿がない。覚醒の光に巻き込まれて、地上に退いたのだろうか。とにかく今は追手がいない。
レイドはリーシャを背負い、地下から脱出した。井戸を登り、地上に出る。夜明け前の空気が冷たく、汗に濡れた肌を刺した。
聖堂の周囲に人影がない。覚醒の光が追跡隊を散らしたらしい。だが長くは持たない。
レイドはリーシャを背負ったまま、聖堂を離れた。丘の向こうに馬を繋いでおいた場所まで走る。
馬に二人で跨り、南の森に向かった。追手が態勢を立て直す前に、距離を取る。
森の中の小川のほとりで、レイドは馬を止めた。リーシャを降ろし、木の根元に寝かせた。マントを掛け、水を口元に運ぶ。
リーシャの瞼が、微かに動いた。
「……レイド」
「ここだ。大丈夫か」
「覚醒は……成功しましたか」
「分からない。お前が一番よく分かるだろう」
リーシャがゆっくりと目を開いた。碧眼が——変わっていた。以前と同じ碧い色だが、その奥に銀色の光が宿っている。まるで瞳の中に星が灯っているようだ。
「——聞こえます」
「何が」
「地脈の鼓動。世界の——心臓の音。大地の下を流れる魔力の河。その河が——少しだけ、私に応えています」
リーシャが右手を地面に当てた。地面が微かに光った。緑色の光。草が——伸びた。枯れかけていた草が、リーシャの手の周りで勢いよく青く茂り始めた。
「これは——」
「守り手の力。地脈のエネルギーを操作できるようです。まだ微力ですが——」
リーシャの目に涙が浮かんだ。
「成功しました。覚醒——成功しました」
レイドの胸に、熱いものが込み上げた。
守り手が覚醒した。これでヴェルディアの負担を減らせる。世界の崩壊を——遅らせることができる。
「リーシャ。——よくやった」
「いいえ。あなたが守ってくれたから——覚醒に集中できました。審問官を一人で食い止めてくれたこと——感謝します」
レイドは首を振った。
「お互い様だ」
二人は小川のほとりで休息を取った。リーシャの魔力が回復するのを待つ間、レイドは左手を見つめていた。
紋様が——変化していた。覚醒の光に触れた瞬間、紋様の色が変わった。以前は青白い光だったが、今は——銀色の光が混じっている。リーシャの守り手の力と共鳴したのか。
痛みは——少し和らいでいた。
「レイド。左手を見せてください」
リーシャが手を伸ばし、レイドの左手を取った。指先で紋様をなぞる。
「……変わっています。ヴェルディアの魔力に、私の魔力が——混ざっている。守り手の力が、あなたの中のヴェルディアの力を安定させている」
「安定?」
「紋様の浸食が——止まっています。少なくとも今は。守り手の力が、人間の体とヴェルディアの力の間の緩衝材になっているのかもしれません」
レイドは拳を握った。左手の感覚が戻っている。痺れが消え、指が自由に動く。
「これなら——紋様の力も、安全に使えるようになるのか」
「断定はできません。もっと調べる必要があります。ですが——希望はあります」
希望。その言葉が、レイドの胸に染みた。
一周目では、希望は最後に消えるものだった。全てが崩壊し、仲間が死に、世界が終わった。だが今——新しい希望が生まれている。
リーシャの覚醒。守り手の力。ヴェルディアとの繋がり。
「レイド」
「何だ」
「ヴェルディアが——感じています。守り手の覚醒を。紋様を通じて、あなたにも伝わっているのではないですか」
レイドは目を閉じた。左手に意識を集中する。紋様が微かに脈動している。その脈動の中に——感情がある。
安堵。感謝。そして——涙。
三千年を独りで支え続けた魔王が、初めて——助けを得た。
「……泣いている」
「ヴェルディアが?」
「ああ。紋様を通じて——感じる」
レイドは目を開いた。涙が頬を伝っていることに、自分でも気づかなかった。
リーシャが微笑んだ。銀色の光を宿した碧眼で、レイドの涙を見つめている。
「大丈夫です。もう——ヴェルディアは一人じゃありません」
朝日が木々の間から差し込んできた。小川が金色に輝き、草の露が光の粒になって散る。
世界は、まだ美しい。この美しさを守るために——戦い続ける理由がある。
「行こう。仲間と合流する」
レイドが立ち上がった。リーシャが手を取り、一緒に立った。
二人の影が、朝日の中に長く伸びた。
◇
遠い北の魔王城。玉座の間。
ヴェルディアが目を見開いた。
紅い瞳に、涙が光っていた。三千年ぶりの涙ではない——セレナとの対面の時にも泣いた。だが今の涙は、種類が違った。
安堵の涙だった。
「守り手が——覚醒した」
声が震えていた。玉座の下の魔法陣が脈動している。いつもの不規則な揺れとは違う。安定した、力強い脈動。
世界の魔力循環に、新しい流れが加わったのだ。銀色の流れ。守り手の力。柱を補助し、安定させる力。
「ナージャ」
回廊の影から、小柄な従者が姿を現した。紅い瞳が主を見つめている。
「聞こえたか」
「はい。地脈の振動が——変わりました。安定している」
「守り手が目覚めた。千年ぶりに」
ヴェルディアが玉座から立ち上がった。いつもの衰弱したよろめきがない。体に力が戻っている。守り手の覚醒が、柱の負荷を即座に軽減したのだ。
「主。お顔に色が戻っています」
「ああ。——久しぶりに、楽に呼吸ができる」
ヴェルディアが窓辺に歩いた。結界の向こうに、荒野が広がっている。その荒野の草が——微かに、青さを取り戻しているように見えた。
「ナージャ。人間を信じると——言っただろう」
「……はい」
「信じてよかった」
ナージャの紅い瞳が揺れた。千五百年仕えてきた主の笑顔を、千五百年ぶりに見た気がした。
「主が——笑っている」
「笑っては悪いか」
「いいえ。——とても、いい笑顔です」
ナージャの声が、震えていた。
魔王城の上空で、結界の青い光が——少しだけ、強くなった。
その夜、世界中で異変が起きた。
暴走していた魔物が——止まった。
北嶺で暴れていた赤鉄蜥蜴の群れが、急に動きを止め、森の奥に帰っていった。東の沿岸部の海竜が海に潜り、南の穀倉地帯の地虫が地中に退いた。
完全な沈静ではない。だが明らかに、魔物の暴走が弱まっていた。
冒険者ギルドの報告が飛び交い、人々が安堵の声を上げた。「魔物の暴走が収まった」と。
だが——それが守り手の覚醒によるものだとは、誰も知らなかった。
マルティウスだけが、知っていた。
王都の大聖堂で、老人は報告を聞き、翡翠の瞳を細めた。
「覚醒したか。——ならば、次の手を打たねばならぬ」
マルティウスの指が、机の上の地図を叩いた。ファレスト聖堂の位置。
「追跡隊を増強しろ。そして——アルヴィンに伝えよ。レイドは異端者であり、守り手の覚醒は世界に対する冒涜であると」
千年の計画を守るために。聖教会の権威を守るために。
マルティウスは——全てを賭けようとしていた。




