猫の爪
王都の夜。冒険者ギルドの地下牢。
ガレスは石壁に背を預けて座っていた。手首に鉄の枷が嵌められ、鎖が壁に繋がれている。だが大男の表情には焦りがなかった。むしろ——退屈そうだった。
「おい。飯はまだか」
見張りの兵士が無視した。浄罪の目の下級審問官だ。ガレスの声を無視するよう命じられている。
「飯も出さねえのか。聖教会ってのは客の扱いが悪いな」
「黙れ、異端者の仲間」
「俺は別に異端じゃねえぞ。冒険者ギルドで飯食ってただけだ。飯を食うのが異端か?」
見張りが舌打ちした。
ガレスは鎖の長さを測っていた。壁から二メートル。動ける範囲は狭いが、腕の届く範囲は広い。この鎖を引きちぎるだけの力はある。だがそうすれば大事になる。今は待つべきだ。
——リーダーが来るか。いや、ミラか。あいつなら気づいてるはずだ。
ガレスの勘は正しかった。
◇
同じ夜。ギルド本部の裏口。
ミラは猫のように壁を登った。
三階建ての石造りの建物。窓の格子は鉄製だが、一ヶ所だけ腐食で隙間が広がっている。二階の排気口。厨房の煙突に繋がる小さな開口部だ。
半エルフの細い体は、人間には通れない隙間を抜けられる。ミラは体を捩じり、排気口に滑り込んだ。煤で全身が真っ黒になるが、構わない。
煙突の内部を降り、厨房に出た。深夜の厨房は無人だ。残り火が竈に赤く光っている。
ミラは耳を澄ませた。半エルフの聴覚が、建物中の音を拾う。
一階——兵士の寝息。二人。
二階——ギルドマスターの書斎。鍵の音。まだ起きている。
地下——鎖が擦れる音。ガレスだ。
地下への階段は厨房の奥にある。ミラは足音を消して階段を降りた。
地下牢の前に、見張りが一人。椅子に座って居眠りしかけている。
ミラは懐から小瓶を取り出した。裏社会で手に入れた睡眠薬。見張りの背後に近づき、口元に布を当てた。見張りの体が弛緩し、椅子に沈み込んだ。
「おう。来たか」
ガレスが笑った。暗闘の中で、白い歯が光っている。
「遅いよ、おっさん。捕まるなんてカッコ悪い」
「うるせえ。油断したんだよ」
ミラが鍵を探した。見張りの腰に鍵束がぶら下がっている。三本目の鍵で枷が外れた。ガレスが手首を回す。
「さて——逃げるぞ」
「待って。その前に」
ミラが耳を傾けた。地下の奥から、別の音が聞こえる。
「あそこに——もう一人いる」
「もう一人?」
地下牢の奥に、もう一つの独房があった。鉄格子の向こうに、誰かが横たわっている。
ミラが格子に近づき、中を覗き込んだ。
「——セレナ聖女?」
白い法衣が汚れ、金色の髪が乱れている。翡翠の瞳が、暗闘の中でミラを見上げた。
「あなたは——レイドさんの」
「ミラ。斥候。——なんでここに」
「マルティウスの命令です。召喚に応じなかったため——拘束されました」
セレナの声は弱々しいが、落ち着いていた。
「アルヴィンは」
「アルヴィン様は——エルステッドに向かったはずです。私を守ると言ってくれましたが、移動中に聖教会の兵に囲まれて——」
「分離させられたか」
ガレスが拳を握った。聖教会がアルヴィンとセレナを引き離した。セレナを人質にし、アルヴィンの動きを封じるためだ。
「連れていく」ミラが即断した。「セレナ聖女、歩ける?」
「歩けます」
鍵で独房を開け、三人は地下を出た。厨房を抜け、裏口から夜の通りに出る。
王都の裏路地は、ミラの庭だ。聖教会の監視をかいくぐり、路地から路地へ。下水溝を越え、市場の裏を抜け、南門に近い安全な隠れ家に辿り着いた。
「ここならしばらく大丈夫。——あたしの昔の仲間が管理してる場所だから」
ミラが窓から外を確認した。追手の気配はない。
ガレスがセレナに水を渡した。聖女が両手で杯を持ち、ゆっくりと飲む。
「セレナ殿。アルヴィンは今どこにいる」
「分かりません。でも——アルヴィン様は、レイドさんに会いたいと言っていました。エルステッドか、その先で——」
「レイドは今、南に向かってる」ミラが言った。「リーシャと一緒にファレスト聖堂に」
「ファレスト聖堂——」セレナの目が光った。「五大聖堂の一つ。もしかして——柱の残滓を」
「知ってるんだ」
「私も、魔王城の地下で感じました。聖印と柱の力が同じ根源であること。五大聖堂が柱の跡地に建てられているのなら——」
セレナの声に力が戻っていた。真実を知った聖女は、もう折れない。
「ミラさん。私をレイドさんたちのところに連れていってくれませんか」
「え?」
「私の聖印も——柱の力と共鳴します。守り手の覚醒を助けることができるかもしれません」
ミラはガレスを見た。ガレスが頷いた。
「決まりだ。明日の朝、三人で南に向かう。——リーダーたちに追いつくぞ」
ミラが唇の端を上げた。
「了解。——ところでおっさん。腹減ってない?」
「死ぬほど減ってる」
「だと思った。ちょっと待ってて」
ミラが闇の中に消えた。十分後、パンと干し肉を抱えて戻ってきた。どこから調達したのか、聞かない方がいい。
三人は隠れ家の薄暗い部屋で食事をした。聖女と大男と半エルフ。不思議な組み合わせだ。だがこの夜、三人は同じ目的を共有していた。
世界を救うこと。仲間を守ること。
窓の外で、夜明けの光が地平線に滲み始めていた。
◇
同じ頃。王都の大聖堂。
マルティウスは地下の祈祷室にいた。
報告が次々と届いていた。ガレスの逃亡。セレナの脱走。地下牢の見張りが薬で眠らされていたこと。
「浄罪の目の長を呼べ」
マルティウスの声は静かだった。だが翡翠の瞳に、冷たい怒りが宿っている。
「レイド・アシュフォードのパーティーは、我々の想像以上に組織的だ。——全力で追え。特にレイドとリーシャ・フォルトナを。二人は南に向かっているはずだ」
「南? なぜ南と」
「ファレスト聖堂だ。あの女は——柱の残滓に気づいた。守り手の覚醒を試みるつもりだろう」
マルティウスが立ち上がった。老齢の体に似合わない力強い動き。
「覚醒させてはならない。守り手が柱を補助すれば、魔王の延命が可能になる。そうなれば——千年の計画が全て無駄になる」
千年の計画。聖教会が千年かけて進めてきた、最後の柱の破壊。世界を「浄化」し、新たな秩序を作る計画。
「追跡隊を編成しろ。ファレストに先回りさせろ」
「承知いたしました」
マルティウスは窓の外を見た。夜明けの空が白み始めている。
千年の計画が——今、二人の若者によって脅かされている。
「——許さん」
マルティウスの呟きが、祈祷室の石壁に反響した。
大聖堂の鐘が、夜明けの刻を告げた。重く、低い音。その音に乗せて、追跡隊が王都の南門を出発した。
聖教会の騎士たち。武装した審問官たち。全て、マルティウスの手駒だ。
レイドとリーシャは——まだ知らない。背後から、聖教会の追手が迫っていることを。
嵐が、近づいている。




