正義の亀裂
アルヴィンの指揮テントは、魔王領の結界の外にあった。
聖教会の旗が風にはためき、兵士たちが撤収の準備を進めている。三日間の猶予が終わる。次の命令を待つ兵士たちの表情は、緊張と退屈が入り混じっていた。
テントの中で、アルヴィンは一人だった。
地図を広げ、魔王領への侵攻ルートを再確認している。聖剣が腰に佩かれ、金色の微かな光を放っている。だがその光は——三日前より、揺れていた。
アルヴィンは手を止め、聖剣に触れた。
あの日、魔力模型の前でセレナの聖印が光った時。神の力と魔王の力が共鳴した時。この聖剣も——微かに、だが確かに反応した。殺すべき敵の力に、味方の力が応えた。
「——考えるな」
自分に言い聞かせた。だが頭は止まらない。
認定式の日を思い出す。マルティウスから聖剣を授かった時の高揚。「お前こそが選ばれた勇者だ」という言葉。世界を救う使命。正義の剣。父から受け継いだ騎士の誇り。民を守るという誓い。
全てが——正しいと信じていた。
レイドの言葉が蘇る。「魔王を殺せば世界が滅ぶ」。あの時は信じなかった。信じたくなかった。だが模型の前で見たもの——赤い警告点が脈動する大陸の姿が、瞼の裏に焼きついている。
もし正義が間違っていたら。
アルヴィンは地図に視線を落とした。侵攻ルートが赤い線で引かれている。この道を進めば、魔王城に到達する。聖剣で魔王を斬る。それが使命だった。だがその先に——崩壊が待っているとしたら。
テントの入口が開いた。エドモンが入ってくる。その後ろに——セレナ。
セレナの顔を見た瞬間、アルヴィンは全てを悟った。蒼白な顔。だが目は澄んでいる。三日間の答えを携えた聖女の目。
「セレナ。結果は」
「アルヴィン様」
セレナが一歩前に出た。両手で聖印を握りしめている。白い光が手の隙間から漏れている。
「三日間、聖印の力で模型の魔力構造を分析しました。結論を申し上げます」
テントの中に沈黙が落ちた。外では兵士たちの声が聞こえるが、この空間だけが切り離されたように静かだった。
「魔王の魔力と、聖印の魔力は——同一の根源です。波形、振幅、周波数、全てが一致しました。聖教会が『神聖なる力』と呼んでいるものと、魔王が世界を制御するために使っている力は、同じものです」
アルヴィンの碧眼が、一瞬だけ閉じられた。
セレナは続けた。
「そして——模型は嘘をついていませんでした。世界の魔力循環は確かに魔王を中心に機能しています。赤い警告点は三日間でさらに増加しました。世界は——確かに崩壊に向かっています」
「模型が本物だという証拠は」
「聖印の共鳴です。聖印は偽造できません。神から——いいえ、柱の力から直接与えられたものです。その聖印が模型の魔力と完全に共鳴したということは、模型が柱と同じ力で動いている証拠です」
アルヴィンの手が、聖剣の柄を握った。金色の光が一瞬強まり、テントの布を透かして外に漏れた。兵士たちが異変に気づき、テントの方を見る。
「アルヴィン様!」セレナが声を張った。「聖剣を抜かないでください。今この場で抜けば——結界を通して、魔王の力に影響が及びます。世界が——」
「分かっている!」
アルヴィンの声が、テントの中に反響した。手が震えている。聖剣の柄を握る指が白くなるまで力が込められ、そしてゆっくりと——離された。
沈黙。
アルヴィンが椅子に座り込んだ。金髪が項に落ち、顔が影に沈む。碧眼が地面を見つめている。
「……教義が間違いだと。俺が信じてきた全てが——嘘だと」
「嘘ではありません」セレナが膝をつき、アルヴィンの手を取った。「力は本物です。人々を救ってきた力は本物です。ただ——その源が、教えられていたものとは違っていた」
「違っていた? ——魔王の力と同じだったんだろう。ならば俺は——魔王の力を振るって、正義だと信じていたということか」
アルヴィンの声に、初めて聞く種類の脆さがあった。正義を疑うことを知らなかった男が、正義の土台を失いかけている。
エドモンがテントの入口に立っていた。主の姿を見つめる騎士の目に、痛みがある。十年間仕えてきた主が、今——最も人間らしい顔をしている。
「アルヴィン様」エドモンが口を開いた。「私は教義のことは分かりません。ですが——あなたが人々を守ってきたことは事実です。あなたの剣で救われた命は、今も生きています。それは教義が正しいか間違いかとは、関係のないことです」
アルヴィンがエドモンを見た。忠義の騎士の目は、いつもと同じだった。揺るがない。主を支える柱のように。
「……エドモン」
「お傍におります。いつでも」
アルヴィンの目に、光が戻った。完全ではない。まだ迷いがある。だが——折れてはいない。
「セレナ。もう一つ聞く。マルティウスは——この真実を知っているのか」
セレナの表情が曇った。
「……分かりません。ですが、マルティウスから召喚命令が届きました。調査の中断を命じています」
「召喚命令?」
「はい。私がこの真実を報告することを——阻止しようとしている可能性があります」
アルヴィンの碧眼が鋭くなった。それは迷いの目ではなかった。純粋な怒りの目だ。
「……マルティウスが真実を隠しているなら——俺たちは、利用されていたということか」
怒りだった。信仰を揺るがされた苦しみよりも、今この瞬間は——怒りが勝った。正義の名のもとに利用される。それは騎士にとって、最大の侮辱だ。
テントの外で、風が聖教会の旗をはためかせた。十字架の紋章が、灰色の空に揺れている。
アルヴィンは立ち上がった。
「セレナ。召喚命令には応じるな」
「アルヴィン様……」
「俺が守る。聖教会がお前に手を出すなら——俺の剣が相手だ。——もう少しだけ、時間をくれ。考える時間を」
聖剣の光が、微かに——だが確かに、以前より弱くなっていた。迷いが剣に伝わっている。正義の剣が、持ち主の疑念を映して揺れている。
テントの外で、兵士たちが次の命令を待っている。彼らは何も知らない。自分たちが振るう正義が——揺らぎ始めていることを。
アルヴィンはテントの入口に立ち、外を見た。荒野の向こうに、魔王領の結界が青く光っている。その光は弱々しく、揺れていた。
——あの光が消えたら、世界が終わる。
セレナの報告を信じるなら、それが真実だ。聖剣で結界を砕けば、世界を支える最後の柱が折れる。
だが——マルティウスは「砕け」と命じている。教義は「浄化」と呼ぶ。神の名のもとに。
「エドモン」
「はい」
「兵を退け。陣地を後退させろ。——俺が答えを出すまで、魔王領には近づくな」
エドモンが頷いた。主の命令に従う。いつもと同じだ。だがエドモンの目には——安堵の色があった。
アルヴィンは聖剣に手を触れ、目を閉じた。
——父上。あなたが教えてくれた正義は、本物だったのですか。
答えは、返ってこなかった。だが聖剣の光が、微かに——温かくなった。気のせいかもしれない。だが今は、その温もりにすがりたかった。




