異端の烙印
王都の大聖堂。
マルティウスは書斎の椅子に座っていた。背後の窓から差し込む光が、老人の白い法衣を淡く照らしている。机の上には一枚の小さな紙片。鴉が運んできた報告書。
「勇者レイド・アシュフォード、魔王領より帰還。異端の疑い、確定」
マルティウスの皺だらけの指が、紙片をゆっくりと撫でた。翡翠の瞳が細められる。薄い唇に、笑みとも呼べないものが浮かんだ。
「やはりか」
声は静かだった。怒りも驚きもない。予想通りの報告を受け取った者の、淡々とした確認。
マルティウスは立ち上がり、書棚の前に歩いた。革装丁の古い書物を一冊抜き出す。表紙に聖教会の紋章が刻まれた、教会内部の極秘文書。
頁を開いた。「五つの柱」と題された章。教会の教義では、柱は邪悪な力の源であり、浄化すべき存在とされている。千年前、教会は四つの柱を「浄化」した。残る一つが——魔王。
「最後の柱を砕けば、世界は新たな秩序の下に生まれ変わる」
マルティウスが呟いた。教義の一節。だがその声には、信仰者の敬虔さよりも、計画者の冷徹さが滲んでいた。
扉を叩く音。
「入れ」
従者が入ってきた。黒い法衣に身を包んだ若い男。聖教会の密偵部門——「浄罪の目」の一員だ。
「大司教様。勇者Aパーティーのアルヴィン殿から報告がございます。魔王領における調査の結果、セレナ聖女が重大な発見をしたと」
「セレナが?」
「はい。詳細は封書にて」
従者が封蝋付きの書簡を差し出した。マルティウスが受け取り、蝋を割る。
読み進めるにつれ、マルティウスの表情が変わった。微かに——だが確実に。笑みが消え、翡翠の瞳が冷たくなった。
「聖印が魔王の力と共鳴した、と」
「左様でございます」
「——セレナを王都に召喚しろ。調査の中断を命じる」
「しかし、アルヴィン殿が三日間の猶予を——」
「聞こえなかったか」
マルティウスの声が、書斎の空気を凍らせた。従者が身を竦め、深く頭を下げた。
「直ちに」
従者が退室した。マルティウスは窓辺に立ち、王都の街並みを見下ろした。大聖堂の影が、市街地に長く伸びている。
「セレナは真実に触れてしまったか。——聡い子だ。だが、聡すぎる」
マルティウスは机に戻り、新しい羊皮紙を取り出した。ペンを走らせる。
異端審問の準備命令。対象——勇者レイド・アシュフォード。
ペンが紙の上を滑る音だけが、書斎に響いた。マルティウスの筆跡は美しく、一文字の乱れもない。六十年以上の教会生活で培った、完璧な統制。
書き終えた命令書に封蝋を押し、従者を呼んだ。
「これを浄罪の目の長に。——それと、もう一つ」
「何でございましょう」
「勇者認定式の記録を持ってこい。レイド・アシュフォードの項目だ」
従者が再び退室する。マルティウスは椅子に深く座り、目を閉じた。
認定式の日のことを思い出していた。四人の勇者候補の額に聖油を塗った時。レイドの額に触れた瞬間、指先に走った異質な感覚。魔王の力と同じ波動が、この若者の体の奥底に潜んでいた。
あの時から確信していた。この男は異物だ、と。
だが確信だけでは動けない。聖教会は証拠を求める。形式を重んじる。だからこそ、従者を送り、監視を続けた。
そして今——証拠が揃った。
「異端は排除せねばならぬ。——神の名において」
マルティウスの唇が動いた。祈りの言葉のように聞こえるが、その翡翠の瞳に信仰の光はなかった。あるのは、冷徹な意志だけだ。
◇
同じ頃。王都の裏通り。
傭兵ギルドの建物は、王都の表通りからは見えない場所にあった。煤けた石壁。鉄格子のはまった小窓。看板すら掲げていない。知る者だけが訪れる場所だ。
その最奥の個室で、ジーク・ヴァンガードは椅子に深く腰を沈めていた。テーブルの上にはエールの杯と、半分食いかけのパン。だがジークの意識は食事にはなかった。
フェリクスが机の上に書類を広げている。薄い紙束に、細かい文字がびっしりと書き込まれていた。聖教会の動向を記録した、独自の情報網の成果物だ。フェリクスの情報収集能力は傭兵ギルドでも随一だ。酒場の噂から外交文書の写しまで、あらゆる情報源に手を伸ばしている。
「ジーク殿。聖教会が動いています」
「どう動いてる」
「大司教マルティウスが『浄罪の目』を招集しました。異端審問の準備です。対象は明言されていませんが——」
「レイドだろ」
即答だった。ジークが椅子に深く座り直した。隻眼が天井を見上げる。無精髭を顎で擦りながら、状況を計算している。
「レイドがマルティウスに目をつけられてるのは分かってた。だが——異端審問とはな。聖教会も本気ってわけだ」
「加えて、もう一つ。セレナ聖女の召喚命令が出ています。魔王領での調査を中断させる意図です」
ジークの隻眼が鋭くなった。椅子から身を起こす。
「セレナを呼び戻す?」ジークが椅子の背もたれを軋ませた。「——まだ三日間の猶予の最中だろう。アルヴィンが魔王領で約束した猶予だ」
「はい。マルティウスはセレナの発見を危険視しているようです。聖印と魔王の力の共鳴——この情報が広まれば、教義の根幹が揺らぎます」
「なるほどな」
ジークが立ち上がった。窓際に歩き、路地を見下ろす。夕暮れの王都。人々が日常を送っている。市場の喧騒、子供の笑い声、鍛冶屋の槌の音。この日常を壊す力が、聖教会の内部で蠢いている。
「フェリクス。レイドに伝えろ。聖教会が異端審問の準備を始めたと」
「了解です。伝書で送ります」
「それと——セレナの召喚命令の件もだ。あの聖女が調査を完了する前に引き戻されたら、三日間の猶予が全て無意味になる。レイドが命を張って勝ち取った三日間がな」
フェリクスが頷き、部屋を出ていった。靴音が廊下に消え、扉が静かに閉まった。
ジークは一人残り、腰の短剣の柄を無意識に撫でながら、窓から夕焼けを見つめた。傭兵の目に、珍しく思案の色が浮かんでいる。
金のためだけに動く男が、金では計れない事態に直面している。世界が滅ぶなら報酬も名誉も意味がない。だがそれは、打算を超えた場所に自分を置くことを意味する。
「——面倒なことに巻き込まれたもんだ」
ジークが呟いた。だがその口調には、嫌悪よりも——奇妙な高揚が混じっていた。
傭兵が初めて、金以外のもののために動こうとしている。その自覚が、ジークの口元に自嘲の笑みを浮かべさせた。
ジークは窓から身を離し、壁に立てかけてあった剣を手に取った。使い込まれた刃は、無数の戦場を渡ってきた証だ。
「レイド。お前の話が本当なら——俺は初めて、損得抜きで動くことになるな」
それが心地よいのか不快なのか、まだ自分でも分からなかった。
窓の外で、大聖堂の鐘が夕刻を告げた。重く、低い音が、王都の石畳に沈み込むように広がっていく。
異端審問の準備が始まった。
世界を救おうとする者が、世界の守護者を名乗る教会によって裁かれようとしている。
歯車が、音を立てて噛み合い始めた。
そしてその歯車は、一度動き出せば——誰にも止められない。




