下山と告白
明け方の光が、北嶺の岩肌を灰色に染めた。
レイドは一晩中起きていた。崖の縁に座り、山の闇を見張り続けた。魔物の遠吠えは夜通し聞こえていたが、崖下までは降りてこなかった。レイドたちが倒した魔物の血の匂いが、他の群れを遠ざけていたのかもしれない。
カイルが目を覚ました。
「……朝か」
「ああ。動けるか」
カイルが歯を食いしばって上体を起こした。右腕の骨折は包帯で固定されているが、肋骨の方は呼吸のたびに痛むだろう。顔が蒼白で、唇が乾いている。
「動ける。——仲間は」
「二人とも生きてる。衰弱してるが、担いで降りれば助かる」
ガレスが倒れていた二人を一人ずつ肩に担ぎ上げた。大男の背中に二人の冒険者がぶら下がる。それでもガレスの足取りは安定していた。
「よし。行くぜ」
ミラが先行して退路を確認する。崖を迂回し、山道を南に下る。来た道とは別のルートだ。ミラが夜の間に偵察して見つけた、魔物の少ない経路。
「レイド」
カイルが歩きながら声をかけた。足元がふらついている。レイドが肩を貸した。カイルの体重が右肩にかかる。汗と血の匂い。若い冒険者の体は、骨と筋肉の塊のように痩せていた。三日間の飢えが体を削っている。
「お前に聞きたいことがある」
「何だ」
「あの魔物の暴走——お前は、起きることを知っていたんじゃないか」
レイドの足が一瞬止まった。カイルの碧い目が、横からレイドの顔を見ている。傷だらけの若者の目に、鋭い光が宿っていた。
「なぜそう思う」
「お前の伝書だよ。以前、北嶺ルートは危険だって忠告してくれただろ。あの時は大げさだと思った。でも——本当にこうなった。まるで未来を知っていたみたいに」
レイドは黙って歩き続けた。カイルの体重が肩に食い込む。足元の岩が朝露に濡れて滑りやすい。
「……全部は話せない。だが——この魔物の暴走は、もっと大きな異変の一部だ」
「大きな異変?」
「世界の均衡が崩れ始めている。地脈のエネルギーが枯渇し、魔物の制御が外れている。お前が見た暴走は、その症状の一つだ」
カイルが足を止めた。レイドの肩にかかる重みが増す。
「……世界の均衡って——魔王の話か」
「どこまで知ってる」
「噂だけだ。学院の講義で聞いた。世界の魔力は魔王によって制御されているという古い伝承。——だが聖教会は、あれを異端の教えだと否定している」
「伝承は正しい」
カイルが息を呑んだ。足が完全に止まった。山道の上で、二人の影が朝日に長く伸びている。
「正しいって——じゃあ、魔王を殺したら」
「世界が崩壊する」
短い言葉だった。だがその重さに、カイルの顔から血の気が引いた。折れた剣を握りしめた三日間より、今この瞬間の方が——恐ろしいと、その顔が語っていた。
「……嘘だろ」
「嘘なら、この暴走の説明がつくか」
カイルは答えなかった。唇を噛み、山道の先を見つめている。北嶺の頂上では、まだ魔物の群れが渦巻いている。あの暴走が世界中に広がるという意味を、カイルは理解し始めていた。
「レイド。お前は——何者なんだ」
「勇者だ。お前と同じ」
「同じじゃない。お前は何もかも知りすぎている」
レイドはカイルの肩を支え直し、歩き始めた。
「いつか全部話す。だが今は——まずお前を生かすのが先だ」
カイルは黙って頷いた。もう問い詰めなかった。
山道を降りていく。ミラが先頭で安全を確認し、ガレスが二人を担いだまま後に続く。レイドはカイルを支えながら、最後尾を歩いた。
山腹を過ぎる頃、木々の様子が変わった。葉が黒ずみ、幹に亀裂が走っている。昨日見た地脈枯渇の痕跡が、ここにも広がっていた。
「これも——均衡の崩壊か」カイルが呟いた。
「ああ。北嶺だけじゃない。世界中で同じことが起きている」
カイルが黙った。傷だらけの若者の顔に、何かを決意する色が浮かんだ。だがそれを口にする前に、ミラが手を挙げて全員を止めた。
「止まって。——下に人がいる。待ち伏せじゃない。野営の跡。冒険者ギルドの旗が見える」
山道の下方に、小さな野営地が見えた。冒険者ギルドが派遣した救援隊だろう。カイルの救援要請は、レイドたちだけでなくギルドにも届いていたらしい。
「助かった……」カイルの体から力が抜けた。「もう大丈夫だ。ギルドの連中がいるなら、仲間を預けられる」
レイドは頷いた。ギルドの救援隊にカイルと仲間たちを引き渡せれば、すぐに次の行動に移れる。
——時間がない。セレナの三日間の猶予は、もう半分を過ぎている。
◇
同じ朝。
王都の学院の古文書庫は、地下三層にまで及ぶ巨大な書架の迷宮だった。
リーシャは夜通しここにいた。燭台の灯りが揺れ、古い羊皮紙の匂いが鼻を満たしている。埃と黴と、かすかなインクの残り香。学者にとっては最も落ち着く場所だ。だが今のリーシャに、落ち着く余裕はなかった。
目の前に広げた古文書は、三百年前の魔法学者が記した地脈研究の論文だった。題名は「均衡の柱と魔力循環の相関について」。聖教会が異端として発禁にした文献の一つ。学院の禁書庫にだけ、写しが残されている。
「やはり——」
リーシャの指が、論文の一節を辿った。
『柱の力は、守り手と呼ばれる特定の血筋によって増幅・安定化される。守り手は柱と同じ根源の魔力を持ち、その共鳴によって柱の負荷を軽減する。守り手の覚醒条件は、柱の魔力との直接接触、および感情的な共鳴——すなわち、柱の存在への強い共感が必要とされる』
リーシャの手が震えた。碧眼が論文の文字を何度も読み返す。
柱の魔力との直接接触。——魔王領で瘴気の中を歩いた時、私の魔力が共鳴した。
感情的な共鳴。——ヴェルディアと対面した時、あの孤独な魔王に共感した。三千年も一人で世界を支えてきた存在に。
条件は、既に満たされつつある。
リーシャは新しい羊皮紙を取り出し、急いで書き始めた。理論の整理。仮説の構築。覚醒の手順。
だがその手が止まった。
論文の次の頁が——破り取られていた。
端に残った紙片の断面は鋭い。鋏で切られている。意図的に、この頁だけが除去されている。
リーシャは周囲を見回した。古文書庫の暗がりに、人の気配はない。だが棚の上に、微かな砂の粒が落ちていた。最近、誰かがこの棚に触れた痕跡。
「聖教会が……消したのか」
守り手の覚醒に関する最も重要な情報が、聖教会によって隠蔽されている。
リーシャは唇を結んだ。碧眼に、炎のような光が灯った。
「——見つけてみせます」
リーシャは棚の奥に手を伸ばした。古文書の背表紙を一冊ずつ確認していく。破り取られた頁の内容は分からない。だが、同時代の別の学者が同じテーマを研究していた可能性がある。学術の世界では、一つの発見は必ず複数の研究者によって追跡される。
三時間後、リーシャは地下三層の最奥で、もう一冊の写本を見つけた。
題名はない。表紙が剥がれ、虫食いだらけの粗末な装丁。だがその中に、一行だけ——覚醒の鍵となる記述があった。
『守り手の覚醒は、柱の力の断片を体内に取り込むことで完了する。断片は柱の存在そのものから分け与えられるか、あるいは——柱が砕かれた場所に残る残滓から吸収することが可能である』
柱が砕かれた場所。
リーシャの碧眼が見開かれた。ヴェルディアが語った歴史——千年前、聖教会が四つの柱を破壊した。その場所に、残滓が残っているなら。
五大聖堂。聖教会の五つの大聖堂は、かつて柱が存在した場所に建てられたのではないか。
仮説が一つ、形を成した。
リーシャは写本を懐に入れ、古文書庫の階段を駆け上がった。地上に出ると、王都の朝日が目を刺した。大聖堂の尖塔が、空に向かって聳えている。
あの下に——柱の残滓が眠っているかもしれない。
学者の意地と、仲間を救う意志が、彼女を突き動かしていた。




