邂逅の街道
馬車の車輪が石を踏み、車体が大きく揺れる。
レイドは窓枠に肘をついたまま、流れゆく田園風景を眺めていた。初夏の風が幌の隙間から吹き込み、干し草の甘い匂いを運んでくる。麦畑が丘陵の裾野まで広がり、遠くでは農夫が鍬を振るう姿が小さく見える。
穏やかな光景だ。
——だが、脳裏に焼きついた別の景色が、それを侵食する。
炎。黒煙。崩れ落ちる城壁。逃げ惑う人々の悲鳴が折り重なり、やがて一つの轟音にかき消される。あの日の王都ランヴァルドは、まさに地獄そのものだった。
魔王を討伐した直後だ。均衡が崩壊し、大地が裂け、制御を失った魔物の群れが城門を突き破り——
車体がまた跳ねる。レイドは瞬きをして、現実に引き戻された。
窓の外には、変わらず長閑な田園が広がっている。崩壊の痕跡などどこにもない。鳥が梢を渡る声が、妙に耳に残る。
——まだ起きていない。何も。
だが起きるのだ。このまま何もしなければ。
三日前のリーシャの言葉が、不意に蘇った。
——「何か隠してますね?」
あの碧い瞳を思い出すたび、胸の奥が軋む。拳を膝の上で握り、レイドは息を吐いた。認定式まであと半日。そこからが本当の戦いだ。
窓の外で、森の木々が近づいてくる。街道が林間部に差しかかろうとしていた。
◇
異変に気づいたのは、馬車が森に入って間もなくのことだ。
鳥の声が消えた。
レイドは反射的に腰の剣に手をかけ、御者台の方に耳を澄ませる。馬の鼻息が荒い。蹄の音に不規則なリズムが混じる。怯えている。
——前方、左手の茂みの奥。五、いや六体。
一周目の記憶が、体を動かした。
「止めろ」
低く鋭い声が出る。御者が手綱を引くより早く、前方の茂みから黒い影が飛び出した。
ゴブリンウルフ。灰色の体毛に赤い筋が走る変異種だ。通常の森にはいない。レイドは一周目で嫌というほど戦った相手だった。
馬車の前方で悲鳴が上がる。先行していた商隊の馬車が横転し、荷物が散乱していた。護衛らしき男たちが剣を抜いているが、数に押されている。
レイドは幌を蹴破るように馬車から飛び降り、地面に着地すると同時に剣を抜いた。
六体。うち二体が商隊の護衛に向かい、残りが散開している。包囲陣形——こいつらにしては統制が取れすぎている。
——左の二体が先に跳ぶ。その〇・五秒後に右から挟撃。
記憶通りだ。左のゴブリンウルフが地を蹴った瞬間、レイドは前に踏み込んだ。常識的には後退すべき場面だが、挟撃を食らうくらいなら懐に入る方がいい。
一撃目。左の個体の喉を裂く。返す刃で右から跳びかかった個体の脇腹を断つ。
血の匂いが鼻を突く。鉄と獣脂の入り混じった、戦場の匂いだ。
残り四体。だが先頭の二体が倒れた時点で、群れの士気が折れるのを感じた。動きに迷いが生じている。統制していた個体を先に仕留めたからだ。
レイドは地面を蹴り、最も近い一体に踏み込む。三体目を倒すまでに要した時間は、呼吸三つ分だった。残りは散り散りに森へ逃げ込んでいく。追う必要はない。群れのリーダーを失った変異種は、二度と同じ場所には戻らない。
——知っている。一周目で、数えきれないほど戦ったから。
剣についた血を払い、鞘に納める。商隊の方を見ると、護衛たちが呆然とこちらを見ていた。
「怪我人は」
レイドが声をかけると、護衛の一人が我に返ったように首を振る。
「い、いや——大丈夫だ。おかげで助かった」
◇
商隊は横転した馬車を起こし、街道脇の開けた場所で休憩を取ることにした。
焚き火の匂いが広がる。乾いた薪の爆ぜる音と、鍋で温め直した干し肉のスープの湯気。護衛たちが怪我の手当てをする傍らで、レイドは少し離れた岩に腰を下ろしていた。
「よお、兄ちゃん」
背後から声がかかる。低く、腹の底に響く声。
振り向かなくても分かった。その声を、レイドは二年以上聞き続けてきたのだから。
赤毛を短く刈り込んだ大柄な男が、片手に水筒を持って近づいてくる。日に焼けた顔に、傷だらけの前腕。革鎧の下に覗く筋肉は、見た目通りの重量感を持っている。
ガレス・ブロンド。
一周目で、最も信頼した仲間の一人。魔王城の第五階層で、レイドを庇って左腕を失った男。それでも盾を離さず、「先に行け」と笑った男。
——初めまして、と言わなければならない。
喉の奥が、詰まるように熱くなる。レイドはそれを飲み込み、無造作に視線を上げた。
「どうも。護衛の方ですか」
「ああ、まあな。雇われの盾役だ」
ガレスは隣に腰を下ろし、水筒をレイドに差し出す。遠慮のない仕草だった。一周目でもそうだ。この男は初対面の相手にも、まるで旧知のように接する。
「さっきの戦い方、ありゃ見事だったぜ。ゴブリンウルフの変異種を一人で三体——しかも、包囲される前に統率個体を狙って落としただろ? あれは相当戦い慣れてねえとできねえ動きだ」
水筒を受け取りながら、レイドは内心で歯を噛んだ。
——やりすぎた。
「たまたまだ。動きが読みやすい相手だった」
「ガハハ、謙遜すんなよ。俺は傭兵を十年やってるが、あんな動きができるやつは片手で数えるほどしか見たことがねえ」
ガレスの手が、ばしんとレイドの背中を叩く。分厚い掌の衝撃が背骨を揺らした。変わらない。この手の力強さも、裏表のない笑い方も、何一つ変わっていない。
「名前聞いてなかったな。俺はガレス・ブロンドだ。見ての通り、腕っぷしだけが取り柄の盾馬鹿だぜ」
「レイド・アシュフォード」
握手を求められた手を、一瞬だけ見つめた。あの手が——第五階層で血にまみれながら盾を掲げた、あの手が、今は傷一つなく差し出されている。
握り返す。分厚い指の感触。力強く、温かい。
「あんた、王都に行くのか?」
「ああ。認定式に呼ばれてる」
「おっ、勇者候補か! 道理で強えわけだ」
ガレスが目を丸くし、それから豪快に笑う。
「実はよ、俺もこの護衛が終わったら王都で次の仕事を探すつもりなんだ。傭兵ギルドの方で、勇者パーティーの護衛募集が出てるって噂でな」
——知っている。一周目では、レイドは認定式の後にギルドでガレスを見つけ、パーティーに誘ったのだ。
「へえ。盾役を探してるパーティーは多いだろうな」
「だろ? 俺みてえな図体のでかい盾馬鹿は、意外と需要があるんだぜ」
ガレスが干し肉を齧りながら、ふと真面目な顔になる。
「しかし——さっきの魔物、気になるな。ゴブリンウルフの変異種がこんな街道沿いに出るなんざ、普通じゃねえ。最近こういうのが増えてるんだよ。魔物の出現域が、じわじわ広がってやがる」
焚き火の炎が揺れ、ガレスの顔に影を落とす。
レイドは黙って頷いた。知っている。魔王の力が弱まり始めているのだ。均衡の柱がほころび、魔物の制御が緩くなっている。一周目でも同じ兆候があった。だが当時の自分は、それを「魔王が力を蓄えている証拠」だと信じていた。
——教えてやれたら、どれだけ楽か。
だが今この場で「魔王を殺してはいけない」と言ったところで、正気を疑われるだけだ。
「気をつけた方がいいな。特に王都周辺は、勇者認定式に合わせて警備が手薄になる」
「おう、そうだな——って、なんでそんなこと知ってんだ?」
ガレスが怪訝そうに首を傾げる。レイドは肩をすくめて誤魔化した。
「推測だ。式典に兵力を割けば、外縁が薄くなるのは当然だろう」
「……まあ、そりゃそうか。頭も回るんだな、兄ちゃん」
ガレスは納得したように頷いたが、その目の奥にほんの僅かな引っかかりが残っているのを、レイドは見逃さなかった。
◇
日が傾き始めた頃、馬車は最後の丘を越えた。
眼下に王都ランヴァルドが広がる。
白亜の城壁が夕陽を受けて橙色に染まり、中央の王城の尖塔が天を突く。城壁の外側には市場町が広がり、街道を行き交う人々の影が蟻の列のように続いている。
美しい街だ。
——一周目では、あの城壁が内側から崩壊した。
レイドは目を細め、記憶を押し込めた。まだ崩れていない。まだ間に合う。
城門が近づくにつれ、人の流れが密になっていく。認定式を見物する市民、各地から集まった商人、王国軍の兵士たち。活気に満ちた喧騒が馬車の幌越しに押し寄せてくる。
城門の手前で、馬車は検問のために停止した。護衛兵に旅券を見せ、名前を告げる。
「レイド・アシュフォード。勇者候補として認定式に——」
「お待ちください」
護衛兵の隣に立っていた白い法衣の人物が、手元の巻物を確かめた。聖教会の従者だ。鶴のように痩せた体躯に、感情の読めない目。巻物の上を指が滑り、レイドの名前の箇所で止まる。
名前の横に、小さな赤い印が記されているのが見えた。
「——確認が取れました。お通りください」
従者は何事もなかったかのように巻物を閉じたが、レイドの背中を一瞥した視線には、検分するような冷たさが宿っている。
あの印は何だ。一周目にはなかったはずだ。
考える間もなく、馬車が城門をくぐる。
その瞬間——。
鐘が鳴った。
一つではない。城内の聖堂から、市街の小教会から、王城の礼拝堂から。あらゆる方向から同時に、重厚な鐘の音が空気を震わせた。
通りを歩いていた人々が、次々と足を止める。ある者は胸の前で手を組み、ある者は膝を折り、石畳に額づく。まるで見えない力に押し下げられるように、街全体が沈黙と敬虔に包まれていく。
鐘の残響の中に、声が混じった。
朗々と、しかし大気そのものを支配するように響く老人の声。祝祷だ。言葉の一つ一つが魔力を帯びたように空間を満たし、聴く者の身体の芯まで浸透してくる。
大司教マルティウス。
レイドの全身に鳥肌が立った。指先が冷たくなり、心臓が不規則に跳ねる。
——この声を、知っている。
一周目の記憶の底から、あの日の光景が浮かび上がった。世界が崩壊する中、大司教は微笑んでいたのだ。全てが灰燼に帰す瞬間に——あの老人だけが、微笑んでいた。
なぜだ。なぜ、笑っていた。
鐘の音が頭蓋の内側で反響し、レイドの思考を掻き乱す。跪く群衆の中で、馬車に座ったまま身じろぎもできない。
祝祷の声が、祝福のように——あるいは、呪いのように、王都の空に染み渡っていった。




