打算の天秤、猫目の賭け
遠く背後で、光と闇がぶつかり合う轟音が夜空を裂いていた。
ジーク・ヴァンガードは振り返らない。眼帯の下、残った隻眼が暗がりの中で鋭く光っている。荒野を渡る風は乾いて冷たく、焼けた土と魔力の残滓が混じった匂いが鼻の奥を刺した。
——派手にやってやがるな、あの二人。
アルヴィンとレイドの激突は、ジークにとって最高の陽動だった。二人の勇者が全力でぶつかり合えば、周囲の注意はそこに集中する。魔王城の結界に近づく者がいても、誰も気づかない。
「計算通りってわけだ」
ジークは低く呟き、岩陰を縫うように移動を続けた。重い革鎧が擦れる音すら、遠方の戦闘音にかき消される。足元の地面が微かに脈動している。魔力が地脈を通じて流れている証拠だ。魔王領の中心に近づくほど、その脈動は強くなる。
フェリクスの報告書を思い出す。レイドの行動パターン、魔族との接触、そして「魔王を殺せば世界が滅ぶ」という荒唐無稽な主張。
——荒唐無稽、か。
ジークは口の端を歪めた。三日前にレイドから聞いた話は、確かに馬鹿げていた。だが、馬鹿げた話を真顔でする男の目は嘘をついていなかった。傭兵として長年培った人を見る目が、そう告げていた。
だからこそ、自分の目で確かめに来た。
証拠が本物なら、この情報は黄金よりも重い。世界の命運を握る切り札だ。どちらに売るか——いや、どちらにつけば最も得をするか。それを判断するには、まず真贋を見極める必要がある。
前方に、空気の質が変わる境界線が見えた。月光を受けて淡く揺らめく膜のようなもの——魔王城の結界だ。
◇
結界の表面が月光を受けて、薄い絹のように揺れていた。
ミラ・セイレーンは木の枝に身を預け、猫のように目を細めていた。エルフの血が与えてくれた夜目が、暗闇の中を移動する人影を捉えている。風上から流れてくる革と油の匂い。重い足音。単独行動。
——来た。
レイドが結界の外に出る前、ミラは一つだけ指示を受けていた。
「俺がアルヴィンを引きつけている間に、ジークが動く可能性がある。結界の側面を見張ってくれ」
あの時のレイドの声は、いつもの冷静な調子だった。けれど、その目の奥に焦りが滲んでいたのを、ミラは見逃さなかった。
ジークの足音が止まった。結界まで二十歩ほどの距離。彼は周囲を見回し、それから結界の表面をじっと観察し始めた。隻眼が膜のように揺れる結界を舐めるように追っている。
ミラの指が、背中の弓に触れた。矢をつがえるか。いや、まだ早い。
ジークが結界に手を伸ばした。指先が膜に触れる寸前で止まり、ゆっくりと引いた。
「——出てこいよ。三十秒前から気づいてる」
ジークの声が、夜の静寂を切った。
ミラは舌打ちを飲み込んだ。風向きは計算していた。足音も殺していた。だが、気配までは——。
「あー、バレてたか。つまんないの」
枝から飛び降り、ミラは姿を見せた。弓は背中に収めたまま。両手を軽く広げて見せる。敵意がないことを示す——少なくとも表面上は。
ジークが振り返った。眼帯の奥、残った片目がミラを値踏みするように見つめる。
「レイドの斥候か。半エルフの嬢ちゃんだったな」
「嬢ちゃんはやめてくんない? ミラでいいし」
「じゃあミラ。単刀直入に聞く」
ジークは腕を組んだ。無精髭の下の口元が、皮肉げに歪んでいる。
「世界の真実とやらを教えろ。その価値次第で、どちらに味方するか決める」
ミラの猫目が、一瞬だけ細くなった。
「——取引、ってわけ?」
「俺は勝つ側につく。それだけだろ」
風が二人の間を吹き抜けた。遠くで、光と闇がぶつかる衝撃波が空気を震わせる。レイドとアルヴィンの戦闘は、まだ続いている。
ミラの頭の中で、歯車が高速で回った。
レイドへの連絡手段はない。結界の中にいるナージャに伝える余裕もない。ジークをここで追い返すことは——無理だ。ジークの実力は知っている。正面からやり合えば、ミラに勝ち目はない。
かといって、何も答えずにいれば、ジークは独自に結界を調べ始める。そうなれば、結界の弱点に気づかれる可能性が——。
ミラの視線が、一瞬だけジークの肩越しに泳いだ。結界の表面が、場所によって濃淡が違う。ヴェルディアが衰弱しているせいだ。均一であるはずの膜に、薄くなった箇所がいくつかある。
——まずい。気づかれる前に、こっちから動かないと。
「ねえ、ジーク」
ミラは一歩前に出た。軽い口調を崩さない。崩したら、腹の底を読まれる。
「あんた、金にならねえことはしないんでしょ?」
「ああ、そうだ」
「じゃあ聞くけど。世界が滅んだら、金って使えると思う?」
ジークの目が、微かに動いた。
「……続けろ」
「魔王は世界を支えてる柱なの。殺したら、魔力の循環が壊れて、封印されてる太古の災厄が解放されて、大地が崩壊する。一周目で——」
ミラは言葉を切った。危ない。レイドの死に戻りまで話すのは、さすがに独断の範囲を超える。
「一周目?」
「……レイドが直接見た。魔王が死んだ後の世界を。信じるかどうかは、あんた次第だけど」
ジークは黙った。片目がミラの表情を、呼吸を、指先の震えまで読み取ろうとしている。傭兵の目だ。嘘を見抜くことに長けた、戦場で生き延びてきた男の目。
「へえ、大層なご高説だな」
ジークが鼻で笑った。だが、その笑みは目に届いていなかった。
「で、証拠は? 口先だけなら誰でも言える」
◇
「証拠が見たいなら——」
ミラは結界を振り返った。月光に揺れる薄い膜。その向こうに、魔王城の尖塔が暗い空に突き刺さっている。
「中に入れば、わかるよ」
自分でも、声が震えていないか不安だった。心臓が喉元まで跳ね上がっている。この判断が正しいのか、間違っているのか。レイドならどうするか考えた。けれど、レイドは今ここにいない。
——ここにいるのは、あたしだ。
裏通りの情報屋としてレイドに拾われた日のことを思い出す。「居場所をくれた人を裏切らない」——あの時、自分で決めた言葉だ。
レイドが守ろうとしている世界を、あたしも守る。そのために、目の前のこの男を——味方につける。
「中に入れてあげる」
ミラはジークを真っ直ぐに見た。猫目の奥に、軽口ではない光が宿っている。
「ただし、武器は全部置いていって」
ジークの眉が上がった。腰の大剣、背中の投げナイフ、ブーツの中の暗器——全てを手放せという条件。傭兵にとって、武器を捨てることは裸で戦場に立つのと同義だ。
沈黙が落ちた。
遠くで轟音。レイドとアルヴィンの戦闘が、一際激しくなった。空気が震え、結界の表面が波打つ。
ジークは——笑った。
「いいぜ、乗った」
大剣を鞘ごと外し、地面に置いた。金属が乾いた土にぶつかる硬い音。投げナイフが三本、その隣に並ぶ。ブーツから細い短剣を抜き、それも重ねた。
丸腰。完全な丸腰だ。
だが、ミラの背筋を冷たいものが走った。
ジークの笑みが——消えていない。武器を全て手放した男の顔に、余裕の笑みが張り付いたままだった。そして、その隻眼が見ているのは、ミラの顔ではなかった。
ミラの背後。結界の膜が、一箇所だけ——月光を透かすほど薄くなっている場所を。
「——さて」
ジークが一歩、踏み出した。
「案内してもらおうか、嬢ちゃん」
ミラの指先が、無意識に弓の弦に触れていた。
——この男、気づいてる。
結界の弱点に。ヴェルディアの衰弱に。そして恐らく、武器を捨てたことなど何の足枷にもならないという、自分自身の実力に。
風が止んだ。月が雲に隠れ、結界の膜が闇に沈む。
ミラは唇を噛んだ。賽は投げた。もう、戻れない。




