二つの旗印
聖剣の金色の光が、荒野を昼のように照らしていた。
レイドの腕に浮かんだ紋様は消えたが、アルヴィンの碧眼に灯った疑念の炎は消えていなかった。聖剣を構えたまま、一歩も退かない。
「レイド・アシュフォード。最後に問う」
アルヴィンの声は冷えきっていた。前夜祭で「共に戦おう」と手を差し出した時の温かさは、一片も残っていない。
「お前は勇者か。それとも魔王の手先か」
「勇者だ。だが、お前の知る勇者とは違う」
「答えになっていない」
エドモンが一歩前に出た。鉄色の鎧が軋み、大剣の柄に手がかかっている。背後の兵士たちも、一斉に武器を構えた。
「アルヴィン。聞いてくれ。聖剣は柱を砕くために鍛えられた武器だ。お前がその剣で魔王を殺せば——」
「黙れ」
アルヴィンの声が、荒野を切り裂いた。聖剣の光が一際強まり、レイドの肌を焼くような熱が走る。
「魔王の言葉を信じ、勇者の使命を裏切るのか。——残念だ、レイド」
聖剣が振り下ろされた。
レイドは咄嗟に横に跳んだ。金色の光刃が地面を抉り、土煙が舞い上がる。一周目の戦闘経験が体を動かした。だがアルヴィンの剣速は、記憶より速い。
「抜け、レイド。剣を抜かぬ相手に聖剣を振るうのは、勇者の誇りに反する」
レイドは剣を抜かなかった。腰の鞘に手すら触れない。
アルヴィンの碧眼が、その姿を見つめている。かつて出発前夜に「共に魔王を討とう」と握手を交わした相手が、今は魔王の城を背にして立っている。アルヴィンの胸の奥で、怒りと——認めたくない悲しみが交差していた。
「俺は戦いに来たんじゃない。話しに来た」
「話は終わりだ」
二撃目。横薙ぎの光が迫る。レイドは身を伏せて躱し、地面を転がった。砂利が頬を削る。口の中に砂と血の味が広がった。
——十分の猶予。もう半分は過ぎた。
三撃目を躱した瞬間、エドモンが背後に回っていた。大剣が振り下ろされる。レイドは本能的に剣を抜き、エドモンの斬撃を受け止めた。
鋼と鋼がぶつかる音が、荒野に響いた。
「やはり、抜いたな」エドモンの冷たい声。
「——防御だ。攻撃じゃない」
「同じことだ」
エドモンの剣圧が重い。だがレイドは一周目でこの男の戦い方を知っている。重い一撃の後には必ず半拍の隙がある。その隙を利用して離脱し、間合いを取った。
アルヴィンが聖剣を構え直す。金色の光が渦を巻き、次の一撃に全力が込められようとしている。あの光を喰らえば、ヴェルディアの防護魔力でも防ぎきれない。
——ここで死ぬわけにはいかない。
その時、荒野の南東から声が響いた。
「おいおい、随分派手にやってるな」
ジーク・ヴァンガードが、尾根の上に立っていた。黒い眼帯に無精髭。腕を組み、片足を岩の上に乗せて見下ろしている。その背後にフェリクスと、十数人の傭兵たち。
アルヴィンの動きが止まった。聖剣の光が僅かに揺らぐ。
「ジーク。お前も来たのか」
「見物に来ただけだ。……と言いてえところだが」
ジークが岩から飛び降り、悠然と歩いてきた。アルヴィンとレイドの間に、割り込むように。
「レイド。お前の話、少しは裏が取れた」
レイドの心臓が跳ねた。
「フェリクスに調べさせた。地脈の乱れ、魔物の暴走パターン、農地の枯死の範囲。——全部、魔王領を中心に放射状に広がってる。お前の言う通りだ」
アルヴィンの碧眼が鋭くなった。聖剣を握る手の力が増し、刃が微かに震えている。正義の剣が、迷いを映して揺れていた。
「ジーク。何の話だ」
「この男が面白いことを言ってたのさ。『魔王を殺せば世界が滅ぶ』と。——俺は最初、馬鹿だと思った。だがデータを見ると、嘘じゃなさそうだ」
フェリクスが一歩前に出た。手には薄い紙束——調査報告書。
「勇者Aパーティーのアルヴィン殿。一点だけ確認させてください。——東回廊で、森の木々が枯死している区域をご覧になりましたか」
アルヴィンの表情が僅かに揺れた。見ている。認めたくないだけだ。
「あれは瘴気による汚染ではありません。地脈のエネルギーが欠乏したことによる自然死です。原因は——魔王の力の衰退です」
フェリクスの声は淡々としていたが、背後に緻密なデータの裏付けがある。
アルヴィンの聖剣の光が、微かに揺れた。
「……馬鹿な」
「信じろとは言わねえ」ジークが肩をすくめた。「だが俺は、金にならねえ戦争をする気はない。世界が滅ぶなら報酬も使えないからな」
ジークの視線がレイドに向いた。隻眼の奥に、計算と——ほんの僅かな好奇心。
「レイド。俺はまだお前を完全には信じちゃいねえ。だが——今日のところは、こいつを止める側に立ってやる」
ジークがアルヴィンの前に立った。傭兵の体が、聖剣と魔王城の間に割り込む。
「ジーク。退け」アルヴィンの声が低くなった。
「嫌だね。俺は自分の判断で動く。——少なくとも、状況を調べるまで攻撃は止めろ。それが俺の条件だ」
荒野に、三つの勇者が立っていた。金色の聖剣を構えるアルヴィン。腕を組んで動かないジーク。剣を鞘に戻したレイド。
風が吹いた。瘴気の残滓が三人の間を流れていく。
アルヴィンの碧眼が、長い時間をかけてレイドを見据え——そして聖剣を、ゆっくりと下ろした。
「……一日だ。一日で証拠を見せろ。できなければ——次は容赦しない」
アルヴィンが背を向けた。エドモンが即座に従い、兵士たちが後退を始める。
レイドの膝から力が抜けた。地面に手をつき、荒い息を吐く。砂と血の味が、まだ口の中に残っている。エドモンの斬撃を受けた右腕が痺れており、剣を握る指が震えていた。
空を見上げた。瘴気の向こうに、薄い月が昇り始めている。一周目では、この荒野で仲間たちと肩を並べて魔王城を攻めた。今は——魔王城を守るために、ここに立っている。
「おい、大丈夫か」ジークが見下ろした。
「……助かった」
「借りだぜ。高くつくからな」
ジークが薄く笑った。だがその隻眼の奥に、いつもの打算だけではない色がある。世界が滅ぶかもしれないという情報を前にして、傭兵の計算機が初めて答えを出せずにいる。
「ジーク。なぜ助けた」
「助けたんじゃねえ。投資だ。お前の話が本当なら、世界を救う側にいた方が後で稼げる」
嘘だった。その程度の打算なら、わざわざアルヴィンの前に立つ必要はない。だがレイドはそれを指摘しなかった。ジークの矜持を傷つける意味はない。
ジークが踵を返した。フェリクスが最後にレイドを一瞥し、報告書をパラパラとめくりながら去っていく。
一人残されたレイドは、荒野に座り込んだまま、魔王城の方角を見つめた。結界の青い光が、遠くで微かに揺れている。
一日。二十四時間。
その間に証拠を示し、アルヴィンを——せめて止めなければならない。
立ち上がった。膝が震えている。だが歩き始めた。結界へ向かって。仲間が待つ場所へ。
約束した。必ず帰ると。
歩きながら、アルヴィンの最後の表情を思い出した。聖剣を下ろした瞬間の碧い瞳。そこに見えたのは怒りでも軽蔑でもなく——困惑だった。
正義を信じる男が、初めて正義を疑い始めている。その亀裂は、まだ小さい。だが確実に、そこにある。




