銀髪の来訪者
木剣が空を裂く音は、頼りなかった。
朝霧が残るアッシュベリー村の修練場。村外れの広場に立てられた打ち込み台の前で、レイドは三十七本目の素振りを終えたところだった。握り締めた柄が手のひらに食い込み、皮の薄い箇所がじくりと痛む。一周目なら百本振っても平気だった手が、今はこの程度で悲鳴を上げている。
「……遅い」
呟いて、もう一度構え直す。脳裏には完成された剣筋がある。二年の旅路で幾百もの魔物を斬り、幾十もの死線を潜り抜けて磨き上げた技術。その記憶は鮮明だ。足運び、重心の移動、力を入れるタイミング——全てが頭の中に刻まれている。
だが、振り下ろした木剣は記憶の軌道を辿らない。
肩が開く。腰の回転が足りない。踏み込みが浅い。頭が知っていることを、身体がまるで理解していなかった。鍛え上げられていない二十歳の肉体は、一周目で到達した領域に遠く及ばない。
歯を食いしばり、もう一振り。今度は意識して腰を落とし、重心を前に——
瞬間、身体が勝手に動いた。
木剣が弧を描き、打ち込み台の首元を正確に捉える。通常の横薙ぎではない。剣先を返しながら斬り上げ、そのまま流れるように袈裟に振り下ろす二連撃。一周目の後半、アルヴィンの剣技を参考に編み出した上位連撃の構え。
レイドは自分の姿勢を見下ろして、息を呑んだ。
——今の、何だ。
身体が覚えていないはずの技が、無意識に出た。手のひらが震えている。偶然か、それとも紋章に刻まれた何かが作用しているのか。額に浮いた汗を袖で拭いながら、レイドは左手の甲を見つめる。勇者の紋章は、まだ淡い燐光を帯びているだけだ。
——考えるな。使えるものは使う。理由は後でいい。
木剣を握り直す。三日後の認定式までに、少しでもこの身体を記憶に近づけなければならない。
◇
「レイド。いるんでしょう?」
聞き覚えのある声に、木剣が止まった。
修練場の入り口、古い柵に手をかけて立つ人影がある。木漏れ日が銀色の髪を透かし、細かな光の粒を散らしていた。白い旅装の上に薄手の外套を羽織り、小脇に紙包みを抱えている。
リーシャ・フォルトナ。
レイドの喉が、一瞬だけ詰まる。
——生きてる。
当たり前のことだ。ここは一周目の終わりではない。全てが始まる前、まだ誰も死んでいない時間に戻ってきた。頭では分かっている。だが、最後に見たリーシャの姿が——崩れ落ちる天井の下で、レイドに向かって何かを叫んでいた、あの姿が——網膜に焼き付いて離れない。
「……リーシャ」
「久しぶりですね。学院の休暇で戻ってきたんです」
柵を開けて、リーシャが歩み寄ってくる。碧い瞳が木剣とレイドの手を交互に見て、わずかに眉を寄せた。
「手、豆だらけじゃないですか。随分と気合が入っていますね」
「認定式が近いからな。鍛えておかないと」
「ふうん」
リーシャは紙包みを差し出す。開くと、狐色に焼き上がった菓子が並んでいた。バターと蜂蜜の甘い匂いが鼻をくすぐる。村の菓子屋のものだ。一周目でも、リーシャが帰省するたびに買ってきてくれた。
「勇者候補に選ばれたと聞きました。おめでとうございます、レイド」
「ああ。ありがとう」
焼き菓子をひとつ手に取る。一口齧ると、素朴な甘さが口の中に広がった。この味を、一周目の旅の途中で何度思い出しただろう。レイドは咀嚼しながら視線を逸らした。
「認定式が終わったら、パーティーを組むことになる。王都に行って、冒険者登録をして——」
「それで?」
リーシャが首を傾げる。銀髪が肩口で揺れた。
「わたしにも声をかけてくれるつもりでしたか?」
——来た。
一周目では、ここで「もちろんだろ」と即答した。リーシャは学院首席の天才魔法使いだ。パーティーに迎える以外の選択肢はなかった。実際、彼女の魔法がなければ切り抜けられなかった場面は数え切れない。
だが同時に、リーシャがいたからこそ、彼女は——。
「……まだ考え中だ」
沈黙が落ちる。リーシャの碧い瞳が、わずかに見開かれた。
「考え中、ですか」
「パーティー編成は慎重にやりたい。認定式で他の勇者候補とも顔を合わせるだろうし」
嘘ではない。だが本心でもない。リーシャを巻き込みたくない。あの崩壊の中で失った仲間の顔が、今も瞼の裏に貼りついている。もう二度と、あの光景を見るわけにはいかない。
だが——一周目で、リーシャ抜きで魔王城に挑んだ分隊が壊滅した記録も、頭の片隅に残っていた。
リーシャは黙って焼き菓子を紙包みに戻し、修練場脇の木陰に腰を下ろした。その仕草に怒りはない。ただ、何かを探るような静けさがあった。
「学院で面白い論文を読んだんです」
唐突に話題が変わる。レイドは内心で安堵しながら、隣に腰を下ろした。木の幹に背を預けると、汗ばんだ肌に樹皮のざらつきが心地よい。
「魔力の根源に関する異端の論文。正式な学術誌には載っていない、地下で回覧されている類のものですけれど」
「異端?」
「ええ。聖教会が認めている魔力理論——つまり魔力は神から賜ったものだという公式見解——とは異なる仮説です。魔力の源泉は、世界そのものの構造に組み込まれた循環系統であって、神の恩寵とは無関係だという」
レイドの指先が、膝の上でかすかに強張る。
——知っている。その仮説は正しい。
魔力は魔王領を起点に大陸全体を循環している。魔王が倒されれば循環は途絶え、世界中の魔法が暴走し、大地が崩壊を始める。一周目で目の当たりにした真実そのものだ。
「それで?」
声が硬くならないよう、意識して力を抜く。
「その論文を書いた学者は、聖教会に異端審問にかけられて姿を消したそうです。百年以上前の話ですが」
リーシャの碧い瞳が、まっすぐにレイドを見ている。
「……興味深いとは思ったんですけれど、それだけです。勇者候補のレイドに話すような内容じゃなかったかもしれませんね」
「いや」レイドは首を横に振る。「聞けてよかった」
それ以上は言えなかった。
◇
修練場から村外れの丘へと続く細道を、二人は並んで歩いていた。
西の空が茜色に染まり始めている。眼下に広がる麦畑が夕焼けの光を浴びて、金色の絨毯のように揺れていた。穂先を撫でる風が頬をかすめるたび、刈り入れ前の青い匂いが混じる。しかし風の温度は急速に下がり始めていた。昼間の温もりが嘘のように、夕暮れの冷気が首筋を這い上がってくる。
リーシャは外套の襟元を引き寄せながら、何気ない様子で口を開く。
「レイド、前から聞こうと思っていたんですけれど」
「何だ」
「剣術、誰かに習ったんですか?」
足が止まりかける。すんでのところで歩調を保った。
「さっき見ていたんです。途中で、妙な構えを取りましたよね。村の剣術師範の型ではなかった。あの流れるような連撃、どこで覚えたんですか」
——見られていたのか。
無意識に出た上位剣技の構え。あれはアルヴィンの聖剣術を参考にした技だ。まだ認定式すら終えていないレイドが、王国最高峰の勇者の剣技を知っているはずがない。
「我流だ。見様見真似で——」
「嘘ですね」
リーシャの声は静かだったが、刃のように鋭い。
「あの構えは完成された体系の一部です。我流であんな動きは生まれません。魔法学院で様々な流派の文献を読んできましたから、それくらいは分かります」
レイドは黙った。麦畑を渡る風だけが、二人の間を通り過ぎてゆく。
「……たまたまだ。身体が勝手に動いた」
「そうですか」
リーシャはそれ以上追及しなかった。ただ、視線はレイドの横顔に留まったままだ。沈みゆく太陽の光が、彼女の銀髪を赤く染めている。
丘の頂上に差しかかったところで、リーシャが足を止めた。
「学院に戻る前に、もう一度来ますね」
「ああ」
レイドは頷く。何でもない別れの言葉だ。一周目でも、同じような会話を交わしたはずだ。
だがリーシャは数歩進んでから、不意に振り返った。
夕陽を背に立つその表情は逆光で読み取れない。ただ碧い瞳だけが、薄暮の中で澄んだ光を湛えている。
「レイド、あなた——何か隠してますね?」
心臓が跳ねた。しかし、顔には出さない。一周目で学んだ技術だ。笑って、肩をすくめる。
「何だよ急に。隠し事なんかないよ」
——一周目の口調が漏れた。
リーシャの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れる。それは疑念ではなく、もっと深い何かを探るような眼差しだった。
「……そうですか。ならいいんです」
リーシャは微笑んで踵を返し、丘の斜面を降りてゆく。銀髪が夕風に流れ、徐々に麦畑の金色に溶けていった。
その背中が見えなくなるまで、レイドは動けなかった。
——「何か隠してますね」。
あの碧い瞳は、納得していなかった。学院首席の頭脳は、こちらの矛盾を確実に拾い上げている。剣技の説明のつかない完成度。言葉選びの不自然な慎重さ。そして今、無意識に漏れた一周目の口調。
拳を握り締める。爪が掌に食い込んだ。
——巻き込むな。リーシャを、今度は。
だが脳裏で、もう一つの声が囁く。
——お前は一周目で、彼女なしで何ができた?
答えは分かっている。何もできなかった。リーシャの魔法なしでは、魔王城どころか第三階層すら突破できなかった。彼女を遠ざければ安全かもしれない。だがそれは、世界を救う可能性を自ら潰すことと同義だ。
夕陽が稜線に沈み、丘の上に紫紺の影が広がった。急速に冷え込む空気の中で、レイドはただ立ち尽くしていた。
三日後の認定式が迫っている。アルヴィンと初めて顔を合わせる日。全てが動き出す起点。
それまでに、答えを出さなければならない。




