敵の子供たちの笑い声
焼き菓子の甘い匂いが、鼻腔をくすぐった。
魔王城の中庭は、レイドが想像していたものとはまるで違っていた。暗黒の荒野でも、骸骨が転がる死の庭園でもない。石畳の広場に露店が並び、魔族たちが声を交わしながら品物を品定めしている。角を生やした男が干し肉を天秤にかけ、翼の生えた女が織物を広げて客と値段を交渉する。
——人間の町と、何が違う。
レイドは露店の影に立ち尽くしていた。視線の先では、小さな魔族の子供たちが追いかけっこをしている。赤い肌に小さな角を持つ少年が転んで泣きかけ、年嵩の少女が駆け寄って膝の砂を払ってやっていた。
「何を突っ立ってるんです。行きますよ」
ナージャの不機嫌な声が、背後から飛んできた。小柄な魔族のメイド長は、腕を組んでレイドを睨み上げている。
「……ああ。悪い」
「悪いと思うなら足を動かしなさい。ヴェルディア様の客人とはいえ、私は勇者の案内役など御免なのですから」
ナージャは踵を返し、さっさと歩き出した。レイドは彼女の小さな背中を追いながら、視線を広場に戻す。
一周目のことが、脳裏を焼いた。
この場所に来たことがある。あの時は剣を抜いていた。魔王城への侵攻作戦。アルヴィンの部隊と合流し、城門を破り、中庭を制圧した。抵抗する魔族を斬り伏せ、逃げる者を追い詰め——
焼き菓子を売っていたかもしれない男を。織物を広げていたかもしれない女を。追いかけっこをしていたかもしれない子供たちを。
胃の底が、重く沈んだ。
「……おい、勇者」
ナージャが立ち止まって振り返った。レイドの顔色を見て、眉をひそめる。
「具合でも悪いんですか」
「いや、問題ない」
「嘘が下手ですね。顔が真っ青です」
レイドは何も答えなかった。答える言葉がなかった。
露店の脇を通り過ぎた時、子供たちの一人がレイドに気づいた。角のない、黒い髪の背の高い異邦人。子供たちは一斉に母親の背中に隠れたが、その中の一人——赤い肌の少女が、おずおずと顔を覗かせた。
少女の首元に、小さなお守りが揺れている。
レイドの足が止まった。
丸い金属板に刻まれた紋様。放射状に広がる光の意匠。それは——聖教会の聖印と、酷似していた。
「……あのお守りは」
「子供の魔除けです」ナージャが素っ気なく答えた。「魔族に古くから伝わるもので、光の加護を象っています。珍しいものではありません」
光の加護。魔族が、光を——。
レイドは問いを飲み込んだ。今はまだ、糸を引くべき時ではない。だが、その紋様は確かに脳裏に焼きついた。
◇
外縁の見張り台は、魔王城の東端にせり出すように突き出ていた。
冷たい風が頬を叩く。眼下に広がる魔王領は、レイドの記憶にあるものとは微妙に異なっていた。一周目で見た荒涼とした大地ではなく、黒い森と灰色の平原が入り混じった、独特の生態系が息づく土地だ。遠くに魔族の集落が点在し、煙が細く立ち昇っている。
だが、その風景の一角に、異質なものがあった。
北東の方角。黒い霧——瘴気が、大地から柱のように吹き上がっている。その周辺の森は枯れ、地面が不自然に捻じれていた。
「あれが見えますか」
ナージャが見張り台の手すりに手をかけ、北東を指した。その右手の甲に、薄く青い紋章が淡く明滅している。ヴェルディアとの契約の証——その光が、以前よりも弱くなっているように見えた。
「瘴気の噴出点だ」
「ええ。先月までは三箇所でした。今は七箇所に増えています」
レイドの背筋が冷えた。
「ヴェルディアの制御が追いつかなくなっているのか」
ナージャは即座に否定しなかった。代わりに、手すりを握る指に力を込めた。
「……ヴェルディア様は、数千年にわたってあの制御を続けてこられました。眠ることなく。休むことなく。世界の均衡がどれほど脆いものか、あなたには想像もつかないでしょう」
その声に、微かな震えが混じっている。忠誠だけではない。恐怖だ。
「近年、均衡の崩れが加速しています。魔物の凶暴化、瘴気の暴走——すべてはヴェルディア様の力が限界に近づいている証です」
第十二話で見た、あの凶暴化した魔物たち。鎖が外れたように暴れ狂う獣の姿が蘇る。あれは野生の暴走ではなかった。制御の糸が、一本ずつ切れているのだ。
「それなのに、勇者どもは魔王を殺しに来る」
ナージャの声が、静かに凍った。
「殺せば世界が滅ぶとも知らず。いえ——知ろうともせず」
レイドは何も言い返せなかった。一周目の自分が、まさにそうだったからだ。正義を掲げ、使命を信じ、魔王城に攻め入った。その結果、世界は崩壊した。
「……だから俺はここにいる」
ナージャが初めて、まともにレイドの目を見た。
「ヴェルディア様は、あなたを信じると仰いました。何故かは分かりません。勇者を——この世で最も危険な存在を、城に招き入れるなど」
「信じてもらえるように動く。それしか、俺にはできない」
ナージャは鼻を鳴らした。だが、その目には先ほどまでの敵意だけではない、別の感情が浮かんでいた。
「……玉座の下の魔法陣を、昨夜ご覧になりましたか」
「赤く明滅していた。あれは——」
「魔法陣そのものが劣化しているのです。数千年の負荷に、ヴェルディア様の力だけでは支えきれなくなっている」
ナージャは見張り台の手すりから手を離し、小さな背中を風にさらした。
「時間がないのは、あなたも分かっているのでしょう。勇者が来るより先に、均衡が崩れるかもしれない」
北東の瘴気の柱が、また一つ、黒い空に向かって伸びた。
◇
古い図書室は、魔王城の地下三層にあった。
重い扉を押し開けた瞬間、革装丁と古い紙の匂いが鼻を突いた。埃が舞い上がり、天井から吊るされた魔導灯の青白い光の中で、ゆっくりと踊る。
書架が迷宮のように並んでいた。人間の文字もあれば、魔族の文字もある。中には、どの言語にも属さない——地下牢の壁に刻まれていたものと同じ、古い文字体系のものも混じっていた。
「均衡の柱に関する文献は、この区画にあるはずです」
ナージャが書架の一角を指し示した。その口調は相変わらず素っ気ないが、ここまで案内してきたこと自体が、一つの変化だった。
「ヴェルディア様から、閲覧の許可は出ています。ただし——」
「持ち出しは不可、だろう」
「分かっているなら結構です」
ナージャは入口の椅子に腰を下ろし、監視の姿勢を崩さなかった。レイドはそれを背に受けながら、書架に手を伸ばした。
古い文献を一冊ずつ開いていく。魔力循環の理論書、魔王領の地誌、魔族の歴史年表。どれも貴重な資料だが、レイドが探しているのはもっと根源的な記録だった。
三冊目の年代記で、手が止まった。
革表紙は擦り切れ、頁の端は茶色く変色している。だが、その中に挟まれた一枚の羊皮紙だけが、不自然に新しい。いや——魔力による保存処理が施されているのだ。
レイドは慎重に羊皮紙を広げた。文字は古い魔族語で書かれているが、一周目で学んだ断片的な知識が、その意味を拾い上げる。
——世界創生の折、神々は均衡を保つため、五つの柱を大地に打ち込んだ。
五つ。
レイドの指先が、微かに震えた。
——柱は一つにあらず。されど残りし柱は砕かれ、最後の一柱のみが世界を繋ぎ止める。
砕かれた。誰に。何のために。
文は続いていた。色褪せた墨が、薄暗い魔導灯の光の下で辛うじて読み取れる。
——光を掲げし者たちが柱を打ち砕き、その力を我がものとした。残されし最後の柱は、孤独に世界を背負い続ける。
光を掲げし者たち。
レイドの脳裏に、聖教会の聖印が浮かんだ。放射状に広がる光の意匠。中庭で見た、魔族の子供のお守りと同じ紋様。
——あの長老が言っていた。「聖教会が抹消しようとした知識の断片」と。
抹消しようとした理由が、これか。
聖教会は、かつて存在した四つの柱を——四人の魔王を砕き、その力を奪った。そしてその事実を歴史から消し去り、最後に残った一柱を「絶対悪」として信仰の敵に仕立て上げた。
ヴェルディアは、最後の生き残りだったのだ。
羊皮紙を持つ手から、力が抜けそうになった。レイドは歯を食いしばり、文面をもう一度読み返した。
「勇者」
ナージャの声が、背後から低く響いた。
「何を見つけたのです」
レイドは振り返った。魔導灯の光が、手の中の羊皮紙を照らしている。
「……柱は一つじゃなかった」
ナージャの顔色が変わった。
「ヴェルディアは——最後の一柱だ。他の柱は、すべて砕かれている」
沈黙が、埃っぽい図書室の空気を凍りつかせた。ナージャの右手の紋章が、一瞬だけ強く明滅し、そして消えた。
「……ヴェルディア様は、それを」
「知っていたかもしれない。いや——知っていたはずだ」
数千年の孤独。仲間を失い、一人で世界を支え続けた重み。その意味が、今ようやくレイドの中で形を結んだ。
——だからあの目は、あんなにも疲弊していたのか。
レイドは羊皮紙を元の場所に戻し、図書室の入口に向かった。
「どこへ行くのです」
「ヴェルディアに会う。確認しなければならないことがある」
柱は五つあった。四つは砕かれた。残る一つも、限界に近づいている。
——そして砕いたのは、光を掲げし者たち。
聖教会が守ろうとしている「正義」の足元に、何が埋まっているのか。レイドの中で、パズルのピースが繋がり始めていた。だが、その絵はまだ完成には程遠い。
重い扉を押し開ける手が、僅かに震えていた。




