告発の刃と、閉ざせない扉
路地裏の石壁が、夜露に濡れて鈍く光っていた。
エルステッドの裏通りは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。遠くで酔漢の笑い声が聞こえるだけで、この一角には人の気配がない。レイドは壁に背を預け、待っていた。
——来る。
確信があった。フェリクスが目撃した以上、ジークに伝わるまでの時間は半日もかからない。そして利害で動く男は、情報をただ握り潰すような真似はしない。
石畳を踏む足音が近づいた。一人ではない。二つの足音。片方は重く、片方は軽い。
「よう、勇者様」
路地の入口にジークが立っていた。黒い眼帯の下、残った隻眼がレイドを射抜く。その後ろにフェリクスが腕を組んで壁に寄りかかった。
「人を呼び出しておいて、ずいぶん余裕じゃねえか」
「余裕なんかじゃない。話す必要があると判断しただけだ」
「話す必要、ね」
ジークが一歩踏み出した。月明かりが隻眼に冷たく宿る。
「フェリクスから聞いたぜ。お前、魔族の女と密会してたってな。——魔王の使いと、随分親しげに」
レイドは沈黙した。否定しても意味がない。フェリクスは会話の内容まで聞いている。
「で、これをアルヴィンと聖教会に流せば、お前は終わりだ。魔族と通じた反逆の勇者。処刑台行きだな」
「そうだろう」
「認めるのか。あっさりしてんな」
「隠し通せないことに労力を割くつもりはない」
ジークの口元が歪んだ。値踏みするような沈黙が落ちる。夜風が路地を吹き抜け、ジークの黒衣の裾を揺らした。
「——で? 何か言い訳でもあるのか」
「言い訳じゃない。取引だ」
「取引だと?」
レイドは壁から背を離し、ジークと正面から向き合った。
「ジーク。お前は金と名声のために魔王討伐に参加している。違うか」
「ああ、そうだが。それが何だ」
「魔王を殺せば、世界が滅ぶ」
路地裏の空気が凍った。フェリクスが眉を上げ、ジークの隻眼が細くなる。
「——何を言ってる」
「魔王は世界の均衡を支える柱だ。魔力の循環、魔物の制御、古代封印の維持。全てが魔王の存在に依存している。柱を壊せば、世界そのものが崩壊する」
「馬鹿言え。そんな話、聞いたことがねえ」
「当然だ。聖教会が隠蔽している。——だが、お前も気づいているはずだ。最近の魔物の凶暴化。北嶺で暴走した魔物たちは、制御の鎖が外れた状態だった。カイルの証言を思い出せ」
ジークの表情が変わった。嘲りが薄れ、代わりに計算が浮かぶ。レイドはその変化を見逃さなかった。
「世界が滅びたら、報酬も名声も意味がない。金を使う場所がなくなるんだからな」
「……随分と大層な話だな」
「信じなくてもいい。だが、お前は利口だ。嘘か本当か確かめもせずに切り捨てるような男じゃないだろう」
ジークが無精髭の顎を掻いた。フェリクスと視線を交わし、鼻を鳴らす。
「仮に——仮にだ。その話が本当だとして。証拠はあるのか」
「ある。魔王領に行けば見せられる。世界の魔力循環を可視化した模型がある。それを見れば、魔王が何を支えているか一目でわかる」
「魔王領に行け、ときたか。罠かもしれねえだろ」
「お前を罠にかけて、俺に何の得がある」
沈黙。ジークの隻眼が、暗がりの中でレイドを測っている。
「……三日だ」
「三日?」
「三日以内に証拠を見せろ。それまでは黙っててやる。だが期限を過ぎたら——」
「アルヴィンに流す、か」
「へえ、わかってんじゃねえか」
ジークが踵を返した。フェリクスがその後に続く。路地の出口で、ジークが肩越しに振り返った。
「一つ聞いておく。お前、本気でやるつもりか。勇者の使命に逆らって、魔王を守るなんて正気の沙汰じゃねえぞ」
「正気じゃないさ。だが——世界が滅ぶのを黙って見ているよりはましだ」
ジークは何も言わなかった。ただ口の端を僅かに上げて、闇に消えた。
足音が遠ざかる。レイドは壁にもたれ、長く息を吐いた。指先が震えている。握りしめた拳を開くと、爪が掌に食い込んだ跡が赤く残っていた。
三日。たった三日で魔王領への証拠を用意しなければならない。
◇
宿屋の屋根は、夜半を過ぎると急に冷え込んだ。
レイドは煉瓦の屋根に座り、膝の上に広げた東回廊の地図を睨んでいた。星明かりの下、羊皮紙の線が微かに浮かび上がる。北嶺の黒い稜線が、星空を切り裂くように横たわっている。
——三日で魔王領まで往復するのは不可能だ。
通常の行程なら片道五日はかかる。ナージャが教えてくれた隠し通路を使えば短縮できるが、それでも三日は厳しい。しかもパーティーの目を盗んで単独で動かなければならない。
——一人で行くしかない。
リーシャにはまだ全てを話していない。ガレスもミラも、レイドが何を抱えているか知らない。巻き込むわけにはいかなかった。一周目で仲間を信じた結果、全員が死んだ。あの光景が——リーシャの血に染まった銀髪が、ガレスの砕けた盾が——瞼の裏に焼きついている。
「……一人でやるしかないだろ」
呟いた声が、夜風に攫われて消えた。
背後で瓦が軋んだ。
レイドは振り返らなかった。振り返る必要がなかった。足音の軽さ、着地の正確さ。この気配を見間違えるはずがない。
「——ミラ」
「あー、バレてた?」
ミラが屋根の端に腰を下ろした。猫のような瞳が、暗がりの中でも鋭く光っている。
「尾行してたのか」
「尾行って言い方やめてくんない? 心配してるって言ってよ」
「心配?」
「レイドが毎晩どこかに消えてるの、あたしが気づかないとでも思った?」
レイドの背筋が冷えた。フェリクスだけではなかった。ミラもまた、独自にレイドの行動を追っていた。
「ミラ、これは——」
「言い訳はいらないよ」
ミラの声が、いつもの軽さを失っていた。星明かりに照らされた横顔は、どこか傷ついたような色を帯びている。
「あたしはさ、レイドが居場所をくれたから、ここにいるんだよ。半エルフで、どこにも居場所がなかったあたしに、お前が必要だって言ってくれたから」
「……」
「だから、居場所をくれた人を裏切ったりしない。——でも、その人が一人で全部抱え込んで潰れるのを、黙って見てるのも無理」
風が吹いた。地図の端が煽られて、レイドは慌てて押さえた。
「ジークと何話してたかは聞こえなかった。でも、あんたがヤバいことに首突っ込んでるのはわかる。あたしの耳と鼻、舐めないでよね」
「……すまない」
「謝んなくていいから、ちゃんと話してよ。全部じゃなくていい。あたしに何ができるか、それだけ教えて」
レイドはミラを見た。星空を背にした少女の瞳に、嘘はなかった。
——信じたい。だが。
「もう少しだけ待ってくれ。近いうちに、必ず話す」
「……それ、リーシャにも同じこと言った?」
返す言葉がなかった。ミラは立ち上がり、屋根の端に足をかけた。
「三日だけ待つ。それ以上はあたしも無理」
軽い足音が屋根を駆け、ミラの姿が闇に溶けた。
三日。ジークと同じ猶予。偶然の一致が、レイドの胸を締めつけた。
◇
部屋に戻ったのは、月が西に傾いた頃だった。
蝋燭の灯を点け、外套を脱いで椅子に掛ける。地図を机の上に広げ、ペンを取ろうとした瞬間——扉が叩かれた。
控えめな、しかし迷いのないノック。
「……誰だ」
「リーシャです」
レイドの手が止まった。蝋燭の炎が揺れ、壁に影が踊る。
——この時間に。
扉を開けると、リーシャが立っていた。寝間着の上に薄い上着を羽織り、手には何かの紙束を抱えている。碧い瞳がまっすぐにレイドを見上げていた。
「入っても?」
断る選択肢はなかった。レイドが道を開けると、リーシャは静かに部屋に入り、背後で扉を閉めた。錠が落ちる音が、妙に大きく響いた。
リーシャは机の上の地図を一瞥し、持っていた紙束をその横に広げた。見覚えがある。各地で彼女が採取してきた地脈データの集計表。そして——その中心に書き込まれた、赤い円。
魔王領を中心とした、放射状のパターン。
「私の研究データです」
リーシャの声は静かだった。だが、その奥に宿る決意は、蝋燭の炎よりもはるかに強い光を放っていた。
「各地の地脈の乱れは、全て魔王領を起点とする放射状のパターンを描いています。魔物の凶暴化も、土壌の魔素の乱れも、全てが一つの結論を指し示しています」
「リーシャ——」
「魔王の存在が、世界の均衡そのものを支えている。私の研究は、その仮説をほぼ証明しています」
レイドは息を呑んだ。リーシャは——独力で、ここまで辿り着いていた。
「そしてレイドさん。あなたはそれを最初から知っていた」
蝋燭の炎が揺れた。二人の影が壁で重なり、離れる。
「あなたの行動は最初から不自然でした。東回廊を選んだこと。農村で長老の話を聞いた時の反応。ナージャという魔族と接触していること」
一つ一つ、リーシャの指が紙束の上を辿る。そこにはレイドの行動の記録まで書き込まれていた。日付と場所が、正確に。
「全部、話してください」
リーシャが顔を上げた。蝋燭に照らされた瞳が、微かに潤んでいる。だがその声は震えていなかった。
「私の研究と、あなたの行動を突き合わせれば、もう隠し通せないと分かっているはずです」
レイドは口を開きかけ、閉じた。視線を逸らそうとして——逸らせなかった。リーシャの目が、それを許さなかった。
「私はあなたを信じたいんです。だから——嘘をつかないでください」
蝋燭の炎が、二人の間で静かに揺れていた。窓の外では風が止み、エルステッドの夜が息を殺している。
レイドは拳を握った。爪が再び掌に食い込む。
三日。ジークの猶予。ミラの猶予。そして——リーシャは、猶予すら与えてくれなかった。
もう、逃げ場はない。
「——わかった」
声が掠れた。
「全部話す。俺が何を知っていて、何を隠してきたか。——お前には、聞く権利がある」
リーシャの唇が微かに震えた。だが彼女は頷き、椅子を引いて座った。
レイドは深く息を吸った。肺の奥まで夜気を吸い込み、ゆっくりと吐く。
この言葉を口にすれば、もう戻れない。一人で全てを背負うという誓いが、ここで砕ける。
——いや。砕けるんじゃない。自分で壊すんだ。
「リーシャ。俺は——」
蝋燭の炎が一度大きく揺れ、二人の影を壁に深く刻んだ。
「——死に戻りをしている。一度、世界の終わりを見た」




