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勇者だった俺は死に戻りして知った――魔王を殺せば世界が滅ぶので、今度は勇者を止めることにした  作者: ぽんぽこライフ


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英雄の仮面、真理の欠片

 テントの帆布が朝風に揺れた。北嶺の稜線を越えて吹き降ろす風には、まだ凍てついた岩の匂いが混じっている。


 レイドは一睡もできなかった。


 カイルの言葉が、頭の中で繰り返されていた。——鎖が外れた。あの表現は、一周目の崩壊の前兆と寸分違わない。ヴェルディアの衰弱は想定よりも速い。時間の猶予が、砂のように指の間からこぼれ落ちている。


 テントの外に出ると、ガレスが焚き火の傍で木の椀を差し出してきた。


「よう、寝てねえだろ。顔が死んでるぜ」


「少し考え事をしていた」


「考え事なあ。お前さん、最近そればっかりだ」


 ガレスは湯気の立つ椀を押しつけた。干し肉の脂が浮いた薄い汁。レイドはそれを受け取り、一口だけ啜った。


 カイルたちの負傷者を伴い、一行がエルステッドの街門をくぐったのは昼過ぎだった。


 門兵が目を見開いた。北嶺の異変は既に伝わっていたらしく、街の住民たちが次々と通りに出てくる。


「勇者パーティーが帰ってきたぞ!」


「カイルの隊が全員生きてる! あの魔物の群れの中から救い出したのか!」


 拍手が広がった。歓声が石畳に反響し、宿屋の窓から身を乗り出す者までいる。


 レイドは歩きながら軽く頭を下げた。一周目ならば素直に嬉しかったであろう喝采が、今は背中に重い。


 ——これは計算の結果だ。


 カイルを助けたのは打算だった。一周目で壊滅した勇者Bパーティーが残れば、後々の局面で使える。恩義は貨幣よりも確実な通貨だ。だが同時に、テントの中で見たカイルの涙は——あの震える声は、計算の外にあった。


「レイド、すごいですね。こんなに感謝されて」


 リーシャが隣で小さく微笑んでいた。レイドは視線を前に戻す。


「たまたまだ。近くにいただけで」


「たまたま北嶺に駆けつけて、たまたま壊滅寸前のパーティーを救った、と?」


 リーシャの声には微かな棘があった。レイドはそれ以上答えなかった。


 群衆の向こうに、一つだけ拍手をしていない影があった。


 ジーク・ヴァンガード。壁に背を預け、腕を組んでいる。眼帯のない方の目が、品定めするようにレイドを見据えていた。その隣に、フェリクスが猫のように目を細めて立っている。


「ご大層な凱旋じゃねえか」


 ジークの声は、喧噪の中でもよく通った。


「敵パーティーを助けるたあ、聖人様もびっくりだろ」


「敵じゃない。同じ勇者だ」


「ああ、そうだったな。同じ勇者だ」


 ジークの唇が歪んだ。皮肉の形をした笑みだった。


「だが、同じ勇者なら——なぜお前がカイルの居場所を知ってた? 救援要請が出る前に動いてただろ」


 レイドの足が一瞬止まった。すぐに歩き出す。


「偵察班のミラが魔物の異常移動を察知した。推測だよ」


「推測ね。大した推測力だ」


 ジークの目が細まった。フェリクスが何事か耳打ちする。ジークは小さく頷いた。


 ——やはり、あの二人は俺を嗅ぎ回っている。


 レイドは群衆に手を振りながら、背筋を走る冷たいものを無視した。



  ◇



 宿屋の二階。リーシャが私室として借りた小部屋は、既に仮設の研究室と化していた。


 机の上に地脈の観測図が広げられ、その周囲をインク壺と羊皮紙の束が囲んでいる。本棚代わりの木箱には、学院から持ち出した論文の写しが無造作に詰め込まれていた。


 リーシャは椅子に腰を下ろし、羽ペンの先を唇に当てた。インクの微かな鉄の匂いが鼻をくすぐる。


 東回廊の農村で採取した土壌サンプル。エルフヘイムの長老から聞いた古い言い伝え。北嶺の魔物暴走のタイミング。そして学院の禁書庫で読んだ、あの異端の論文。


 すべてが一つの仮説を指し示していた。


「放射状パターン……」


 地脈図の上に、透かし紙を重ねた。各地の魔素濃度の変動を時系列で記録したものだ。点と点を線で結ぶと、すべての変動が一つの中心点から広がっている。


 西。魔王領の方角。


 リーシャの指が震えた。


 魔力の循環が、魔王領を起点として大陸全体に広がっている。そしてその循環が乱れ始めたのは——勇者が出現し、魔王討伐の気運が高まり始めた時期と一致する。


「……まさか」


 椅子が軋んだ。リーシャは立ち上がり、部屋を歩き回った。


 もし魔王がこの循環の要であるならば。もしその存在が失われれば——


 聖教会の教義が脳裏をよぎった。魔王は絶対悪。世界に災いをもたらす存在。勇者は聖戦士であり、魔王を滅ぼすことこそが世界の救済。


 それが——嘘だとしたら?


 扉を叩く音がした。リーシャは反射的に透かし紙を裏返した。


「入って」


 レイドが静かに部屋に入ってきた。机の上に散乱する資料を一瞥し、リーシャの顔を見た。


「研究の調子は」


「順調ですよ。魔素の変動パターンに面白い傾向が見えてきました」


「どんな?」


 リーシャは一拍置いた。レイドの目を見つめる。灰色の瞳の奥に、探るような光があった。


「地脈の変動が、ある一点を中心に放射状に広がっています。その中心は——西です」


 レイドの表情は変わらなかった。しかし、喉仏が一度上下した。リーシャはそれを見逃さなかった。


「レイド。あなた、知っていますね」


「何をだ」


「この変動が何を意味するのか。私の研究が何に辿り着こうとしているのか」


 沈黙が降りた。窓の外で、街路の喧噪が遠く聞こえる。


 レイドは目を逸らした。窓枠に手をかけ、外を見る振りをした。


「リーシャ。その研究は——」


「危険だから止めろ、と?」


「……慎重に進めた方がいい、と言おうとした」


「同じことでしょう?」


 リーシャの声が硬くなった。羽ペンを机に置く音が、静かな部屋に響いた。


「あなたはいつもそう。半分だけ教えて、残り半分を隠す。東回廊を選んだ理由も、カイルの救出に即断した理由も、深夜に一人で出歩く理由も——全部」


 レイドは振り返らなかった。窓枠を掴む指の関節が白くなっていた。


「……もう少しだけ待ってくれ」


「いつまで?」


 返事はなかった。レイドは背を向けたまま、部屋を出ていった。


 一人残されたリーシャは、裏返した透かし紙をもう一度表にした。放射状のパターンが、燭台の光に浮かび上がる。


 ——この先にある答えは、きっとレイドが隠しているものと同じだ。


 リーシャは唇を噛んだ。信じたい。彼を信じたい。だが、信じるための材料を、彼は渡してくれない。


 ペンを取り直した。手が震えていたが、構わず書き続けた。



  ◇



 深夜。エルステッド郊外の森は、月明かりに白く染まっていた。


 レイドは街門を抜け、獣道を辿って森の奥に入った。枯れ枝を踏む音が乾いた空気に響く。梟の声が遠くで二度鳴った。


 指定された大樫の根元に着くと、闇の中から小さな影が滲み出た。


「遅い」


 ナージャの声だった。月光に照らされた銀色の髪と、尖った耳。人間の子供ほどの背丈だが、赤い瞳には数千年の歳月が宿っている。


「尾行がないか確認していた」


「ふん。その割に雑だな、勇者」


 ナージャの口調は前回と同じく棘だらけだったが、前回ほどの殺気はなかった。


「用件を聞こう」


「ヴェルディア様の衰弱が加速している」


 レイドの拳が握りしめられた。


「加速? 前に会った時から一月も経っていない」


「一月どころか、日を追うごとにだ。結界の維持に使う魔力が増え続けている。魔物の暴走を抑える力も落ちている」


 ナージャの声から棘が消えた。代わりに、押し殺した震えがあった。


「あの方は何も仰らない。だが、食事を残すようになった。眠れない夜が増えた。千年以上仕えてきた私にはわかる。——あの方は、限界が近い」


 梟が鳴いた。風が樫の葉を揺らし、月明かりが木漏れ日のように地面を斑に染めた。


「どのくらい持つ」


「わからない。だが——半年は保たないかもしれない」


 レイドは歯を食いしばった。一周目では、ヴェルディアの限界はもう少し先だった。何かが変わっている。二周目で自分が動いたことで、何かの均衡がさらに崩れたのか。


「それを伝えに来たのか」


「それだけではない」


 ナージャが一歩近づいた。赤い瞳がレイドを見上げる。


「ヴェルディア様が——お前に会いたいと仰っている。早く来い、勇者。あの方を待たせるな」


「行く。必ず行く。だが今は——」


「事情は知っている。人間どもの目があるのだろう。だが時間はない。わかっているな」


 レイドは頷いた。ナージャは踵を返し、闇に溶けるように歩き出す。


「ナージャ」


 小さな影が止まった。


「ヴェルディアに伝えてくれ。——独りにはしない、と」


 ナージャは振り返らなかった。だが、微かに足が止まった。


「……伝える」


 それだけ言って、影は森の闇に消えた。


 レイドは息を吐いた。肩の力を抜こうとして——背後の茂みで、枝が鳴った。


 風ではない。


 剣の柄に手をかけ、振り返った。月明かりが木々の隙間を白く切り取る。その光の中に——人影があった。


 木の幹に肩を預け、腕を組んでいる。薄い笑みを浮かべた、見覚えのある顔。


「へえ、まさか」


 フェリクス・オーウェンが、ゆっくりと影から歩み出た。


「勇者様が魔族と密会とはね。ジークに報告したら、さぞ面白がるだろうな」


 レイドの血が凍った。


 フェリクスの目は笑っていた。だがその笑みの奥にあるのは、愉悦ではなく——値踏みだった。


「さて、どう言い訳する? 聞いてやるよ、勇者様」


 森の静寂が、二人の間に横たわった。梟はもう鳴いていなかった。

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