終焉の記憶、始まりの朝
空が、割れた。
赤黒い亀裂が天蓋を走り、その裂け目から噴き出す瘴気が魔王城の玉座の間を満たしていく。足元の石畳が波打ち、世界そのものが悲鳴を上げるような低周波の振動が、レイドの骨を震わせた。
——なんだ、これは。
魔王ヴェルディアは倒した。聖剣がその胸を貫いた瞬間、確かに歓声が上がったはずだ。アルヴィンが高らかに勝利を宣言し、セレナが神への感謝を捧げ、仲間たちが抱き合った。
なのに。
玉座の下から、巨大な魔法陣が浮かび上がっていた。青白い光の紋様が脈動するように明滅し、床を透かしてどこまでも深く、世界の底まで続いているように見えた。
「おい、何が——」
レイドの声は、崩落する天井の轟音にかき消された。瓦礫が降り注ぐ。咄嗟に横に跳んだが、右肩を砕けた柱の破片が掠めた。鎧の隙間から、熱い痛みが走る。
振り返ると、リーシャが倒れていた。
「リーシャ!」
駆け寄る足元が裂けた。大地そのものが口を開くように亀裂が広がり、ガレスの巨体が闇の中へ飲み込まれていく。伸ばした手は届かなかった。
「ガレス——!」
叫びは虚空に吸い込まれた。ミラの姿はもう見えない。瘴気の向こうで、誰かが咳き込む音だけが聞こえた。
世界が死んでいく。
魔王を倒したのに。倒したから、こうなったのか。
「——裏切り者めッ!」
背後からの声に振り向く間もなかった。アルヴィンの聖剣が、異常な金色の光を纏って突き出される。胸を貫かれた、と理解した時にはもう遅い。口の中に鉄の味が広がった。
「貴様が……貴様が何かしたのであろう!」
アルヴィンの碧眼が、狂気に染まっていた。崩壊する世界の中で、勇者は勇者を殺した。
視界が暗転する。最後に見えたのは、割れた空の向こうに広がる虚無だった。
◇
頬に当たる粗い布の感触で、意識が浮上した。
シーツだ。使い古された麻のシーツ。肌に馴染んだ手触りが、記憶の底から何かを引きずり出す。
レイドは目を開けた。
木の天井。見覚えのある梁の節目。窓から差し込む朝日が、埃の粒子を金色に照らしている。干し草と朝露が混じった匂いが鼻腔をくすぐった。
——知っている。この部屋を。
身体を起こそうとして、全身が強張っていることに気づいた。指先が震えている。心臓が肋骨を叩くように脈打っていた。呼吸が浅い。胸に手を当てた。傷はなかった。アルヴィンの聖剣に貫かれたはずの胸に、傷跡すらない。
夢か。
いや、違う。あの痛みは夢じゃない。肺を剣が突き抜ける感覚も、口の中に溢れた血の味も、崩壊する空の色も——全部、本物だった。
レイドは自分の頬を叩いた。乾いた音が静かな部屋に響く。痛い。ちゃんと痛い。
「……ここは」
窓辺に立った。外に広がるのは、アッシュベリー村の朝だった。
石造りの家々が朝靄の中に佇んでいる。畑で働く農夫の影。井戸端で桶を汲む女。鍛冶屋の煙突から立ち昇る白い煙。何もかもが——滅んだはずの、この村が、そこにあった。
壁に掛けられた暦に目をやる。手が震えた。
勇者認定式の、三日前。
二年前だ。全てが始まる前の、二年前。
膝から力が抜けて、ベッドの縁に座り込んだ。両手で顔を覆う。指の隙間から荒い息が漏れた。
——死に戻った。
その言葉が、頭の中で何度も反響した。理屈は分からない。なぜ自分が。どうやって。だが事実として、レイド・アシュフォードは二年前のこの日に戻っていた。
あの崩壊を知っている。仲間の死を知っている。魔王を殺せば世界が滅ぶという、誰も知らない真実を。
◇
村道に出ると、朝日が目を射た。
見慣れたはずの景色が、やけに鮮明に映る。パン屋の窓から漂う焼きたての匂い。鍛冶屋の槌が鉄を打つ、腹の底に響く重い音。すれ違う村人たちが「おはよう、レイド」と声をかけてくる。
一人一人の顔を、レイドは食い入るように見つめた。
この人は崩壊の時、瓦礫の下に消えた。この人は瘴気に巻かれて倒れた。この人は——
「——勇者様!」
弾けるような声が背後から飛んできた。振り向くと、十二、三歳の少年が全力で駆けてくる。栗色の髪を風になびかせ、満面の笑みを浮かべた少年。
ルカ。
レイドの喉が詰まった。この少年が崩壊の中で消えていく姿が、一瞬、目の前の笑顔に重なった。地面が裂け、闇に呑まれていく小さな身体。伸ばしても届かなかった手。
「レイドさん、おはようございます! 今日も鍛錬ですか?」
ルカが目を輝かせて見上げてくる。生きている。ちゃんと、ここにいる。
「……ああ」
声が掠れた。レイドは咳払いをして、努めて平静を装った。
「ああ、そうだ。鍛錬だ」
「やっぱり! 僕も見学していいですか? いつか僕も勇者になるんです!」
その言葉が、胸に刺さった。勇者に。この少年は、勇者に憧れている。魔王を倒し、世界を救う英雄に。
——勇者になんか、ならないほうがいい。
喉元まで出かかった言葉を、レイドは飲み込んだ。代わりに、ルカの頭にぽんと手を置いた。
「……ルカ。最近、村で変わったことはないか」
「変わったこと?」ルカが首を傾げる。「うーん……あ、そういえば裏山の泉が少し濁ってきたって、おじいちゃんが言ってました。珍しいなって」
レイドの指先が、わずかに強張った。泉の濁り。それが何を意味するのか、今の自分には分かる。魔力の循環に異変が起きている兆候だ。魔王がまだ健在なこの時点で、既に——。
「そうか。気をつけろよ」
「はーい!」
駆け去っていくルカの背中を、レイドはしばらく見つめていた。朝日に照らされた小さな影が、角を曲がって消える。
拳を握った。爪が掌に食い込んだが、痛みなど感じなかった。
◇
夜。
蝋燭の炎が揺れている。窓から忍び込む夜風が冷たく、レイドの頬を撫でた。
机の上に、一周目の記憶を書き出した紙が広がっている。勇者認定式の日程。パーティー結成の経緯。各地で起きた事件の時系列。魔王城への道程。そして——仲間たちの最期。
ペンを置いた。指先がインクで汚れている。二年分の記憶を絞り出すように書き連ねた手が、小刻みに震えていた。
——魔王を殺してはいけない。
それが真実だ。魔王ヴェルディアは世界の『柱』だった。均衡を保つ存在を破壊すれば、世界そのものが崩壊する。一周目で、身をもって思い知った。
だが、それを誰が信じる。
アルヴィンは信じなかった。あの正義の塊のような男は、魔王を絶対悪と信じて疑わなかった。レイドの言葉を「裏切り」と断じ、聖剣を突き立てた。
——馬鹿か、俺は。
一周目では遅すぎた。全てを知った時にはもう、魔王は倒された後だった。止める術もなく、ただ崩壊を見届けるしかなかった。
今度は違う。三日後の勇者認定式。そこから全てが始まる。
レイドは蝋燭の炎を見つめた。オレンジ色の光が手の甲を照らしている。この手はまだ剣ダコすら薄い。二年間の旅で鍛え上げた技術も、この身体には刻まれていない。記憶だけが武器だ。
立ち上がり、窓際に歩み寄った。夜空には星が瞬いている。あの空が割れる光景を、レイドは知っている。
——今度は止める。魔王を殺させない。
勇者が魔王を守る。世界中を敵に回してでも。
アルヴィンを。ジークを。聖教会を。全ての勇者を止めなければならない。
壁に立てかけた鏡が、蝋燭の光を反射した。ふと目をやると、そこに映った自分の顔があった。
若い。当然だ。二十歳の、まだ何も知らない顔。旅の疲労も、戦いの傷跡も、仲間を失った苦悶も——何一つ刻まれていない滑らかな頬。
「……老けたな」
呟いてから、レイドは薄く笑った。矛盾している。この顔は若いのに、瞳の奥だけが妙に疲れている。二年分の記憶が、肉体には刻まれていない。
この身体は、まだ何も知らない。
だが、俺は知っている。
蝋燭の炎が一度大きく揺れて、レイドの影を壁に長く伸ばした。その影は、二十歳の青年にしてはひどく重たく見えた。




