第7話
うつらうつらと船を漕いでいたレオンハルトの頭は、本格的に寝入りそうになって大きく揺れたところで覚醒した。
レオンハルトは頭を振り、眠気を飛ばす。
「レオンハルトは寝てもいいんですよ。私に付き合う必要はありません」
深夜というのに部屋は明るく、クラリスの様子は元気そのものである。
各地を飛び回っていたクラリスは、ようやくディモンの屋敷に戻ってきた。
間借りしている一室に広がるのは、採取してきた聖光花と天使の羽、そして聖獣の涙である。
これを採取するのにどれほど無理をしたか。クラリスの下手くそな転移魔法で迷子になりながら、ようやくたどり着いた目的地でも無茶をするクラリスに振り回されながら、レオンハルトの疲労もそろそろ限界だった。
しかし護衛騎士がクラリスを置いて眠るわけにはいかない。クラリスの強さは理解しているが、それでもレオンハルトは自身の役割を放棄したくはなかった。
「いいえ、大丈夫です。それより、調合を開始されますか? 私は退室しましょうか」
「大丈夫ですよ、居てください。レオンハルトの存在は調合には問題ありませんから」
にこやかに告げたクラリスは、「おそらく殿下とルーちゃんが霊石をどうにか探ってくれていますし、私たちは白骨化の呪いを解きましょうね!」と続けて、ぐっと拳を握りしめた。
クラリスはさっそく、聖光花から蜜を抜き、花弁を潰す。その蜜を聖獣の涙に溶かすと、天使の羽をすべてその中に浸した。
「私は呪いに詳しくありませんから、知識のあるレオンハルトが居てくれて助かりました。おかげでみなを救えます」
「いえ、私は何も……私の知識がお役に立てたなら、良かった」
あまりの眠気に、返事も曖昧だ。しかしクラリスはそんなレオンハルトを見て、そっと言葉を止める。
しばらくすると、クラリスが調合している隣に、レオンハルトの大きな体がどさりと倒れ込んだ。
「無理をしていたんですね」
普段は強面のレオンハルトも、寝顔ばかりはどこかあどけない。
眠りは深いようだ。頬をつついてみても、起きる気配はなかった。
調合を進めていると、部屋の扉がノックされた。夜と朝の境界のような時間帯のことだった。
「おはようございます、聖女様」
「まあ、ディモン代官、おはようございます。お早い起床ですね」
そんな時間というのに元気なクラリスが、ディモンには少し不思議である。
しかしおずおずと部屋に入ると、ディモンはすぐにクラリスと向かい合うように座った。
「聖女様、この呪いは解けるのでしょうか。あと、アナスタシア様のことも心配で……もしも両方どうにかなるなら、グラディス伯爵様に早くにお伝えしたいのです。グラディス伯爵は殿下や聖女様が今回の件で動いてくださっていることも知らず、いまだにこの事態をどうするかと頭を悩ませております」
「まあ、そうだったのですか! ではすぐに伝えに行ってくださいな。アナスタシア様も見つかりますよ」
「そうですか。では私は少しこの地を離れますが……」
「ああ、お待ちください。その手で行かれては、伯爵様も驚かれます」
クラリスはディモンの手を取ると、そこに一滴、雫を垂らした。すると白骨化した手が光り輝き、次には元どおりの手が現れる。
「これは……すごい。さすが聖女様……」
「ふふ、まあ乙女の祈りも入っておりますが、おおよそは霊薬のおかげですよ」
ディモンは目を丸くしたまま、いくつものバケツに入った霊薬に視線を移す。
「もしや、それらはすべて……」
「そうです。領民みなさんの分です」
「ああ、ああ……ありがとうございます。ありがとうございます。聖女様にお願いして良かった。あなたが居てくださって良かった」
「民のための聖女ですから。ほら、早く伯爵様へご報告に行かれてください。こちらは任せてくださいな」
ディモンは涙を流しながら何度も頷き、部屋を出て行った。
調合を始めて数時間。ようやくすべての霊薬が完成した。
陽はすでに高い。そこで久しぶりに眠気を覚えたクラリスは、自身に回復魔法をかけて、持参したエナジードリンク(仮)をひと瓶飲み干す。
「よしっ。ここからが本番です」
クラリスが気合を入れるのと、レオンハルトが目覚めるのは同時だった。
薄目を開けたレオンハルトは、陽が高く上っているのを理解すると、勢いよく起き上がる。そして慌ててクラリスを見た。クラリスはいつものように「あら、おはようございます」と笑っている。
「……私は、寝ていましたか」
「はい。疲れていたのでしょう。まだ眠たい顔をしていますよ、寝ていてください」
「クラリス様は、寝ましたか?」
「いいえ? ちょうど調合を終えたところです。見てください、領民のみなさんの分が完成しました!」
クラリスが調合している隣で眠ってしまったのかと、レオンハルトは密かに深いショックを受ける。
しかしクラリスは気付かないふりをして立ち上がった。
「さあ、さっそくこれをみなさんに使っていきましょう!」
「お待ちください! 一旦休まれてください。あなたが倒れては、ヴァレク殿下も私も心配いたします」
まるで縋るように、レオンハルはクラリスの手を強く掴んだ。
「……領民の方は、今も不安の中過ごしています。自分の体がわけも分からず白骨化する恐怖はどれほどでしょうか」
「それも分かりますが……私は、この呪われた身で、今回クラリス様のことを何も手伝えませんでした。この手では聖光花は枯れてしまう、天使様には嫌われていて隠れることしかできず、聖獣の確保も、聖獣が私を見て激昂するために手出しできませんでした。……だからこそ、無茶されたクラリス様を心配しているんです。私の気持ちも分かっていただけませんか」
「レオンハルトは霊薬の知識を教えてくれました」
「そんなことしか出来ていません」
レオンハルトには珍しく、泣きそうな顔をしていた。一瞬ためらったクラリスだったが、レオンハルトの手をそっと退ける。
「これが私の仕事なんです」
「違います。あなたは強迫観念からその行動をとっています。今はみなクラリス様を認めていますよ。そんなに頑張らなくても、誰もがあなたを愛しています。だから少し休みましょう」
「いいえ」
クラリスはやや震える声で、それでも強く言葉を返した。
「私がやりたいんです。早く救いたいんです。救わないと」
「クラリス様……!」
「レオンハルトは休んでいてください。私は行きますね」
霊薬がいっぱいに入ったバケツを、クラリスが持ち上げようと腰を落とす。しかしすぐに、レオンハルトがそれを止めた。
「……バケツなら私が触れても大丈夫でしょう。クラリス様は指示だけください。準備はいたします」
クラリスが言うことを聞かないと諦めたようだったが、レオンハルトの表情は渋い。納得はしていないのだろう。クラリスはそんなレオンハルトを少しばかり見上げていたが、すぐに「こちらにお願いします」と軽やかに部屋を出た。
昼前にはすでに、ディモンの屋敷の前には多くの救いを求める領民が押し寄せていた。
誰も居なかったノールウェンに人が溢れ、白骨化が治った者たちからは歓喜の声が上がる。深い感謝を告げられるたび、泣いて喜ばれるたびに、クラリスは嬉しそうに笑っていた。
夜になってもその列は途切れなかった。途中、レオンハルトが休憩を挟もうと進言したのだが、クラリスは頑としてその場を動こうとしなかった。
クラリスもそろそろ限界のはずだ。
無理をし初めて、おおよそ一週間が経つ。おそらく寝てもいない。レオンハルトはハラハラと見守っているのだが、クラリスが元気そうに振る舞うために、どれほどその元気を信じられるのかも分からず、疑心暗鬼になっていた。
「クラリス様、お水を」
「ありがとう」
人の列が途切れたと思えば、また続く。
レオンハルトが出来ることと言えば、タイミング良く水を差し出す程度である。
果たして、どれほどその列が続いたのか。
気がつけば夜は明け、朝が来ていた。そのタイミングで、ディモンが帰還したようだ。自身の屋敷に領民が集まっていることに驚きながら、対応しているクラリスを見てさらに驚いた表情を浮かべる。
「聖女様! いつから対応しているのですか! 休まれましたか!?」
「もっと言ってくださいディモン代官……私がどれほど言っても聞かないのです」
「伯爵様はどうでしたか?」
領民の対応をしながら、クラリスはにこやかにディモンに問いかける。
いつもの様子と変わらない。疲れなど微塵も見せない、完璧な笑顔だった。
「え、あ……はい、大変喜ばれておりました。グラディス伯爵自ら、みなさまにお礼をしたく、後日このノールウェンを訪れると……」
「まあそうでしたか! 喜ばれているならいるなら安心しました」
「いえ、それよりも……みなさん、すみませんが聖女様を休ませてあげてください。聖女様はもう何日も寝ずに頑張ってくださっているのです」
ディモンの切実な言葉に、集まっていた領民が困惑を広げていく。みな不安そうな顔だ。
広がった波紋を遮るように、どこかで誰かが「どうして」と呟いた。
それを皮切りに、そこかしこから不満の声が上がる。
「……目の前に治る薬があるのに、治してもらえないってことですか?」
「どうして? 聖女様はご自身のことを優先されるんですか」
「私たちはアステル大聖堂にも寄付しています! 治してもらう権利はありますよね!」
領民の主張に対しディモンは丁寧に説明をおこなったが、聞く耳を持つ者は居ない。
不満、不安、焦燥、苛立ち。すべてがないまぜにされた感情の塊が、すべてクラリスに向けられていた。
クラリスの指先が自然と震える。何かを言わなければと思うのに声が出ず、微かに唇を開けては閉めてと繰り返すばかりである。
「クラリス様、違います。彼らはクラリス様を責めているわけではありませんから」
真っ青なクラリスを見て、レオンハルトが小さく告げる。
クラリスは微かに首を振った。
「ほら、やらないと。だから言ったじゃない。私はやれます、やれるの。やらないといけない」
「クラリス様っ……!」
「みなさん! 安心してください! きちんと治します! 早く元の生活に戻りましょう!」
クラリスの言葉が、やけに大きくその場を制した。
一気にシンと静まり返る。しかし次には、「さすが聖女様!」と、賛辞の声が飛び交った。
クラリスはそれからも、訪れる領民の対応を続けた。ディモンも何度も止めたが聞かず、レオンハルトの言葉も届かなかった。
そんな状態が、ふた晩続いたときだった。
ビシ! と、ディモンの屋敷の中から強烈な音が響いた。それこそ、外に居るクラリスたちに聞こえるほどの音である。
夜も深い。だからこそ、そんな音が聞こえるわけがない。
領民も驚いたように動きを止める。
「レオンハルト……今の音」
「はい。見て参ります」
「私も行きます」
レオンハルトとディモンが警戒して、中の様子を見に入る。クラリスは領民の治療を続けた。
二人が屋敷に戻った瞬間、ドゴン! と、今度は強烈な破壊音が聞こえた。
外に居たクラリスと領民は、その音と共に天井を突き抜けるほどの光を見た。その一閃は空に伸び、すぐに消える。
「今の音は……こちらからですね」
レオンハルトは音を辿り、足を速める。音はどうやら、霊石を置いてある応接室のようだ。
ディモンよりも早く応接室に着いたレオンハルトは、急く気持ちのまま乱暴に応接室を開けた。
そこには。
「お、レオンハルト。無事だったか」
「ヴァレク殿下!? 聖女フィリスも……なぜそのような怪我を……」
「いろいろあったのよ」
消えていたはずのヴァレクと、なぜか血を流しているルーシン、そして全身に怪我を負った意識のない少女が倒れていた。
いったい何が起きたというのか。霊石が置かれていたテーブルは真っ二つに割れ、応接室の天井も破壊されて夜空が見える。割れたテーブルの真ん中にあるのは、砕けた霊石だった。
綺麗に整えられていた応接室が、今は見る影もない。
「アナスタシア様!」
遅れてやってきたディモンが、意識をなくした少女に駆け寄った。ルーシンよろしく、アナスタシアもボロボロである。
しかし感慨にふける暇もない。ヴァレクはレオンハルトを連れて、応接室から飛び出した。
「クラリスは無事か」
「無事ではありません。もう一週間と少しは寝ていません。どれだけ言っても聞かないんです……!」
「一週間と少し……? クソ、異空間とは時の流れが違ったのか」
レオンハルトの案内で、ヴァレクは早足で屋敷の外に出たのだが。
「騎士様! 来てください、聖女様が……!」
ざわめく領民が集っている。その真ん中で、クラリスが倒れていた。