第1話
*
「きゃああ! おやめください! 聖女様! アルブレヒト様!」
甲高い声が聞こえた。女の声だった。
鼓膜に突き刺すようなそれに引っ張られ、ヴァレクは勢いよく目を開けた。
目の前には、拳を振り上げたルーシンと、巨大な銃を振り上げて銃床をヴァレクに向け、今にも襲い掛からんとするレオンハルトが迫っている。
「う、わ! なんだお前ら!」
思わず飛び起きたヴァレクは、殴られないようにと壁際に後ずさる。
そこで部屋の様子に気付いた。どうやらここは、ヴァレクがかつて剣の稽古でよく訪れていた、王宮内の医務室らしい。
「起きた! レオンハルト! 起きたわ!」
「はい! 殿下大変です!」
「お前らの今の状態より緊急事態か……?」
「緊急事態だから私たちはこうなっています」
ヴァレクの起床に、ルーシンとレオンハルトはようやく落ち着いたのか、体から力を抜いた。
しかしヴァレクはまだ落ち着かない。まさか起き抜けに殴られそうになっているなど、立場上これまでにもあり得なかったことである。
「……待て、クラリスはどうなった。あいつはどこに……!」
この場にクラリスが居ない。
気付いたヴァレクはすぐに立ち上がり、ベッドそばにある大剣を持とうと手を伸ばす。
しかしその手は、虚しくも空を裂いた。
「……なぜ剣がない……? いや、待て、俺は確か……」
さらわれたクラリスを、彼女にかけた追跡魔法を辿って救いに行ったはずだ。
たどり着いたのは洞窟で、そこにクラリスと、サズィラという人物が居た。男はクラリスを食い、ルーシンとレオンハルトに致命傷を与え、二人は血に濡れて倒れていた。
そこまで思い出し、ヴァレクは二人に目を向ける。
二人はどうやら元気なようだ。おそらくアストラかエリアスが治癒魔法を使ったのだろう。
(そうだ、クラリスは食われたが、確かに生きていた。途中であの男を引き裂いたあとに光から現れて……)
それから、転移魔法を展開したとき、ヴァレクに向けて何かが飛んで――。
「殿下、ご気分が悪いですか?」
ヴァレクが自身の左目に触れたのを見て、レオンハルトが膝をつき目線を合わせ、心配そうにヴァレクに問いかける。
「いや……俺は、生きてんのか」
「……生きております。これより先は、クラリス様も混えて会話をいたしましょう」
「あら! ヴァレク様、目を覚まされたのですね!」
ガチャリと、陽気に部屋に入ってきたのはクラリスだった。
引きつった様子のヴァレクを気にすることなく、クラリスはヴァレクのそばに駆ける。本来であればその態度は無礼となるが、その場にいる看護役たちはヴァレクとクラリスの関係を理解しているために咎めることもなく、微笑ましく見守っていた。
「クラリス……髪はどうした。肌と瞳の色も……」
「あらあら? 記憶障害でしょうか? それとも単に戦いの途中だったので記憶に薄かったのでしょうか」
「どっちもじゃない? というかあんた、アストラ司教は?」
「ふふ。『騙された』とか『本当の魔族はクラリスだ』とか言いながら、応接室で倒れていますよ」
「……本気でやったのね……」
「いやですねぇルーちゃん。私は有言不実行などしませんよ」
ルーシンだけでなく、こればかりはレオンハルトもアストラに同情するように目を逸らした。状況についていけないのはヴァレクだけのようだ。
ヴァレクにはクラリスたちが何を言っているのかは分からなかったが、ひとまずヴァレクは、医務室にあるテーブルで話そうかと一度立ち上がる。
しかし。
「レオンハルト、私たちは外しましょ」
「そうですね。……殿下、私たちは医務室のすぐ外におりますから、中の人払いもなさってください」
ルーシンとレオンハルトは訳知り顔で、ヴァレクの返事を待つことなく外に出た。
どうしてそこまでするのかと、ヴァレクは伺うようにクラリスを見たが、クラリスもレオンハルトの意見に賛成だったのか「そうですね、そうしましょう」と明るく笑う。
「……北の聖女やレオンハルトは居ても良いんじゃないのか」
「気を遣ってくださったのでしょう。……ここからの話は、ヴァレク様にとって少し厳しいものになります。だからこそ、人払いも必要です」
クラリスはベッドサイドの椅子に腰掛けながら、ちらりと働く看護役を見回す。
ヴァレクにはクラリスの言っている意味は分からなかったが、あまりにも状況の理解が追いついていないため、ここは大人しく従うべきかと、一旦医務室の全員に出ていくようにと合図を出した。
「……これでいいか」
部屋はすぐに音をなくす。広い一室には、クラリスとヴァレクの二人だけである。
ヴァレクはクラリスの様子を窺いながらも、クラリスの近くに椅子を持ってこようとしたのだが。
「ヴァレク様はまだ本調子ではありませんから、どうぞ横になってください」
「いや、そんな情けない姿は、」
「横になってください。でもなければ情報を渡しません」
椅子を取りに向かっていたヴァレクは動きを止め、クラリスを探るようにじっと見ていた。
クラリスは頑固だ。一度決めたことは貫き通す。柔和な雰囲気から冗談かとも思えるが、それが冗談であったことなど一度もない。
少しばかり考えていたヴァレクは、分かったと返事をする代わりに深いため息を吐き出した。
仕方なくベッドに戻る。クラリスだけが満足そうだった。
「……先に状況を説明してくれ。あの男はどうなった? クラリスをさらった……」
「ああ、かつての『サズィラ』様ですね」
「そんな名前だったか」
上体を起こしているヴァレクは、どこか引っ掛かりを覚えているかのような表情で頭を抱えていた。
なぜか記憶がおぼろげだ。男との対峙からそんなに時間は経っていないと思うのだが、自身の身に何が起きたのかもぼんやりとしか思い出せない。
「あの方なら、今は頭部修復のために無防備な状態なので、王宮の片隅に匿っていますよ」
「……なんだと?」
勢いよく立ち上がろうと動いたヴァレクは、突然平衡感覚を失った。
倒れることはなかった。しかしベッドから立ち上がることはできず、ふらつくままに重心をベッドに戻す。
「おかしいな、まだ本調子じゃない。あいつも同じ敷地にいるってのに……」
「ふふ。まあ、まずはヴァレク様の状態からご説明しましょう」
そう言うと、クラリスは近くに置いてあった木の棚から鏡を取り出した。
伏せた状態でヴァレクへと渡す。何も言われなかったが、見ろということなのか、ヴァレクは鏡を自身に向ける。
「……なんだ、これは……俺か?」
映ったのはヴァレクだった。
しかし、顔の左側……額の右上から左頬の中腹にかけて歪な半円状に、肌の色が褐色に変わっていた。左目の瞳の色も紫に変色し、紫と青でオッドアイとなっている。
説明を求めるようにクラリスに向けられた目は、明らかな戸惑いを浮かべていた。
「ヴァレク様は一度死んだのです。『サズィラ』様に、頭を射抜かれました」
「……死んだ?」
どこかふわふわとした声だった。ヴァレクはあまり理解していない様子で、自身の色の変わった肌に触れる。
鏡に移っているのが自分であると言われても分からなかった。顔立ちが似ている別人ではないのかとも思える。ましてや「一度死んだ」などと言われてしまえば尚更、死に一度も二度もあるはずがないのだから受け入れられないのも当然である。
そんなヴァレクを見守りながら、クラリスがようやく口を開く。
「ヴァレク様は死にましたが、ご自身の膨大な魔力に生かされました」
ヴァレクの目が、ベッドサイドに流れた。普段であれば、膨大すぎる魔力をうまく扱う対策として常に顕現していた大剣を置いていた場所である。
「ああ……だから剣がねぇのか」
「はい。生命維持のため、ヴァレク様の魔力は一度すべてその中に戻りましたから」
そう言われてもピンとこないのか、ヴァレクは茫然と自身の手を見下ろしている。
「問題はここからです」
「問題? 父への説明か?」
「ふふ、その件は後ほど説明しますよ。今の問題は、ヴァレク様が反転の性質になってしまったことですね」
「……俺が……? 魔力による生命維持が起きたからか」
「はい。今のヴァレク様は、その魔力なくして生きる術はありません」
あまり実感はないのか、ヴァレクはやはり不思議そうに手を見下ろすばかりである。
「……なるほどな。反転って言っても、感覚的には普通の人間とかわらねぇんだな」
「そうですねぇ。ただ、体の作りが逆になってしまうだけですからね」
クラリスはどこか楽しげにクスクスと笑う。クラリスが食われ、ヴァレクが死んだことなどなかったかのような、普段と変わらないものだった。
どうしてそんな態度で居られるのか。真剣な顔をしたヴァレクが、朗らかなクラリスをじっと見ていた。
「どうされたんですか? 世界の終わりのような顔をされていますね」
「……世界の終わりだと思ってるからな」
ヴァレクが目を伏せた。短く息を吐き、思い詰めた様子である。
静寂が過ぎる。クラリスはただ、ヴァレクが話し始めるのを待っていた。
「俺が死んだってことは、霊石の契約が終わったってことだろ」
やがて、ポツリと言葉が落ちる。
「霊石の契約が終わったってことは、クラリスに記憶が戻っていて、殺される可能性があるってことだ」
自身で言って改めて認識したのか、ヴァレクはぐっと眉を寄せ、難しい表情を浮かべた。国王に気付かれる前にどう対処するかを悩んでいるのだろう。表情は険しいが、熟考するように沈黙している。
「ふふ。ヴァレク様は相変わらず、一人で抱え込む癖がおありですねぇ」
「……言ってる場合か。お前、国に殺されるかもしれねぇんだぞ」
「そうですね。陛下のお立場ですと、国の機動力を駆使することも出来ますから、私でも敵うかどうか……」
「反抗することを視野に入れんな。国相手だぞ、逃げるのが最優先だろ。っても、それも難しいから霊石を使ったんだが」
ヴァレクが殺されることなど、微塵も考えてもいなかった。
ヴァレクの魔力は膨大だ。膨大すぎるが故に、大剣として外に出し調整するほどである。幼い頃はこの魔力の取り扱いに悩むことも多かったが、成長するにつれてうまく扱えるようになった。
だからこそ、過信してしまったのか。
自身と張り合える相手などこれまでに居なかったからこそ、そんな存在が突然現れて油断した。
「……ひとまずお前は父にバレないうちに逃げろ。こっちは俺がどうにかする」
「ヴァレク様は視野が狭いですねぇ。いいですか? 労働の基本は報連相です。一人で解決するなど愚の骨頂。なぜなら、一人で問題解決における最適解を導き出せるはずがありませんから」
ああ、面倒くさいモードに入った。ヴァレクは察知し、余計なことは喋るまいと懸命にも口を閉じる。
「問題発生時にはまず焦らず、問題を明確にし、その問題を分析し、次に解決策を検討、最後に解決策を実行して検証する流れとなります。ヴァレク様の霊石解決案は、問題の明確化と分析において著しく偏っているように思えます」
「…………何が言いてえんだ」
「安直すぎるということです。ヴァレク様は、今回の問題点を『私が王家の秘密を聞いてしまったこと』として解決を試みました。しかし本当の問題は『王家の秘密』そのものです」
「だからそれをどうにも出来ねえからクラリスをどうにかするしかねぇって、」
「そうですね、ヴァレク様お一人の考えではそうなるのでしょう」
ピクリと、ヴァレクの眉が揺れる。
「ふふ、馬鹿にしたわけではありませんよ。最初に言ったじゃないですか。大切なのは、報連相……報告、連絡、相談です。何故そんなことをするのかというと、自分一人では導き出せなかった解決案が、案外他者からポンと出るケースが多くあるためです。だからこそ人は『会議』をします」
「……何歳だよお前」
「あら、ご存知の通り、ヴァレク様と同じ歳ですよ。とはいえ私は前世でいわゆる『おーえる』という存在で、他の人や他部署の仕事も押しつけ……いえ、頼まれるような徹夜上等の労働者でしたから、ヴァレク様とは経験値が違いますかね。ちなみに部下は百人以上おりました」
胸を張ってどこか自慢げなクラリスに、ヴァレクはスッと目を細めた。
どこか呆れているような、あるいはうんざりしているような。クラリスの働き者としての一面は、ヴァレクにとっては厄介なものである。王家の秘密を知ってしまうような問題が起きることもそうだが、何より、クラリスがなかなかヴァレクを男として意識をしない。
実は、最初にルーシンへ語った霊石を使った理由は、案外嘘ではなかったりする。
(どうすっか……)
ヴァレクは一応恋愛結婚を推奨されてはいるが、あまりに相手が決まらなければ国からより良い相手を政略的に決められてしまう。クラリスとの結婚は反対されていないとはいえ、クラリスが王家の秘密を知っている上、ヴァレクからは愛の言葉を伝えられないために結婚にこぎるけることはなかなか難しいし――。
そこまで考えて、ヴァレクの思考がピタリと止まった。
――霊石が壊れた今、ヴァレクから気持ちを伝えることが出来ない誓約はない。
「? ヴァレク様?」
一生口にすることは出来ないのだと思っていた気持ちだった。王家の秘密を知ってしまったクラリスとの結婚を国王が許すはずはないのだが、それでも伝えるだけ伝えても良いのではないだろうか。
ゴクリと、ヴァレクが喉を鳴らす。
「クラリス」
絞り出した言葉はやや固い。らしくもなく緊張しているようだ。クラリスは何事かと首を傾げ、不思議そうにヴァレクを見ていた。
やけに周囲が静かに思えた。
ヴァレクの耳には、自身の騒がしい心臓の音さえ聞こえている。
「……驚かないで聞いてほしいんだが」
「はい。今更ヴァレク様に何を言われようが驚くことはないと思いますが」
ヴァレクの探るような目に、クラリスは穏やかな様子を返す。
少しばかり間を置くと、ヴァレクは意を決して息を吸い込んだ。
「……幼い頃から、俺はお前と結婚したいと思っている。その……恋愛として、クラリスのことが、好きなんだ」
小さな声だったが、静寂な室内には充分すぎる音だった。
「困らせることは分かってんだ。クラリスは俺をそうやって見たことがねぇことも理解してる。だが、お前がこれから逃げることになっても、俺の気持ちだけは知っておいてほしかった。どうして俺が、霊石を作ってまでクラリスを助けたかったのか」
何も言わないクラリスを不安に思うが、その表情に変わりはなかった。
いったい何を思っているのか。ヴァレクには読めなくて、次の言葉を焦燥と共に待つことしか出来ない。
クラリスの口が、ゆっくりと開く。それに応じて、目も見開かれていく。
そうして紡がれた第一声は、
「それらしいことは言われていましたが、本当にそうだったんですね」
ヴァレクにとっては間の抜けた、思わず力の抜けるものだった。
「…………ああ、うん。そうだな。直接的には言っていなかったからな」
「はい、驚きました。そうですか。ふふ、ふふふ」
瞬時に何を考えたのか、クラリスは驚きの次に、何やらにやりと企むような笑みを浮かべた。
そうして、緊張していたのが馬鹿らしくなっていたヴァレクの手を突然、きゅっと軽く握りしめる。
ヴァレクの時が、ピタリと止まった。
長年一緒に居るが、幼い頃から意図的に手に触れるなどなかったからだ。
これは握り返しても良いのか。そんなことを考えながら触れ合っていた手を見ていたヴァレクは、おそるおそる上目にクラリスを見る。
するとクラリスは、にっこりと穏やかな笑みを浮かべ、
「ヴァレク様、私と結婚しましょう!」
手を握られてから停止していたヴァレクの思考に、さらなる爆弾を投下した。




