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愛され聖女、社畜堕ち  作者: 長野智
第4章

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第7話

 ()は、一人で生まれた。

 とある草木が茂る場所で、彼は白んだ世界に手を伸ばし、その膜を自ら突き破ってこの世界に生まれ落ちた。

 彼は生まれた瞬間から自我があった。彼は完全な人間ではないからだ。そして記憶も持っていた。

 だからこそ、生まれてすぐに自身に何が起きたのかを理解し、ようやく何の柵もなく最愛の人と暮らせるのだと喜んだのだが。

 彼の隣に、最愛の人は居なかった。


「ずっと探していたんだ。君の力は相変わらず強い。一度消滅した僕はこの世界により馴染んでしまったから、君のそばにすぐに来ることができなかった」

 じゃらりと、クラリスの手錠が揺れる。

 手錠のせいで魔法が使えない。連れられた山奥の洞窟の中、クラリスはただ厳しい表情で、睨むように男を見上げる。

「そんな顔をしないで。君がそうやって力を抑えられているから、僕は予定より早く君のところにまた来ることができた。とんだ僥倖だ」

 洞窟は岩が剥き出しのまま、舗装されているわけでもない。

 どこかから水の滴る音が聞こえた。洞窟の奥のほうに連れられたために視界は暗く、男の顔もほとんど見えない。しかしクラリスは怯むことなく、挑発的にため息を吐き出した。

「私はあなたのことを知りません。なぜ私にこだわるのですか」

「そう、今の君は僕を知らない。僕たちは一度消滅したから。だけどだからこそ、やり直せると思うんだ。何も知らないところから始めよう」

 男は膝を折り、座り込んだクラリスに目線を合わせる。

 手を差し出した。握手でも求めているのか。クラリスが必ず握るだろうという自信を隠しもしない仕草である。

「君に記憶がないのは仕方がない、クラリス。君は僕が食ってしまったから、消滅したときに記憶が引き継がれなかったんだね。だけど相性は悪くないよ。元はひとつだったんだから」

「一方的に思い込みで会話を進める方と相性が良いとは到底思えません。会話をするつもりはありますか? 先ほどから私の話を聞いていないように思えますが」

 圧倒的に不利な状況の中、クラリスは強気に言葉を吐いた。

 男は動きを止める。表情は変えずゆるりと首を傾げ、数秒が経った頃、ようやく「ああ」と閃いたように声をあげた。

「そうか、そうだね、そうだった。君は昔から気難しかった。僕が声をかけてもずっと迷惑そうな顔をしていたね。変わり無いようで安心したよ。やっぱり君は君なんだね、クラリス」

「先ほどから何の話をされているのか……消滅だなんだと言っていますが、意味が分かりません。それに先ほども言いましたが、あなたとは初対面です」

「そう。記憶がないからね」

「なぜそう思うのですか? あなたが探しているのは、本当に私でしょうか」

「間違いないよ、クラリス。絶対に間違えるはずはない。君の気配は特別なんだ。君はかつて、天使だったんだから」

 じゃらりと、手錠の鎖が微かに揺れた。クラリスの指先が震えるのと同時である。

 クラリスが息をのんだことを確認した男は、やはり不思議そうに首を傾げる。

「知らなかった? ああでも、記憶がないからそんなものなのか……そうだなぁ、記憶が戻るかもしれないから、昔話をしてもいいよ。他でもない、君のためなら」

 クラリスの正面で膝を折ってしゃがみ込んでいた男は、そのまま荒々しい岩肌に腰掛けた。クラリスは自身の指先に目を落とし、口を開くことはない。

 洞窟に言葉が響く。それが取り残されたように、クラリスの頭の中には、先ほど言われた言葉がずっと反響していた。

「僕はかつて悪魔だった。そして君は天使だった。……ああ、そうだ。この世界に『魔族』は居ないようだから、悪魔と言ってもピンとこないかな?」

 男は考えるような間を置く。

「……そうだ、どうして魔族が居ないんだろう……やっぱりツズェルグに何かあったのかな。僕が消滅した後のことなんだろうけど……そういえば、ツズェルグはどこで復活しているんだろう」

「……『魔族』というものに聞き覚えはありませんが……ツズェルグというお名前は、以前ヴァレク様に伝えておりましたね。そのお方も『魔族』なのでしょうか?」

 クラリスはなんとか冷静さを保ちながら、声が震えないようにと極力落ち着いて言葉を紡ぐ。

 何かを考えるように宙に向けられていた男の目が、ゆるりとクラリスに戻された。

「ツズェルグは僕の兄だった。……そうか、君に正式には紹介をしていなかったから……いや、そもそも記憶がないのか。複雑だな……僕は覚えているから、余計に分からなくなるよ」

 男はぼんやりとしたまま再び宙に目を向けて「それで、何の話だったっけ」とマイペースに言葉を続ける。

「ああそうだ。魔族の話だ。とにかく、僕はその魔族の中の悪魔という存在だった。とある山奥の湖でね、天使を見つけたんだ。衝撃だったよ。僕みたいな上位の魔族は天使との関わりが基本的にないからね、出会うこともない。だから僕はそのとき初めて天使を見たんだ。本当に美しくて、清らかで、一瞬で心を掴まれた。それが君だった」

 男は当時を思い出したのか、うっとりと呟いた。

 クラリスには、男がただ思い出話をしているようにしか思えなかった。なにせクラリスには一切記憶がない。心当たりもない。実感などないからこそ、どこか他人事のように聞いていた。

「君のあまりの美しさに、僕はつい君に声をかけた。だけど君は僕を相手にしてくれなかった。諦められなかった僕は何度も君のもとに通って、何度も一緒になろうと説得をしたけれど、君は一度も言葉を返してくれなかったよ」

「……それは、私の話ではないように思いますが」

「君だよ、クラリス。僕が君を間違えるはずがない」

 男の手が、ゆっくりとクラリスへと伸びた。

 クラリスは避けようにも、手錠をされているために満足に逃げることもできない。すべてを早々に諦め、男の手が目元を覆い隠すより早く、クラリスはキツく目を閉じた。

「愛してるんだ、クラリス。憎らしいくらいに。だから君を食うしかなかった。君が僕を相手にしないからだ。君を食うことでしか、君を手に入れる術がなかった」

 バチン、と、静電気の弾ける音がクラリスの耳元で聞こえた。

 男の手がクラリスの顔から退く。男は不思議そうに自身の手を見ていた。

「……これは、ツズェルグの……」

 手を見ていた目が、突然ギョロリとクラリスに向けられる。

「クラリス……あの男は君の何? あいつはなぜツズェルグの力を持っている?」

「……ヴァレク様はこの国の偉い人ですよ。私の同志です」

「君の大切な人?」

 クラリスがきゅっと口を閉じた。その反応をどう思ったのか、そこで初めて、男の眉がピクリと揺れた。

「へえ……あいつ、殺そうか。ツズェルグのことも聞きたいし、邪魔だなぁ……」

 クラリスの耳元で、ぱちりと小さく魔法が爆ぜた。ヴァレクの魔法だ。おそらく、外部から魔法が干渉しないよう守護魔法をかけていたのだろう。クラリス自身も気付いていなかったものである。

「……あなたはどうして私にこだわるのですか。あなたが好いているのは私ではないでしょう」

 男はヴァレクに意識を向けていたのか、洞窟の入り口を見て何かを考えるように動きを止めていた。

 しかしクラリスの言葉でぐるりと振り向く。クラリスは驚きに肩を揺らした。

「……ああ、そうか。君は天使や悪魔がどうやって消滅し、復活するかを知らないのか。魔族が居ないこの世界では無理もないね」

「天使や、その魔族という存在は、消滅し復活することで循環しているのですか? 天使などの上位の存在は人間があまり好きではなく、その存在についての詳細も残されていないので分かりませんが」

 どう話そうか悩んでいるのか。男は宙に目を向け、少しばかりの間を置く。

「僕たちは消滅した。僕たちのような存在の消滅のきっかけは、殺されるか自死のみだ。僕たちのような存在を殺せるものは限られるけれど」

 クラリスはそもそも、男の語る『魔族』という存在に明るくない。王宮の書庫にもそのような書物は残されておらず、男の話に分からない部分が多かった。

 男の語り口からは、まるでかつては「当たり前の存在だった」とも感じ取れる。それならばなぜ書物がないのか。クラリスはまるで意図的に秘匿とされているかのような情報に違和感を覚える。

「君は僕に殺された。そして僕は、君とひとつになっても満たされない虚しさで自死を選んだ。魔族が他と比べて『上位』かは知らないよ」

「……復活とは、どういう意味ですか」

 ここでまた、男は悩むように首を傾げる。

「そのままの意味。……魔族は消滅をすると、その身を最初に戻すんだ。イメージとしては、不死鳥みたいな感じかな。彼らも一定期間で消滅し、炎から生まれ変わるでしょ」

 不死鳥とは伝説の生き物である。クラリスはその存在を見たことはないし、王宮の書庫の情報から知っている存在というだけで、一般的に出回っている存在でもない。しかし男はまるでそれが身近な存在であるかのように語る。その感覚の違いからか、なかなか理解も追いつかない。

「僕たちは卵から孵ったんだよ。覚えていない? 復活した頃には一緒にいたんだけど……君は誰かに連れ去られて、僕が生まれる頃には居なくなっていた」

「卵から孵った……?」

「そうだよ。悪魔や天使は、卵から孵化するんだ」

 ――クラリスはふと思い出す。

 それは、クラリスの中で一番古い記憶だった。

 薄ぼんやりとした白んだ世界。その世界でアストラの声を聞いていた。

「……あれは、卵の内側……?」

 ずっと生まれてすぐの記憶だと思っていたが、認識が違っていたのか。

「君は、人と天使の間のような存在になったみたいだね。僕が君を食う前に地脈に力を流して微妙な存在になった上に、その後君を食ってから消滅したからかなぁ……変な気配だ。天使からすれば人なんだろうけど、人や他の生き物からすれば人ではないというか……そんな君も素敵だけど」

 男が、感情のない目を細めてにこりと笑った。それはクラリスには幾分不気味に見える。

 現実味を帯びない話の中、断片的なヒントがゆっくりと繋がり、かつて自分を食ったと何度も告げるこの男の話に、信憑性が増してきたからだろうか。

 クラリスにとって、男は未知だった。それまで恐ろしいと思わなかったその存在が、途端に恐ろしいものに思えてくる。

「さあクラリス、僕と一つに戻ろう。大丈夫、元に戻るだけだ。怖いことはない。君は、僕の中で生き続けることができる」

 男の手が再びクラリスに伸びる。しかしヴァレクの守護魔法を思い出したのか、途中でピタリとその手は止まり、どうするかと悩むように男は宙に目を向けた。

「今のあなたはその『魔族』で、『悪魔』という存在なんですか……? だから私を食べることができるのでしょうか」

「? 今の僕は魔族ではないけど……魔族寄りの人間というのかな……えっと、魔族は、人の作りとは少し違う。体の作りから、宿っている生命力も。だけど魔族でなくとも人を食うことはできるよ。人は人を食うことが出来るからね」

「……そのようなこと、倫理的に許されていません」

「倫理って何? クラリスは難しいことを言うね。そんなところが好きだ」

 男の瞳にはやはり感情は浮かばない。それどころか光もなく、クラリスは思わず眉を寄せる。

「ひとまず、君にかけられたその煩わしい魔法を解こう。面倒だから、ツズェルグの力を使うあいつを殺してくるよ」

 男はそう言いながら立ち上がると、その場に居ないヴァレクを探すように洞窟に目を向けた。

 ヴァレクとこの男は、どちらが強いのだろうか。

 とっさに判断できなかったクラリスは、反射的に男の腕を掴んだ。

「待ってください。ヴァレク様はこの国に必要な御方です。殺すなど、してはいけません」

「国とか分からないな。僕にとっては邪魔なんだ。殺すしかない」

 バチン! と大きな音を立ててクラリスの手が男から弾かれた。その強い衝撃に、クラリスはゴツゴツとした岩肌に投げ出される。

 クラリスが再び男をつかもうとなんとか体勢を整えたそのとき、洞窟の入り口に人影が現れた。

「クラリス、生きてるか!」

 聞こえたのは、ヴァレクの声だった。

 

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