第5話
クラリスの一番最初の記憶は、薄ぼんやりとしている。
上も下も分からない。寒いのか暑いのかも分からない。そんな空間で、薄ぼんやりとした光が差して、クラリスはそれを「眩しいな」と、これまた呑気にぼんやりと思っているだけの記憶である。
そんな空間で、声が聞こえた。
「こっちの子を引き取ろう」
言葉と同時に、世界が揺れる。浮遊感を覚えた。しかしクラリスは動く気にもなれなくて、暴れることもなく、身を任せていた。
「君は、ごめんね」
声の主は少し躊躇いながらそう言うと、クラリスを連れてその場から離れた。
目を開けると、見覚えのある天井が一番に見えた。
何が起きたのかをすぐに思い出したクラリスは、目だけで周囲の様子を探る。
どうやらこの部屋にはクラリスしか居ないようだ。直前まで共に居たはずのコリー・ヒューズマンは、今は出ているのだろうか。
クラリスはひとまず起き上がり、自身の腕に呪符が貼られていないことを確認する。
「……どうして彼が、呪符を持っていたんですかねぇ……」
そもそも呪符は、使用はおろか、作ることすら禁止されている。その前提があるからこそ、霊石のように「生成できる者」を国が把握しているわけでもない。
では、誰にも呪符が作れないのかと言えばそうではなく、ごくごく限られた者であれば可能である。
霊石よりも限られる。それこそ、王宮に出入りできる人間だけだろう。
クラリスはひとまず、室内をぐるりと見回して、ここが北の聖地の応接間であることを理解した。
「まぁ、場所が分かったとして、出られるわけではなさそうですが」
クラリスはソファに寝かされていた。
そしてソファの脚から伸びている鎖がクラリスの腕に繋がれており、一定の距離感でしか動くことも出来なさそうだ。
どうやら、魔法が使えなくなる特殊な手錠を掛けられているようだった。
「まったく……アストラ様が絡むと、呪符やら魔封じやら、一般的には手に入らないはずのものばかりが使われますね。分かりやすい」
「そりゃあ、立場は最大限に利用するためにあるからね」
ノックもなく、扉が開いた。
入ってきたのはアストラだ。いつもと変わらない様子で、ここがアステル大聖堂であると錯覚を起こしてしまいそうである。
「あら、アストラ様。私に魔法で敵わないからと、このような魔封じを? ふふ、可愛らしいんですねぇ」
「うん、クラリスに敵う気はしないかな。知ってる? 実は私とクラリスの魔法の相性はすごく悪いんだよ」
言いながら、アストラはゆっくりとクラリスの元へと歩み寄る。
「知りませんでした。アストラ様は私の前では魔法を使いませんでしたから」
「あまり使いたくないからねぇ。自分の魔法には、いい記憶がないんだ」
やがてアストラは、クラリスの正面に置かれてあるもうひとつのソファに腰掛けた。
「今回、私を捕えたのはどういうおつもりですか? 国全体で暴動を起こすように仕組みましたね」
「簡単なことだよ。クラリスの能力が素晴らしいと言い始めた人がいてね。私もそうだと思っていたから、相談に乗ってあげたんだ。私は権力者だから、協力できることも多いと思って」
ぴくりと、クラリスの眉が不快そうに揺れる。
「そんな顔をしないで。クラリスにとっても悪い話じゃない。君は神になるんだよ。この世界を掌握する」
「……そんなことのために、リリアナ様を利用し、ミレナ様を危険に晒したのですか」
クラリスの声は低く、こわばっていた。感情を抑え込んでいる音だった。
しかしアストラの様子は変わらない。まるで、クラリスの怒りのほうが間違っているとでも言いたげである。
「ああ、ミレナ・ルクレティアに入っていた彼女か……彼女には彼女の事情があったようだね。その事情が何かは、私は知らないけど」
「? 知らないはずありません。サズィラという人物と手を組んだのではないのですか」
サズィラという名に、アストラの表情が変わった。目をほんの少し細める程度の、分かりにくい変化である。
「そうか。やっぱり君は、彼と会っていたのか」
「……とぼけているんですか?」
「とぼけていられるならそうしたいけどね。……彼がクラリスに接触したのは想定外だったな。とてもまずい。彼は、殿下とも会ったのかな?」
クラリスはわずかに目を見開き、二度ほど瞬きを繰り返した。その反応で察したようだ。アストラは脱力したようにソファの背に深くもたれかかると、深いため息を吐き出した。
「そうかぁ……厄介だな。クラリスだけならまだしも」
「サズィラという人物は、不可解なことばかりを口にしていました。私には、『ひとつに戻ろう』と。そしてヴァレク様には『ツズェルグの魔力をなぜ持っているのか』と」
「だろうね。分かるよ」
「私たちには分かりません。……アストラ様は、何を知っているのですか」
アストラは行儀悪く崩していた姿勢を正すと、先ほどとは打って変わって、真剣な目をクラリスに向けた。
「君たちは知らなくていいことだ。でもなければ、命を狙われるかもしれない」
話は終わりだと言わんばかりに、アストラはソファから立ち上がる。
「それは、私が以前知ってしまった『王家の秘密』に関係しますか」
アストラの動きが止まった。
「先日、私の性質を封じた理由をヴァレク様からお聞きしました。それを知ってしまったせいで、私の命が狙われるようになったと」
「……驚いた。殿下が言ったの?」
「はい。まあ、私から聞き出したようなものですが……」
それでも信じられないのか、アストラはポカンと口を開けている。
「そんなに意外ですか? ヴァレク様は別に、話せば理解してくださる方ですが……」
「いや、そうなんだけど、そうではなくてね。当時の殿下は、クラリスの性質と記憶を封じることは自分勝手なことだからと、本当の理由は誰にも言わず、罪として墓場まで持っていくと言っていたから」
そしてそれを有言実行するように、ヴァレクはごく少数の関係者以外には誰にも言わず、匂わせることもしなかった。
「……そうか。殿下が……」
少し考えるような間を置いたアストラは、柔らかく微笑んですぐ、くるりとクラリスに背を向ける。
反射的に立ち上がったクラリスの動きに合わせて、繋がれた鎖が重たい音を立てた。
「アストラ様は、陛下を止めてくださらなかったのですか。陛下が、私に対してそのような決断をなさったことを……ヴァレク様が自身を犠牲にしてまで私を守る必要はないと、ヴァレク様にそう言って、陛下に直談判してくださらなかったのですか」
背を向けていたアストラが、不意に応接間の窓に目を向けた。部屋には、クラリスの座るソファの背後に一ヶ所と、ちょうどアストラが向かおうとしている扉の正面に一ヶ所、大きな窓がある。
差し込む光に眩しそうに目を細めて、アストラはふっと口元を緩める。
「それが、この世界のためだからね」
アストラがそう告げると同時、アストラが目を向けていた窓が、外側から内側に向けて強く弾け飛んだ。
その強烈な衝撃音に、クラリスは自身を守るように腕を前にし、身を守るようにしゃがみ込む。アストラは動かず、自身に向かってくるガラス片をすべて魔法で防いでいた。
「無事か、クラリス」
外からやってきた侵入者は、砕けたガラスを踏みしだき、言葉をクラリスに向けながらも、その目はアストラを映していた。
「ヴァレク様……!」
「無事そうだな。……おまえも」
最後は明確に、アストラに向けて言葉を放つ。
「……意外と早かったんですね。もう少し時間がかかると思っていましたが」
「訳あってクラリスに追跡魔法を掛けていたからな。まあ、お前は気付いていたんだろうが」
ジャリ、と音を立て、ヴァレクが一歩踏み出した。
「お前の目的はなんだ」
「……私の目的は、この世界をより良くすることですよ。そのために邪魔なものは排除しなければ」
「クラリスが神だとかいうアレか? お前がそんな馬鹿げた思想に賛同するとは」
ヴァレクが、携えていた大剣を抜いた。
「……勘弁してくださいよ。私はあなたには敵いませんから」
「どうだかな。俺はお前と手合わせをしたことがない」
ヴァレクが腰を低く落とすのと同時に、アストラは自身の前に手を突き出した。
一瞬ともいえる瞬きの間に、アストラの前にヴァレクが現れる。速度を乗せる脚力強化魔法かと、頭の片隅で冷静に分析しながらも、アストラはすぐにシールド魔法を発動した。
しかしヴァレクは構わず斬り込む。ヴァレクの大剣がアストラのシールドに触れると、アストラは反射的に手を引き、身を伏せた。
「驚いた。そこまでうまく使えるとは」
避けたアストラに、ヴァレクが容赦無く剣を振るう。
「ヴァレク様! 殺してしまうのは違います!」
「お前が治せばいい!」
「死んでしまったものは治せません!」
「お前は!」
ヴァレクの振るった大剣の剣身が、とうとうアストラに打撃を与えた。寸前でアストラはシールドを張ったが、その威力に弾き飛ばされ、応接間の壁を破壊して廊下に突き抜けた。
「自分が何されたのか分かってんのか! こいつはずっとお前も俺も……みんな裏切ってやがったんだぞ! おかげで国はめちゃくちゃだ!」
クラリスに向けては比較的優しく喋っていたヴァレクが、珍しく声を荒げた。これまでにない様子に、クラリスもぐっと言葉をのみ込む。
「いつからこんなことを考えてやがったかは知らねぇが、まんまと騙された。気分良かったよなぁ、俺たちが馬鹿みてぇに懐いて、お前の思う通りに動いてよぉ」
クラリス同様、ヴァレクも幼い頃からアストラと関わりがあった。それこそ、ヴァレクがうまくいかなかったときにはアストラに相談をしていたほどである。クラリスから見たヴァレクのアストラへの接し方は、ヴァレクは認めないのだろうが、頼れる兄に対するそれにも見えた。
その胸の内を察し、クラリスにはヴァレクを止めることもできない。
「ふ、はは、殿下、意外と私のこと、好きですよねぇ」
からからと、アストラを埋めていた壁が転がり落ちた。
ヴァレクは、危うい仕草で立ち上がるアストラの元へ向かう。
「それで、お前の目的は」
「……言ったでしょう、私は、この世界の安寧のために、邪魔者を排除する役割があります」
ヴァレクが大剣を振り上げた。
「彼らがずっとこの世界に居ては、陛下も、殿下も、クラリスも、やりにくいでしょう」
剣を振り下ろそうとしていたヴァレクが、ピタリと動きを止めた。
アストラの言葉が終わるより早く、背後の応接間から、ぱきりと乾いた音が聞こえたからだった。
応接間には、拘束されたクラリスが残されている。瞬時に理解し、ヴァレクは応接間に戻ったのだが。
「……ああ、お前も居たのか」
クラリスを背後から抱きしめるようにして、口元を覆っている男が居た。
少し前に見た、サズィラという不気味な男だった。
ヴァレクは男を認めてすぐ、剣を構えて踏み込む。
「おっと」
ヴァレクに斬り付けられた男はクラリスを抱き上げてそれをかわすと、半開きとなっていた近くの窓を蹴破ってバルコニーへと飛び出した。手錠をされているため動けないのか、クラリスの抵抗も微々たるものである。
「ああ、この手錠のせいか。だから君の気配が薄いんだね」
クラリスを抱えることで手錠に気付いたように、男は冷静に呟く。
「今はお前に用はない。僕がクラリスとひとつに戻ったら、お前のその力をツズェルグに返してもらう」
「っ、ヴァレク様っ……!」
顔をずらし、男の手から逃れたクラリスがなんとか叫ぶが、同時に男がバルコニーから飛び降りたために意味をなさなかった。
男とクラリスが落下する。
ヴァレクは即座に追いかけるが、ヴァレクがバルコニーから見下ろした先には、もう男とクラリスは居なかった。
転移魔法を展開したのか。ヴァレクは転移の魔法の筋を確認するが、周囲には何も見えない。
「アストラ司教! 大丈夫ですか!」
廊下から騒がしい足音と声が届く。呆然としていたヴァレクはそれに反応ができなかったが、少しすると、バルコニーから身を乗り出すように下を見下ろしていたヴァレクの肩に、ポンと軽く手が置かれる。
「戻りましょう。一旦作戦を立てる必要があります」
ヴァレクの背後に立っていたのは、先ほどまでの余裕が見受けられない、やや焦った様子のアストラだった。




