第3話
北の大聖堂へと向かったルーシンとレオンハルトは、何かを喋ることもなく全速力で駆け抜けていた。
走ってあと十五分といったところか。
暴動は近い。叫ぶ声と大聖堂が破壊される音が、だんだん大きくなっていく。
その度にルーシンの表情は強張っていた。
「大丈夫です。俺も居ますから」
レオンハルトには、そんな言葉しか思いつかない。気遣うようなレオンハルトに気付いたルーシンは、気にさせないよう曖昧に笑う。
「ごめん、大丈夫。……認められたと思ってたから、ちょっと気にしちゃってるだけ」
少し落ち込んだ様子を見せたルーシンだったが、すぐにキッと強い目を少し先に向けた。
「でも本当にいいの。……聖女にこだわる必要もなくなったかもしれないしね」
「エイリクさん! あんたここから動かないでくれ!」
「ダメだ! 僕は止めないといけないんだ!」
必死で駆けていたルーシンの足が、突然ピタリと止まった。同じくレオンハルトも声に反応したように、同じタイミングで振り返る。
二人の視線の先には、足から血を流しながらも立ち上がろうとしている男と、その男を止めようと必死になっている老年の男が居た。
「お父さん……ちょっと! お父さんがどうしてここに居るのよ!」
ルーシンが慌てて駆け寄った。
足から血を流す男――エイリクは、ルーシンに気付き驚いたように目を見開く。
「ル、ルーシン……どうしたんだ、こんなところで。おまえは今、王都の聖女様と北の地を離れていたんじゃないのか」
ルーシンの目が、エイリクの腿へと落ちた。服に血か滲んでいる。その赤の広がりから、かなりの血が流れていることがひと目で分かった。
「……何してるの? 危ないじゃないこんなところに来たら! お母さんは? お母さんも来てるの!?」
「来ていない! エルセラは家に居るよ。僕だけが来たんだ、みんなを止めたくて」
「どうしてそんなことをするのよ! こんな暴動の中で無傷でいられるわけないじゃない!」
弾かれたようにエイリクのもとにやって来たルーシンは、手を合わせて詠唱すると、その掌をエイリクの傷口へとかざす。治癒魔法は得意でなく、クラリスよりも完璧ではないが、ルーシンは必死に傷を癒せるようにと集中していた。
「す、すまない。その……どうしても、止めたくて」
「……あの、あなたがここまで父を運んでくれたんですか?」
エイリクの隣で心配そうに立っていた老年の男が、ルーシンに声をかけられて慌ててうなずいた。
「あ、ああ、はい。エイリクさん、あんた、聖女フィリスのお父さんだったのかい」
「すみません、言っていなくて」
「私が口止めしていたんです。父の人間関係に影響させたくなくて……なのでどうか、あなたも黙っていてください」
ルーシンのお願いに、男は数度頷いた。
「ルーシン、お前がここに居るということは大聖堂に行くつもりだと思うが、やめておきなさい。今は誰にも止められない」
「……嫌よ。行く」
「ルーシン」
「お父さんこそ、どうして大聖堂に行ったの。どんな理由でみんなが大聖堂に集まっているか分かってる?」
責めるような声に、エイリクはぐっと拳を握りしめる。事情を知らないわけではないという反応に、ルーシンはさらに厳しい表情で口を開く。
「私と血縁だと知られたら命がなくなっていたかもしれないのよ。お母さんだって居るのに、どうして危ないことばっかりするの。私が大聖堂に居ないことは分かってたでしょ」
「分かっていたよ。だけど、だからこそ、ルーシンが大切にしている場所を守らなければと思ったんだ」
ピクリと、傷口にかざしていたルーシンの指先が揺れる。
「ルーシンがどれほど聖女になりたかったか、一番近くで見ていたからよく知ってる。何度も試験を受けては落ちて、その度に自身が反転だからと言い訳をすることもなく、悔しい思いをして泣いていた。そんなお前が頑張って手に入れた場所だからこそ、何も知らない誰かに壊されたくなかった」
治癒を終えたのか、ルーシンは傷口から手を引いた。
エイリクはすでに腿から痛みを感じていなかった。
「……聖女フィリス。行きましょう」
ルーシンの背後から、見守っていたレオンハルトが声をかける。その低い音に、我に返ったようにルーシンが振り向いた。
「ご家族のお気持ちも分かります。ここからは、あなたの手で大聖堂を守りましょう」
ぐっと、ルーシンが唇を引き結んだ。やがて強く頷くと、ルーシンは勢いよく立ち上がる。
「そうね。ごめんなさい、時間をとって」
「いえ、大丈夫です。……あなたのご家族が無事で良かった」
レオンハルトはなんとなく、エイリクから目を逸らす。しかしエイリクはじっとレオンハルトを見上げ、驚愕した表情で震える唇から言葉を吐き出した。
「君はまさか……レオンハルトくんか……?」
まだ足に違和感はあるのか、エイリクは男に支えられながらふらりと立ち上がった。その目はレオンハルトから離れない。そういえばエイリクはレオンハルトを気にかけていたなと、ルーシンは状況のせいで忘れていたそんなことを思い出した。
「お父さん、この人がリオラさんの息子さんで、今はクラリスの護衛騎士をしてるレオンハルト・アルブレヒト」
「……大きくなったね……」
「……は、はい。初めまして」
「それに、たくましくなった。あんなに小さくて細かったのに、こんなに……」
ふらふらとレオンハルトのもとにやって来たエイリクは、レオンハルトの腕に、信じられないとでも言いたげな表情で何度も触れる。
レオンハルトはそんなふうに接されたことがないからか、戸惑いながら、ルーシンに助けてくれとでも言いたげな視線をチラチラと送っていた。もちろん、ルーシンはそれを黙殺しているが。
「そうか、良かった……本当に、君はすごく小さくて、少し目を離しただけで死んでしまうんじゃないかと思えていたから……こんなに立派に……本当に、良かった」
普段は仏頂面のレオンハルトが静かに焦っていることが面白いのか、ルーシンは最初ニヤついていたが、すぐに「はいはい離れて」とエイリクとレオンハルトの間に割って入った。
「お父さんはその人と一緒にもう帰って。私たちは大丈夫。知ってる? 王都の聖女の護衛騎士はすごく強いのよ」
エイリクと男が、レオンハルトを見上げる。
「……ああ、そうだね。レオンハルトくんなら大丈夫だと思う。僕はね、検知魔法が得意なんだ。だからレオンハルトくんの魔力も分かるし、その力の強さも理解している」
「エイリクさん、家に帰るかい? 帰ってくれるならありがたい、あんな暴動の中にまた突っ込んでいくのはまっぴらごめんだ」
エイリクの背後で、男が怯えたように、あるいは安堵したように息を吐いた。
「帰ります。あとは二人に任せましょう。……二人とも、北の大聖堂を……みんなを、頼んだよ。少しおかしくなっているだけなんだ」
エイリクの真っ直ぐな目に、二人は強く頷いた。
ルーシンが駆け出すと、エイリクと男に一礼をして、レオンハルトも後に続く。
二人の背が遠ざかる。二人が見えなくなるまで、エイリクは目を逸らすことなく、じっとその場に立ちすくんでいた。
「エイリクさん、大丈夫かい。……あんな暴動を見たんだ、家族が心配な気持ちは分かるさ」
「……はい。すごく心配です」
男はエイリクの肩に腕を回し、支えるように隣に立つ。
「娘は……ルーシンはずっと聖女になることを夢見ていましたが、何度試験を受けても認められない時期がありました。それでも諦めずに北の聖女になったので……あの暴動を見て、傷つくかもしれません」
男がそっと踏み出すと、エイリクも合わせてゆったりと歩みを進める。
「もう、傷つかないで欲しいのですが」
「大丈夫さ。おれの家内はいつも聖女フィリスのことを喋るとき、楽しそうに笑う。あの子は快活な子だろ? だから見てると元気が出るんだと」
「親として、それは本当に嬉しいですね」
片足をやや引きずりながら、エイリクは一瞬、横目に振り向いた。
「……二人にこれ以上、何事もないといいんですが……」
心配そうに眉を下げ、男に気遣われながら、エイリクはゆっくりとその場を離れた。




