閑話2・2
「楽しかったか、ミレナ・ルクレティア」
氷狼祭をルークと回ってご機嫌に宿に戻ってきたミレナが、「ついでに自分もここに泊まってしまおう」とクラリスたちの部屋のさらに隣にもう一室押さえ、そこに入ろうとしたときだった。
ご機嫌だった気持ちが、一気に凍てついた。
それは、聞こえてきた声が普段よりやや低かったからかもしれない。
まるでブリキの人形のようにぎこちなく振り向いたミレナは、視線の先に立つヴァレクのやけに爽やかな笑顔に、スッと背筋を伸ばした。
「はい、楽しかったです! 殿下との約束を破ったからこそ目一杯楽しまなければと、全力で遊んできました!」
「一言くらい残していけ」
「ぎゃんっ!」
ミレナのそばにやってきたヴァレクが、容赦なくその拳をミレナの頭に落とす。
「いったーい!」
「うるせぇ。話がある、入れ」
「わ、わたしの部屋なのにぃ……」
なぜかヴァレクが自室のように部屋に入っていくのを恨めしげに見ながら、ミレナは涙目にその背に続く。
隣の部屋から物音はしない。クラリスは眠っているのだろう。ルーシンはレオンハルトと氷狼祭に参加しているところを目撃したから、今は宿に居ないはずだ。レオンハルトは少し休んで、ルーシンに合流したのかもしれない。
つまり、誰もミレナをこの状況から救ってはくれないらしい。
ミレナは諦めつつ、木製の椅子に腰掛けるヴァレクを確認し、ベッドに座った。
「それで、頼みたいことってなんですか?」
「……もう一度、前に頼んだ霊石を作ってくれ」
霊石関係のことであるとは思っていたが、まさかもうひとつ作ってくれた言われると思ってもいなくて、ミレナは訝しげに眉を寄せる。
「……同じものですか?」
「記憶を封じるだけで良いが……性質も封じたい」
「理由を聞いても? その、あまり推奨しません。同じ人に霊石を複数使うこともそうですが、複数契約をすることも危険です」
分かっている、とでも言いたげな渋い顔をして、ヴァレクがひとつ深いため息を吐く。
「あいつには今、前世の記憶がある。その記憶のせいで、前世の性格が混ざり、以前に封じた『働き者』の性質が戻った。俺にとっては都合が悪い」
「……なるほど。どうしてそのようなことに?」
「……北の聖女が魔法を使ったからだな。経緯は聞くな、面倒くせえ」
うんざりとした様子のヴァレクを見ながら、ミレナは考えるように腕を組む。
「それなら、聖女フィリスがまた魔法で戻すことが一番です。霊石に霊石を重ねることは本当に推奨しません」
「……その魔法をかけた直後、北の聖女が戻そうとしたが、クラリスに魔法で押し負けたらしい。状況も知らねえクラリスからすれば、一方的に魔法を受けてやる義理もねぇだろうからな」
それもその通りである。たとえばミレナがクラリスの立場でも、霊石を使って反抗するだろう。
クラリスの力の強さを考えれば、ルーシンに勝てるわけがない。ミレナにもそれは分かるが、霊石を永続的に一人の人間に複数使うなど、前例がなく恐ろしい。それが王都の聖女相手ともなれば、尚更慎重になるべきである。
「……あいつの記憶を封じねえ限り、あいつは父から命を狙われる。父はクラリスの能力を買ってはいるが、合理的なところもあるからな。不都合があれば誰であれ躊躇いなく消すだろう」
「……聖女セントクレアが眠っている間に魔法をかけるとかはどうですか? それなら反抗もされないのでは……」
「あいつは、あの性質になってかなり眠りが浅い。遅寝早起きが基本だ。睡眠時間も数時間で動いてやがる。おそらく、少しの物音でもすぐに起きるだろうな」
働きすぎていたとは聞いていたが、いざ実際に踏み込んだ話を聞いてみれば、それはミレナから見ても少々おかしなことに思えた。クラリスの命がかかっている、かかっていないに関わらず、もしもミレナがそばにいたら、休んでほしいから性質を封じたいと思ってしまうだろう。
「そうですか……では、正面から事情を話して戻すしか……」
「……考えたこともなかったな。あいつは頑固で聞く耳を持たないから、話してどうにかなることとは思っていなかった」
考えるような間が空いた。静まり返ったその瞬間、突然バン! と部屋の扉が乱暴に開く。
「ぼ、ぼ僕は、密室に異性とふ、二人きりになるのは、は、反対だけど!」
「ラキちゃん!」
顔を真っ赤にして怒ったようなルークは、入って早々、ヴァレクに目を向けることもなくミレナの隣に座る。
「ミレナさん、危ないよ! この暴力男は怖いんだよ!」
「うん。ゲンコツ食らった……痛かったぁ……」
「や、ややややったな! ミレナさん、ミレナさんを殴ったな!?」
「あー、うるせぇ。今はお前と話してる場合じゃねぇんだよ」
クラリスの件で悩んでいたヴァレクは、やはり霊石を再度作らせるしかないと再度その結論に行き着いた。
クラリスと話をしても無駄だ。クラリスはきっと「どうしてそんなことをする必要があるのか」と聞くだろう。そのときヴァレクは「国に殺される可能性があるから」と言えるわけもなく、言ったとしてもクラリスが信じるわけがない。どの道を選んでも、クラリスがヴァレクの言葉に素直に従うわけがないのだ。
ヴァレクが魔法でクラリスの意識を絶ち、その隙にルーシンが魔法をかけ直すことも良いだろうが……強制的ともいえるその方法をクラリスに強いるのなら、霊石をもう一つ使ったほうがヴァレクの気持ち的に楽である。
「とにかく、霊石の生成を頼む。近日中でいい。早めに対応してくれ」
「ま、まま待ってよ。僕は、反対だからな。ミレナさんが、すごく気にするし……」
「……それがお前たちの仕事だろ。ルクレティアにさせたくねぇならお前がやれ、アーゼル。俺は最初お前に依頼したんだ。お前が受けねえからルクレティアに回っただけでな」
それを言われると弱いのか、ルークがぐっと悔しそうに顔を変える。
「本人に、は、話せばいいじゃ無いか、そんな、王都の聖女だって、分かってくれるかも……」
「理解されねぇ場合、あいつは一生こちらを警戒する。二度と不意打ちもできねぇだろうよ。そんなリスク負ってまで話し合いをしようとは思わねぇ」
「そうかも、しれないけど……」
「どちらがやるんだ」
「ぼ、僕がやる! 僕が……代償、か、軽くできるやつで、生成する……」
ミレナが何かを言いかけたが、ルークはすぐに制するようにミレナの手を握りしめた。
「後で、か、紙にでもいいから、どんな霊石がいいか、書いておいて」
「分かった。頼んだぞ」
話が終わったからか、ヴァレクはさっそく立ち上がった。もう用事もないのだろう。二人を振り返ることなく、ヴァレクは部屋の外に出る。
そこに。
「……先ほどのお話、詳しく教えてくれませんか?」
いつから起きていたのか。いつから聞いていたのか。驚きに声をあげそうになったヴァレクに対し、静かにするようにと自身の鼻の前で人差し指を立てたクラリスが、にこやかに立っていた。
クラリスが選んだのはヴァレクの部屋だった。クラリスの部屋だとミレナの隣であり、声が漏れる可能性がある。
二人で部屋に入ると、クラリスは早速、円形の小さなテーブル付近に、二脚の椅子を近づけた。
「どうぞ、座りましょう」
「……ああ」
クラリスに続いてヴァレクも椅子に腰掛けるが、シンと重たい間が空いた。
クラリスは待っているのか、ヴァレクを見て動かない。しかしヴァレクは目を逸らし、伝え方を考えていた。そもそもどこから聞かれていたのか。それさえ分かれば誤魔化せることも多いだろう。この場さえうまく切り抜けられたら、あとはどうにでもなる。とりあえず適当な嘘でもついておくかと、ヴァレクが口を開いたときだった。
「私が陛下に殺される、とはどういう意味でしょうか?」
まるでヴァレクの思考を読んだように、クラリスが核心に触れた。
「……そんなことを、聞いたのか?」
「はい、バッチリと」
「聞き間違いだろ」
「まさか。私、耳はいいんです。『懺悔の会』で、たくさんの方の罪を見たり聞いたりする必要があって」
にっこりと笑うその表情からは他意は読めないが、ヴァレクは「何も考えず素直に吐け」と言われているような気がした。
再び間が落ちる。先ほどから空気は重たいが、クラリスの表情だけはにこやかである。
「……言いたくない。お前のことだが、それを知ればお前は絶対に厄介なことを言い始める」
「言ってください。私のことなのに、どうして私が知らないのですか」
クラリスの言葉に、そっぽを向いていたヴァレクが眉を寄せた。しかし何かを言うことはない。その様子を前に、クラリスはやはり物言いたげにじっとヴァレクを見る。
「私、最近無理をすることがないと思いませんか」
「…………なんの話だ」
「少し前の私なら、ミレナ様を救うことを先にしようと言いませんでした。アストラ様のことが気になるので、先に北の聖地に向かい、そこにミレナ様をおびき出せば一石二鳥だと言っていたでしょう」
思い出してみれば、セレヴァンに行くと言い出したのはクラリスだった。
ミレナの拒絶反応が進む前に人格を引き剥がすべきだ。ミレナの故郷であればその波長からミレナも現れやすく、そして元の人格も故郷に馴染み別の人格をうまく引き剥がせるかもしれない。
そう全員を説得し、セレヴァンにやってきた。
確かに以前のクラリスなら提案しないことである。
「この旅の中で、私がこれまで考えていた『効率』には『自分本位』な部分があるのかもしれないと分かったんです。本当は今回も、レオンハルトに無理をさせてしまうので、徹夜するつもりはありませんでした。ミレナ様の体から人格が出てくるタイミングが分からなかったので、仕方なくその手段を取りましたが」
「だから話せと?」
「今の私なら、ヴァレク様の言う『頑固な部分』が削がれていると思いませんか?」
またしても静寂が訪れた。
ヴァレクは難しい顔をしている。しかし少しのあと、ヴァレクは深く長いため息を吐き、自身の頭をぐしゃぐしゃと乱暴にかき乱した。
「分かった。お前を信じる。ただし、俺も知らねぇことはあるからな」
クラリスは先ほどよりも嬉しげに笑い、元気にヴァレクに返事をした。
それにしても、ヴァレクから伝えられた話は、クラリスにとってはあまりにも非現実的であった。
クラリスはある日、王家の何かを知ってしまった。それを知った国王がクラリスを殺そうとしていた。だからヴァレクが記憶と性質を封じた。
国王をよく知るクラリスだからこそ、あの穏やかな人柄でクラリスを殺す選択をするのかと、不思議でならない。
「……私が陛下なら、記憶をなくしていると分かっても私を殺します。演技かもしれないからです」
「それは俺も考えた。だが……お前はあまりにも、国にとって必要な存在になりすぎた。重大なリスクになるのなら殺すが、もしもその要因がなくなったのなら、できれば殺したくはねぇんだ」
クラリスは再び、考えるように顎に手を添える。
「言っておくが、俺もお前が何を知ったのかは知らねぇからな。父の言葉でしか聞いてねぇんだ」
「そうでしたか。……分かりました。一旦、私の前世の記憶は戻す必要はありませんよ」
何を根拠に、とでも聞きたそうなヴァレクに、クラリスが先手を打つ。
「反面教師にしているところもあるんです。この記憶があるから、無理をするとどうなるかが分かります。前世の私は、働きすぎで亡くなりました」
「……父に会ったら演技できんのかよ」
「やりますよ。ふふ、私は意外と演技派なんです。よろしければ、ヴァレク様の霊石も解除していただきたいですが」
「ダメだ」
クラリスの言葉が終わるより早く、ヴァレクの言葉が重なった。ヴァレクは眉を寄せ、どこか怒っているようにも見える。
「……お前には秘密を思い出してほしくない。国から狙われるレベルの秘密だぞ。そんなもん知らなくていい」
「演技、できますよ?」
「そういう問題じゃねぇだろ。……そもそも、そんなことは知るべきじゃねぇんだよ。いや、本来あるべきでもねぇんだが」
テーブルの上に置かれたヴァレクの手が、ぐっと強く握りしめられた。表情は渋いまま、視線もどこかに向けている。そんなヴァレクを見ながら、クラリスは少しばかり考えていたのだが、
「ですが……霊石との契約に、代償を払ったはずです。霊石は効力が複雑になればなるほど、その人にとって重たい代償を求めます。『記憶と性質を封じる』なんて、ヴァレク様にとってかなり重たいことを差し出したのではないでしょうか」
クラリスの言葉から、数秒。時が止まったかように沈黙していたのだが、やがてヴァレクの目が緩やかにクラリスに向けられた。
「……いいよ、別に。俺にはどうってことねぇ。お前が死なねぇならそれでいいんだ」
「……そう、ですか」
それでも落ち込んだような声をしているじゃないかと、クラリスはそんなことが気になったが、なんとなく聞けなかった。




