閑話2・1
ミレナがしっかりと目を覚ましたのは、それから翌日のことだった。それまでは薄く目を開けたりぼんやりとしていたのだが、翌日にははっきりと目を開けた。
クラリスとルーシンの部屋のベッドに横たわっていたミレナは、見知らぬ部屋に一瞬驚愕すると、状況確認のために視界を横に向けた。するとクラリスやルーシンが居て、その顔ぶれに思わず飛び起きる。
「聖女セントクレア!? と、聖女フィリス!? あ、あわわ、わたしはどうしてお二人の部屋に!?」
「あらミレナさん、おはようございます。お元気そうですね」
荷物をまとめていたクラリスが、ベッドに近づく。ルーシンも心配そうにやってきたのだが、突然ミレナがベッドの上で綺麗に土下座したのを見て、ルーシンは動きを止めた。
「物は盗ってません! 侵入したわけでもありません信じられないかもしれませんが、気がつけばここで寝ていました……!」
ルーシンが呆気に取られているのを見て、クラリスは「ルーちゃんはしっかりお話しするのは初めてでしたね」と楽しげに笑う。
「……何、幻晶術師って変な人しかいないの……?」
「そんなことはありませんが、」
「ミレナさん! 起きたの!?」
バン! と驚くほど勢いよく扉が開いたかと思えば、信じられないほど大きな声を出したルークが、泣きそうな顔で立っていた。その後ろには呆れた様子のヴァレクとレオンハルトが居る。
「ラキちゃん! ラキちゃんだ! どうしてここに!?」
「ミレナさんッ!」
ミレナが驚いてベッドから立ち上がると、押し戻すような勢いでルークが抱きついた。
しかしそれを難なく受け止めたミレナは、困惑したように手を泳がせる。なぜ自分は今、王太子や聖女という面々に囲まれているのか。そしてなぜルークが号泣しているのか。ミレナには何も分からなかったのだが、そんなミレナを見かねて、クラリスが眉を下げた。
「どうやらミレナ様には記憶がないようなので、私たちから説明しますね」
クラリスのその一言にあからさまに安堵した表情を浮かべたミレナは、ようやくルークを宥めるように抱きしめた。
クラリスがすべてのことを話し終えると、ミレナは自身の手を見下ろし、不思議そうな顔をしていた。聞いたことがすべて、ミレナの記憶の中に無かったからだ。
しかしどうしてそのようなことになってしまったのか。ミレナのそんな思考を読んだように、ヴァレクが沈黙を裂く。
「記憶の最後に、怪しい人物との接触は無かったか」
ベッドに座るミレナの隣、そこに腰掛けていたルークが、ミレナを気にかけるように上目に見る。起きたばかりで無理をさせたくはないが、ルークも気になっているのだろう。
「……えっと、確か……」
ミレナは記憶を遡る。
国からの監視をまいて、ミレナは誰にも秘密の「別荘」に向かった。その別荘は霊石で隠しているから、ミレナが許した者でない限りは絶対にたどり着けない場所である。
そこで、ルークのような優秀な幻晶術師になるために秘密の練習をしていたのだが。
「……そうだ、変な男! 変な男が、絶対に誰にも入らないはずのわたしの練習場に入っていたんです!」
「特徴は」
「えっと髪が黒くて長くて……こう、ひょろっとしたイメージの……」
そうは言ってもあまり思い出せないのか、ミレナは必死に記憶をたどっているようだが、そこからは唸り声しか出ない。
「……すみません、見た目に関しては全然、そんなに思い出せなくって……でも、変なことを言ってきたので、会話は覚えてます!」
男は突然、霊石を生成していたミレナの背後に現れた。
『人間は本当に不思議な生き物だ。魔法を使い始めたり、こんなものまで作るとは』
自分以外がこの場にいるはずがないために、ミレナは即座に振り向いた。
そこに居たのは、知らない男だった。もちろん、ミレナは入ることを許していない。それなのにどうして男がこの場にいるのかと、ミレナは警戒して数歩、男から距離を取った。
『なぁ、そう思わない? 人間は何故魔力を持つようになったのか。……僕が力を取り戻している間に、随分世界が変わっていたみたいだ』
『誰ですか?』
『これもそのひとつだね』
ミレナの真隣。気がつけば、瞬きの間にそこに男が立っていて、ミレナが作った霊石を見ていた。机に背を向けていたミレナは、机に向いて立つ男から、今度は大げさに離れる。
『……なぁ、僕が最初の聖女になってから、どのくらいが経った?』
「サズィラが、最初の聖女?」
ヴァレクが訝しげにルークを見下ろすと、ルークは慌てて首を横に振る。
「あ、ありえない。あんな、あんな男が、せ、聖女なんて……」
繊細なルークだからこそ、男に対して思うことが多くあったのだろう。目の当たりにしたということもあり、その場にいた全員が、あの男が最初の聖女であるということに疑問を抱いているようである。
ヴァレクの隣に立っていたクラリスは、周囲の反応とは違い、厳しい表情でぎゅうと拳を握りしめていた。
最初の聖女の名前は「サズィラ・セントクレア」であった。男の名前が「サズィラ」であり、最初の聖女であると語るなら、同一人物で間違いないだろう。
アストラが名付けたとはいえ、最初の聖女とクラリスの姓は同じであるために、男が言っていた「一つに戻ろう」という言葉もなんとなく重たく変わる。
「わたしは多分、正直に答えたと思います。そこから記憶がなく……今です」
「……分かった。では、俺たちは北の聖地に向かおう。あまり長居をしても、手遅れになることもあるかもしれないからな」
「アストラ司教やエリアス司教なら、あのサズィラという人物と繋がっているでしょうからね。クラリスに危険が及ぶ前に対処しましょう」
ルーシンが自身の拳を自身の手のひらにぶつけて、闘志をたぎらせている。その音があまりにも大きく、何故かルークが怯えたように背を伸ばした。
「そうだな、レオンハルト、」
「いいえ、いけません。殿下」
ぽん、と、レオンハルトが引き留めるようにヴァレクの肩に手を置いた。まさか反対されるとも思っておらず、ヴァレクは理由を尋ねるようにレオンハルトを見上げる。
「実は、精神世界から殿下たちが出てくるまで、三日経っています」
「はあ!? え、私たちにとっては結構すぐだったわよ!?」
「こちらで待っている間、クラリス様は結界を張り続け、不眠不休で皆様を待っておりました」
「……おい、つまり何徹目だ」
ヴァレクが鋭くクラリスを睨んだが、クラリスはとぼけるように明後日の方向に目を向けた。
「三徹目です。クラリス様を寝かせてから行くべきです」
「まあ私は大丈夫ですが、私に合わせてレオンハルトも不眠不休ですから、レオンハルトは寝たほうが良いかもしれませんねぇ」
「二人とも寝ろ」
ヴァレクに賛同したのか、クラリスの腕を掴んだルーシンはすぐに、ミレナが居るベッドから少し離れたところにある、もうひとつのベッドにクラリスを引きずるようにして連れた。クラリスは呑気なもので「大丈夫ですよルーちゃん」と笑っている。
それを見て安堵したレオンハルトは、納得したようにヴァレクを見下ろす。
「ありがとうございます。私は魔法を使っていなかったので大丈夫なのですが、クラリス様はずっと魔法を使い、気を張っていて、」
「お前も寝ろってんだよ」
ヴァレクの手が、レオンハルトの目元に置かれた。ヴァレクの手を払うことも出来ず避けようとしたレオンハルトだったが、すぐに「落ちろ」と言葉が聞こえ、それと同時にがくりと膝から倒れる。
「わ、ま、また、また干渉魔法……! こ、怖いんだからな、干渉魔法は、失敗すればし、死んだりするんだからな!」
「失敗なんかしねぇよ」
レオンハルトを軽々と担ぎ上げるヴァレクに、ルークは口を閉じた。ヴァレクよりも大柄なレオンハルトは今、ヴァレクの魔法によって体が軽くなっているが、見ている分には分からないために、その光景はどこかおかしく思える。
「ルーク・アーゼル、ミレナ・ルクレティア。今回の協力に感謝する。後日、謝礼を届けよう。それと、ルクレティアにはひとつ、頼みたいことがある。後でまた来る」
それだけ伝えると、ヴァレクは部屋を出る前に一度、ルーシンに振り向いた。視線の先にはベッドサイドの椅子に座りクラリスを監視するルーシンと、ベッドに寝かされたクラリスがいる。ルーシンはヴァレクの意図が分かったのか、こくりと頷き親指を立てた。それにヴァレクも頷いて返すと、レオンハルトを抱えて隣の部屋に戻っていく。
するとすぐに、ミレナがキラキラとした目でルークに振り返った。
「ねぇラキちゃん、わたし氷狼祭に行きたい!」
「え! 今殿下が『頼みたいことがある』って言ってたじゃない! 話は聞いてから行きなさいよ」
「えー、でも氷狼祭行きたい……」
「行こう! 僕、すぐに準備してくる」
決してヴァレクの前では見せないような顔で笑ったルークは、浮かれたような足取りで部屋を出た。準備が何かは気になるが、ルーシンにおいてはそれどころではなく、もはやミレナに対して呆れている。
「ふふ、ルーちゃん。ミレナ様は元来、自由な方ですよ」
「ああ、だから国の監視もすぐにまくのね……はぁ……ていうか、あんたは早く寝なさいよ!」
いつまで起きているのかと、ルーシンがクラリスの目を手で覆うと、クラリスは「暗くて眠れません」と言いながらご機嫌にその手を引き離そうとする。しかしルーシンはそれに逆らい、クラリスにとってはお遊びのような、ルーシンにとっては本気の攻防が始まった。
すると。
「……あの、聖女セントクレア」
静かな足取りで、ミレナがクラリスのベッドまでやってきた。表情は硬い。どこか緊張しているように見える。
クラリスは起きあがろうとしたがルーシンに睨まれたため、大人しくベッドに横たわり「どうしました?」と穏やかに問いかけた。
「……殿下と、もう、恋人になりました?」
クラリスもルーシンも、まさかミレナがそんなことを言い出すとは思わなかったために、理解するのが一瞬遅れた。そもそも、ミレナの声音は恋愛話をするときのそれではない。
「全然、恋人などではありませんけれど」
クラリスが答えると、何故かミレナがハッと悲しそうな顔をした。
そんなミレナの隣、椅子に座ってクラリスを見ていたルーシンは、ミレナに反して意地悪に笑う。
「……ちょっと私も気になるかもー。あんたって、実のところ殿下のことどう思ってんの?」
「ルーちゃんって恋愛に興味があるんですか? 意外でした」
「誤魔化すんじゃないわよ」
「ふふ。そうですねぇ……ヴァレク様のことは、同志のように思っていますよ。私たちは、実はよく似ているんです」
ルーシンはヴァレクを思い出してみるが、クラリスと似ているところなどどこにも見つけられない。その隣では、ミレナがやはり何か引っかかる顔をしている。
「ミレナさん?」
「へ? あ、えっと、そうなんですね。……わたし、お二人はてっきり恋人同士なのかと」
「分かる、なーんか距離近いのよね。でも、この子はともかく、殿下も決定的な言葉は言わないっていうか」
言い終わるが早いか、ミレナが勢いよくルーシンに振り向いた。その勢いに驚いて、ルーシンは椅子に座りながらも、ミレナから離れるようにやや体をのけぞらせる。
「そ、そうですよね!」
「え? あ、うん。でも殿下ってああ見えてシャイなんじゃない? 知らないけど」
「決定的な何かを言われる関係でもありませんが……そもそも殿下が個人的に決定的な何かを言うことは、立場上控えるのではないでしょうか?」
「あんた相手ならいいでしょ別に。王都の聖女だし……国王だって、二人の仲を認めてるんでしょ?」
何を今更、とでも言いたげな顔で、ルーシンが短く息を吐いた。しかしクラリスはきょとんとしている。心底不思議そうである。
「? 認められるような仲ではありませんよ?」
「…………あんた、とぼけるのがうまいわね」
「ふふ。本当のことです。……殿下には、相応のお相手が居るんですよ」
「聖女セントクレア!」
これで会話が終わったと思えるようなトーンに落ちていたのだが、そんな流れなどものともしない、ミレナの元気な声が部屋いっぱいに響いた。
今度はルーシンだけでなく、クラリスもシーツの下でびくりと震える。
「信じてください! 殿下は、聖女セントクレアを愛しています! あの、でも、あなたを守るために、それを直接伝えられないんです」
「? そりゃそうでしょ。根回しした後じゃないといろいろうるさい人たちもいるんでしょうし、それまでにクラリスに求婚なんかしちゃったら、」
「そうじゃなくて!」
ミレナの表情が、泣きそうに歪む。
「そうじゃなくて……あの……別に、気持ちは言ってもいいんです。それでも、言えないんです……シャイだからとか、立場があるとか、そういう問題じゃなく。物理的に」
「どういうこと?」
「ミレナさん、お待たせ」
ガチャリと、ノックもなく扉が開いた。何を準備してきたのか、出ていったときと変わらない姿のルークが顔を出す。
「行こう」
「あ、うん! それじゃあ、お邪魔しました! 安眠の邪魔してごめんなさい」
ミレナは目を泳がせながらも手を振り、ルークに誘われるままに部屋を出る。
「霊石、たくさん持ってきた。あの……ミレナさんに見せたい、新作とかあって」
「本当に!? やった! ラキちゃんの新作大好き!」
二人で宿を出ると、広がる街はやはり、氷狼祭一色である。今年初めて氷狼祭を見るミレナは目を輝かせ、さっそく街に向かおうとしたのだが。
「さっきの話……前に『殿下が可哀想』って、言ってたやつ?」
ミレナが離れないようにとローブの裾を掴み、ルークがおずおずと問いかける。ミレナは一瞬何事かと考えたが、すぐにゆっくりと頷いた。
「……うん。ほら、前に殿下から依頼を受けて作った霊石があったでしょ? 記憶と性質を封じる、ラキちゃんが断ったやつ。私にラキちゃんくらいの腕があれば、あんなに重たい契約を結ばせることはなかったんだけど」
自身が生成し、その未熟さから重たい契約を強いてしまったから気にしていたのかと、ルークはようやく、ミレナがこの件を気にかけていた理由を知った。
一時は本当に暗い顔をしていたものだ。
「殿下ね、好きな人への愛の言葉を、契約の代償にしたの。だからあの霊石がある限り……殿下が霊石との契約を諦めない限り、殿下はずっと、聖女セントクレアに何も伝えることができない」
周囲の喧騒がどこか遠く。静かに話を聞いていたルークは、落ち込むミレナに「選んだのは殿下だよ」と慰めるように伝え、次にはミレナを引っ張って、氷狼祭の中に溶け込んだ。




