第10話
ルークが泣きながらミレナを連れ出し、それにルーシンとレオンハルトが護衛に続いた後の宿。
クラリスは荷物から分厚い本を取り出し、ヴァレクの部屋に戻ってきた。ヴァレクも自身の荷物を漁り、ミレナを起こす手立てがないかを探している。
「ヴァレク様も本を持ってきていたんですか?」
ベッドに座って脚の上に本を開きながら、荷物を確認するヴァレクを不思議そうに見るクラリスが問いかけた。しかしヴァレクは「まあ」と興味もなさそうに答えながら、荷物を放り出す。
「持ってきてた気がしたが、持ってきてなかったな。ルーク・アーゼルの霊石の中にそれらしいのがあるんじゃねぇのか」
諦めたのか、ヴァレクは近くの椅子に腰かけた。やる気はなさそうだ。そもそもクラリスはヴァレクが護衛として残ったと何となく気付いていたから、その態度を咎めることはしなかった。
「ルーク様の霊石の中にあれば、先ほどの時点で言っていると思いますよ。ルーク様は小心者ですが、ミレナ様の危機に動転するタイプではないと思うので」
「……まあ、そうか」
ぺらりと、本をめくる音が響く。
静寂が漂う部屋には充分大きな音である。
クラリスが何度か本をめくったとき、ページに目を滑らせながらクラリスが静かに口を開く。
「……先ほどのサズィラという人物のことが気になっていますか?」
ヴァレクの目が、ちらりとクラリスに向けられた。
「本当に知らないんですよ。会ったことすらないはずです。あの人が言っていたことも分かりません」
「……愛を語っても素っ気なかったらしいが?」
「小さな頃から一緒に居るヴァレク様なら、私にそんな暇はなかったと知っているでしょう」
クスクスと笑いながら、クラリスはゆっくりページをめくる。
「ルーク様いわく、あの人は人間ではないんですよ? そんな存在と出会う機会もなければ、一つに戻ろうと言われても思い当たる節はありませんよ」
「だがお前は、ここ最近数度『人ではない』と言われている」
ぴたりと、クラリスの手が止まった。
しかしそれは一瞬だ。すぐにぺらりと音を鳴らして、クラリスの目に映る内容が変わる。
「……悪い。口が滑った。思ってもねぇよ」
「いいえ、大丈夫ですよ。……ヴァレク様も、冷静ではいられないことを言われたんでしょう」
椅子に深くもたれかかっていたヴァレクが、ゆっくりと姿勢を正した。
「……俺の魔力は、俺のもんだ」
「はい。分かっています」
「……ツズェルグとか知らねぇ」
「そうですね」
「……けど、俺も立て続けにこの魔力は俺のじゃねえって言われてるから、なんかモヤモヤはすんだよ」
「分かりますよ、気持ちは」
クラリスはまるで、やや拗ねたようなヴァレクをあやすように優しく笑う。
「私たちは本当に似ていますね。小さな頃から」
「俺は別に、お前みたいに効率効率うるさくなかったが」
「私だって、ヴァレク様みたいに逃げたりしたことはありません」
「うるせぇ」
無理せず間をもたせながら、二人はゆっくりと会話を繰り返していた。互いに焦る様子もなく、ただ静かな時間を噛みしめるようにぽつぽつと言葉を落とす。
ヴァレクもマイペースに何かを考えながら、ぼんやりと空に目を向けていた。
普段はテキパキと物事をこなすクラリスがこういった「無駄」とも思える時間を取るのは、おそらくルークのためなのだろう。ミレナを確実に救える可能性がないからこそ、保険としてルークに別れの時間をゆったりと取ったのかもしれない。
「……お前、変な奴にはついて行くなよ」
「ふふ、こうしてヴァレク様がいつもそばに居るのに、変な人について行く暇もありませんよ」
「もっと可愛く言えねぇのか」
「そうですねぇ……では、ヴァレク様も、変な人について行かないでくださいね」
ちらりと、またしてもヴァレクがクラリスを一瞥する。しかしクラリスがいつもと変わらない様子だったから、ヴァレクはすぐにその目を再び空に投げた。
どうやらクラリスの様子が、ヴァレクにとって存外悔しかったらしい。
「……クラリスは俺のこと好きだもんな。そりゃ離れたくねぇよな」
そんなふうに投げやりに言ってしまったのは、ほとんど勢いだった。
どうせすぐに否定が返る。あるいは、否定はせず他意のない肯定をするのか。後者のほうがクラリスらしいなと、ヴァレクはぼんやりと言葉を待っていたのだが。
パタンと、クラリスが本を閉じた。
沈黙が過ぎる。いつもと違う反応に、ヴァレクはゆっくりとクラリスに振り向いた。
「……クラリス?」
まさか。いや、そんなはずはない。あのクラリスが。しかしこの反応は。何かの間違いじゃないのか。
せめぎ合う感情は騒がしく、ヴァレクは期待のままにクラリスを見ていた。
間が落ちて数秒。ヴァレクにとっては数十分にも思えた時間は、クラリスが口を薄く開いたことで終わる。
ごくりと、無意識に、ヴァレクは唾を飲み込んだ。
「載っていませんでした」
何を言われたのか、ヴァレクは一瞬分からなかった。しかしすぐに我に返る。そしてクラリスが今していることを思い出し、再び椅子に深くもたれかかる。
「ああ、そうかよ。……読むの早いな」
「あまりに長かったので、途中から速読を切り替えました」
「にしても早ぇだろ」
「もとより、人間を蘇生する方法などこの世に存在しませんからね。魔法であれ霊石であれ……その方法が、残されているはずがありません」
クラリスが悲しげに本をベッドに置く。
本の重さに、シーツが少しばかり沈んだ。
「それこそ、神様ならどうにか出来るのかもしれませんが」
「…………神ねぇ。そういや、あのサズィラって奴も『土地神』って言ってたか」
思えばあのとき、窓が不自然に割れた。風もない、誰かが破ったわけでもない。それでも窓は割れ、なぜかその破片が男の首にだけ突き刺さった。
「……私たちは、奇跡を願うしかないのかもしれません」
「そもそも、その神とやらが居るのかも分からねぇだろ」
「通常ならそうですね。神様はこちらから呼ぶことができませんから、出逢えもしない存在に奇跡を願うのは無駄でしょう。ですが今は氷狼祭中です。神様は人間に紛れ、この祭りを人間と楽しんでいます」
「神は気まぐれと聞く。あとは無邪気だとな。……無邪気ってのは良いことばかりじゃねぇ。悪意なく殺す無邪気さもある」
クラリスはちらりと、血に溺れるバラバラになった人形に目を向ける。
「……きっと、大丈夫だと思うんです。ここの土地神様……白狼様の無邪気な一面は、純粋な気がします」
「……と、いうと?」
ヴァレクは半分諦めているのか、あまり興味もなさそうだ。そんなヴァレクを尻目にクラリスは立ち上がると、ゆったりとした歩調でヴァレクの前を歩く。その歩調が穏やかだったからかヴァレクは焦ることもなく、クラリスの動向を見守っていた。
やがてクラリスは血に濡れた人形を持ち上げ、それの破片を一つひとつ丁寧に、持ってきた布巾で丁寧に拭き始めた。
「血がつくぞ」
「はい。ですが、このままではリリアナ様が報われませんから」
バラバラの人形が綺麗になると、クラリスの布巾が真っ赤に染まる。
「……たとえば、狼が好きかどうか。きっとここの土地神様は、それだけで無邪気に笑って、タイミングさえ合えば、リリアナ様ですら救ってくれたと思います」
クラリスが人形を持ってそっと立ち上がるのを見守りながら、ヴァレクは難しい顔をして「なんだそりゃ」と一人ぼやいていた。
その直後だった。
「クラリス! 早く来て! ミレナさんが起きたかも!」
血相を変えたルーシンが、鼻の頭を真っ赤に染めて、転がり込むように宿に戻ってきたのは。




