第7話
膜の中に囚われたその女は、斬られた腕の切断口を押さえながら、口惜しげに外の三人を睨みつけていた。
斬り口の断面は、斬り始めは綺麗だが、あとになるほど荒れている。汚れに触れ、清められたロザリオの効力が持たなかったのかもしれない。
女は息を切らし、見えない膝をついているような体勢になっていた。
「……誰が、あのお方のことを話すものですか……! お前たちは、調子に乗りすぎですわ……」
「お前が話すのなら、クラリスを渡してやってもいい」
ヴァレクの言葉に、ルーシンが驚き振り向いた。しかしヴァレクが本当にそんなことをするとは思えない。ヴァレクは表情のない顔で女を見ているが、ルーシンはその横顔から考えを察することは出来なかった。
「……そんな甘言に騙されるわけがありませんわ。お前たちはクラリス様を渡さない! わたくしのことを早く殺しなさい! わたくしはあの御方の情報を吐くつもりはありませんのよ……!」
「は、話が見えない……」
「実は私たち、セレヴァンに来る前にこいつらに襲撃されたの。クラリスが狙いだってことまで見当はついてるけど、理由が意味不明で、何がしたいのかも分かってない」
「……クラリス……って、お、王都の聖女……」
ルークの中では、クラリスは暴力を振るわないし、いつもにこにことしていて優しい印象である。もちろんミレナからも良い話ばかりを聞く。ミレナも懐いていたし、尊敬していたようだったから、悪い意味で狙われているわけではないのだろう。そこまで考えて、ルークも難しい顔で首を傾げる。
「……ウスメアという村の最古の教会に、一番最初の聖女像が置かれている。そこに彫られていた名前が『サズィラ・セントクレア』という名だった。これはお前の知る『サズィラ』という人物と関係があるのか」
「……さ、最初の聖女……? そ、そんなはずない。僕が見たのは、お、男だったし、」
「お黙りなさい!」
鬼気迫る表情で女が叫んだ。
怒られることが苦手なルークはその怒号にびくりと大きく震え、反射的にルーシンの背後に身を隠す。
「あの御方のことを吐くならお前を殺しますわ! 今すぐにッ!」
「サ、サズィラ、なんて呼び、呼びにくい名前、に、人間じゃない! 人間に害をなす『モノ』は、すべて人間にはよ、呼びにくいと言われてる……!」
「お黙りなさいと言っているでしょう!」
膜の中が黒く光った。霊石の発動だ。しかし何かが起きるわけでもない。
霊石より出るはずだった攻撃は膜の中で終了し、女の怒りだけを伝える。
「あの御方を愚弄するな! あの御方はわたくしを救ってくれたのよ! あの御方だけが……思念体として彷徨っていたわたくしに気付いて、わたくしに肉体をくれた! そして、神の存在を教えてくれましたの……!」
女は怒りの表情から一変、恍惚な表情へと変わる。
「神はわたくしたちを救ってくれますの! ご存知かしら、神のあの御力! 人知を超えた、誰もが持ち得ないあの素晴らしい能力! わたくしも見たことがありますわ、王都の大聖堂での礼拝にはいつも参加しておりましたの! 毎回惚れ惚れするような能力の数々……あれは人ではありませんわ。まさに神様よ!」
ルーシンは伺うようにヴァレクを見たが、何を考えているのか、ヴァレクの表情はまさに「無」であった。
ちなみに、ルークは奇妙なものを見るように怯えている。女は変わらず恍惚としていた。
「埒が明かないな。……おいアーゼル。お前、こいつの頭の中をまた見ることは出来るのか」
「……む、無理だ。こいつは今、ミレナさんの体じゃなく、あの、思念体だから……あ、頭の中を覗くのは、ぼ、僕が仕込んだ霊石の片割れが、ひつ、必要で……」
「なるほどな……では、お前が『サズィラ』という男について知っている情報は」
「え、と……」
ギロリと、女の目が光る。ルークは思わず目を逸らし、ルーシンの服を背後からぎゅうと握りしめた。
「……黒くて、長い髪の毛の、男だった……痩せていて、ちょっと不気味な……目には、感情なんか、なく……て……」
「お前! あの御方を侮辱するのか!」
「お前がその男について喋ることが出来るなら良い。この女は殺す」
ヴァレクが横目にルーシンを見た。ルーシンは一つ頷き、すぐに仕込みナイフのロザリオを構える。
「っ、あははは! やってみなさい! わたくしが殺せるかどうか! わたくしは死なないわ、なぜならほかでもないあの御方がわたくしをこの体へ入れてくれたから!」
「思念体を殺せばお前は終わりだろ」
「いいえ違いますわ! あの御方のお力をお前たちは知らないから油断できるの! さあ殺してみなさい! わたくしは死なない! 死なずにこの体を捨て、次の体に移ることが出来る!」
どうにも負け惜しみに思えないその表情に、ヴァレクは訝しげに眉を寄せた。しかし躊躇うことなく「やれ」とルーシンに短く告げる。ルーシンは頷き、ナイフを振りかぶった。
「あの御方は人ではないの! そんなものではない、あの御方は、サズィラ様の魔力は、」
ナイフが、女の首に刺さる。
血が噴き出した。女は静かになり、そのまま薄らいで消えていく。
女は最後まで、その状況からは考えられないような、余裕のある不気味な笑みを浮かべていた。
『あれが一族最後の生き残りらしい。変な力を使って人を大量に殺すようだぞ」
『怖い怖い。噂では、人助けをして油断したところを殺すと聞いた』
女は十字に組まれた木に縛り付けられていた。足元には様々な大きさの木がくべられ、藁も積まれている。
女の家族はすでにみな殺された。家族たちは女を庇い、そして女に「逃げろ」と希望を託したが、女もとうとう捕まったのがほんの数日前の話である。
女は命乞いをする気力もないのか、感情のない目を伏せていた。
『魔女だってよ。恐ろしい。火刑は当然だな』
コツンと、女に石が投げられた。
一人が投げたそれを皮切りに、複数の角度から石が飛び交う。
女はそれでも何も言わなかった。
ただ表情もなく、静かに石を受け入れ、そして火をつけられて苦しみながら死んだ。
女の家系が『霊石』という、人間にできないことをやってのける不思議な石を生成したのが始まりである。
人々は、女の家系のその素晴らしい発見を称賛していたはずだった。そして救いを求め、病すら治せるその力を、神だと崇めていた。
しかしある日、一族の一人が山作業の手伝い中、作業中に邪魔だった巨大な岩を簡単に破壊した。それは凄まじい威力だった。
見ていた者はその力が自身に向けられたらと怯え、そして周囲に伝えた。
――あの力は神の力ではない。侵略の力だ。反旗を翻す前に殺したほうが良い。
気がつけば、すべてが敵になっていた。女の一族はあっという間にいわれのない罪にかけられ、そして一族はみな殺された挙句、最後に女も殺された。
女は許せなかった。
どうして人を救ってきた一族が殺されなければならなかったのか。
どうして信じてくれなかったのか。
人間を恨みながら死に、そしてその恨みが強かったからか、いつの間にか肉体のない思念体となっていた。
思念体となって数百年。
体を失い彷徨い続け、どこに向かっているのか、終わりがあるのかも女には分からなかった。
誰に声をかけても誰も反応を示さない。誰とも目が合わない。知らぬ間に人々の装いが変わり、文化が育ち、時代の移り変わりに女は立ち会っていた。
そんなある日、思念体となって初めて声をかけられた。
『へぇ、珍しい存在だな。君、名前は』
それが、サズィラだった。
彼はとても友好的だった。女を見つけ、そして霊石を作れるのならと「ミレナ・ルクレティア」という体を女に差し出した。さらに女の話を最後まで聞き、かつて神と崇められていた女だからこそか、「今の神を見てくると良い」と言って、アステル大聖堂の場所を女に伝えた。
そこで見たクラリスの力に、女は涙を流した。
これが本当の神の力だと思った。
かつての自分は神ではなかった。クラリスの力こそが本物の神の力であると、女はただ見惚れ、そしてそれからアステル大聖堂での行事には姿を隠して通うようになっていた。
「はい、捕まえました」
女が目を開けると、目の前にはクラリスが居た。
クラリスはにこやかに女を見下ろしている。距離が近い。女は慌てて距離を取ろうと足を動かしたが、なぜか動かせない。
すると女の視界の隅に、先ほどまで対峙していたヴァレクが現れた。よく見ればクラリスもヴァレクも、女よりも随分大きく見える。
「おいクラリス! チッ、なんだこれは!」
「ヴァレク様落ち着いてください! これは思念体を捕らえるための措置で、」
クラリスとミレナを囲う薄ピンク色のそれを、ヴァレクが外から必死に叩いていた。静電気のような拒絶はもろともしないのか、ヴァレクの動きが止まることはない。
ルーシンとルークは精神世界から戻りたてで頭が重いらしく、ヴァレクの後ろで頭を抱えてふらふらと立ち上がっているところだった。
「クラリス、開けろ! そいつは危険だ! 霊石を使う!」
「まあヴァレク様、お元気そうで何よりです」
「開けろっつってんだよ……!」
クラリスはヴァレクの言い分を黙殺し、女をにこにこと見下ろしていた。
「あなた、お名前はなんていうんですか?」
薄ピンクの箱を開けることもなく、その内側でクラリスは人形に優しく微笑んだ。
結局入れてもらえないヴァレクは不機嫌そうに、レオンハルトと、やってきたルーシンは興味深そうにクラリスたちを見ていた。ルークもふらりとやってきたが、その目は横たわったままのミレナばかりを気にかけている。
『わ、わたくしはリリアナ・アッシュベルトと申します! アッシュベルト子爵家の出身ですわ! 一族の中には伯爵となった者もおりますの! この霊石の力で人を救い、その功績を王に認められ爵位を賜ったからですわ!』
人形から声が聞こえた。嬉しげな声だ。表情は変わらないのに声だけが明るく、それがさらに不気味に思えて、ルーシンとレオンハルトは思わず渋い顔を浮かべる。
しかしクラリスはご機嫌だ。人形の言葉に驚いた表情を浮かべ、やはり優しく笑う。
「まあ! なんて素晴らしいのでしょうか。あなたはとっても善良な方ですね。そんなあなたが、どうして人を傷つけてまで私を捕らえたかったのですか?」
『捕らえるなどとんでもございません! わたくしはただ、クラリス様を保護したかっただけですの! わたくしも過去に神と崇められたことはございました。ですがクラリス様のお力を見たとき、クラリス様のお力こそが真の神の力であると分かったのです! 魔法という力を人々が使い始めて幾星霜……クラリス様の無尽蔵で莫大なそのお力は、摩訶不思議な感覚と奇妙な美しさで人を救えます。そんなお力、見たことがありませんわ!』
静かに頷きながら聞いていたクラリスが、親指で優しく人形を撫でた。
「そうですか。ふふ、嬉しいですね。……リリアナ様、サズィラ様のことについて教えていただけませんか?」
『も、もちろんです! サズィラ様も素晴らしいお力をお持ちですわ! わたくしを救ってくださったことはもちろん、クラリス様の存在を教えてくださったのもサズィラ様ですの。何より、あの御方こそが、クラリス様をお求めになられておりますのよ!』
その言葉に、あからさまに表情を変えたのはヴァレクである。
「……まぁ、どうしてでしょうか。私、その人のことを知らないのですけれど」
『そんなはずはありませんわ。わたくし、偶然聞いてしまいましたのよ』
人形は表情を変えていないというのに、その頬が染まっているように見えるのは、やはり声が興奮で上擦っているからかもしれない。人形はどうやら、クラリスとゆっくり会話ができていることが嬉しくて仕方ないようだ。
しかし。
『必ず取り返すと、クラリス様は奪われたと言って、』
そこまで語った直後、クラリスの持っていた人形が、ぐにゃりと歪に捻じ曲がった。それはまるで絞られた雑巾のような捻れ方で、そして実害がないはずの思念体であるリリアナが、なぜか悲痛な叫びをあげる。
薄ピンクの外にいた全員が耳を塞いだ。つんざくような金切り声である。
クラリスは驚いて、その人形を持参の前にそっと置いた。
『い、い、だい! 助げ、で、ぐら、りず、ざ、』
ミシミシと捻れていた人形は、限界を迎えたようにバラバラに弾けた。
同時に、リリアナの気配も消える。
不思議なことに人形からは大量の血が溢れ、その場で見守っていた全員が呆気に取られていた。
そんなときだった。
「これだから野良は……」
血に溺れた人形から、一筋の煙が立った。黒い煙だ。それはすぐに、薄ピンクの中に広がっていく。
「クラリス、開けろ!」
「は、はい、」
いよいよ限界だと、焦ったヴァレクが剣を抜いたのだが。
「クラリス・セントクレア」
クラリスの頬に、白く細い指が触れた。
薄ピンクの結界を解除しようとしたクラリスが、思わず振り返る。
真っ暗なストレートの長い髪と同じ色の黒曜石のような瞳が、血色の悪い肌にやけに浮いていた。鼻は高いが、唇は薄い。全体的に細長く、その男の目に感情は浮かんでいない。
いつの間にかクラリスの目の前に、男が膝を立ててしゃがみ込んでいた。
「美しくなったね。久しぶり」




