第10話
クラリスとヴァレクが転移魔法で宿に戻ったのは、宿を出てから五時間後のことだった。
転移魔法を使うと、体感としては一瞬で移動できるのだが、実は現実的にはしっかりと時間がかかっている。転移先が遠ければ遠いほど同様の時間を要するために、二人が戻ってきた頃にはすでに深夜を回っていた。
宿の前に降りた二人は、どちらともなく駆け出した。まだタイムリミットというわけではないが、早くレオンハルトを起こさなければと、半ば転がり込むように部屋の扉を開く。
「戻ったぞ!」
「戻りました!」
バァン! と扉が壊れそうな勢いで開いた先で、見知らぬ男が血を吹いて倒れている光景が一番に飛び込んできたために、二人は思わず息をのむ。
血の匂いがした。木の床には赤い液体が広がり、そしてやや血に濡れたルーシンが椅子に座って足を組んでいる。
男は縄で縛られているようだった。うつむいているためにクラリスたちからは見えにくいが、どうやら口に布を巻かれているらしい。
「何言ってるか分からなぁい。なに? 私が反転の性質だから喋るに値しないってこと? 殺すわよ?」
「んぐ、ぐ! ぐぅ!」
「はあ? あんた何歳よ。赤ちゃんみたいに喋るんじゃないわよ鬱陶しいわね!」
ルーシンの足が、踵から男の後頭部に降る。鈍い音を立てて頭が地面に叩きつけられたが、男が抵抗することはなかった。
これはいったいどういう状況なのか。勢いよく入ったはいいものの、クラリスとヴァレクは口を出すことが出来ず、ただ立ち尽くしていた。
「あ、おかえりなさい。これ侵入者です」
ルーシンの足の下に居る男は、背を震わせながらも動かない。
「ル、ルーちゃんったら……過激ですねぇ」
「……あんたこそ。いつの間に殿下とそんなにラブラブになったの?」
ルーシンが不思議そうに、二人の間を指さした。
さされた先には、繋がれた手がある。どうやら転移してきた二人はそのまま、手を繋いで部屋に駆け込んでいたようだ。
「違います! ヴァレク様にはそれ相応の相手がおりますので!」
「んなもん居ねぇよ、なんだ相応の相手って」
反射的に手を離されたヴァレクは、やや不機嫌そうに眉を揺らした。
「それよりもルーちゃん、この人は誰ですか? この血はルーちゃんの……?」
「違うわ、こいつの血。反転を呪いだなんだって馬鹿にしてきたから、その反転の力でちょっとね。だけどほら、私ってあんたと違って修復は下手くそでしょ? そしたら……」
ルーシンの足が、倒れた男の肩を強く押し上げる。すると男の体勢が仰向けに変わった。やはり見知らぬ顔だ。フードを被っていたようだが、今はさらけ出されている。そしてそのマントは、ミレナと一緒に居た者が使っていたマントに酷似していた。
クラリスたちはその血の濡れ方を見て、男の腹部から血が溢れていたのだと理解した。男の腹は痛々しいほどに赤く染まり、傷口が痛むのか男も体を丸めるようにうずくまって……と、そこを凝視していたクラリスは、怪訝な顔で男の近くに膝をつく。
「あらあらルーちゃん、逆に素晴らしいですよ。傷口の血を止めて、細胞が死なないように魔法で保護、ここまでは美しく完璧な仕上がりというのに……あとは肉片を正しい向きに体に埋め混んでくっつければ終わるところを、こんなにも芸術的な向きではめ込んで」
男の脇腹からはもう血は出ていない。えぐられた脇腹部分にはルーシンが奪った肉片もしっかりと埋め込まれているのだが……なぜか、肉片の体内部分が、外側になってくっついていた。
これは「治癒」ではなく「修復」である。壊れたものを直す原理と同じで、繊細な作業が求められる。ルーシンの苦手分野だった。
「これで向きさえ正しければ、あなたは今、苦しんでいなかったでしょうね」
クラリスが同情気味に声をかけると、横たわりながらもクラリスを凝視する男と目が合った。どうしてそんなに見られるのかが分からず、クラリスは首を傾げる。
少しすると、男の目から大粒の涙が溢れた。
「……え、どうされたんですかこの方。ちょっと怖いのですが」
困惑するクラリスを尻目に、ルーシンは物言いたげな目をヴァレクに向けた。ここでは言えないのだろう。それを察して、ヴァレクは持っていた鱗を床に置く。
「話は後だ。お前ら二人で霊薬を作れ。俺は隣の部屋でこいつの聴取をしておく」
「そうですね! ルーちゃん、霊薬生成は任せてください!」
男の首根っこを掴むと、ヴァレクは男を引きずって部屋を出る。クラリスがバタバタと「大きめの桶を探してきます」と部屋を出て行ったところで、ルーシンもヴァレクの後を追った。
「殿下、報告が」
隣の部屋である、クラリスとルーシンの部屋には、先ほどの男が乱暴に投げ出されていた。
ヴァレクは椅子に座って男を見下ろしている。
「ああ。なんだこいつは」
「おそらく、私たちを襲撃した例の幻晶術師の仲間です。目的は『神』を連れていくことと言っていました」
「……神?」
「クラリスのことだそうです」
床に倒れ、言葉もなく泣いている男を見て、ヴァレクが目を細めた。
「聖女狩りも関連しているそうで……」
「なるほどなぁ……」
少し前の龍の言葉を思い出す。そして短く息を吸い、ヴァレクはゆっくりと立ち上がった。
「お前もよく知っていると思うが、クラリスの魔力は半端じゃなく強い。だから時々、こういう盲信的な奴を寄せ付けることがある。だがそれは神の力じゃねえ」
「ぐ! うう!」
何かを反論するように男が唸っていた。
「なんだ、どいつもこいつもクラリスのことを人じゃねぇと言いやがる……」
「殿下?」
ヴァレクが視線を合わせるように、男の前にしゃがみ込んだ。
「ほかに報告は」
「……はい。首謀者が……アストラ司教であると」
「……アストラ? 間違いねえのか」
ヴァレクに髪の毛を掴まれた男は、何かに怯えるように震えていた。
何に怯えているのか。少しばかり考えたが分からず、ヴァレクは一旦空いた手を上に向け、そこに小さな光を集める。チカチカと輝くそれは星屑のようで美しかったが、すぐに一層光って消えた。
「何をされたんですか?」
「ああ、アストラにつけている監視に、緊急で今の状況を教えろと飛ばした。明日の朝には何かしら届くだろ」
「ルーちゃん? あら、お隣ですか?」
大きめの桶を見つけたのか、クラリスが隣の部屋に戻ったようだ。ルーシンは「すぐ行くから待ってて」と、隣に向かって言葉を投げる。
「お前はもう戻っていいぞ。報告は分かった。……あとは、俺がどうにかする」
男を見ているのであろうヴァレクの背中がどこか恐ろしく、ルーシンはそっと扉を閉めた。
扉が閉ざされた瞬間、男の目に絶望が浮かぶ。
二人用の部屋でそれなりに広さがあるというのに、男はなぜか圧迫感を覚えた。
「さて……」
男は不思議と、ヴァレクの目を見ることができなかった。上から見下ろされているからではない。なんとなく、目を合わせてはいけないと思えたからだ。
いったい何をされるのか。
そんな緊張感を抱いていると知ってから知らずか、ヴァレクは唐突に、男の頭に触れた。親指が額をつたい、眉間に触れる。しかし何かをされるわけではない。痛くもない。男は自身の騒がしい心臓をなんとか落ち着けようと深呼吸を試みるが、焦りからか呼吸は早まる一方である。
「……ラグド・シュルツェルガというのか、お前は」
ヴァレクの手が、男から離れた。
男は驚いて頭を持ち上げ、ヴァレクを見る。
「シュルツェルガってのは聞かねぇ音だが、海向こうの国で産まれたってのは納得だ。そして、お前みたいな境遇の人間は、信仰に染まりやすい」
男は、信じられないとでも言いたげに瞳を揺らす。
「今更驚くなよ。俺はひと通りの魔法が使える。もちろん干渉魔法もな。お前の頭の中を見ただけだ」
干渉魔法は難易度が高く、使える者はこの世界でもごく少数である。
難易度とは組み合わせに比例する。魔法は難易度が上がるほど、いくつかの魔法を同時に発動する必要が出てくるのだ。そして同時に発動するために、消費する魔力も多くなる。
使えるが使わない、知っていても手は出さない、それが難易度の高い魔法であり、そして「干渉魔法」である。
もちろん、男にもその知識はある。難易度の高い魔法は使えないが、都市伝説的に「使える者もいるらしい」程度には聞いたことはあった。
「今からお前の口につけられた布を解く。死んでも良いが、俺は修復も上手いんだ。何度も死ぬ覚悟があるのなら、舌を噛み切ればいい」
男の後頭部に、ヴァレクの手が回る。その手は、簡単に男を殺せるのだろう。なにせヴァレクは難易度の高い魔法すら平気な顔をして発動する。人を殺すことなど容易いはずだ。しかし大人しくは殺してもらえないのだろう。先ほどの発言を考えれば、死ぬ寸前で修復される。男に残されるのは、死にたくなるほどの苦痛だけである。
ヴァレクは男の口の布を解くと、改めて男と目を合わせた。
「……ミレナ・ルクレティアの目的はクラリスで間違いはないのか」
干渉魔法を使うのならば、隠しても意味はない。男は早々に諦め、震えながらも一つ頷く。
「なぜ聖女狩りを?」
「…………偽物ばかりだからだ。あの御方以外はみんな偽物で、愚かにも神になろうとしている。だから神に近づこうとすることを諦めさせる必要がある。諦めない者は殺した。そうしなければ、あいつらは自分の愚かさに気づかない」
「なるほど。……アストラはどうやってお前たちに近づいた」
「……アストラ様は、おれたちの思想に賛同してくれた。協力もしてくれた。アストラ様のおかげで、おれたちは大きな組織になれた。ミレナ様もあの御方さえ居ればと、」
ゴポ、と、突然男の口から大量の血が溢れた。
途端、男の指先から、まるで水分を抜かれたかのように干からびていく。
男自身も驚いていた。しかし血は止まらない。口から溢れた分だけ、体がゆっくりと干からびている。
「ミレナ、様、な、ぜ、」
「口封じか」
おそらく呪いの類なのだろう。男はみるみるうちに干からびて、体中の血液を吐きながら死んだ。
「ミレナ・ルクレティアはこういった類の魔法を使わないはずだが……」
底抜けに明るく無邪気なお馬鹿。それがヴァレクから見たミレナ・ルクレティアである。魔力の質は性格にも影響を及ぼすと言われているため、あのミレナが呪いの類を発動させるなど見当もつかない。そもそも、ミレナの魔力からそれを感じたことすらなかった。
「そういえば喋り方も違っていたか」
よくよく思い出せば違和感もある。対峙したときにはクラリスを助けなければとそればかりで、ミレナの様子を見る余裕すらなかった。
口調や雰囲気が違う。となると、あれは本当にミレナだったのだろうか。
ヴァレクは一旦、干からびた男の頭に手を置く。目を閉じ、男の中に残る呪いのカケラを探していた。
「……巧妙だな。痕跡がほとんどない」
呪いをかけるには自身の魔力を多少相手に渡した状態となるため、呪いをかけた者への負担も、追跡されるリスクもある。前回アナスタシアの霊石で呪い返しが起きたときには「霊石から」呪いが出ていたために誰のリスクにもならなかったが、人から人への呪いは違う。
ヴァレクは小さな小さなカケラを見つけると、その呪い……もとい魔力が、呪った者へ還ろうとする動きに自身の魔力を乗せた。
気持ちの悪い魔力だった。男を呪った者は、きっとレオンハルトよりも反転の力が強いのだろう。
レオンハルトほど反転が強い者を知らないヴァレクは、その心地悪さを我慢しながら、緊張気味に気配を追う。
宿を出て空を飛び、目に見えない魔力がまっすぐに戻っていく様を、ヴァレクは目を閉じて感じていた。
しかし。
闇色の何かが突然、追跡するヴァレクに正面からぶつかった。衝突の瞬間、ヴァレクの追跡が終わり、反射的に目を見開く。
「……今のは……」
明確な敵意があった。魔力の宿主のものだろうか。
一つ確信できたのは、先ほどのものは絶対にミレナの魔力ではないということだ。ミレナと面識のあるヴァレクは彼女の魔力を知っているし、万が一ヴァレクに反転の魔力を隠していたとしても、先ほどのアレは反転よりもあまりに澱んだ、ドス黒い別の何かだった。
「……化け物じみた魔力だな。これ以上はやめておくか」
ヴァレクは干からびた男から呪いのカケラを探すことをやめ、男を移動させるべく、秘密裏に近くに居る衛兵を手配した。




