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愛され聖女、社畜堕ち  作者: 長野智
第1章
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プロローグ


 聖女——それは、大聖堂に勤め、国や国民のために自らを犠牲とし、安寧を与える存在である。

 ルステリア王国においては聖女が少なく、現在では五名ほど。それぞれ別の大聖堂にて職務を全うしており、王都・アステルにあるアステル大聖堂には、一番力の強い聖女が配置されていた。

 聖女にとって、アステル大聖堂に呼ばれることは栄誉あることであり、そしてみなそこを目指して頑張っている。

 基本的にはみな精進するものだが——聖女らしからぬ性質を持った者が混ざると、どうしても諍いが起きるものだ。


「どうして怠惰なあんたがアステル大聖堂で王都の聖女をやってるのよ! 顔がいいからってどうせ国王を抱き込んだんでしょ!」


 北の大聖堂、ルザリア大聖堂の聖女であるルーシン・フィリスは、紅の髪を揺らしながら、燃えるような瞳に挑発の色を滲ませて憤慨していた。

 ルーシンがアステルに訪れることは珍しいことではない。ルーシンはいつもアステル大聖堂に訪れ、そしていつも、アステルの聖女であるクラリス・セントクレアに噛み付いている。

 なぜなら、

「私はしっかり聖女のお仕事していますよ〜? まあたまに、殿下やアストラ様にお茶のお誘いを受けてしまって、お仕事ができないときもありますけど、ね?」

 クラリス・セントクレアという聖女は、それはそれは綺麗な容姿をしているものだから、周囲から愛され、甘やかされ、王都の聖女というのに、聖女の役割を全うしないことが多いからだ。

 今も、憤慨するルーシンを前に、クラリスは礼拝堂にある長椅子でまったりとくつろいでいる。

「ルーちゃんも、もっと上手くやればいいんですよ〜」

「本当許せない……私は! 本当はしっかり能力もあるのにそれを無駄にしてるあんたの性根が許せない!」

「ルザリアは落ち着いた土地なのに、ルーちゃんは熱いんですねぇ」

「ふふ……そうやって余裕でいられるのも今のうちよ……」

 ルーシンは祈るように手を合わせた。聖女がその力を……いわゆる『祈りの魔法』と呼ばれる魔法を発動させるときにする仕草である。

 通常ならばそのまま聖なる詠唱を始めるのだが。

「祈りの、反転魔法」

 ルーシンは合わせた手を、するりと、九十度ほどずらした。

「ルーちゃん?」

「私たち聖女には『前の生』があって、その生があまりに素晴らしいものだから聖女として生まれたと言われているのは知ってるわよね?」

「もちろん」

「だからその『素晴らしい前の生』を、思い出させてあげる」

 ふわりと、ルーシンの髪が揺れた。

 風が吹く。ルーシンから伸びる光の線が床を這い、風と共にクラリスへと向かう。

「沈んだ記憶よ、魂に戻れ」

 言葉と同時に、ルーシンが祈るように手を重ねた。

 クラリスに到達した光の線が弾けた。光の粒はそのまま、クラリスを包み込む。

「聖女フィリス、また来ていたんですか」

 慣れた様子でやってきたのは、クラリスの護衛騎士であるレオンハルト・アルブレヒトである。彼は一九〇という大きな体格である上に、護衛騎士だけあって体も分厚く、さらには表情も変わらない。その威圧的な存在感を恐れて、クラリス以外の者は近づこうともしない存在である。

 とはいえ、ルーシンには見慣れた男だ。

「あんたがクラリスを躾けないから私がやっているんだけど?」

「クラリス様は仕事はしています」

「最低限ね! それならアステル大聖堂をほかに譲りなさいよ! どうして最低限しか働かないクラリスが居るのよ!」

 二人が言い合う中、どさりと、クラリスの体が倒れた。

 光は溶けて消えていた。残されたクラリスは、まるで眠るように安らかな表情を浮かべている。

「クラリス様……!」

 レオンハルトが慌てて駆け寄り、クラリスを抱き上げた。レオンハルトからすれば、クラリスなど羽のように軽いだろう。

 屈強な腕の中。クラリスが薄く目を開く。

 心配そうに覗き込むレオンハルトとルーシンは、それぞれが別の意味で緊張していた。

 そして。

「ああ、そうでした。私、仕事しないといけないんです。定時上がりはクソ、残業こそ正義。二十二時からギア入れて、二時間おきにレッドブルをぶち込まないと」

 二人にとっては、意味不明なことを口にした。

 クラリスは先ほどまでとは打って変わって、やけに生き生きと目を輝かせている。

「……クラリス様?」

「どうしたんですかレオンハルト、お仕事しますよ〜」

「いけませんクラリス様、そのようなことをしてはまた殿下が、」

「あれ、おかしいですね、私としたことが、頭の中にタスクがまとまってない……あーもやもやします。すみませんレオンハルト、私、今すぐにタスク整理したいので先に行きますね!」

 クラリスは楽しそうに笑いながら、軽快な足取りで礼拝堂から出て行った。

 途端に、その場はシンと静まり返る。ルーシンは笑顔を引き攣らせ、恐る恐るレオンハルトを見上げた。

 ぐるりと振り向いたレオンハルトは、真っ青な顔に怒りを宿す。

「……何をしたんですか……?」

「ヒィ! すみません! まさかクラリスが避けないと思わなくて……」

 ルーシンはしどろもどろに、レオンハルトに顛末を伝える。話すたびにレオンハルトの表情が恐ろしく変わるために、言葉を途切れさせながらではあるが。

「……つまり、本来禁止されている反転魔法を、上手くいくとも分からない状態でクラリス様にかけたと」

「要約するならそうね……」

「なるほど、あれがクラリス様の『前の生』の性格であるのなら納得です。……いち早く戻しますよ」

「もちろん、すぐに!」

 レオンハルトのあまりの形相に、ルーシンは慌てて礼拝堂を後にした。

 二人はすぐさま、クラリスのもとに向かう。

 しかし。

「いいですか、アストラ様は大変多忙なお方です。私たちがどれほど作業量を減らせるかが肝になります。それというのに……あなたは今、何をしていますか?」

「え、えっと……各地からの嘆願書を、領地ごとに分けております。このあと、司教であるアストラ様にご確認いただき、もしも通るようであればクラリス様のお仕事になる予定の……」

「ああ、ダメです! ほら見てください、同じ領地で同じ申請者もあるのに、分けられたあとにまったくまとまっていません! このまま提出したらアストラ様の確認も時間がかかってしまいます。この時点で名前の順番に並べてまとめておきましょう。そうしたらまとまった状態で確認できるでしょう?」

 レオンハルトとルーシンは、クラリスの変貌を遠くから眺め、頭を抱えた。レオンハルトの表情は絶望である。

 執務室に来てみればすでに、クラリスは生き生きと働いていた。指摘を受けた執務官たちは背筋を伸ばし、クラリスの指示を素直に受けている。

 ルーシンは伺うようにレオンハルトを見たが、レオンハルトはルーシンを見ることなく、大股にクラリスへと歩み寄る。

「クラリス様、殿下がお呼びです」

「ヴァレク様が? お断りしてください。私は今忙しいので」

「いいえ、殿下のお言葉は絶対で……」

「あなた、ヴァレク様が死ねと言ったら死ぬんですか? あなたの命の価値はなんですか? ヴァレク様のご機嫌のためのものですか? そう聞くと『お仕事だから』と言う方は多くいらっしゃいますが、人間は基本的に『快』に流される生き物ですから、そう言った方は長い物に巻かれてただぼんやりとつまらない人生を送っているだけのくせに『仕事だから』と言い訳をしているだけなんですよねぇ。なんてつまらない人。もっと自由に生きたほうが絶対にいいですよ。そうだ、今度面白い演劇を紹介して差し上げます。一緒に行きましょう!」

「……死にたくないので、行きません」

 グサグサと多くの言葉のトゲが、レオンハルトに深く突き刺さる。ルーシンは口も挟めず、すっかり変貌したクラリスを眺めることしかできない。どうしようかと考えあぐねているところで、クラリスの目がくるりとルーシンに向けられた。

「ルーちゃん、ルーちゃんは何をしているのですか?」

「……へ? わ、私……? えっと、私は、あんたに喝を入れに……」

「喝を入れに? わざわざ王都まで? 北の大聖堂からここまで約五時間、その間北の大聖堂はどうしているんですか? 多忙な司教様が、ルーちゃんの代わりに仕事に追われているのではないですか? ルーちゃんは周りのことを何一つ考えられないのに、王都の聖女になりたいんですねぇ。自分のことだけを考えて感情のままに動いていたら、王都の聖女になれると思っているなんて……とっても素敵な思想を持っているんですね」

 ひと息でそう言うと、クラリスはにっこりと、やけに眩しい笑みを浮かべた。

 クラリス・セントクレアは、天使とも囁かれるほどには眉目秀麗である。その金の髪と碧眼も相まって、まるで絵画の中から出てきた天使と見紛うほどだ。

 そんなクラリスが、ひと息で毒を吐く。

 ルーシンの胸には大きなトゲがぐさりと刺さり、すでに致命傷だった。

「ぐっ……な、何この破壊力……正論すぎて……」

「言っておきますが、こんなのは序の口です。それよりも、この状態が殿下にバレるわけにはいきません……早く元に戻してください。ようやくあのふわふわな状態になったのに……」

「もちろん……こんな状態のクラリスなんて嫌だわ。あの顔に毒を吐かれたくない……!」

 ルーシンが手を合わせ、

「祈りの、転律魔法」

 先ほどの方向とは逆に、手のひらを九十度ほど滑らせる。

 しかし、ルーシンが詠唱するよりも早く、クラリスが手を合わせた。

「祈りの正転、整律魔法」

 かと思えば、次には指を開き、指先だけを合わせた形で魔法を発動する。

 クラリスの背後から光の矢が現れた。あまりにも巨大な矢だ。ルーシンの魔法が飲まれ、クラリスの魔法だけが取り残される。

「……嘘でしょ……あんた、こんな力……」

「さあルーちゃん、存分に正しくなってください」

「まっ!」

「神の祝福により、悔い改めよ」

 光の矢がまっすぐにルーシンに向かった。

 ルーシンは目を閉じる。咄嗟に庇うように前に出たのはレオンハルトだった。

 しかし。

 レオンハルトよりもさらに前に、一人の男が滑り込んだ。

 光の矢が霧散する。代わりに炎が取り残された。

 ルーシンが目を開けると、光の矢はなく、目の前にはレオンハルトと、大剣を持った男の背中が見える。大剣には炎がまとっていた。

「……あら、ヴァレク様。こんにちは」

 クラリスは「不愉快です」とでも言わんばかりに、その男を見ていた。

 男が振り返る。銀の髪に青い瞳という落ち着いた色を持っているが、その目つきや仕草は粗野で、うんざりとした表情を浮かべているために少々恐ろしくも見える。

 レオンハルト越しに男を見ていたルーシンだったが、その男を見て礼をとった。

「……レオンハルト……これはどういう状況だ」

「申し訳ございません。話せば長くなるかと……」

「申し訳ございません、殿下! 私が反転魔法を使用し、クラリスがあのような状態に」

「反転魔法だぁ?」

 ルステリア王国王太子であるヴァレク・ルーデンハルトは、ルーシンを不愉快と言わんばかりの表情で睨み下ろした。

「……余計なことをしたなお前。おいレオンハルト、クラリスを礼拝堂へ連れて行け。アストラに戻させる」

「相変わらず横暴な態度をしていらっしゃるのですね、ヴァレク様。ああ、偉いお立場の方はそれでよろしいのでしょうか? ですが部下はどうでしょう、ほら、レオンハルトなどすっかり萎縮してしまって……いいですか、良い職場というのは、従業員満足度の高い職場です。それがやる気に繋がり、パフォーマンスの向上に繋がり、生産性に繋がります。ヴァレク様の今のやり方では到底無理ですが、そのやり方で今後も続けられるおつもりですか?」

「俺が限界を迎える前に早く戻せ……!」

「ですがヴァレク様、近づこうにも、クラリス様に魔法を使われては私には手出しできません。クラリス様のお力は強く……それに、万一私がクラリス様に触って怒るのはヴァレク様でしょう」

「当たり前だろ。……それならお前がクラリスを礼拝堂へ連れて行け」

 矛先がルーシンに向けられる。ルーシンは小刻みに首を振った。

「先ほど、反転魔法を解く魔法を発動したのですが、クラリスの力が強く負けてしまいまして……」

「使えねぇなぁ、どいつもこいつも」

 放心状態だった周囲はすでに、クラリスの指示により業務を再開していた。みなクラリスの魔法を見て萎縮したのか、指示に逆らえないようだ。本当なら「聖女様がこのようなことをされないでください」と言いたいのだろうが、それを伝えることもできずしどろもどろに対応している。

 ヴァレクは頭を抱えた。そしてすぐにクラリスに歩みよる。

「クラリス、アストラのところに行かないか。仕事の状況とか聞きたいだろ」

 それまでまったくと言っていいほどヴァレクに興味のなかったクラリスだったが、ヴァレスの言葉を聞いて上機嫌に振り向いた。

「確かに、そうですね! まずはアストラ様からタスクの棚卸をすることが大切です。ヴァレク様にしては良い提案をしてくださってありがとうございます」

「相変わらず一言多いんだよ」

 クラリスが、アストラのところに向かおうと一歩、足を踏み出した。

 直後、クラリスの目元に、ヴァレクの手が添えられる。

「落ちろ」

 ヴァレクのその一言で、クラリスの体からがくりと力が抜けた。

 咄嗟にヴァレクが抱きとめる。

「最初からそうなされば良いものを」

「クラリスにはあまり使いたくねえんだよ、この魔法。干渉魔法なんか使ってほしくもないだろ」

 クラリスを丁寧に抱き上げると、ヴァレクはレオンハルトとルーシンに目で合図をして、執務室を後にした。

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