3.スク―ルラブ∶雨上がりの教室、隣の席の君
高校二年生の梅雨の季節。じめじめとした空気が教室に漂い、窓の外では雨がしとしとと降り続いていた。そんな憂鬱な空気の中、僕はいつも通り、一番後ろの窓際の席で、退屈な授業を聞いていた。
隣の席には、同じクラスの佐藤さんが座っている。彼女はいつも静かで、授業中は真面目にノートを取っている。長い黒髪が、時折、ノートに落ちるのが見える。特に話したことはないけれど、彼女の存在は、いつの間にか僕の日常の一部になっていた。
ある日の昼休み。いつものように教室で一人で弁当を食べていると、突然、激しい雨が降り出した。窓の外は、白く煙ったようになっていた。
「うわ、すごい雨だね」
隣の席の佐藤さんが、窓の外を見ながら呟いた。彼女の声を聞いたのは、もしかしたら入学してから初めてかもしれない。少しドキッとした。
「うん、すごいね」
僕は、ぎこちなく答えた。
それから、なぜか少しだけ会話が続いた。雨の日の過ごし方、最近見た映画のこと、飼っている猫のこと。話しているうちに、佐藤さんが見せる、ふとした笑顔がとても可愛いことに気づいた。
それからの雨の日は、少しだけ楽しみになった。雨が降ると、僕と佐藤さんの間に、ささやかな会話が生まれるから。他愛もない話ばかりだけれど、彼女の声を聞いていると、心が安らいだ。
梅雨が明ける頃には、僕たちの間には、以前よりもほんの少しだけ、打ち解けた空気が流れていた。それでも、特別何かがあったわけではない。ただ、時々、目が合うと微笑み合う程度の、そんな関係だった。
二学期が始まってしばらくした、秋の日の午後。珍しく、授業中に強い雨が降り出した。雷の音も、遠くで聞こえる。
先生が、「今日はこれで授業を終わりにしましょう」と言った時、教室には小さな歓声が上がった。みんな急いで帰る準備を始める中、僕は窓の外を見ていた。雨はまだ強く、止む気配はなかった。
「傘、持ってきた?」
隣の席の佐藤さんが、少し心配そうな顔で僕に尋ねた。
「いや、今日は忘れた」
「よかったら、私の傘、一緒に入って帰らない?」
彼女の言葉に、僕は思わず顔を上げた。彼女は少し照れたように、でも真剣な眼差しで、僕を見つめていた。
「え、いいの?」
「うん。私も一人で帰るより、誰かと一緒の方が楽しいし」
ドキドキしながらも、僕は素直に甘えることにした。佐藤さんの持ってきた傘は、少し小さめのビニール傘だった。二人で入ると、どうしても肩が触れ合ってしまう。その度に、僕の心臓は早鐘のように鳴った。
雨の匂いがする中、僕たちは並んで歩いた。普段は別々の道を帰るのに、今日は同じ傘の下だなんて、なんだか不思議な気分だった。
「あのね」
しばらく歩いた後、佐藤さんが小さな声で話した。
「実は、前から思ってたんだけど…」
僕は、彼女の次の言葉を、息を呑んで待った。雨の音だけが、耳の奥で響いている。
「健太くんの絵、すごく好きだよ。いつもノートの隅に描いているの、見てるんだ」
まさか、僕の落書きを見ていたなんて。恥ずかしいけれど、それ以上に、彼女が僕の絵を好きだと言ってくれたことが、信じられないほど嬉しかった。
「え、本当に?」
「うん。いつか、ちゃんと見せてほしいな」
彼女は、そう言って、少しだけ微笑んだ。その笑顔は、雨上がりの空にかかる虹のように、僕の心を明るく照らした。
駅までの短い道のりが、永遠のように感じられた。傘の中で、彼女の温もりが、ほんのりと伝わってくる。
駅に着くと、僕たちの家の方向は反対だった。改札の前で、僕たちは立ち止まった。
「今日は、ありがとう」
僕が言うと、佐藤さんは少し照れたように、「こちらこそ」と答えた。
「あの…また、一緒に帰ってもいいかな?」
勇気を振り絞って、僕は言った。
佐藤さんは、少し驚いた表情をした後、嬉しそうに微笑んだ。「うん、いいよ。私もそう思ってた」
雨は、いつの間にか止んでいた。濡れた地面が、夕日に照らされてキラキラと輝いている。僕は、佐藤さんの笑顔をもう一度見つめて、小さく手を振った。
改札を通り、ホームに向かう階段を上りながら、僕は空を見上げた。雨上がりの空は、どこまでも澄み渡っていて、まるで僕の心の中のようだった。隣の席の君と、始まったばかりの、小さな恋の物語。これから、どんな展開が待っているのだろう。胸いっぱいの期待と、ほんの少しの不安を抱えながら、僕は電車に乗り込んだ。
(終)