2.青春∶あの夏のサイダ―と蝉の声
夏休み前の最後のホームルームが終わると、教室には解放感と、ほんの少しの寂しさが混じったような空気が流れた。窓の外では、容赦なく照りつける太陽の下、蝉の声がけたたましく響いている。
僕、健太は、机の上に突っ伏して、汗で少し湿った前髪をぐしゃぐしゃとかき上げた。ああ、やっと夏休みだ。受験生という立場ではあるけれど、この解放感は何物にも代えがたい。
「健太、行くぞ!」
後ろの席の亮太が、いつもの明るい声で僕を呼んだ。亮太は、クラスのムードメーカーで、いつも笑顔を絶やさない。彼の周りには、自然と人が集まる。
「どこへ?」
「決まってるだろ!秘密基地!」
亮太が言う秘密基地とは、学校の裏山にある、少し開けた場所のことだ。僕たちは小学生の頃から、夏休みになるとそこに集まって、くだらない話をして時間を潰していた。
今日は、クラスの女子グループも一緒に行くらしい。その中に、僕がずっと密かに想いを寄せている、同じクラスの美咲もいると聞いて、少しだけドキドキしていた。
秘密基地に着くと、すでに何人かのクラスメイトが、木陰に陣取って騒いでいた。美咲は、白いワンピースを着て、木漏れ日の中で笑っていた。その姿は、まるで夏の妖精のようだった。
亮太は、持ってきたレジャーシートを広げると、大きな声で「さあ、みんな、座れ座れ!」と叫んだ。僕たちは思い思いの場所に腰を下ろし、それぞれが持ってきたお菓子やジュースを分け合った。
最初は、他愛もない話で盛り上がっていた。夏休みの計画、アルバイトのこと、最近見た映画のこと。でも、時間が経つにつれて、会話は少しずつ途切れ途切れになり、それぞれの時間を過ごし始めた。
僕は、持ってきた文庫本を開いたけれど、なかなか集中できなかった。美咲のことが気になって、ちらちらと彼女の方を見てしまう。彼女は、友達と楽しそうに話していて、僕の存在には全く気づいていないようだった。
少し勇気を出して、美咲の近くに座ってみた。「何読んでるの?」と話しかけると、彼女は少し驚いた表情で顔を上げた。
「あ、健太くん。これ?夏目漱石の『こころ』だよ」
少し意外だった。美咲のような明るい子が、こんな少し難しい小説を読んでいるなんて。
「面白い?」
「うん。まだ途中だけど、人間の心の複雑さが描かれていて、すごく考えさせられるんだ」
それからしばらく、僕たちは本の話をした。美咲は、小説の内容について熱心に語り、時折見せる真剣な表情に、僕はますます惹かれていった。
話が途切れると、今度は亮太が大きな声で、「そうだ!みんなで花火やろうぜ!」と提案した。誰かが持ってきた花火セットが、リュックから取り出される。
夕暮れが近づき、空の色がオレンジ色に染まり始めた頃、僕たちは秘密基地の少し開けた場所に移動して、花火を始めた。
線香花火の儚い光、手持ち花火のパチパチという音、そして、時折上がる打ち上げ花火の大きな爆音。夏の夜の匂いが、鼻をくすぐる。
美咲は、花火の光に照らされた横顔が、とても綺麗だった。僕は、勇気を出して、彼女の少しだけ近くに立ってみた。
「綺麗だね」
隣で、美咲が小さく呟いた。
「うん、すごく綺麗だ」
僕は、花火ではなく、彼女の横顔を見つめていた。
花火が終わると、あたりはすっかり暗くなっていた。懐中電灯の明かりを頼りに、僕たちは秘密基地を後にした。帰り道は、行きよりも少し静かだった。
美咲とは、少しだけ距離が縮まったような気がした。でも、それはただの気のせいかもしれない。夏の花火のように、一瞬の幻だったのかもしれない。
別れ際、美咲は僕に微笑んで、「またね」と言った。その笑顔が、僕の胸に小さな火を灯した。
夏休みが始まったばかりだ。この夏、僕たちの関係は、少しでも変わるだろうか。蝉の声が、まだ耳の奥で響いている。あの夏のサイダーのように、甘く、そして少しだけ炭酸が効いたような、そんな予感がした。
(終)