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1.日常の一コマ∶屋上と消しゴムの音

時刻は昼休みを少し過ぎた頃。四月の柔らかな陽光が、埃っぽくもどこか懐かしい匂いのする屋上に降り注いでいた。コンクリートの照り返しが目に痛いほど明るい。フェンスの向こうには、遠くの山並みがぼんやりと霞んで見えた。

僕はいつものように、屋上の隅のコンクリートの塊に腰を下ろしていた。特に何かをするわけではない。ただ、ぼんやりと景色を眺めたり、行き交う雲の流れを追ったりするのが好きだった。教室の喧騒が嘘のように遠く、ここだけ時間がゆっくりと流れている気がした。

ポケットから取り出したのは、使いかけの消しゴムと、落書きだらけのノート。授業中に先生の話を聞きながら、無意識に描いてしまう意味のない線や図形が、ページのあちこちに散らばっている。今日は何を思ったか、その落書きの上を丁寧に消しゴムでなぞっていた。

「こんなところで何してるんだ?」

不意に声をかけられ、顔を上げた。そこに立っていたのは、クラスの委員長の真面目な女子、山田さんだった。いつもきっちりと制服を着こなし、眼鏡の奥の瞳は真剣そのもの。僕のような屋上の常連とは、住む世界が違うと思っていた。

「別に。ただ、ぼーっとしてるだけ」

僕は素っ気なく答えた。山田さんは少し訝しげな表情をしたが、すぐにいつもの冷静さを取り戻した。

「もうすぐ午後の授業が始まるわよ。教室に戻らないと遅れるわ」

「分かってる」

そう言いながらも、僕は立ち上がる気になれなかった。屋上の風が心地よく、もう少しこの静けさに浸っていたかった。

山田さんは僕の様子をしばらく見ていたが、ため息をつくと、少し離れたフェンスのそばに立った。彼女もまた、何か考え事をしているようだった。風が彼女の短い髪を優しく撫でる。普段は気が付かないけれど、山田さんの横顔は、意外と繊細な線をしていると思った。

沈黙が流れる。屋上には、風の音と、遠くで聞こえる車の音だけが響いていた。僕は再び消しゴムを手に取り、ノートの隅の落書きを消し始めた。カサカサという小さな音が、屋上の静けさの中で妙に大きく聞こえる。

ふと、山田さんが口を開いた。

「あのね、私、進路のことで悩んでるの」

意外な言葉に、僕は消しゴムを持つ手を止めた。委員長で成績も優秀な山田さんが、進路に悩んでいるなんて想像もしていなかった。

「そうなのか」

気の利いた言葉は見つからず、僕はただそう答えるのが精一杯だった。

山田さんは少し自嘲気味に笑った。「みんなには、私がもう将来の目標を決めていると思われているみたい。でも、本当はまだ何も見つかっていないの。何がしたいのか、何に向いているのか、全然分からなくて」

彼女の言葉は、僕の心に少しだけ響いた。僕もまた、将来のことなんて何も考えずに、ただ目の前の時間をやり過ごしているだけだったから。

「別に、焦らなくてもいいんじゃないか」

僕は自分の言葉の軽さに気づきながらも、そう言った。「まだ時間はあるんだし」

山田さんはフェンスの向こうの景色をじっと見つめていた。「そうね。でも、周りのみんなはどんどん進路を決めていくから、焦ってしまうのよ」

再び沈黙が訪れた。今度は、どちらからともなく、言葉を発することはなかった。ただ、同じ屋上の片隅で、それぞれの時間を過ごしている。

僕は再び消しゴムを動かし始めた。今度は、ただ落書きを消すのではなく、ノートの白いページに、何か意味のあるものを描いてみようと思った。でも、結局何を描けばいいのか分からず、ただ消しゴムで白紙を撫でるだけだった。

その時、チャイムが鳴った。午後の授業の始まりを告げる、少し憂鬱な音。

「行かなきゃ」

山田さんはそう言って、僕に軽く会釈すると、屋上の扉に向かって歩き出した。

僕は少し遅れて立ち上がり、山田さんの後を追った。屋上から続く階段を下りながら、ふと思った。あんな風に誰かに自分の悩みを打ち明けるなんて、山田さんも意外と普通の子なんだな、と。

教室に戻ると、いつもの喧騒が僕たちを迎えた。山田さんは自分の席に戻り、真剣な表情で教科書を開いている。僕は自分の席に座り、先ほどの落書きだらけのノートを開いた。

消しゴムで撫でられた跡が、うっすらと残っている白いページ。そこに、今日見た山田さんの横顔を、なんとなく描き始めてみた。下手くそな線だけど、確かにそこに、今日の屋上の、ほんの一コマが刻まれている気がした。そして、消しゴムの微かな香りが、まだ鼻に残っていた。


(終)






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