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あの日の約束

作者: 徳永夏樹

 石沢彩月は幼い頃に住んでいた街に娘の彩葉と久し振りに訪れていた。

「あっ、公園」

 彩葉が指さした先にある公園を見て彩月の頭の中にある記憶が鮮明に浮かび上がっていた。彩葉が走って行こうとしたので彩月は慌てて止めた。

「ここは遊べる公園じゃないんだよ」

 草が生い茂っている公園を見てもうここで遊ぶ子供はいないんだなと彩月は寂しく思っていた。

「あそべない公園ってなに?すべり台もブランコもあるよ」

「そうだね。でも草いっぱい生えてるでしょ?それはこの公園で遊ぶ子はいないって事なの。あっちに大きい公園あるからそっちで遊ぼ」

「うん」

 すんなりと納得してくれて良かったと手を繋ぎ、歩き出そうとした所で公園からガサガサという音が聞こえてきた。

「おかあさん、なにかいる」

 彩月の手を力強く引っ張って彩葉は公園に入ろうとした。彩葉の膝下まで伸びている草の中、何がいるか分からない所に行くのは危険だと彩月も力を込めて彩葉を止める。

「彩葉、ライオンがいるかもしれないから入っちゃダメ」

「だいじょうぶだよ。公園にライオンはいないんだよ。ライオンは動物園とかとおい国にいるんだよ」

 子供らしく素直に信じて怖がって欲しい。自分が五歳の時はもっと子供らしかった。きっと夫の葉輔が事あるごとに「彩葉はママよりしっかりしてるな」と言うせいだ。そんな事を考えている内に彩葉は彩月の手を振り切って公園の中へと走って行った。

「彩葉っ」

 こうなると止められないのは母親である自分が一番分かっていると彩月も公園の中へと入る。

「おかあさん、イヌがいるよ」

 彩葉が指さす先にブランコの支柱にリードをくくりつけられたコーギーが居た。近くに段ボールがあり、さっきの音はそこに入っている袋の中からボールを取り出した時のものらしい。と倒れた段ボールと転がっているボールを見て彩月は判断した。こんな所におもちゃと一緒に置き去りにされているという事は捨てられてしまったのだろう。

「ここなにか書いてる」

 彩葉が指さした先には『訳あって飼えなくなりました。誰か引き取って下さい』と書かれていた。捨て犬のコーギー?と思っていたが、何かしらの理由があるならそういう事もありえるのかと一人頷いていた。

「なんて書いてるの?」

 彩月は何と答えたらいいか悩んだ。素直に言えば家で飼おうと言われ、適当に誤魔化すと目の前の犬を見捨てる事になる。葉輔は犬が苦手だ。いや、大の犬嫌いだ。だから連れて帰る訳にはいかない。

「もしかして捨てられたの?」

 そう聞かれると頷くしかなかった。そして彩葉は

「じゃあ家につれて行こう」

と予想通りの言葉を口にした。

「パパがダメって言うよ」

 彩葉はママとパパと呼ぶのは子供だと早々にお母さん、お父さんと呼ぶようになったが、彩月と葉輔はママ、パパと呼び合っていた。

「まごころ込めてお願いすればきっとおとうさんもいいって言うよ」

 彩葉は幼稚園で色んな言葉を覚える。今も真心という単語が彩葉から出て来た事に驚き、彩月は思わず笑っていた。

「真心込めてもダメなものはダメなんだよ」

「どうして?」

「それぐらいパパは犬が嫌いなんだよ」

「こんなにカワイイのに」

「ねっ」

 思わず同調してしまった。そうしてしまえば絶対に飼いたいと言われるのは分かっていたが、警戒心ゼロのコーギーは嘘でも可愛くないとは言えなかった。

「お母さんもカワイイって思ってるんだね。じゃあ、お家につれていこう」

 葉輔の事を考えると絶対に連れて帰ってはいけない。そう思っていたが、それ以上に幼なじみとの約束が彩月の頭の中で繰り返されていた。そして約束した季節も今ぐらいの季節だった。もう十五年も前の事なのに今でも鮮明に顔も声も思い出せる。こうなればもうダメだ。自分一人では葉輔も絶対に首を縦に振らないが、彩葉の願いなら最終的に首を縦に振らざるおえないだろうと

「パパに一緒にお願いしようか」

と言った。そして葉輔を絶対に説得出来る最終手段を思い付いていた。

「彩葉がつれてく」

 リードを取ろうとした彩葉の手を掴み

「一回、お医者さんに連れて行こう。そこまではママが連れて行くから我慢して」

「このイヌ病気なの?」

「分からないけど、そうかもしれないから。だからお医者さんがお家に連れて行っていいよって言ったら彩葉がリード持つ係ね」

「しょうがないからおかあさん先でいいよ」

 もしかして自分が先にリードを持ちたいが為の口実と思われているのだろうか。そうじゃないと言い聞かせたかったが、言えば言うほど自分が子供に感じられると彩月は黙ってリードを外し、段ボールにおもちゃを入れて公園を出た。


「うわっ、ビックリした。一体何事?」

 葉輔に帰ってくる時間を教えて欲しいと連絡し、彩月は彩葉と二人、帰って来る時間に合わせて玄関で正座していた。

「おとうさん、イヌを飼いたいです」

「それは彩葉の頼みでもダメ。ママにもそう言われなかった?」

「いわれた」

「じゃあ話しは終わり」

「それが終われない理由があるの」

 彩月は彩葉に目配せをして彩葉は小走りでリビングへ向かい、犬を連れて戻って来た。犬は元々この家に居ましたよみたいな雰囲気で彩葉を引っ張って来た。それを見た葉輔は文字通り固まっていた。

「おとうさんがいいって言わなかったら彩葉もうおとうさんとオフロ入らない。手もつながない」

 これが最終手段だった。娘が生き甲斐の葉輔にこれ以上の言葉はない。

「ママ、ちょっと。彩葉、パパ達はちょっと大人の話ししてくるからちょっと待ってて」

「彩葉もおとなの話ししたい」

「パパ達は外でお話しするから、彩葉まで来ちゃったらワンちゃん可哀想だろ。だから彩葉はワンちゃんを守る係な」

「分かった」

 葉輔に連れられ玄関の直ぐ前で話しを始める。彩葉を一人残したまま玄関前を離れる訳にはいかないという冷静さはある様だ。

「どういう事だよ」

「彩葉といつもの気まぐれ散歩をしてたら捨て犬を発見して、彩葉がどうしてもって言うから」

「俺が犬嫌いなの知ってるだろ」

「ちゃんと彩葉にもそう言った。私も最初はダメって言ったの」

「じゃあ何で家にいるんだよ。そもそも本当に捨て犬なのか?詳しくは知らないけど、人気の犬なんじゃないのか?」

「彩葉もだけど、私もどうしても飼いたいって思っちゃって。今って人気犬種の捨て犬多いんだって。獣医さんが言ってた」

 可愛いと思って飼ったものの思っていた感じと違うと捨てる人がいると聞いてこの犬がどういう事情で捨てられたかは分からないが、酷い事をする人達がいる事に彩葉と二人で怒りながら帰って来た。

「獣医にまで連れて行ったのか」

「家に連れて帰る以上はちゃんと診てもらわなきゃと思って」

「で、別に病気持ちじゃなかったのか?」

「うん、でも結構おじいちゃんみたい。後、肥満だって。だからそんなに長くは生きないって」

「その事、彩葉には?」

「言ってない」

 葉輔は盛大にため息を吐いた。

「とりあえず、その事は彩葉にちゃんと言えよ。後、俺には絶対に近づけるな」

「飼っていいの?」

「連れて帰って来たものはしょうがない。余所に引き取ってもらうのも彩葉が許さないだろ。にしても彩葉に入れ知恵したろ?」

「それはゴメン」

「とりあえず飯食ったらそこまでして彩月が犬を飼いたかった理由聞かせて」

「分かった」

 話しは終わりだと彩月は勢いよく玄関を開けて

「パパがいいよだって」

と直ぐそこに居た彩葉に大声で言った。その声に彩葉とボールで遊んでいた犬も反応し、彩月を見た。

「やったー。おとうさんありがとう。だい好き」

 彩葉は恐る恐る玄関に入って来た葉輔に抱きついた。険しかった葉輔の顔が一瞬にしてだらしなくなる。

「でもママから彩葉に大事なお話しがあるの」

「なに?」

「あっちでお話ししよう」

 葉輔が家の中に上がりたそうにしていたので、彩月は犬を抱っこしてリビングへと連れて行った。

「このワンちゃんはもうおじいちゃんなの。だから彩葉が大きくなるまでは一緒に居られないの。他のワンちゃんより太っちょさんだから病気になりやすくて、もしかしたら一緒に居られるのはほんの少しだけかもしれない。それでもいい?」

「うん、病気にならないようにいっぱいお散歩に行って、いっぱい一緒にいられないからたくさん遊べばいいんだよね?」

「そう。正解。彩葉天才っ」

 親バカだとは分かっているが、彩月は本心でそう言って彩葉の頭を撫でる。もうちょっと子供らしくとも思うが、理解が早いのは助かっていた。

 周りから見て平均的な子でも親だけは子供を信じてバカみたいに可愛がりなさい。と葉輔の母親である良子に言われていた。

「彩葉が名前つけてもいい?」

「うん、いいよ」

 飼い主を特定されるのを避ける為か犬はもちろんの事、置いてあった段ボールを隅々まで探しても名前は書かれていなかった。

「この子おとこの子なんだよね?」

「そうだよ」

「じゃあ、たいら」

 葉輔以上に忘れられない名前が彩葉から出て来て彩月は固まった。

「せいぎの味方タイラー」

 たいらではなく、タイラー。彩葉が好きなアニメに出て来るヒーローの名前だった。一緒にアニメを観ている時からタイラーという名前は何度聞いても彩月の中では太楽に変換されていた。まさかあの公園に居た犬にタイラーという名前を彩葉がつけるなんて。これは運命だと彩月の目は少し潤んでいた。そんな彩月の様子に彩葉は全く気付く事なく、何度も嬉しそうにタイラーと呼んでいる。元々どういう名前で呼ばれていたのかは分からないが、彩葉が何度も呼ぶ内に犬は自分がタイラーになった事を理解した様でタイラーという呼びかけにちゃんと反応していた。


「で、どういう事?」

 まだタイラーと遊びたいとごねる彩葉をこれからいっぱい遊べるからと何とか寝かせ、彩月はダイニングテーブルで葉輔と向かい合っていた。

 いつも楽しい話しの時はソファに座って二人ともお酒を飲まないので、紅茶を飲みながら話す。今、二人の前に置かれているのは葉輔が用意した水だった。真剣に話しがしたいという気持ちと許可したものの犬を連れて帰って来た怒りがあるのだろう。これは時間が掛かってもちゃんと話さないといけないと思いながら彩月は口を開いた。

「今日、彩葉と散歩に行ったの私が五歳まで住んでた街だったの」

 彩葉は電車やバスに乗る度にここには何があるの?誰が住んでるの?と毎回聞いて来る。それならと途中下車をして散歩をしようと彩葉が降りたいと行った駅で降り、散歩をするというのが彩月のパートが休みの日の恒例になっていた。それを彩月は彩葉の気まぐれ散歩と呼んでいた。

「その時に公園を挟んで向かいの家に住んでいた同い年の男の子と毎日の様にその公園で遊んでたの。で、私が引っ越す事になってその子とはまたいつかこの公園で会おうねって言って別れたの」

 本当はちゃんとした別れはしていない。いつか離れ離れになってもこの公園で会おうといったのは本当だったが、それは別れの日ではなかった。でも今はそこまで細かく話さなくていいと判断した。

「高校生の時にイジメられてたって話ししたでしょ?」

 その問いかけに葉輔は眉間にシワを寄せて頷いた。

「その時にふとその子に会いたいなって思ったの。その子に会ってただ純粋に楽しく遊んでいたあの時の気持ちを思い出したいなって。そう思って公園に行った」

 葉輔は途中で口を挟まないと決めているのか腕組みをしてジッと彩月の顔を見ている。

「そしたらビックリする事にその子がその公園に居たの。その子も私の事覚えてくれていて、一週間毎日公園で話してた」

 多分、この後の事はさすがの葉輔でも直ぐに信じられないだろうと彩月は思っていた。それでも一番大事な所なので言わない訳にはいかなかった。

「で、再会して七日目にその子に自分は幽霊だって言われたの」

「はっ?」

 やっぱりそういう反応になるよねと彩月は思わず笑っていた。

「えっ、冗談?」

 彩月が笑った事で葉輔に冗談だと思われたらしい。彩月は慌てて真面目な顔になって

「ゴメン、あまりにも予想通りの反応だったから思わず笑っちゃった」

と言った。

「幽霊だったのはホント。私はこの目でその子の姿が消えていくのを見た。それにその後にその子の両親に会ったんだけど、確かに私が会う前に事故で天国に行ったって。その時に仏壇に手を合わさせてもらったし、信じられないならスマホで検索したら当時の記事出て来ると思う」

「いや、信じるけど」

 葉輔は人の事を絶対にバカにしない。大人になってもサンタクロースを信じている人が居れば、その人の夢を壊さない様にする。彩月は葉輔のそんな性格に惹かれた。

「けど?」

「けど、ビックリはするよな。マジでそういう事あるんだって」

「だよね。でもビックリする事に現実に幽霊と話せる事があるんだよ」

「で、幽霊になった友達と犬がどう関係あるの?」

「別れる時にさ、どんな姿かは分からないけど、必ずまたこの公園に戻って来るからって。でもずっと待っとくとかじゃなくて、いつかふらっと公園に来た時にでも再会しようって約束したの」

 彩月の言葉に葉輔は天を仰いだ。一体何を思っているのだろうと彩月は葉輔の言葉を待つ。

「もうそれ俺なんも言えないやつじゃん」

 その言葉に彩月はホッとする。そして犬が嫌いでも自分達の為に我慢してくれる優しさを感じていた。

「でも葉ちゃんが犬嫌いって分かってて勝手に連れて帰ったのはゴメン」

 彩葉がいない時にはお互い名前で呼び合う。彩葉は直ぐにマネをするので呼び方も話し方もお互い気を付ける様にしていた。

「そんな奇跡見逃したらそれこそ怒る」

 その言葉に彩月は心の底から笑顔になる。葉輔のこういう所がいいんだよなと出会ってから何度も思った事をまた思える事に幸せを感じていた。

「あっ、でも彩葉に飼わせてくれないならお風呂一緒に入らないとか言わせたのはちょっと怒ってる。あれ、絶対にまた使ってくるだろ」

「その時はじゃあタイラーを別の家に連れて行くって言えばいいよ」

「それ、俺絶対に嫌われるだろ」

「あっ、言われてみればそうかも」

「かもじゃなくて絶対そう」

「その時は葉ちゃんにいいよって言ってもらう事しか考えてなかった。その事はもう言っちゃダメだよってちゃんと言っとく」

「うん、そうして」

「後さ」

 これは言っておいた方がいいのか彩月は悩んでいたが、後から知られるよりは自分の口から言った方がいいと彩月は判断した。

「その子の名前、太いに楽しいって書いてたいらって言うの。だから私はたいちゃんって呼んでた」

「マジで。それはもう奇跡ってか運命?上手い言葉が分かんないけど、とにかくタイラーは来るべくして家に来て、付けられるべき名前を付けられたって感じだな」

 葉輔の事はよく分かっているつもりだったが、想像以上にすんなりと受け入れてくれ、彩月は安心した。

「じゃあ、紅茶でも飲みながらその友達との話し聞かせて」

 明日は土曜日でお互い仕事が休みだという事もあり、夜更かしをして彩月は思い出話をした。


「タイラーはここで待ってて」

 ドアの外から彩葉の声が聞こえ、彩月と葉輔は目を覚ました。彩葉はもうお姉ちゃんだからと自分の部屋で一人で寝ている。二階には彩葉の部屋に彩月と葉輔の寝室、葉輔の書斎兼物置部屋の三室。一階にはリビングと和室の二部屋がある。昨日はゲージに入れたタイラーを和室に寝かせたが、彩葉の声からするとタイラーを連れて来ている様だ。

「ダメだよ。ちゃんとここにお座りしてて」

「彩月、行って来てくれ」

 娘を可愛がる気持ちより、まだ眠い気持ちと犬に少しでも近付きたくない気持ちが上回った葉輔が言った。

「今何時?」

 昨日は夜更かししたせいもあり、まだ半分頭は寝ていたが、彩月は何とか手を伸ばしてサイドテーブルからスマホを手にした。時刻を確認すると七時過ぎで、特に彩葉が早起きした訳ではないという事が分かった。

「あっ、タイラーどこ行くの?」

 彩葉の声を聞いて彩月は笑った。

「なに笑ってんの?」

「なんか可愛いなって思って」

「彩葉はいつでも可愛いだろ」

「そうなんだけど、今はお姉ちゃんって感じ」

「言われてみればそうかもな。話してたら目覚めて来たわ。起きるか」

 上半身を起こし、伸びをする葉輔を見て彩月も気合を入れてベッドから出た。

 ドアを開けると待ってましたと言わんばかりの勢いでタイラーが入って来た。

「うわっ、いたのか」

 葉輔の元へ行く前に彩月は何とかタイラーの体を押さえる事が出来た。

「あっ、タイラー待っててって言ったのに」

「彩葉おはよう。直ぐにご飯作るから待っててね」

「おかあさんおはよう。タイラーのご飯もね。彩葉タイラーのご飯どこ?って聞きにきたの」

「あっ、そうか。彩葉に言うの忘れてたね」

 彩月と彩葉、そしてタイラーは一人ベッドの上に避難した葉輔をほったらかしにして一階に下りた。


「タイラーのご飯はここに入れてるから。タイラーがどんなに欲しがってもあげすぎちゃダメだからね」

「わかってるよ。もっと太っちゃったらたいへんだからだよね?」

「そう。ママは太ってる方が可愛いと思うけどな」

「それはタイラーには良くないことなんだよ」

「そうだね」

 葉輔の許可を得る前に部屋で放し飼いにする訳にはいかないと昨日ゲージは買ったが、持ちきれなかったのでエサを入れる器は買わずに帰って来ていた。唯一の紙皿は昨日、エサをあげるのに使って捨ててしまっていた。どうしようかと彩月が悩んでいると

「彩葉のクマちゃんタイラーにあげる」

と一番のお気に入りのお椀を食器棚から取り出してきた。

「いいの?これタイラーにあげちゃったらもう彩葉は使えないんだよ?」

「いいよ。彩葉はもっとお気にいり買ってもらうから」

 ちゃっかりしてるなと彩月は思わず笑い、しっかりしてるなと今後が怖くも思っていた。

「じゃあこれはタイラーにあげるね。彩葉が名前書いてくれる?」

「うん」

 最近カタカナも書ける様になった彩葉は嬉しそうにお絵かきセットから黄色のペンを取り出し、たった四文字を彩月が覗くのもためらう程、真剣に丁寧に書いた。

「できたよ」

「すっごい上手。じゃあそこにタイラーのご飯入れてあげよう」

 彩葉は大人と同じ事をしたがる。最初は出来ないと泣いて諦め、次第に悔しがって物に当たるようになり、今では出来るまでやるという彩月にも葉輔にもない根性を見せる様になっていた。

 彩葉がドッグフードを入れると早くちょうだいとタイラーが彩葉の足下でせわしなく動き回る。

「パパが入って来れないからあっちであげようか」

「タイラーっておじいちゃんなんだよね?」

「獣医さんはそう言ってたけど、なんで?」

「おじいちゃんなのに元気いっぱいだから」

「確かに。犬はおじいちゃんでも元気なのかな?」

「きっとおじいちゃんでも元気なイヌと元気じゃないイヌがいるんだよ。ニンゲンもそうでしょ?」

 なるほど。と彩月は五歳の彩葉の言葉に真剣に頷いていた。

「タイラー、あっちでご飯だよ」

 タイラーがご飯を食べる姿は彩葉がもう少し小さい時に無心で食べていた姿に似ていると彩月は微笑ましい気持ちで見ていた。


「彩葉、今日はどこに行く?」

 朝食を食べながら葉輔が聞いた。葉輔が休みの日は葉輔が彩葉の気まぐれ散歩に付き合う。彩月も時々一緒に行くが、娘と二人きりの方がいいだろうと用事がない限りは二人で行ってもらう事にしていた。

「今日はタイラーとあそぶからおとうさん一人で行ってきて」

 彩葉の答えに彩月は思わず声を出して笑った。葉輔は苦笑いを浮かべている。

「おかあさん、ゆいなちゃんとみさきちゃんも一緒にタイラーとあそびたい」

「それはまたにしよう。今日はタイラーの為のお買い物行こ」

「うんっ。じゃあお父さんはおうちで待っててね」

 もちろん彩葉に悪気はない。だからこそ子供のストレートな言葉というのは胸に突き刺さる。それを分かっている彩月は

「彩葉、お父さんに車で連れて行ってもらおう。昨日ママ、ケージ持って帰るの大変だったの知ってるでしょ?」

と提案した。店員に歩いて持って帰るのは無理だと言われたのを無視して店を後にし、何度も休憩をしながら何とか進んだが、最終的に限界が来て実家に電話を掛け車で迎えに来てもらっていた。

「でもそれだとタイラーはおるすばんになっちゃうよ。おとうさん車にタイラー乗せるのいやでしょ?」

 葉輔の俺は留守番でもいいのか。という心の声が彩月には聞こえていた。

 後ろでしっかりと抱っこしていれば車に乗せても大丈夫なんじゃないかと彩月は思ったが、万が一タイラーが運転席に行ってしまう事があれば命に関わる事になるかもしれない。自分達もだが、人を巻き込む可能性もある。その可能性がある以上タイラーを車に乗せる訳にはいかない。これはもう葉輔に任せようと彩月は黙って食べる事にした。

「でもパパと一緒に行ったらアイス買って帰れるぞ」

「おかあさんと行ってもアイスは買ってもらえるよ」

「パパと行けばいっぱい買ってお家に持って帰れるのになー」

 五月も中旬に入り、気温が高くなってきたので歩いて持って帰る間にアイスが溶けると暑くなってからはいつも帰り道に食べる分だけ買っていた。彩葉はいつも物足りなさそうにするが、近くのスーパーまでは彩葉と歩くと二十分掛かるので諦めてもらうしかなかった。どこで情報を仕入れて来たのか彩葉はクーラーボックスを持って行けばアイスは溶けないと言い出したが、他の荷物を持ってクーラーボックスは持てないと断った。そう言うと次は自転車があれば楽だよと言い出した。高校生の時に自転車で派手にコケてから怖くて自転車に乗れなくなった。そう言うと彩葉はお母さんも車を運転すればいい。パソコンでもアイス買えるんだよ。と次々に案を出してきた。きっとアイスが食べたいが為に幼稚園で色々と知恵をもらって来ているのだろうと彩月は考えていた。彩葉の為ならと手段を検討した事はあったが、葉輔やお互いの両親の手土産はアイスが多い。家族に花を持ってもらおうと検討は止めた。

「ちょっとタイラーに聞いてくる」

「彩葉、食べ終わってからにして」

 彩月の言葉は彩葉に全く届かず、駆け足でリビングを出て行った。

「きっとタイラーは行っていいよって言うから大丈夫だよ」

 彩月の言葉に葉輔は苦笑いした。

「俺って犬よりもアイスよりも下なのな」

「アイスよりも下とは言ってないでしょ」

「でもアイス買ってやるって言わなかったら俺は絶対に留守番だったろ?それってアイスを買わない俺には価値がないって事だろ?つまりはアイスより下なんだよ」

「んー、まぁそうも捉えられるか。でも彩葉はちゃんと葉ちゃんがすごいって事は分かってるよ」

「どういう所が?」

「タイラー、おるすばんでいいって」

 彩月が答えるよりも先に彩葉が戻って来たので、それならと彩月は彩葉に質問をする。

「彩葉、このお家に住めるのは誰が頑張ったから?」

「おとうさん」

 彩月は結婚願望が強く、付き合う前に結婚を前提にと必ず相手に話していた。それを言うと三人に断られたが、葉輔はそれは当然といった感じで受け入れた。そしてお互い学生の内から結婚資金を貯め、葉輔の両親の援助はあったものの社会人二年目で結婚し、一軒家を持つ事が出来た。そしてその一年後に妊娠し、彩月は会社を辞めた。

 都会からは少し離れているが、お互いの実家に近い所に家を建てられたのは良かったと彩月は思っていた。そして同級生にマイホームいいなと羨ましがられる事もあり、彩葉にもパパが頑張ったからこの家に住めるのだと常々言っていた。

「じゃあ、彩葉が毎日ご飯食べられるのは誰が頑張ってくれてるから?」

「おかあさん」

 彩月からすると嬉しい言葉だったが、求めていた答えではなかった。葉輔は狙って言わせただろ?と言わんばかりの視線を彩月に送っていたので、彩月は慌てて訂正する。

「彩葉違うよ。パパがお仕事頑張ってくれるからお料理の買い物出来るんだよ」

「でもおかあさんも働いてるし、ご飯をつくるのはおかあさんだよ」

「そうだな。ママのお陰で美味しいご飯食べられるんだよな」

「うんっ」

「じゃあ、その美味しいご飯を食べて買い物の準備しような」

「うん」

 すっかり食べる事から集中が逸れていた彩葉を上手く引き戻してくれた。心の中で拍手して彩月は自分の分の片付けを始めた。


「おとうさんはなんでタイラーが嫌いなの?」

 買い物に行く車内で彩葉が聞いた。彩葉が夫婦は仲良しじゃないとダメなんだよと言うので、彩月は助手席に座っている。

「別にタイラーだけが嫌いな訳じゃないよ。犬が嫌いなんだ。犬だけじゃなくて猫もウサギも。あんまり動物が好きじゃないんだよ」

「でも彩葉とどうぶつえんに行った時はおとさんも楽しそうだったよ」

「それは彩葉と一緒だったからだよ」

 彩月が葉輔の代わりに答える。その答えに葉輔は何度も頷いていた。

「なんで彩葉といっしょだと楽しいの?」

「彩葉が楽しそうにしてくれるからだよ。彩葉が楽しかったり嬉しかったりしたらパパも嬉しいんだよ。彩葉もパパやママが怒ってたり泣いてたりするより笑っている方がいいだろ?」

「うん。おこられるのは好きじゃない。じゃあ彩葉はタイラーといっしょだと楽しいからおとうさんも楽しくなるよ」

 きっと大人でも直ぐにこうやって言葉を返せる人はいる。それでも彩月は自分には彩葉みたいに言葉を返す事は出来ないと彩葉の言葉選びに感心していた。葉輔もそう来たかという顔をしている。

「タイラーもおとうさんと仲良くしたいって思ってるよ」

「そうかな?」

 隣にいる彩月にしか聞こえない声で「絶対にメシと遊ぶ事しか考えてない」と言い彩月を笑わせた。

「そうだよ。だってせっかくお家に来たのにおとうさんに嫌われてたらかなしいでしょ?おとうさんがタイラーの事好きになってくれないなら彩葉もうおとうさんとオフロ入らない」

 彩月はまさかこんなに早く使うとはと慌てた。葉輔も前を向いてはいるが、ちゃんと言ってくれよと思っているのが雰囲気で痛いほど伝わってきた。

「彩葉、パパとお風呂入らないとかもう言っちゃダメ。あれは一回だけ使えるおまじないだったんだよ」

「なんで?」

「彩葉にそんな風に言われるのパパ一番の一番悲しい事だから。彩葉も一番悲しい事を何回も言われたら嫌でしょ?」

「うん」

「だから一番嫌は一回言ったらもう言わないようにしようね」

「わかった。じゃあ、後でおとうさんが二番目にいやな事おしえてね」

 そう来たか。と彩月は思わず額に手をあてた。確かに一番嫌は一回って言い方したらそう言われてもしょうがない。早く何かを言わないと二番目はいいと思わせてしまう。学生時代よりも頭を使っているかもと余計な事を考えながら彩月は言葉を探していた。

「二番のつぎは三番だね」

「彩葉、パパが嫌だって思う事を言うのは一番も二番も全部入れて一回だけ」

 本当は一回でもダメだが、そこは大目に見てもらう事にする。

「でも、おとうさんもおかあさんも彩葉にはいっぱい言うよ。早くオフロはいってとか早くねなさいとか好ききらいはダメとか」

「でもそれは彩葉の為を想って言ってるんだよ。それにママとパパが彩葉に言う事は彩葉が大きくなっていく為に必要な事なんだ。だから彩葉は嫌な事を言われてるって思うかもしれないけど、それは彩葉にとってとっても大事な事なんだよ」

 ここぞという時、葉輔は言葉を見つけるのが上手い。彩月は心の中で本日二回目の拍手を葉輔に送った。

「あいじょうってやつだね」

 その言葉に彩月と葉輔は声を合わせて笑った。彩葉が不思議そうにするので彩月は笑いながらも

「そうだよ。ママとパパが彩葉に色んな事を言うのは愛情だよ」

と答えた。自分が使った言葉が合っていた事に彩葉は満足そうに笑った。


「わー、いっぱいあるね。タイラーどれが好きかな?」

 ショッピングモールの中にあるペットショップに着くと彩葉は目を輝かせて、首をせわしなく動かし始めた。彩葉はいっぱいおもちゃを持っているのにタイラーはボロボロのボールだけだねと悲しそうな顔で昨日言っていたので、それならと昨日の夜に買い物を計画していた。

「わぁ、あのイヌかわいい」

 タイラーのおもちゃを選ぶはずが、彩葉は動物達が入れられているガラスケースに走って行く。

「ねぇ、タイラーにお友達つれて帰ってあげよう」

 ダメの一言だと間違いなく理由を聞かれる。どうしてダメなのか。そして今後も飼うつもりはないという事を伝えないといけない。下手に彩葉がまだタイラーのお世話を出来るか分からない等と言ってしまえばお世話出来る様になったら飼おうねと言われてしまう。彩月はこういう時は葉輔だと目で合図をした。

「彩葉、動物を飼うっていうのはお金も掛かるんだよ。それにタイラーだって一人だけの方が家族にいっぱい可愛がってもらえるだろ?お友達はお散歩行った時に作ってあげよう。そっちの方がぽっちゃりタイラーでもお散歩に行きたがるだろうし」

「彩葉は家にいっぱいいてもちゃんと皆を大事にするけど、タイラーがお外に出たいって思うことはたいせつだもんね」

「そうだ。大人の言う事が分かる彩葉は天才だな」

 そう言って葉輔は彩葉の頭に優しく手を乗せた。

「おとうさん、タイラーにもそうやって触ってあげたらよろこぶよ。彩葉もおとうさんにえらいねってされるの大好きだから」

 一つ問題が片付いたと思ったらまた次の問題。彩月はそう思っていたが

「そうだな。タイラーにもしてやるか」

と葉輔は意外な事に前向きな返事をした。

「ホントに?」

「うん、彩葉が大好きな物はパパも好きになりたいから」

「じゃあ、タイラーのお家みんなのお部屋にお引っこししていい?」

 皆のお部屋というのはリビングの事だ。リビングにタイラーを引っ越しさせるという事は葉輔が家に居る時のほとんどの時間をタイラーと一緒に過ごすという事になる。

「それはパパがもうちょっとタイラーと仲良くなってからでもいい?」

「いいよ。おとうさんとタイラー仲良しだいさくせんだね」

「そうだな。その為にタイラーの好きそうなおもちゃを選ぼう」

「あんな事言って大丈夫?」

 彩葉が商品選びに夢中になり始めた隙に聞いた。

「彩葉が好きな物は俺も好きになりたいってのは本音。それプラスこのままだとタイラーの事嫌いなパパが嫌いってなりそうだからな」

「そっちか」

「このままだと俺は家で一人になりかねないからな。二人がタイラーと楽しそうに遊んでる声を一人リビングで聞くとか寂しすぎるだろ」

 彩月は思わず笑いそうになったが、あまりにも真剣な葉輔の顔を見ている内に娘の為に苦手な事を克服しようとしている姿を笑ってはいけないと思い直し

「タイラーをリビングに移せた方が畳傷む心配しなくていいし、仲良し大作戦頑張って」

とガッツポーズをつけて笑顔で言った。葉輔は憂鬱そうな顔をしながら力なく笑って頷いた。


「うわーっ」

 買い物から帰り、早速タイラーと仲良し大作戦開始と葉輔は彩葉に手を引っ張られ、タイラーの元へ強制連行された。彩月が買って来た食料品を冷蔵庫に入れていた時に葉輔の叫び声が聞こえて来た。普通なら直ぐに駆け付ける所だが、どうせタイラー絡みだろうと彩月は片付けを済ませる事にした。

「おかあさん、おとうさんが助けてって。彩葉もがんばったけど、ダメだった」

 彩葉が勢いよくリビングに入って来てそう言った。さすがに見に行った方が良さそうだとアイスだけ手早く冷凍庫に入れ、タイラーと葉輔がいる和室へと向かった。

 和室の入口から葉輔が置かれている状況を見て彩月は思わず笑った。葉輔は正座をしたままの状態で後ろにのけ反っていた。太ももの上に後ろ脚、胸の辺りに前脚を乗せて葉輔を押し倒す形でタイラーが上に乗っている。

「おとうさんがタイラーと遊ぼうとしたらこうなったの。でね、彩葉がタイラーって呼んでもどいてくれないの」

「説明されなくても俺がピンチなのは見れば分かるだろ?早くどかしてくれ」

「ちょっと待ってて」

 彩月はそう言うと葉輔のどこに行くんだよという声を背中で受けながら急いでリビングへと向かった。そしてスマホを手に和室へと戻った。葉輔に文句を言われるのは分かっていたが、どうしても写真に収めておきたい気持ちが抑えきれなかった。

「彩葉もタイラーとなかよしの写真とって欲しい」

「じゃあ後で撮ろうね」

「俺は別に仲良くしてる訳じゃないんだよ。とにかく早くどけてくれ」

「どけるって言い方はタイラーが可哀想だよ。そういう言い方するからタイラーもどいてくれないんじゃない?」

「分かった。後で謝るからとにかく下ろしてくれ」

 これ以上面白がって見ていたら後で何を言われるか分からないと彩月はタイラーを抱っこした。足が痛いのか精神的に疲れたのか葉輔はその場に寝転んだ。タイラーはまだ葉輔と遊びたいのか彩月の腕の中で脚をバタバタさせた。

「おとうさん、タイラーにゴメンなさいだよ」

「そうだったな。タイラー、物みたいな言い方してゴメンな」

「いいよ。でも、また遊んでね」

 彩月はタイラーの右足を振りながらタイラーになりきって返事をした。それを彩葉は楽しみ、葉輔は白けた様子で見ていた。

「タイラー、彩葉とおさんぽ行こう」

「パパとママも一緒に行きたいな」

 引き続きタイラーになりきって彩月は返事をした。

「うん、みんなで行こう」

 普段は妙に大人びた所のある彩葉だが、タイラーになりきっている彩月には大喜びで返事をした。


「タイラーが家に来てくれて良かったな」

 タイラーと遊び疲れてソファで寝てしまった彩葉を見ながら葉輔が言った。

「彩葉、嬉しそうだもんね」

「あぁ、久し振りに無邪気な彩葉を見た気がする」

「ホントに。いつも以上に可愛い写真も撮れたし。ついでに葉ちゃんの面白い写真も」

「まぁ、彩月と彩葉が笑ってくれたんなら良かった」

 意外な言葉に彩月は目を丸くした。

「怒らないんだ?」

「さすがにあれは逆の立場だったら俺も写真撮ると思うし」

 その言葉に二人で笑う。元々葉輔とはたわいもない話しをするが、二人の空気はいつも以上に和やかになっていた。


「ただいま。タイラーいい子にしてた?」 

 歩いて十五分の所にある商店街に店を構えるお惣菜店でのパートを終え、彩月は家に帰って来た。葉輔も仕事で居ないのでタイラーをゲージから出してリビングで留守番させていた。昨日買って来たおもちゃを置いておいた甲斐あってか、リビングに荒らされた様子はなかった。

「いい子にしてたんだね」

 タイラーの頭を撫でようとしたが、タイラーの頭の上で彩月の手は止まった。タイラーはシッポを振りながら彩月をジッと見つめ、彩月もタイラーの目をジッと見ていた。

「ねぇ、たいちゃんなの?」

 二人になった事でずっと口に出来なかった言葉をようやく出す事が出来た。あの日の約束を果たしてくれたと思いたいが、誰かに捨てられ、普通より一緒に居られる時間が短いと思うと胸が苦しくなった。

「たいちゃん、私ちゃんと幸せになったよ」

 タイラーは構ってくれないなら用はないと言わんばかりに彩月に背を向けておもちゃで遊び始めた。返事を期待していた訳ではなかったが、希望を持てる行動をしてくれるのではと思っていた彩月は小さくため息を吐いて晩御飯の支度を始めた。

 今日のメニューはカレーだ。子供なら皆カレーを好きになる物だと思っていたが、彩葉は違った。カレーを出すと彩葉はカレー好きじゃないと口を尖らせる。それでも作るのも洗い物も楽なカレーはメニューからは外せなかった。ルーを入れて部屋にカレーの匂いが漂い始めるとタイラーが走って来て鍋を見上げてシッポを振り出した。その様子を見た彩月はサラダを作っていた手を止めた。そして涙をこぼしていた。

「やっぱりたいちゃんなんだね。たいちゃん食べるのも好きだけど、外を歩いてる時にどこかの家からするカレーの匂いが好きって言ってたもんね」

 たったそれだけの事かもしれないが、約束をした公園に捨てられ、カレーの匂いに喜ぶ姿は彩月にとってはタイラーは太楽の生まれ変わりだと信じるには充分だった。しゃがみ込んでタイラーと目を合わせる。

「おかえり。約束守ってくれてありがとう」

 太楽だと思うと頭を撫でるのも抱っこするのもはばかれた。握手も変かと思いながらも彩月は手の平をタイラーに差し出した。タイラーはその手の平に右足を乗せた。その手をそっと握ってタイラーの温もりを感じた。

「彩葉と仲良くしてあげてね。もちろん葉ちゃんとも」

 頷いたり吠えたりはしない。それでも彩月はタイラーにはちゃんと自分の言葉が届いていると思えた。


「タイラー、彩葉を迎えに行って来るからまたお留守番しててね」

 彩月がリビングから出ようとするとタイラーも後ろに続いた。

「散歩じゃなくて彩葉のお迎え。散歩は彩葉が帰って来てからね」

 リビングの扉を閉めようにもちょうどタイラーが居て閉める事が出来ない。

「たいちゃんはそんな困ったさんじゃなかったでしょ?」

 彩月はまたしゃがみ込んでタイラーの目を見た。目を合わせる程タイラーを留守番させたくない気持ちが強くなっていく。

「一緒に行ったら彩葉も喜ぶだろうけど、幼稚園には入れないんだよ。でも私も今度はちゃんと出来る限りたいちゃんと一緒に居たいんだよね」

 一日一時間。それが最後の一週間二人で過ごした時間だった。太楽が幽霊だと知ったのは太楽が天国に帰る日だった。その時にそれならもっと長く一緒に居たかったと彩月は涙した。その経験から今度は後悔したくない気持ちが強かった。

「だからと言って外に繋いでおく訳にもいかないし」

 使いたくはないが最終手段だと彩月は棚からお菓子を取り出した。タイラーがお菓子に気を取られた隙にリビングの扉を閉める作戦だったが、彩月がお菓子を取りに行く間にタイラーは玄関へと向かってしまう。彩月はお菓子を手に慌てて追いかけてタイラーの目の前に差し出した。タイラーはそれを無視して玄関のドアに手をかける。これ以上はお迎えに遅れてしまうと彩月は靴を履きながら電話を掛けた。


「わぁ、タイラーだ。おばあちゃんも」

 彩月が家を出る前に電話を掛けたのは彩月の母親である春美だった。さすがに幼稚園の迎えには遅れられないとタイラーを何とか家に残し、春美にタイラーを幼稚園の近くにある公園に連れて来てもらった。気まぐれ散歩をしない時はいつもこの公園で友達と遊んで帰る。タイラーと遊びたいからと帰りたがるかと思ったが、彩葉は帰ってからいっぱい遊ぶからと公園で遊ぶ事を選んだ。

「ゆいなちゃん、みさきちゃん、これがタイラーだよ」

 特に仲のいい二人に彩葉はタイラーを紹介した。結衣菜も心咲も目を輝かせてタイラーを見ている。

「かわいー」

「さわってもいい?」

「いいよ」

「お母さんゴメンね。本当にありがとう」

 子ども達がタイラーに夢中になっているのを見て彩月は春美に話し掛ける。

「いいのよ。可愛い娘と孫の為ならこれぐらい」

 春美が彩月の母親になったのは彩月が小学三年生の時だった。そのせいか春美はいつも彩月にはストレートに愛情を表現してくれた。

「葉輔君は大丈夫なの?」

 ケージを持って帰るのに迎えに来てもらった際に葉輔の犬嫌いについて話し、無理なら家で引き取るからねと言ってくれていた。

「大丈夫ではなかったけど、頑張ってくれてはいる。彩葉が葉ちゃんよりタイラーを優先するから意地になってるみたい。土曜日もタイラーと遊ぶから一人で散歩行って来てって言われてたから」

「それは頑張るしかないね」

「でしょ」

「家はいつでも預かれるからね」

「ありがとう。でも私が子供の時って犬飼いたいって言ってもお父さんに反対された気がするんだけど大丈夫なの?」

「ペットを飼ったら俺は彩月以上に可愛がる自信がある。俺は彩月の前ではカッコイイ父親でありたいって言ってたのよ」

「そんな理由なんだ」

「そんな理由が親には必要なの。葉輔君もそういう気持ちあるんじゃない?」

「あるのかな?もう既にカッコ悪い所ばっかだけど」

「娘の為に変わろうとする姿は彩葉も分かるはず。彩葉は賢いんだから余計にね。親の変化に子供は敏感なものだから」

 そう言われて自分も産みの母親がいなくなった時でも娘を悲しませまいと着丈に振る舞っていた父親の悲しみや作り笑いを感じていたなと思い出す。

「おばあちゃん、あしたもタイラーつれて来てくれる?」

「彩葉、今日は特別にお願いしたの」

 春美が毎日でもいいと言う前に彩月は口を開いた。

「なんで今日はとくべつなの?」

 本当は自分がタイラーと少しでも一緒に居たかった等言えるはずもなく、彩月は頭をフル回転させて別の理由を探す。

「結衣菜ちゃんと心咲ちゃんに早くタイラー紹介してあげたいかなって思って。だから今日は特別」

 咄嗟に考えた割にはいい言い訳が出来たと彩月は満足していた。春美には彩葉を喜ばせたいからと言ったので、特に不審がられる事も無かった。

「そっか。毎日ここでゆいなちゃんとみさきちゃんとタイラーと遊べたらたのしいのにな」

「わたしもいっぱいタイラーと遊びたい」

「みさきも」

 こうなれば春美の答えは一つに決まっていると思っていると

「じゃあ、おばあちゃんの用事がない時は来ちゃおうかな」

と予想通りの言葉を口にした。彩葉はもちろんの事、彩月にとっても悪い話しでは無かったので一度だけ遠慮する素振りを見せる事にした。

「お母さん、大変だから大丈夫だよ」

「いいのよ。私もタイラーも散歩になるし、彩葉もお友達も喜んでくれるんだから誰も損しないでしょ?」

「まぁ、確かに。でも無理はしないでね」

「分かってるわよ」

「彩葉もおばあちゃんにワガママ言っちゃダメだからね」

「わかってるわよ」

 彩葉が春美の口調をマネし、結衣菜と心咲が声を揃えて笑う。その笑い声の中でタイラーは嬉しそうにしている。「子どもの笑い声っていいよね」そう言った太楽の言葉が思い出された。太楽とタイラーの姿が重なる度に彩月の心は温かくなると同時にタイラーと離れたくない気持ちが強くなっていた。


「きょうからタイラーのお部屋ここにおひっこしだよ」

 タイラーが石沢家に来て二週間が経っていた。恐る恐るながらも葉輔がタイラーに触れる様になったので、タイラーのケージをリビングに運んで来ていた。

「あっ、そんなど真ん中に」

 タイラーはここが自分の場所だと言わんばかりにソファの真ん中に伏せをした。

「はっはっは。座りたかったら僕を抱っこする事だな」

「タイラーがわるい子になっちゃった」

「彩葉ちゃん、下りれなくなったから僕を下ろして」

 彩月に負けじと葉輔もタイラーのフリをする。彩葉は悪いタイラーと可愛いタイラーだと喜んでいる。ソファの後ろに隠れて彩葉の様子をコッソリと二人で見守る。彩葉はソファの後ろに二人がいる事を分かっていたが、知らないフリをしてくれる。

「タイラーってさ、前はどんな家に飼われてたんだろうな」

「とりあえずちゃんとした家だったんだろうなってのは分かるよね。イタズラしないし、散歩に行っても吠えないし。トイレとかのしつけも一回言ったら覚えたしね。人懐っこくてぽっちゃりしてるから可愛がられてたと思う。思うって言うより間違いなくそう」

「だよな」

「なんで?」

「それだけ可愛がってたらもう家族だろ?そんな家族と離れないといけない理由ってよっぽどなんだろうなって思ってさ」

 彩月が口を開こうとすると彩葉の声が聞こえて来た。

「わるいタイラーとかわいいタイラー、りょうほう好きだからタイラーはそのままでいいよ」

 どうやら解決策を見つけたらしい。彩月と葉輔が立ち上がって彩葉の様子を見ると彩葉はタイラーの胴の半分辺りまでを膝に乗せて座っていた。

「あっ、じゃあママはこっち」

 彩月はタイラーのソファに残っている部分を乗せて座った。

「こうしたらおとうさんもおかあさんの横にすわれるね」

 ソファは大人三人掛けなので、二人でタイラーを抱っこすれば全員で座れる。葉輔は彩葉を褒めながら座ったが、いつもは彩葉が真ん中なので、横に座れない不満が顔に出ていた。

「家族が離れる理由なんて案外軽かったりするんだよ」

 さっき言おうとした事を彩葉がタイラーと話している内に葉輔の耳元で小声で言った。その言葉に葉輔は表情を固くした。

「あっ、ゴメン。別に責めてる訳じゃないよ。そういう事もあるよねって話し。タイラーは家に来る運命だったから来た。それだけ」

 彩月の産みの母親は他に好きな人が出来て離婚届を置いて出て行った。人によればそこまでする程好きな人が出来たならしょうがないと言う人もいるかもしれないが、話し合いをする事無く黙って出て行った母親の気持ちを彩月は一ミリも理解する事が出来なかった。そういった過去もあり、タイラーの姿を昔の自分と重ねていた。


「ねぇ、たいちゃん。たいちゃんはどんな理由で前の家族と離れなきゃならなかったの?」

 タイラーをリビングに引っ越しさせて以来、彩月は一人の時にタイラーと話す時間が多くなった。今までタイラーに構うのは彩葉が帰って来てからだったが、今ではご飯の準備をしながらでも話せるので彩月がタイラーに話し掛ける時間が必然と増えた。家族の前ではタイラーと呼ぶが、二人の時にはたいちゃんと呼ぶ。最初はうっかり二人の前でたいちゃんと呼ばない様にと思っていたが、不思議と意識せずとも家族の前ではタイラーと呼ぶ事が出来た。彩月は二人の時はタイラーが太楽になるのだと勝手に納得していた。

「やっぱりたいちゃんに私の気持ちは分からないって言ったから?だから私の気持ち分かろうとしてくれたの?」

 母親が出て行ったと話した時に慰めようとしてくれた太楽に言った言葉を思い出していた。返事はなくても太楽には通じていると彩月は話す事を止めなかった。

「って、そんな訳ないよね。たまたまそうなったんだよね」

 タイラーは彩月の足下を歩き回っている。返事が返って来なくとも側にいてくれる事が嬉しかった。彩月は膝をついてタイラーと目線を合わせる。タイラーは舌を出してお行儀良く座った。

「私、たいちゃんのご両親に会いに行ったよ。ちゃんとたいちゃんの伝言伝えた。ご両親泣いてたけど、喜んでた」

 その時の事を思い出して彩月は涙ぐんだ。幽霊になった太楽が再会出来るのは一人だけだった。その一人を両親ではなく、自分を選んでもらった事に後ろめたさを感じていたが、太楽の両親は最後に彩月に会いたいと太楽が願った事を心から喜んでくれた。

「やっぱり直ぐには会いに行けなかったけど、泣いちゃったけどちゃんとたいちゃんの想いは伝えたからね」

 彩月がそう言うとタイラーは少し目を細めてそのままゲージへ水を飲みに行った。彩月にはありがとうという気持ちが伝わっていた。


「タイラーみてみて。今日はタイラーの絵かいたんだよ」

 家に帰って来ると彩葉は手も洗わずにカバンからスケッチブックを取り出してタイラーの元へと走って行った。

「彩葉、靴」

 バラバラに脱がれた靴と玄関に放り出されたカバンを見て彩月は声では怒りながらも表情は穏やかだった。いつもは自分が最後に靴を脱いで彩月と葉輔の靴が揃えられているか確認し、手洗いとうがいまで確認される。そんな彩葉の無邪気な姿を見ていると怒る気になれなかった。

 リビングに行くと彩葉はスケッチブックをタイラーに見せようとしていたが、タイラーは散歩に行きたいのか彩葉の足下をクルクルと回っている。

「おかあさん、タイラーぜんぜん見てくれない」

「今日は公園行けなかったから先にお散歩行きたいんじゃない?」

「彩葉はさきに見てもらいたいのに」

 彩葉が広げたスケッチブックにはピンクを基調に可愛らしい色でタイラーが動物達と遊ぶ様子が描かれていた。

「タイラーは男の子だからもっとカッコイイ物が好きなんじゃない?」

 太楽がカッコイイ物が好きだった事を思い出して彩月は言った。

「でもみーくんは男の子だけどカワイイ物がすきだよ。だからタイラーが絵を見てくれないのはちがう理由だよ」

 その言葉に確かに男の子だからという決め付けは良くなかったと彩月は反省したが、太楽の事なら自分の方がよく分かっていると彩月は引かなかった。

「みー君はそうかもしれないけど、タイラーはカッコイイ方がいいかもしれないでしょ?ママと一緒にもう一回描いてみよう」

「いい。彩葉はこの絵をタイラーにみせたかったの」

「じゃあママ一人でお絵かきしようかな」

 彩月は彩葉のお絵かき用に取ってある裏面が白紙のチラシを手に取り、絵を描き始めた。太楽が好きだと言った形の雲を描き始めるとタイラーは彩月の手元を覗き込む用に近付いて来た。その様子を見た彩葉は頬を膨らませながらリビングを出たが、その様子に彩月が気付く事はなかった。


「おばあちゃん、もうタイラーつれて来なくていいよ」

 春美が公園にタイラーを連れて来る様になってちょうど二ヶ月が経った時に彩葉が言った。

「どうして?おばあちゃんは彩葉と彩葉のお友達にタイラーと遊んで欲しいんだけど」

 せっかく孫と会える口実が出来たと喜んでいた春美は彩葉の突然の発言にショックを受けていたが、それを表に出す事無く答えた。彩月はいつでも来てと言っていたが、彩月の父親である紀文が彩月の家庭があるのだからあまり顔を出すなと言って止めていた。なので、今回の事は彩葉と彩月にお願いされたからと紀文を簡単に説得する事が出来ていた。

「彩葉がおさんぽ連れていきたいから」

「こうやって帰りにお散歩させるだけじゃダメなの?」

 公園に連れて来てもらえないとタイラーとの時間が減ってしまうと彩月は口を挟む。

「彩葉はいろんな所におさんぽ行くのが好きだからタイラーとそうしたい。おばあちゃんもそのおさんぽにいっしょに行こう。彩葉おばあちゃんに会えるのうれしいから」

 ちゃんと春美の事を考えている所はさすが彩葉だと彩月は感心していた。

「彩葉がそうしたいんだったらそうしよう。でもまたタイラーとお迎えに来て欲しくなったら言ってね」

「うん。タイラー、こんどからはいろんな所におさんぽ行こうね」

 その言葉にタイラーが振り向いて彩葉を喜ばせた。


 前までは一ヶ月に一回だったカレーが一週間に一度になった。カレーを作る度にタイラーが喜び、彩月はその様子を見ると太楽の記憶をより鮮明に思い出す事が出来ていた。彩葉は毎回不満の声を上げたが、タイラーが喜んでいる所を見せると不満そうな顔をしながらも受け入れてくれた。それが今日は違った。部屋にカレーの匂いがし、晩御飯がカレーだと分かると今日はご飯を食べないと言い出した。晩ご飯まではまだ少し時間がある。実際に目の前にカレーが出されたら彩葉はきっといつも通り食べ始めると彩月は気楽に考えていた。


「彩葉、ご飯出来たよ」

「いらない」

 葉輔の帰りは不定期なので、平日は彩葉と二人で食べる事が多い。いつもはどんなに不機嫌でもご飯出来たよと声を掛けると大人しく食卓に着いていただきますと同時に機嫌を直す。それは葉輔がご飯は機嫌良く感謝して食べるのが作ってくれた人へのありがとうって気持ちを伝える事なんだよ。と何回も言ってくれたお陰だ。今までも彩葉の機嫌が悪くてもご飯の時には元に戻っていたので、こんな事は初めてだと彩月はため息を吐いた。

「じゃあ、食べなくてもいいからいただきますだけしよう」

「食べないからいただきますしない」

「彩葉がご飯食べないとタイラーも心配するよ」

 その言葉でソファで膝を抱えていた彩葉が立ち上がった。

「彩葉偉いね。タイラーも嬉しそうだよ」

 食卓には既に二人分のカレーが置かれている。彩葉は自分のイスに座ったと同時にお皿を払い落とした。プラスチックのお皿が派手な音を立てて転がっていく。彩葉は大人と一緒がいいと陶器のお皿を使いたがったが、それはもう少し大きくなってからと彩葉が好きなキャラクターの絵が描かれているプラスチックのお皿を使っていた。そのお陰で被害は最小限で済んだ。

「彩葉っ、そんな事しちゃダメでしょ」

 その行動に彩月は荒げた。いつも怒る時でも冷静に彩葉の目線に合わせて話しをする。彩葉はいつもと違う空気を感じ取って下を向いている。

「彩葉食べないっていった」

「食べないからってこんな事していいの?拾いなさい」

「カレーが好きならタイラーがたべればいいよ」

「それは悪い子が言う事でしょ。彩葉はいい子なんだからそんな事言っちゃダメ。タイラーだっていい子の彩葉が好きなの」

 彩月は彩葉の腕を掴んでイスから立たせようとしたが、彩葉は小さいながらも精一杯の抵抗でテーブルにしがみついた。それでも大人の力に適うはずなくイスから下ろされる。そして彩葉は大声で泣き出した。彩葉も三軒隣の家でも聞こえそうなぐらいの声で泣くんだなと彩月は第三者の様な気持ちで彩葉を見ていた。ここまで彩葉が泣く理由が自分にあるとは思えなかった。

「どうしたっ?」

 今日は帰宅が早かった葉輔がリビングに飛び込んで来た。葉輔の姿を見た彩葉は走って葉輔の元へと向かう。葉輔はスーツの袖で彩葉の涙を拭き彩葉を抱っこする。彩葉はしっかりと葉輔の首に抱きつき肩に顔を埋めた。

「で、何があった?彩葉がこんな泣き方するなんてよっぽどの事だろ」

「彩葉がカレーをワザと床に落としたの」

「なんで?」

「なんでってカレーが嫌だからでしょ」

 その言葉に葉輔の表情が一変した。こんなに怒りをあらわにしている葉輔を見るのは初めてで彩月は身を固くした。

「彩葉はただ嫌いだからってこんな事する子じゃないだろ。嫌いでもどんなに嫌な事があっても笑顔で頑張って食べるのが彩葉だろ。それを母親である彩月が一番分かってなくてどうすんだよ。彩月が、俺達が分かってやらなかったら誰が分かってやれんだよ」

 その言葉に彩月の目から涙が零れ、その涙は頬を伝わずにそのまま床に落ちた。タイラーが心配そうに彩月を見上げているが、彩月の目には葉輔と彩葉の姿しか見えていなかった。そうだ。彩葉はそんな事をする子じゃない。だから葉輔はまず理由を聞いた。自分もそうするべきだったと彩月の目からは涙が溢れ続ける。

「俺、ちょっと彩葉と話してくるから」

 私もと彩月は言いかけたが、彩葉の背中がそれを拒んでいる様に思え、声を掛ける事も追い掛ける事も出来なかった。落ちたカレーを拾う気力もなくそのまま床に座り込んだ。


 あれから何分経ったのだろう。もしかして一時間は経ったかもしれない。そんな事を葉輔がリビングに入って来たのを感じ、彩月は考えていた。真っ先に彩葉の事を聞かないといけないと頭では分かっていたが、自分が彩葉の事を理解しようとしなかった事実をまだ受け止め切れずにいた。

「俺、彩葉としばらく実家に行くから」

 その言葉に彩月は顔を上げ、目だけで葉輔に説明を求めた。

「お母さんは彩葉よりタイラーの方が好きなんだよ。って言ってた」

「そんな事ない」

 直ぐに反論する事が出来た。彩葉がいなくなったら生きていけない。本気でそう思っていた。葉輔は彩月の言葉が全く届いていない様な無表情だった。少しでも感情を出してしまえば爆発してしまう。だから必死に抑えている。そんな感じだった。

「じゃあ、今日公園で友達と頭ぶつけたの知ってる?」

 彩月は思わず彩葉が?と聞きそうになっていた。それを言えば知らなかったのを認める事になる。言わなくても認めなくてはいけないが、自分の口から明言するのは避けたかった。自分が母親失格だという事を認めなくないと思っていた。

「痛くて泣きそうだったけど、彩月はずっとタイラーの方見てたって。お義母さんが気付いたけど、心咲ちゃんのお母さんが来てくれたから彩葉は大丈夫って合図したらしい。彩月さ、気付いてた?タイラーが来てから俺が帰ってリビングに入っても振り向かなくなったって。いつもタイラーを見ながらお帰りって言ってんだよ。俺は彩葉がタイラーの事大好きだし、二人で可愛がってんならしょうがないって思ってた。でも彩葉を見ないのは違うだろ」

 彩月はもう何も言う事が出来なかった。親の変化に子供は敏感。春美の言葉が頭の中でリピート再生される。そして彩葉にご飯を食べさせる為に何度もタイラーと言っていた事を思い出す。一回なら彩葉も我慢出来たかもしれない。公園で痛い思いをした時にも気持ちを分かって欲しい時もお母さんはタイラーが一番だった。彩葉はそう思ってしまった。いや、思わせてしまった。彩月の目からは止めどなく涙が流れた。「どこからそんなに涙出て来るの?」こんな時だというのに太楽が笑って言った言葉を思い出していた。

「幼なじみとの約束が大切なのは分かる。それが果たされて嬉しい気持ちも分かる。だから舞い上がって周りが見えなくなったってちゃんと分かってる。だからこそタイラーと二人の時間を過ごした方がいいと思うんだ。ちゃんとタイラーとも向き合って、そして家族の事を考える。そんな時間が必要だと思う。焦って答えを出すんじゃなくてゆっくり考える時間が」

 怒っているから出て行くのではなく、タイラーと過ごす事で彩葉が傷付いたり嫉妬しない様にという葉輔の気遣いだと分かり、彩月の涙はどんどんとこぼれ落ちていく。もう葉輔の声と表情にさっきまで感じていた怒りを抑えている様子はなかった。ちゃんとダメな事を怒った上で、気持ちを理解して尊重してくれる葉輔の言葉に彩月の胸は締め付けられる。

「分かった。ありがとう」

 ようやく彩月は声を出す事が出来た。その声はしっかりと力強い声で葉輔を安心させた。

「じゃあ行って来るから。彩月が迎えに来てくれるのを彩葉と待ってるから」

 しっかりと考える。そう決意したもののいつもみたいに当たり前の様に家族が帰って来ないのは受け止め切れないと彩月は二人が出て行く音を聞かない様にキッチンの隅で耳を塞いでしばらくじっとしていた。


 もう二人は出て行っただろうか。そもそも今は何時だろうと彩月は立ち上がってテレビの上に掛けられている時計を見て驚いた。時計の針は午前二時を指していた。それを見てようやく眠っていた事に気付く。こんな時でもちゃんと寝られるんだなと彩月は一人苦笑いしてタイラーの様子を見に行った。ゲージの中で気持ち良さそうに寝ているタイラーを見て彩葉が生まれたばかりの頃を思い出していた。ただ眠っているだけで堪らなく愛おしい気持ちになる。幼馴染の生まれ変わりだと信じている犬に自分の子と同じ様な気持ちを抱くのは異常なんだろうか。どうすればこの気持ちを上手く整理出来るのだろうか。一人になった事で彩月の頭の中は不安でいっぱいになっていた。考えないといけないのは分かっていたが、何も考えたくないと思ってしまう。何も考えたくないと思っているからか彩月は眠気に襲われそのままソファで眠る事にした。


「今何時!?」

 薄らと目を開けた先に雨戸を閉め忘れた窓から明るい光が差し込んでいるのを見て彩月は飛び起きた。

「朝ご飯作らなきゃ」

 キッチンに向かおうとした所で、床に落ちたままになっているカレーが目に入り、二人がこの家に居ない事を思い出した。物音に気付いたのかタイラーがキッチンから走って来た。

「たいちゃん、お腹空いたよね?落ちたカレー食べなくて偉かったね」

 彩葉が名前を書いたお椀に餌を入れ、彩月は落ちたカレーの片付けを始めた。二人の時にしかたいちゃんと呼ばず、上手くやっているつもりだった。それがまさか彩葉に悲しい思いをさせているなんて思いもよらなかった。そんな事を考えていると時計の秒針の音がやけに耳についた。タイラーが餌を食べる音も外から聞こえてくる車の音や風の音。全ての音がいつもより大きく感じ、二人が居ない家はこんなにも静かなのかと思い知らされていた。この家で一人になる事はあったが、二人が帰って来る前に家事を済ませようといつも忙しなく動いていた。パートが無い日でも二人が帰って来る安心感からなのかこんなにも音を感じる事はなかった。心にぽっかりと穴が空いている様な気持ちになり、早く二人を迎えに行きたい。その為にはどうすればいいのか彩月は必死に考えた。

「たいちゃん、私今日仕事なんだけどさ帰ったら公園行こうか。私とたいちゃんが再会した公園。そして彩葉とタイラーが出会った公園。歩いたらちょっと遠いけど、暑いけどそれでもそこに行かないといけない気がする」

 そこに行けば答えが見つかる。そんな確信があった訳ではないが、そこに行けば何かが得られる。そんな気持ちになっていた。


「人も居ないし、たいちゃんなら道路に飛び出したりしないよね?」

 帰って直ぐにタイラーを連れて公園に来ていた。一時間歩いた後にも関わらず、公園に入ってタイラーのリードを外すとタイラーは軽快な足取りで歩いて行った。相変わらず草は伸びっぱなしで、一瞬でも目を離したらタイラーが草に飲み込まれて居なくなってしまうんじゃないかという感覚になっていた。最初は滑り台の周りを歩き、ブランコの側を通り、思い出のベンチの側に座った。ベンチの上にあるトタン屋根は劣化して所々割れていたが、そこだけ地面がコンクリートなので草も生えず、切り株をかたどった椅子とテーブルは少し色あせはしているものの当時のままだった。そのまま座るには少し汚れている感じがしたが、ここに来て座る以外の選択肢はないと彩月は座った。

「ここで色んな話ししたよね。私、たいちゃんが幽霊だって知らなかったから好きな字とか聞いてさ。分かってたらそんな話ししなかったのに。でも、あの時たいちゃんと話したから私はちゃんと高校を卒業出来た。大学行ったら普通に楽しく学生生活送れた。あの日、たいちゃんと会えたから私は今ここに居るんだよ」

 学校から帰って遊びに行くのだろう。自転車に乗った数人の子供たちが楽しそうな声を上げながら通り過ぎて行った。その姿を見て彩月は堪らなく彩葉に会いたくなっていた。

「あの一週間がなかったら私の未来は絶対に違ったものになってたってずっと思ってた。だから葉ちゃんが言ってたみたいにたいちゃんにまた会えて舞い上がってた。でもさ、今は家族が居るんだからあの時の気持ちのままじゃダメなんだよね」

 ずっと大人しく座っていたタイラーが立ち上がり、また歩き出したので彩月も後を追う。

「この木はあの頃のままだね」

 タイラーが立ち止まったのは公園のシンボルとも言える大きな木の前だった。滑り台とブランコしか遊具のない小さな公園。ベンチを挟んで小さな広場はあるが、それでもこの公園には似つかわしくない程の大きな木。子供の頃はかくれんぼをするならこの木の後ろか滑り台の陰だった。そして高校生の時に太楽と一度だけこの木を挟んで会話した事があった。それを思い出して彩月はその時と同じように木を背もたれにして座った。


「私、幸せだよね。幽霊になったたいちゃんと再会して、優しい葉ちゃんに出会って可愛い彩葉が生まれて。そして生まれ変わったたいちゃんに出会えて」

 タイラーは彩月の横で大人しく座って彩月の方を見ていた。ちゃんと聞いてもらっている。そう思って彩月は一人話し続ける。

「たいちゃん、今度は急いで生まれ変わらずに天国で待ってて。そして見守ってて。ってワガママかな?でもさ、二回もたいちゃんが先に天国に行くんだから残される私にちょっとぐらいワガママ言う権利あってもいいよね」

「それが俺の願い」

 突然太楽の声が聞こえ、彩月はタイラーの顔をジッと見つめた。タイラーはそろそろ行きますかと言った感じで立ち上がって歩き始めた。この言葉を言われたのはベンチでだったが、彩月にはタイラーがその一言を言う為にこの木の元に来た様に思えていた。この木に見守られていると素直になれる気がする。と言った太楽の言葉が思い出される。

「たいちゃんの願い」

 さっき聞こえてきた太楽の言葉を繰り返し、彩月はその場に立ち止まった。

「私、大事な事忘れてた」

 最後の日に太楽に言われた事。それを思い出し、彩月の頭はスッキリとしていた。そして太楽と別れた日の事を思い出していた。朝から傘を差していても濡れる程の土砂降りの雨だったが、太楽が消えた後に雨が止み青空が見えてきた。彩月の心はまさにその時の天気の様だった。

 タイラーはもう帰るのが分かっていた様に入口に立って待っていた。タイラーにリードを付け、今日だけはと二人の時間を惜しむ様にゆっくりと歩いた。


 もう大丈夫と昨日の夕方過ぎに葉輔に連絡すると『後、一日待ってくれない?』と返事が来た。一日待ったら土曜日で葉輔も休みだから都合がいいのかと了承した。タイラーと二人っきりだったが、彩月はもうタイラーをたいちゃんと呼ぶ事はなかった。


「おかあさんっ」

 彩葉はまだ自分に対して嫌な思いを持ったままかもしれない。そんな不安を抱えながら葉輔の実家に行くと彩葉は満面の笑みで玄関から彩月の元へと走って来た。

「彩葉、ゴメンね」

 膝をついて彩葉を抱きしめる。大人よりも高い体温が彩月を心身共に温めた。

「彩葉もごめんなさい」

「彩葉は悪くないよ」

「でも、おかあさんが一生けんめい作ってくれたごはん食べなかったのはダメな事でしょ?」

「いつもだったらダメだけど、この前はママが彩葉に嫌な事しちゃったから」

 彩葉の前で流すのは嬉し涙だけ。彩葉が生まれた時に彩月はそう決めていたので、彩月の目に涙はない。葉輔の言葉に涙した時は彩葉は背を向けていたので涙は見られていない。

「いやな事されたからっていやな事してもいい訳じゃないんだよ」

 その言葉に彩月は笑顔になった。あぁ、彩葉だと二日間の彩葉不足が少し満たされていた。

「そうだね。じゃあ二人ともごめんなさいしたから仲直りの握手しようか」

「うん」

 差し出された小さな手を両手で優しく包み込んだ。そしてしっかりと彩葉の目を見て

「ママ、彩葉にどうしてもお話ししないといけない事があるの」

と言った。そしてそっと玄関から様子を見ていた葉輔に頷いて合図をした。

「おとうさん、彩葉おかあさんとお話しする」

「じゃあ、おばあちゃんにパパの部屋使うって言って来てくれるか?」

「わかった」

 彩葉が家の中に入るのを見届けてから葉輔は口を開いた。

「危うく俺も抱きつく所だった。多分、俺は彩葉よりも彩月に会いたかったよ」

「そういうの久し振りだね」

「そういうのって?」

「そういう言葉」

 彩月がそう言うと葉輔は照れ笑いを浮かべた。そして辺りを見回して誰にも聞かれていないか確かめた。

「抱きしめてるの見られるより夫婦なのにこんな所で立ち話してる方が噂になりそうだな。とにかく入りなよ。タイラーは?」

「留守番してもらってる。家に入る前に葉ちゃんにも話さないといけない事がある」

 門の中に入り、少し歩いた所で立ち止まった。玄関にはさっきの葉輔の様に彩葉がこっちを見ていた。子供ながらにちゃんと空気を読んで今は行くべきじゃないと判断しているのだろう。

「私、たいちゃんと公園での再会以外に約束した事があったの。嬉しい時も悲しい時もどんな時でも家族を大切にしてって。それが俺の願いなんだって。他の誰かの幸せを願うのもいいけど、自分と自分が大切な人達だけの幸せを願ってもいいんだよって」

 少し泣きそうになったが、彩葉が見ていると彩月は必死に涙を堪えた。

「私、一番大切な約束守れてなかった」

「そんな事ないだろ」

「そんな事あったからこんな事になったのに」

「タイラーだって家族だろ?ちょっと間違ったかもしんないけど、彩月はちゃんと家族を大切にしてるよ」

 その言葉に彩月は涙を堪える事が出来なかった。初めて見る彩月の涙に彩葉が心配そうな顔で駆け寄ってくる。

「おかあさん、どうしたの?」

「嬉しい事があったの」

「うれしいと泣くの?」

「大人は嬉しくても泣くんだよ」

「じゃあ彩葉もうれしい時泣く」

「彩葉はお姉ちゃんだけど、嬉しい時は笑ってて欲しいな。彩葉の笑顔がママもパパも大好きだから」

「じゃあ、もっとお姉ちゃんになったらうれしい時も泣く」

「そうだね。ママ、先におばあちゃん達に挨拶してくるね」

「彩葉も行く」

 もう少しでも離れたくないという彩葉の気持ちが強く握られた手から伝わって来た。

「おふくろには彩月が急用で出掛けたって事にしてあるから」

 葉輔が彩月の耳元で彩葉には聞こえない声で言った。きっと彩葉は色んな事を理解して祖父母の話しに合わせたんだろうと彩月は想像していた。


 挨拶を済ませ、葉輔の部屋で彩葉と二人ベッドに並んで座った。そして葉輔に話したみたいに太楽との思い出話を聞かせた。

「すごいね。タイラーはお母さんのお友達だったんだね」

 話しをしている間、彩葉はじっと彩月の目を見て口を開く事なく話を聞いていた。話しが終わると彩葉は目を輝かせてそう言った。

「彩葉ももっとタイラーとなかよくする。おかあさんがタイラーとなかよくしてても彩葉だいじょうぶだよ」

「ママね、友達が約束守ってくれたって嬉しくなったの。でも彩葉に絶対に分かって欲しいのはママは彩葉が世界で一番好きって事」

 これだけは絶対に彩葉に言おうと決めていた。もう絶対にしないと決めているが、もしもまた無意識のうちに彩葉を傷つける行動を取ってしまってもこの言葉がお守りになってくれる。そんな想いを込めていた。 

「彩葉もおかあさんが一番すき」

「パパは?」

「おとうさんは二番。タイラーも二番」

 ここに葉輔がいなくて良かった。そう思いたい所だったが、閉めたドアの向こう側から葉輔のまと言う声が聞こえて来た。きっとマジかと言いそうになったのだろうと彩月は笑った。

「おかあさん、彩葉がいいよって言うまでここにいて」

 元気いっぱいに部屋を出た彩葉と入れ替わりに意気消沈した様子の葉輔が入って来た。

「盗み聞きなんてするから」

「すっげぇダメージくらった」

 胸を大袈裟にさすりながら葉輔は彩月の隣に座った。

「ちゃんと分かってくれたな」

「私達の子だからね」

「そうだな」

「早く迎えに来てくれて良かった」

「もしも一週間とか一か月掛かってたらどうしてた?」

「さすがに俺から迎えに行くよ。でも、俺は彩月ならきっと直ぐに来てくれるって分かってたから家を出れたんだ。長くても三日だと俺は予想してた。だから思ったより早かったけど、ちゃんと俺の思ってた通りだなって。俺、彩月の事よく分かってるだろ?」

 嬉しい気持ちを言葉にすればまた涙が零れそうだったので、葉輔の言葉に黙って頷いた。


「おかあさん、もういいよ」

 彩葉に呼ばれ、リビングに入ると食卓にカレーが並べられていた。どういう事だろうと思っていると

「彩葉ちゃんが作ったのよ」

と良子が教えてくれた。

「彩葉が?」

「うん、彩葉がんばった」

「これは世界一美味いカレーだ」

 そう言ったのは葉輔の父である健介だった。食べずとも今目の前にあるカレーが世界一なのは間違いないと思いながら彩月も席に着いた。

「彩葉がカレー作る練習をしてたから迎えに来るの今日にしてって言ったんだ」

「そうだったんだ」

 まさかそういう事だったとは。勝手に土曜日の方が都合がいいのだろうと思っていたが、まさかこんなサプライズがあるなんてと彩月はまた嬉し涙を流しそうになった。目の前に置かれたカレーは石沢家のカレーとは違い、チーズとエビフライがトッピングされている。

「手をあわせてください」

 彩葉の掛け声で皆で手を合わせ、彩葉がいただきますと言った所で口を揃えていただきますと言って大人達が食べ始める。彩葉は食べ始めずに彩月の方をじっと見ていた。

「おいしい。本当に世界一美味しい」

「やったー。彩葉もこのカレーすき」

「このカレー辛くないの?」

 いつもは甘口でも彩葉にはまだ早いだろうと子供用のルーを使っていた。

「いつものは甘すぎて嫌だったんだって。でもそれが上手く言葉に出来なかったって。彩葉がおふくろにカレーの作り方聞いてさ、ルーも色んなの買って来て最終的に辿り着いたのがこれなんだよ。俺は昨日、腹が破裂するぐらい試作品を食った。どれも美味かったけど、そんだけ食ってもこのカレーが圧倒的に美味いって思える」

「チーズを入れる事でちょうどいい辛さになってるのよ」

「そっか。彩葉は甘すぎるカレーが嫌だったんだ」

「うん。でもおかあさんが作ってくれたからたべた。これからは彩葉がカレー作る。タイラーもよろこぶでしょ?」

「そうだね。でもタイラーは彩葉といっぱい遊べるだけで喜ぶよ」

「パパは彩葉のカレーいっぱい食べたいな」

「おかあさんが作ってって言ったらつくるね」

「パパが作ってって言ってもダメ?」

「うん、おかあさんが言ったらつくる」

「やっぱり葉ちゃんは二番だから」

 良子と健介ならきっと笑ってもらえる。そんな確信を持っていたので、彩月はさっきの出来事を話した。想像通り良子も健介も笑ってくれ、彩葉も彩月も笑い、葉輔だけが苦笑いをした。

 あの日の約束が果たされた事で、大切な物を見失いそうになった。思い出の場所に行く事で忘れていた約束を思い出す事が出来た。そして今は幸せの中にいる。今度は絶対に見失わない。そう思いながら彩月は世界一美味しいカレーを食べ切った。


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