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洗濯物に指輪

「じゃあゴミ出してくるから」

「ん、ありがとー」


 弟が両手にゴミ袋を抱えて玄関から出ていった。わたしはそれを見送った後、溜まりまくっている洗濯物を片付けようと洗面所に向かう。日本昔話の白米の量よろしく山盛りになっている洗濯籠を手に取って洗濯機の許まで行き、一緒に洗えるものとそうでないものを選別していく。

 わたしと弟の二人だけの洗濯物だから、ここまで溜めるのにはかなりサボらなければならない。いつも家事の類は弟がしてくれているから気が付かなかった。弟はまめな性格なのでここまで溜めるのは何か理由があったのだろう。そう言えば、最近はずっと勉強をしていたのでテストがあったのかもしれない。弟は、わたしに似ることなく、真面目だった。

 お気に入りのブラを洗濯物の山の中からサルベージして退けておき、白いシャツなど色うつりしない物は洗濯機の中に放り込んでいく。ふと、視界の隅でキラリと控えめに、しかし確かに輝く物があった。わたしは手を止めて自分の左手の薬指に視線を向けた。そこにはシンプルなデザインの細い指輪が嵌められていた。わたしは手に持っていたシャツを離し、その指輪の表面を撫でる。僅かに擦れ傷が付いてきたけど、でもまだまだ表面は水で濡れているかのように滑らかだ。これはある冬の、記念日でもなんでもない日に弟から貰ったものだ。シンプルながらも確かに銀で作られたこれは、学生の弟からすればなかなかに値の張るものだろう。わたしはほとんどお小遣いをあげていないので、かなり前から貯めていなければ買えなかったはずだ。たまに手元に入るお金を無駄遣いせず、コツコツと貯金してこの指輪を買いに行った弟を想像するとどうしようもなく頬が緩んでしまう。弟は優しく育った。

 視線を洗濯物に戻し、再び仕分けていく。わたしのショーツを洗濯機へ、弟のカッターシャツを後で洗うために床によけて置き、わたしの靴下を洗濯機に入れ、弟の制服のズボンを取り上げる。それを床に置こうとした時、ふとポケットに違和感を感じた。


「なんだろう?」


 わたしはズボンを広げて、ポケットの中に恐る恐る手を突っ込んでみた。するとカサカサと紙のような質感をしたものが手に当たった。レシートでも入っているのだろうか。

 それを掴み、ポケットから引っ張り出す。しかしそれはレシートではなくて、淡いピンク色の紙だった。乱雑にポケットに突っ込まれていたから僅かに皺が寄っているけど、それでも丁寧に折りたたまれている。広げると、横の罫線が引かれていた。どうやら便箋のようだった。その罫線に沿うように小さく丸っこい文字が列をなしている。一番上には弟の名前が書かれていて、その横に便箋の色よりも濃いピンク色のマーカーで可愛らしいハートマークが添えられていた。

 嫌な予感がする。

 これはもしかすると……噂に聞く……

 わたしは何か悪いことをしている気分になりながらも、その便箋に書かれた文字を目で追っていく。一番下に書かれている『エイミ より』と言う文字を読み終わり、わたしは洗面所の異様なほど白い天井を見上げた。視界の隅の方から徐々に暗くなっていく。平衡感覚がおかしくなり酒を飲んだ時のような酩酊感を覚えた。

 小さく、呟く。


「ラ……ラブレターだ…………」



□□□□



 わたしはこの四半世紀の人生で、一般に男女交際というものを経験したことがない。

 別に恋愛に興味がないわけではないし、多くはないが男性から言い寄られることがないわけではない。モテるわけではないが、モテないわけではない。

 わたしが高校生――つまりピチピチのJKだった頃、両親が交通事故によってこの世を旅だっていった。その時弟はまだ幼かった。何年生だっただろう? よく覚えていないが、四年生か、五年生だったように思う。まあ、そんなことは正直どうでもいい。弟が何年生だろうと、あの頃のわたしからすれば弟はまだ何も知らない可哀想な子供だった。

 フィクションの世界では両親がいないと言う設定はよく見るが、しかし現実でそうなるとかなりの苦労を強いられる。それはもう、練炭でも焚いて弟と共に心中してやろうかと思ったほどだった。

 頼れる親戚も、面倒を見てくれる祖父母もわたしの家族にはいなかったから、弟のことをわたしが育て上げなければならなかった。その時まだ高校生だったわたしは――まだ大人になりきれていない尻の青い子供のわたしは、元気だけは持て余すほど持ち合わせていた。そしてそれと一緒に先の見えない真っ暗闇の中を全速力で走り抜けられる程の世間に対する希望も同じく持ち合わせていた。わたしと弟の目の前が行き止まりになった時、そんな最後の最後は世間がわたし達に手を差し伸べてくれる、助けてくれる、と思っていた。そんなに世間が甘くないというのは今だからこそ分かるが、しかしその時はそんなことを本気で思っていたのだ。まあ、一言で言うなら年相応にバカだっただけである。だが、そのバカさに救われ、今まで弟と一緒に生きてこれたのも事実だ。

 そして、わたしは直ぐに学校に退学届けを提出した。

 学校を辞め、取り敢えず求人広告の中で自分が条件を満たしている所に片っ端から面接を受けに行った。そしてその中で受かった所から一番給与の条件が良い所にわたしは就職した。残業や休日出勤の多さには目を瞑った。その時のわたしたちには、何よりもお金が必要だった。だからわたしはブラック企業さながらの労働条件の会社に就職し、我武者羅に働きまくった。

 わたしが左手の薬指に指輪を嵌めたのは、その頃だった。

 近くの雑貨屋で買った千円もしないような安い指輪を、わたしは結婚指輪さながらに左手に嵌めた。誰とも結婚をしていないのに、わたしはまるで誰かと結婚という契りを交わしているように振舞い始めた。そうしていると男性から言い寄られることがないから、働くことに、お金を稼ぐことに、『生きる』ことに集中することが出来るから。

 年の離れた幼い弟は、わたしが守らなければならない。その一心でわたしはただ、お金を稼いだ。

 仕方がなかったとはいえ、勉学を全うせずに社会に出てしまったわたしと同じ思いをさせまい、高校くらいは卒業させてやろう。いや、弟が望むのなら大学にだって通わせてやろう。本当にその一心だった。だから心が壊れる暇すらなかったし、そもそも辛いとすら思わなかった。辛いと思うには忙しすぎたし、わたしはどうやら自分で思っているよりも強かな女らしい。家事に関しては弟が率先してやってくれていたのが大きいというものもあるけど。

 こんな家庭環境のせいもあってか、弟はほとんど友達と遊ぶことがなかった。平日は学校が終わると寄り道もせずに真っすぐ家に帰ってきていたようだし、休日はずっと家にいて掃除に洗濯、朝食昼食夕食の準備、そしてその合間を縫って勉強をしていた。そんな生活をしていたからか友達と遊ぶこと以外にそもそも遊び自体をあまり知らないようだった。お金がないせいもあり、テレビゲームの類を買い与えてやることが出来ず、唯一していた娯楽といえば、わたしが知っている限りだと読書くらいだった。ほとんどは図書館で借りてきた本の様だったけど、好きな作家の本は少ないお小遣いで買っていたようだった。

 そのせいと言うか、おかげと言うか、年の離れたわたしから見ても弟は大人びていた。恐らく同年代の男の子よりも二、三歳は精神年齢が上だったのではないかと思う。その上、あまり感情を表に出さない寡黙な性格だった。全く、誰に似たのだろう。

 そんな性格だから弟が思っていることがあまり分からず苦労することもあった。……誕生日プレゼントとか誕生日プレゼントとか誕生日プレゼントとか。

 だから弟がモテることには否定はしない。しかし弟はわたしにそんなそぶりを全く見せなかった。だからこうやって否定のしようのない形で目の当たりにしてしまうと困惑してしまう。弟だって男の子である以前に人間だ。だから性欲があるのは分かるし、心があるのは頭の中では分かっている。だがしかしそれでも頭の奥底で認めたくないわたしがいるのも、また事実だ。

 弟には想い人がいるのだろうか?



□□□□



 わたしは壁に手を突いて転ぶのを防ぎ、そしていつの間にか荒くなっている心臓の鼓動を深呼吸をして無理矢理に落ち着かせる。ふと気が付くとラブレターを強く握りしめてしまっていた。手汗もかなり掻いていた。

 わたしはどうしてこんなにも動揺しているのだろう。ただ弟に言い寄ってきた女の子がいるだけではないか。それにその女の子の想いに弟が承諾したとも限らないだろう。

 姉ならば、女の子にモテるほど立派に成長した弟を褒めてやるべきではないのか。そして誇るべきではないのか。だがしかし、今のわたしにそんなことが出来るとは思えなかった。

 …………妬いているのだろうか。

 わたしは知らぬ女にモテている弟に嫉妬しているのだろうか。

 弟はわたしだけを頼って今まで生きてきた。わたしがいなければ今の弟はいない。弟の一番近くで支え続けてきた『異性』はわたしなのだ。

 それなのに顔も知らない、いきなり出てきた女にその弟を取られそうになっている。その状況にわたしはなぜか危機感を覚えている。

 何故だ。

 何故だ。

 何故だ?

 まさか、まさか、わたしは――――

 わたしは、弟を異性として認識しているのか?

 いつの間にか床に落としてしまっていた弟の制服のズボンを拾い上げる。それを鼻に近づけて匂いを嗅いでみた。わたしと同じ洗剤の匂い、そこに僅かにだけ混ざった汗の臭い。わたしが纏っている匂いと殆ど一緒だ。だけどほんの少しだけ、ほんの少しだけ違う匂いがする。それが男の匂いであると気づくのに、男性経験のないわたしには時間を要した。

 ガチャリと玄関の扉が開く音がする。次いで弟の声で「ただいま」と聞こえてきた。

 わたしは目を見開き、慌ててズボンを洗濯籠の中に押し込んだ。次にさっきから握りしめている、顔も知らないだれかからの恋文をどうしようかとあたりを見渡した。


「姉ちゃん、昼飯何食べたい?」


 弟がわたしを呼んでいる。わたしは返事を返さず、取り敢えずどこでもいいからこの恋文を隠してしまおうと洗面台の鏡の裏にある収納スペースに手を伸ばした。しかし慌て過ぎて、まだ洗濯物がパンパンに詰まっている洗濯籠に足の小指をぶつけてしまった。


「――ぃ痛っっったぁああ!!」


 目の前に火花が散った。我慢ならない程の激痛が一点集中で小指だけを蹂躙する。


「なにっ? どうしたのっ!?」


 わたしの絶叫を聞いて弟が洗面所に駆けつけてきた。蹲るわたしを見て、弟は顔色を変えた。


「大丈夫!? 何があったの?」

「い、いや何でもない。小指をぶつけただけだから……」


 震える声でわたしは弟に言った。


「なんだ、良かった」


 弟がそう言って、心配そうにしながらも踵を返そうとした。しかし途中でその動きが止まる。やっと僅かにだが痛みが引いてきたわたしは弟を見上げた。弟は床に視線を落としたまま顎を落とし。目を見開いていた。わたしは小指を押さえながら、弟の視線を追っていく。


「…………あ」


 そこにはぐしゃぐしゃになってしまっている例の恋文が落ちていた。


「いや、これは、その……」


 わたしは言い訳をしようと口をもごもごとさせた。しかし何かを言う前に弟が素早くその恋文を掴み上げると洗面所から出ていった。出ていく直前、弟は一瞬振り向いたかと思うと小さく口を動かした。


「ごめん……」


 なんの謝罪だろう。そう訊き返す前に既に弟は去っていた。わたしは足の小指を押さえながら蹲ったまま、弟が出ていった洗面所の出入り口をただ見つめていた。

 わたしは本当に弟を異性として認識して、意識しているのだろうか。

 わたしと弟の間には、かなりの年齢差がある。

 いや、それ以上に絶対に越えられない壁があるではないか。

 姉弟と言う壁が。

 血筋と言う壁が。

 まるで万里の長城の如く、聳え立っているではないか。

 だから弟に対し性欲やら恋愛感情を向けるのは、間違っているし絶対に許されない行為だ。禁忌と言う言葉が脳裏を掠めていった。

 わたしは自分の脚の小指を押さえている自分自身の左手に視線を向けた。その薬指に嵌められている指輪。

 わたしが買ったものではなく、弟から貰った指輪。

 偽物の、結婚指輪。

 わたしは僅かに目を閉じる。



 どうか、わたしのこの許されざる想いに、禁忌を犯した想いに、気がつきませんように。

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