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蜜柑に指輪

 テレビの中の芸人がたいして面白くもないボケをした。

 最近よく見る芸人だ。その芸人のボケでスタジオ内は爆笑に包まれる。僕はそれをテレビを通して、蜜柑を頬張りながら無表情に見つめていた。人のものの筈なのにどこか無機質な数多の笑い声だけが部屋の中に響き渡る。炬燵に入っていることと、このつまらないテレビ番組のおかげで瞼が重たい。蜜柑の甘酸っぱさを堪能して嚥下すると、僕は大きな欠伸をした。

 テレビのリモコンを取り、電源ボタンを押し込む。その瞬間テレビの画面は暗転し同時に無機質な笑い声は掻き消え、静寂の帳が降りた。

 視線を外し、ちらりとカーテンが閉められている窓に視線を向けた。カーテンの端から光が漏れていないことを見ると、もうすでに外は暗くなっているのだろう。最近はすっかり日が落ちるのが早くなった。僕はカーテンから視線を外し、炬燵の上で蜜柑の皮と共に鎮座している小さな箱に目をやった。その箱の表面は布ような質感で、角は丸くなっている。何の変哲もない、指輪のケースだ。中には僕の少ない小遣いを溜めて購入した新品の指輪が入っている。決して高価な物ではないが、それでも学生の僕からすれば十分に大金と呼べる値段だった。

 僕はこたつの隅に置いてあるペーパーバックを手に取って栞の挟んでいるページを開き、それを斜め読みし始める。壁掛け時計の秒針が移動する音が、やけに大きく感じられた。

 そのまま三十ページほど読み進めて、そこで物語が一段落したので本を閉じた。本を炬燵の上に投げ出しながら仰向けに寝転んで、天井を見つめる。じっと至近距離を見つめていたせいか、焦点が合うのに時間が掛かった。

 と、その時、玄関の扉が開く音が聞こえてきた。少し遅れて「ただいまー」と疲労が混じった女の声が届く。女性にしてはやや低めなそのメゾソプラノの声は僕の姉のモノだ。僕は貧弱で虚弱な腹筋に鞭を打って身体を無理矢理起こし、指輪の入った箱を乱暴に掴むとそれを炬燵の中に押し込んだ。

 姉は僕の居るリビングまで真っすぐやって来ると、扉を開いて再び「ただいま」と言った。スーツの上から厚手のコートを羽織っていた。僕は「おかえり」と返す。

 姉は手に持ったビニール袋をキッチンの床に乱雑に置き、冷蔵または冷凍の必要な物だけを素早く冷蔵庫の中に投げるように入れると、小走りで僕が入っている炬燵の元へやって来た。コートを脱ぎ棄ててスーツの姿のまま炬燵に吸い込まれるように肩まで入ってしまった。ストッキングを穿いた細い脚を僕の脚に絡ませてくる。それはとても冷たく、そして柔らかかった。先程炬燵の中に隠した指輪を掴み、姉の脚に当たらないようにズボンのポケットの中に半ば無理矢理に突っ込んだ。


「姉ちゃん。冷たい」


 僕が足を退けようとすると、それを追いかけて再び姉の脚が絡みついてくる。


「そんな冷たいことを言わないでよ。仕事でくたくたの上、このバカ寒い中をスカートで帰って来たんだ。温めてくれてもいいじゃん。……不本意ながら冷たいが駄洒落みたいになってしまったけどわざとじゃないから」

「……」


 僕は諦めて姉の冷たい脚を受け入れた。手持無沙汰にペーパーバックを読み始める。暫くして不意に姉が上半身を起こした。顎を炬燵の上に乗せて僕が食べた蜜柑の皮をぼうっと眺める。


「蜜柑食べたい。取って」

「……」


 僕は本を開いたまま炬燵の上に伏せて置き、上半身だけを捻じって背後に向けて蜜柑が大量に入った段ボールに手を伸ばした。その中の一つを掴み取り、身体を戻して姉の目の前まで蜜柑を転がした。勢いあまって姉の鼻先に蜜柑がぶつかり、そして停止する。


「自分で取れよな」

「ありがと」


 姉は顎を炬燵から離し、両手を出して蜜柑を掴んだ。そのまま皮を剥くのではなく、まるでおにぎりを握るかのように手の中で蜜柑を弄び始める。柔らかい蜜柑は姉が手のひらで転がす度、くにゃりと僅かに形を崩す。

 

「何してんの」


 僕がそう言うと、姉がニヤリと笑って視線だけをこちらに寄越した。

 

「知らないの? こうやって優しく揉んでやると甘くなるんだよ。全く、無知だなわたしの愚弟は」

「へえ」

「そんな愚弟はハードワークで疲れ果てている敬愛すべき姉の御み脚をこの蜜柑の様に優しく揉んで癒すべきだ」

「いやだ」

「けち」


 暫く蜜柑を手の中で転がしていた姉は、やっと皮を剥き始めた。ヘタの真横に親指の爪を突き刺して皮を剥いでいく。僕はその姉の細くきめ細やかな手を見るでもなく見つめた。左手の薬指に嵌められているくすんだ指輪が虚空を泳ぐように揺らめいている。その銀色に鈍く輝く指輪の軌跡を目で追いながら僕は口を開いた。


「その指輪、まだ着けてたんだね」

「ん」


 姉はチラリと自分の左手薬指に視線を向けると直ぐに蜜柑に戻した。


「まあね。のける理由も無いし」

 

 姉は呟くようにそう言って蜜柑を一房、口の中に放り込んだ。



 □□□□

 


 姉は結婚しているわけではない。それどころか、これまでのその四半世紀の人生で男と付き合ったことがないだろう。

 多分。恐らく。

 かと言って、男と言う存在自体に嫌いだとか苦手と言う感情を抱いているわけではないようだ。こうやって僕とは距離が近いくらいだし、宅配のにいちゃんや近所の人たちとも普通に会話をしている。多分、年相応に恋愛に対して興味はあるだろう。そして勿論、性欲も。

 そんな姉が、まるで誰かと番いになる契りを交わしているかのように指輪を嵌めているのは僕のせいだ。僕がいるからこそ、姉は結婚指輪として見られるように左手の薬指にリングを嵌めている。

 僕には家族が姉しかいない。両親は僕が幼い頃に交通事故でこの世を旅立った。その時僕はまだ小学生で、姉は何年生かは忘れたけど高校生だった。まあ、姉が何学年かなんて当時の僕からすれば些細な事だ。幼い僕からすれば高校一年だろうと二年だろうと、勿論三年だろうと見分けがつかなかった。どれだって、誰だって、僕からすれば等しく大人に見えていた。

 だからと言って姉目線に立てば自分たちなんてまだまだ子供で、バリバリ働いてお金を稼ぐ本当の大人はひどく遠いものに見えたであろう。

 先程僕には家族が姉しかいないと言ったが、姉からすれば家族は僕しかいない。それもまだ小学生の、鼻水を垂らして「うんこ」という言葉で喜び、腹を抱えて笑い転げるガキである僕しかいないのだ。

 突然両親がいなくなり、頼れる親戚もいない姉は高校生ながらに――子供ながらに僕を守ろうと思ったのだろう。弟にはわたししかいない。わたししか守ってあげる人がいない、と。

 姉はすぐに学校を辞め、そして働き始めた。

 その頃だった。その頃から姉は何処かの雑貨店で探してきた指輪を左手の薬指に嵌めて生活するようになった。

 それを嵌めている限り、男から言い寄って来ず、そして恋愛にうつつを抜かすことがないから、『生きる』ことに集中することが出来る。だから姉は偽の結婚指輪を嵌めたのだ。

 姉の薄給と、両親が残した少ない財産を切り崩しながら僕を学校に通わせ、ご飯を三食食べさせ、恥ずかしくない程度の服を買い与えてくれた。そして稀に、本当に稀にだが僕に少額の小遣いを握らせてくれた。

 それがどれほど大変なことなのか、今でも僕には想像できない。当時まだ子供であった姉がいきなり社会という先の見えない大海に放り出され、僕という足枷を付けながら、しかし溺れまいと泳ぐことがどれほど大変で、どれほど辛く、どれほど常人離れしているか。その凄さがなんとなくはわかっても、しかし守られていた僕が知ることは叶わない。

 やがて僕は中学に上がり、高校に入学した。その頃には大抵の家事はできるようになっており、仕事で疲れている姉の代わりに飯や掃除、洗濯などは僕が片付けた。それを苦痛に感じたことはない。少しでも姉の負担を減らせるのならと僕は進んでおこなった。

 それは、罪滅ぼしだった。

 姉の自由を奪い、幸せを掻き消している僕が出来るせめてもの罪滅ぼしだった。



 □□□□



 僕はペーパーバックを読むふりをしながら、隣で蜜柑を頬張る姉をチラチラと盗み見た。片手で本を持ちながら、もう片方の手でズボンのポケットの中に押し込んである指輪のケースを撫でた。布のような、独特の感触がある。

 僕は小さく溜息を吐いた。

 再び姉の顔に視線を向けると、姉が蜜柑を咀嚼しながら僕の目をじっと見つめていた。


「……どうしたの。さっきからわたしの顔をチラチラと見てきて。何か付いている?」

「目と鼻と口が付いているよ」

「そら大変だ。直ぐに取らなきゃ」


 いつものように意味のない会話を僕達は交わす。そんないつも通りの、何の変哲もないこの瞬間が僕にとっての幸せだ。

 ズボンから指輪の入ったケースを取り出す。それを姉から見えないように炬燵の死角でギュっと握りしめた。


「指輪、もうかなり長い間着けてるよね」


 僕は姉の目を見つめ返す。僕と同じく漆黒のその瞳は、何もかもを飲み込んでしまいそうだった。姉は自分の薬指を一瞥した。安物だったせいか指輪の表面には数多の擦れ傷があり、メッキも僅かではあるが剥がれていた。

 姉が口を開く。


「もう六年……いや、七年になるのかな」

「それさ、もうボロボロだから……」


 僕は握りしめていたケースを炬燵の上に出した。口の中が渇いている。顔に血が上っているのが分かる。手が、痙攣していた。


「新しいのプレゼントしてあげるよ。……いつもの、恩返し…………」


 僕は先程の蜜柑のように指輪を姉の前に滑らせた。蜜柑とは違い、今度は姉がしっかりとそれを受け止めた。

 

「へえ、珍しいじゃない」

 

 そう言って姉は指輪の箱を開いた。表面に一つの傷もなく、剥げるメッキも塗られていない本物の銀の輪は、蛍光灯の光と傍の蜜の橙色を反射させて瞬いた。

 僕は僅かに目を閉じる。

 



 どうか、その指輪に込められたもう一つの想いに気が付きませんように。

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