コータのこと
多分、あの事件さえなければ、あなたは自ら望んだ静かな人生を送れていたのではないだろうか? 中学二年生の秋、あなたは修学旅行に出かけた。奈良、京都への二泊三日の旅行。戻ってみると、コータがいなかった。留守中、ご飯については、母に頼んでおいたのだけれど。
「コ、コータは?」
「あのね。菫。落ち着いて聞いてね。お父さんとお母さん、離婚することになったの。だから、コータの面倒みるのは難しいでしょ?」
え? 頭のいい、あなたにもよく分からない一言。反対かな。ロジカルシンキングができる、あなただからこそ、理解できない言動。
コータの面倒は全て、あなたが見ていたはず。旅行に行くわずかの間だけでも、面倒だったということなのか? 確かに、何年も一緒に暮らしているが、両親にコータは懐いていない。彼らからすれば、可愛くない犬だったのかもしれない。離婚を口実に厄介払いした、ということのようだ。
動物愛護センターに連れて行かれた彼は、早々に殺処分さていた。
こんな事態となっても、あなたは、取り乱すことができなかった。号泣し、大声を上げ、両親を罵倒できない自分が憎くて仕方なかった。初めて、生まれて初めて、あなたは寝床で泣いた。悲しみ、悔しさ、怨念、あなたにとって、今生、最初で最後の人間らしい感情の発露だったのかもしれない。
そして、それと同時に、あなたのサイコパスとしての天性のスキルに大きなドライブがかかった。可愛い、愛すべきコータが殺処分された。ならば、人など、全て人類など、虫けらだ。同様に殺処分されたところで、なんの痛痒も感じない!!
だけど、コータは、コータだけは特別だと思っていた。彼の命の輝きは、あなたにとってはダイヤモンド。それを亡くした、喪失感? 今まで一度も経験したことのない気持ちよね? なんだろ?
ねぇ。ねぇ。想像してみて。ねぇ。ねぇってばぁ〜。あなた。
もちろん、あなたは、殺人が悪徳とみなされていることも、殺人罪の存在も、常識として知っている。だけど、人はいつか必ず死を迎える。その寿命を、少し「摘む」程度のことが、大仰な事件となって新聞の一面を飾るという点について、どうしても理解できなかった。
だが、まだ、積極的に、人を殺そうなどとは思わなかった。倫理の箍が外れてしまっても、感情が欠落している分、合理性を重んじる、あなた。功利的にみて、殺人を犯す行為は割りに合わないだろうという考えが、あなたの欲望をぎりぎり制御していた。
でも。でも。残念ながら運命はそんな、あなたを許してはくれなかった。高校に入学する直前から、あなたの体に「異変」が起き出した。初潮は小学校五年生だったが、以来、身長も体重も一般女子平均。容姿も醜いことはないと自認しているが、特別目立つ美人でもなく十人並み。隠遁生活にはうってつけだと思っていた。
ところが。望んでもないのに、あなたの胸は異常に育ち出した。わずか数ヶ月で、ブラを買い換えないと苦しくて我慢できなくなっていた。Fカップを超えてしまうと、市販の可愛いブラなど存在しない。
肩はこるし、運動には邪魔。あなたは、恥ずかしい思いをして買った巨大なブラを見ていて、吐き気がしそうになっている。何より気持ちが悪いのは、男の視線だ。あなたが、もし、元男なら考えもしなかったことかもしれない。
女の子は男の視線が、思いのほか、分かってしまうものよ! って、この忠告は遅きに失したわね。もう、あなたは、女の子なのだから。
まるで視姦されているような淫猥な眼差しにも、反吐が出そうだ。痴漢が犯罪だというのなら、こっちも取り締まって欲しいと切に願う。
高校の制服はブレザータイプだが、ブラウスは白であれば学校指定のものでなくともよい。胸が大きい人専用のブラウスを早急に買う必要があるだろう。でないと、息を大きく吸い込んだが最後、ブラウスのボタンが弾け飛びそうだ。既に、ブレザーの前ボタンをとめることは不可能になっていた。
ちなみに、あなたの通う高校は県立の進学校。海の近くにあって、ドラマやアニメのモデルになったりするお洒落な学舎。制服は男女共通のネイビーのブレザーだ。胸ポケットには校章を象ったエンブレム。男子はレジメのネクタイにグレーのスラックス、女子は同デザインのリボンタイとグレーにスカイブルーのチェックが入ったボックスプリーツのスカートといった具合だ。
男子、女子という言い方をしたが、トランスジェンダー向けということだろう。女子がスラックスなどを選択することも可能だ。
あなたは、ちょっとした洋裁ならできてしまう器用な子。学校のオフィシャル規定だと、膝下となるスカートを膝上に加工してみた。これも、極端に短くならぬよう、寸法には細心の注意を払っていた。
むぅ。スミレとコータって、そういうことだったのね。って、私、神様だから知ってたんだけど。テヘ。ちゃんと、考えてあげましょう!
ということで。コータは、リアル、作者の家族なのです。保護犬なので、正確な年齢は分かりませんが、7歳くらい、体重3キロもあるチワワ。名前も、柄も、後に出てくるリンゴ好きも、まんまの登場です。転生した異世界では、ちょっとした役割を担ってくれます。
で。ですねぇ。これを書くにあって、過去の殺人事件をかなり調べました。犯罪心理学までは、よく分かりませんが、そこで、何となく気付いたこと。とんでもない事件を起こす人は、生得的な何か? があるのかもしれません。
ですが、ですが。必ず、凶悪な事件の背景には、犯人を凶行へと走らせる、何らかのトリガーとなるイベントがあるようです。
もしかしたら、サイコな気質というものは、かなり多数の人が持っているけれど、環境的な要因で、それが表に出ないだけじゃないのか? 逆に考えれば、死刑になるような犯罪者であったとしても、ほんの僅か、周りに人に心配りがあれば、平穏な人生を送れていたんじゃないのか? なんて、思います。