ヒネクレモノ 第1話「オキ」
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電気の消えた部屋で女性がベッドに寝そべっていた。
締めきられたカーテンの隙間から自然の明かりがさしこんでいる。
その明かりは彼女の眠るベッドまで届いていない。その窓の下を微かに照らすだけだ。
彼女はときどき、無意識に寝やすい体勢に変える。
左の壁側に身体を向けたとき、彼女はふと目を覚ました。
寝ぼけて、少ししか開いていない目はぼうっと壁を見つめている。
彼女はべつに喉が渇いたわけでも、目覚ましのアラームが鳴ったわけでも、ましてやトイレに行きたくなったわけでもなかった。
どうして唐突に目が覚めたのかわからず、なぜと自分に問いかける。
違和感に気づかずに、そのまま残っている眠気に身を任せ、また眠りに落ちようと目を閉じようとした。
はっとなにかに気づいたように目線をあちらこちらに動かして部屋の様子を探る。
箪笥。
テスト前にしか座らない勉強机。
部屋のドア。
窓辺。
勉強机とベッドの間に置かれている小さなテーブル。
そのどこに視線を動かしても、なにもない。
視線を配ることを何度も繰り返して、はっきりと見えるようになったとしても、特に変わったことはない。
寝る前の電気がついた部屋と寸分の違いもなかった。
それに少しほっとするが、ビクビクと、かけ布団を頭まで被る。
誰もいない、なにもない。
なにも変わらない、その状況。
自分が気にするモノはなにもない。
彼女にとって、それがなによりも恐ろしかった。
—————————彼女は、視線に怯えている。
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昼休み。
安藤明美は自席で一人寂しく昼飯をとっていた。
寂しくとはいったが、そう見える状況だというだけだ。
この学校に来てからこの状態が続いているため、もうなにも思っていない。
もそりもそりと購買で買った弁当を腹におさめ、全て食べると指定カバンから本を取り出す。
本の種類に特にこだわりはない。
恋愛でもファンタジーでも、歴史でもホラーでも。
なんでも読む。
次はこのページから、と昨日の夜に挟んだ栞を引き抜き、表紙と次の無地のページの間に挟みこむ。
…少しの間、読書に集中していた。
ふっとなにも考えずに顔を上げて、前方にある黒板、その近くに飾ってある時計に目をむけた。
午後の授業が始まる十分前。
今読んでいる本の続きを読むことより、授業の準備を優先するべきだろう。
指定カバンから教材を取り出す前に、今開いているページに栞を挟みなおそうとするが、さきほど挟んでいたところにはなにもなかった。
不思議に思い、自分の机の周りを探す。
—————あった。
少し離れた場所にそれは落ちていた。
すぐに見つかったことにほっとしつつ、その栞を拾おうと手を伸ばすも、誰かにそれを拾われてしまう。
栞を拾っただれかを視界に入れようと顔を上げると、こちらを見下ろす青年がいた。
明美が青年を目にとめたことに気がつくとにっこりと微笑んで、すっと栞を差し出す。
「はい、これ。君のでしょ、安藤さん?」
「…え、あ、うん…。ひ、拾ってくれてありがと…」
戸惑いを隠さないまま、ぼそりと小さく礼を言う。
その小さく呟かれた言葉を聞きとった青年は、どういたしまして、と笑顔で答え、明美の近くから自分の友人のもとへと移動する。
明美はそもそもクラスの同級生と話さない。
せいぜい、話しても義務連絡だ。
さきほどの青年との話は一分もかからなかった。
しかし、明美にとっては立派な会話だ。
ひさびさのまともな会話で。
特に、異性と話して軽く緊張したのか。
騒がしかった心臓の鼓動が徐々に落ちついていく。
落ちついたところで、拾ってもらった栞を本に再び挟んで指定カバンにしまい、かわりに教材を取り出した。
机に出すと、まだ授業が始まるまでに数分あるようだ。
その間、特にやることもなく、ただ虚空を見つめていた。
ぼうとしていた頭が周りの声を取りこみ始める。
「…ねぇ、今の見た?」
「うん、見た見た」
「ありえないよねー…」
「…もしかして彼に声をかけてほしいからってわざと栞を落としたりして…?」
「えー! 嘘! 嫌だ、なにそれー?」
「ほんと、なんか調子乗ってるっていうかー?」
「あんなことやったってあんたなんか眼中にもないってーのー!」
(…あぁ、またか。そうやって私に悪態をついたからってなにも変わんない。あなたたちが彼に気に入られることなんてないのに…)
この学校、成城学園の高等部に進学してから、もう四ヶ月ほどが経っている。
明美のなにが気に入らないのか、特定の女子グループからいじめを受けている。
今のように、彼女たちが勝手に想像したことや実際にあったことを明美の立場を悪くようにグループ内で言い合ったり、場所にかかわらず、すれ違うたびに肩をぶつけてきたりする。
まぁ、それだけで終わるはずもなく。
明美の使っているロッカーに入っているものをゴミ箱に捨てたり。
ほかにもいじめといわれて思いつくものは全てされている。
弁解をしておくようだが。
明美は彼女たちに対してなにもしていないのだ。
機嫌を損ねることなど。
…この際、原因は放っておこう。
どうせ思いつかないのだから。
明美はこのいじめについて、悲観的になっていない。
一歩引いて、他人事のように。
自分がされていることを見つめている。
しばらくぼうとしていた明美は、はぁ…と小さなため息を吐いた。
そうして、教室の中に入って来た教師の声で意識の矛先を変える。
「ただいま…」
誰にも聞こえないほどの声量で、自分の帰宅を告げた。
電気のついていない家からは『あの女』の返事はない。
玄関の脇にある一階の明かりの電源を全て入れた。
ほかの部屋には目もくれずに、すたすたと階段を上って自室に向かい、学校のカバンを放り投げる。
そして、再び一階に戻り、キッチンに行く。
明かりがついた部屋には誰もいなかった。
食卓の上に、『あの女』が用意した明美のための弁当と一枚の紙切れが置いてあるだけだった。
紙きれに目を落とすとこう書かれていた。
明美へ
五時をすぎないうちに帰ってきなさい
変な人が出るかもしれないんだから
お弁当を持っていってないみたいだけど、お昼はどうしてるの?
ちゃんと食べないといい子になれないわよ
今日は帰りが遅くなるから
冷蔵庫に入っている夜ご飯を温めて食べて、はやく寝ること
母より
「…私のこと、いくつだと思ってるのよ…」
明美は十九時をすぎて帰ってきた。約束を大幅にすぎている。
わかっていた。
門限の時刻に帰ってくると、『あの女』に遭遇することになる。
できるかぎり、『あの女』と顔を合わせる機会を減らしたい。
そもそも、勝手に十七時と期限をもうけたのは『あの女』であり、明美はそれに同意していない。
だから、明美が言うとおりに行動するわけがないのだ。
『あの女』とはもちろん、明美の母親のことだ。
父親は幼少の頃に亡くなってしまっていて、『あの女』一人に育てられたのだ。
(———私が明美を守らないと)
そういう気持ちでいたためか、明美の母親はやりすぎなのではと思うほど過保護だ。
門限十七時をすぎて帰ってくると、一体なにをしていたのかを聞いてくる。
もちろん、十七時をすぎる部活動もさせてもらえない。
少しオシャレをして出かけようとすると、不審者に声をかけられてはたまらないと地味な格好で行くように指示し、持っている下着の色も派手すぎると口を出してくる。
そのしつこさと、まるで年齢を把握しているのかもわからないような口の出し方。
明美は母親が嫌いだった。
嫌いである女の作った物は食べたくない。
だから、テーブルに置いてある明美のために作られた弁当を学校に持っていくことはしない。
明美はテーブル上に置いてある紙きれから目を逸らした。
明美は夢を見ていた。
ふつうの夢と違って、妙に意識がはっきりしている。
電気のついていない自分の部屋だった。
明美が使っている、いたってふつうの部屋だ。
ただ、黒い靄のような物体が、勉強机の設置されている椅子に腰をかけ、机を背にしてこちらを向いていた。
明美はベッドの傍に立ってその物体と対峙している。
不思議と怖さは湧き上がってこない。
むしろ、安心感に近いものがあった。
(この人は敵じゃない。私の気持ちをただ一人、理解してくれる————…)
「…おまえは、なにがしたい…?」
だれが話したのだろうと疑問に思わなかった。
目の前の『この人』が話したのだ。
私に向かって。
自然とそう理解ができていた。
「おまえは、なにを望む……?」
また『この人』が尋ねた。
優しい声だ。
明美の感じている不安や嫌悪を共有したいという気持ちが伝わっている。
「……私の思う、嫌なことを消したい」
明美はきっぱりと発言した。
明美のクラスメイトは思わなかっただろう。
明美が、自分の意見を言えるとは。
明美がこうやって大きな声を出せるとは。
今まで、自分からなにかを望んだことも、相手に望むこともしなかった。
だからだろうか。
自分が望んでいることを口に出したとき、心臓が大きく脈打った。
体内から聞こえる音とその震動に、『この人』にも聞こえてしまっているのではと恥ずかしくなってくる。
「………いいだろう、叶えよう」
『この人』がそう承諾するのにそこまで時間は経っていなかった。
望みを聞いてもらえたことから、肩に入っていた力が抜けて、少し冷静になった。
そこで、そもそも、この夢の始まりで尋ねなければいけないことがあった。
物語が始まるときにはつきものだ。
「あなたは…だれ…?」
「……」
少しの間の沈黙があった。
『この人』はもぞりと椅子から立ち上がって、ベッド近くの明美のところまで来た。
明美の部屋はフローリングであるのだが、『この人』が動くとき、全く音がしなかった。
(あぁ、やっぱりこれは夢なんだな…)
明美は目の前にいる『この人』を見て、そう思った。
「私は だ」
「… 」
明美でもその名前に聞き覚えがあった。
明美だけでなく、どんな人でも聞いたことはあるだろう。
「そう、 。私はちゃんとおまえの願いを叶えてやる。世間一般的に、〝私〟のことはよく思われていないのも知っている。お前が私を心の底から信頼しきれていないのもな」
「いえ、そんなことは…」
「無理しないでもいい。当たり前だ。突然、見知らぬ人に信用しろと言われて、おまえはできるか? できないだろう?」
「……」
明美はその言葉にたいして反論しようと思ったが、できなかった。
『この人』の言っていることは至極、最もであった。
「そういうことだ。安心しろ、明日からのおまえの生活は少しずつではあるけれども、変わっていく。悪いようにはしない」
『この人』はそう言うと明美の目の前から離れて、カーテンで外の見えない窓へと近づく。その窓を眺めながら、こう言った。
「そのうち夜が明ける。さぁ、自分の床に戻るがいい。そうして目を閉じ、夢を見ろ。疲れているはずだ」
窓を眺めていてこちらに背を向けている『この人』を明美はじっと見つめていた。
しかし、『この人』に声をかけられて急にハッとしたように、自分のベッドに潜り込んで横たわる。
そうして、スッ…と目を閉じた。
あの夢を見た日から、少しずつ、明美の生活が改善されているようだった。
誰も明美と全く同じ生活をして暮らしているわけではない。
それは絶対に揺るぎのないことであるのは当然だ。
改善していると感じるのは明美だけなのだ。
まず、『あの女』…明美の母親だ。
夢を見た日の翌日は、いつもどおりであった。
しつこい、明美が嫌いだと思う母親だった。
しかし、徐々に母親に変化が表れ始めていた。
明美が遅く帰ってきてもなにも言わず、服にもなんの文句もつけない。
どんどん口数が減ってきているのだ。
最近では、明美が起きて来るとダイニングに母親の姿はない。
かわりに、テーブルの上にちぎられたメモが置かれている。
内容はこうだ。
明美へ
仕事を朝にも入れて忙しくなったので、明美のご飯を作れなくなりました
これからは自分で作ってください
朝昼晩、ちゃんと食べるように
母より
あとは学校のいじめだろうか。
初日にはやはり変わりはなかった。
まず、体操服が汚されていたり、教科書をゴミ箱に捨てられていたり。
また、靴を隠されたり。
いかにも典型的で、悪趣味でもある行為が次第に止んでいった。
続いて、あのいじめの主犯。
女子グループからのあられもない陰口、それから変に子供っぽい嫌がらせと絡みも日が経つごとに収まっていった。
今でも変わらず、明美の方をときどき見ながら、やはり集まってヒソヒソと何かを呟き合ってはいる。
しかし、それも長くは続かない。
ビクリと肩を震わせてあたりを見回したあと、たがいに顔を見合わせる。
そこで彼女たちの会話は終了を告げるのだ。
またもう一つ、最近になって変わったことがある。
明美がいつもどおり、昼休みのはやくに弁当を食べ終えて読書をしていると声をかけられるようになった。
「明美さん、今、ひましてる?」
「!…い、一応はしてますけど…、尾木先輩」
この尾木先輩が、明美のいる教室に来て話しかけてくるようになったのは、あの夢を見る少し前からだった。
明美は独りでいることがなくなった。
……尾木先輩が明美に声をかけた日も、今日と同じように本を読んでいた。
『ねぇ、その本そんなに面白いの?』
『え…?』
そんなありふれていて小説やら漫画やらでしか見かけないような、もしくは、ありふれすぎていて一種のナンパなのではと思えるほどの軽い言葉で、尾木先輩は明美のもとにやってきた。
軽率な人間が苦手だ。
だからといって、嫌いではない。
そもそも、明美はまわりの同級生と会話をしない。
尾木先輩のように明るくて、どんな人間にも臆することなく声をかけることのできる人と関わったことがない。
それゆえに、苦手なのだ。
どう接すればいいかわからない。
あるとき、いや、話しかけられてそう時間が経っていない日だった。
明美の席の前にどこかの椅子を持ってきて、ぺらぺらと何かを楽しそうに話していた尾木先輩にこう聞いたことがある。
『どうして、私に声をかけたんですか?』
『えっ』
当時そんなことを聞かれるとは思ってもいなかったのだろう。
尾木先輩は戸惑いの声を上げ、少しの間、なんと言ったらいいのかを考えていた。
『わ、私なんかに話しかけなくても…せ、先輩のまわりにはもっと華やかな…明るい女子がいると思います…。だから、そ、そういう人たちと話したり、遊んだりしてたほうが楽しいですよ…?』
『…うーん…そんなことはないと思うけどなぁ…』
『え…?』
『いや、さっきの質問なんだけどさ、どうしてって言われても、特にこれといった理由なんてないんだよね。ただなんとなく、声をかけたかったからなんだよ、強いて言うなら。君をはじめて見たとき、寂しそうだったから。それで』
(———…やっぱりこういう人って言ってることも、どことなくチャラいっていうかなんかこう…そんな感じがする)
そう明美が思ったとき、丁ちょうど居心地が悪いとでも思ったのか。少し苦笑して明美の方を振り向いた。
『ってなんかクサかったよね。でも本当。そう思ったんだよ』
とはいっても、明美がこの言葉にそれほど動かされることはなかった。
しかし、尾木先輩にたいして持っていた苦手意識は少し薄らいだ。
尾木先輩の発した全ての言葉に裏がないように思えたからだ。
それから明美と尾木先輩は二人でいることが増えた。
昼休みに二人で弁当を食べたり、放課後に二人で途中まで帰ったり。
そういったときは二人とも、その日あったなかで面白いものを相手に話す話題として取り上げていた。
明美は決して面白いと思えるような日常を送っていなかったので、せいぜい自分の読んでいる小説しか話題にはできなかった。
反対に、尾木先輩は自分の同級生、もしくは家族の話をおもしろおかしく話して聞かせた。
最初は人前で笑うことを躊躇っていた明美だが、次第に我慢ができなくなった。
そうして今日、ついにプッと笑ってしまったのだ。
尾木先輩がそれに気づいたとき、明美はハッとして手で口を押さえた。
「…今、笑った…?」
「いえ、べ、べつに笑ってなんか…」
「いや、笑ってたよね? ね?」
「わ、笑ってな…」
「よっしゃ! やった!」
否定しかけた明美の言葉を聞かず、尾木先輩は嬉しそうに笑った。
「明美さんさ、俺と話してても退屈そうってか、笑おうとしなかったでしょ? 俺なんてあいつらがふざけたことしてたら、あとで思い出して笑うっていうのに、そんな事ないしー」
「いや、いつも面白い話ばかりでしたよ…?」
「明美さんが笑わなかったらそりゃ意味ないでしょ! 俺は明美さんを笑かそうって思ってやってんのにっ。だって、面白そうで、明美さんが絶対笑うって思ったものしか俺、しゃべってないからね? いやーでもその努力? 労力? が報われたなー、良かったぁ!」
(…そんなに重要なことでもなくないか…?)
明美は、努力とか労力とかそういうときに使わないのでは、と思う。
「…今、そう聞いてみると、尾木先輩は私に構いすぎっていうか…そういう感じじゃありませんか…?」
「え? なに? どういうこと?」
「せ、先輩はそうやって…話の中にも出てくるほどの友達がいるんですから、その…自分の友達を優先しては…?」
尾木先輩は、あぁ、そういうこと…、とポツリと呟いた。
「大丈夫! ちゃぁんとあいつらとも会ってるから! それに君もそうでしょ?」
「は?」
「俺の友達でしょ? え? 何か違うの?」
「私と先輩って…友達だったんですか」
明美のその言葉を聞いて目を見開き、驚いた表情を見せた。
「嘘だろ…。友達って思ってたの、俺だけ…?」
そう言って椅子の上で体育座りをして、両膝の上に両腕の手から肘までをのせた。
少しできた隙間に顔を埋める。
外から見れば落ちこんでいる格好で、実際、そうしていることはさきほどの言葉でわかる。
正直、明美は尾木先輩にたいして、面倒くさいという気持ちを覚えていた。
しかし、声をかけるしかないのだろう。
現に今、明美がいつ声をかけてくるかと、励まそうとするかと期待したような態度で、腕の隙間からあいかわらず顔は上げていないが、視線をちらちらと動かして明美の出方を見守っている。
………。
明美は、はぁ…と呆れたため息を吐いて、尾木先輩の背を叩いた。
「あの、先輩。私はべつに尾木先輩のことを友達じゃないと思ってるわけではないです」
「え? そうなの?」
まるで明美の言葉をそのまま受け取り、それが真実であると思っていたかのようだ。
ガバリと背中を起こして、伏せていた顔を明美に向ける。
「はい、そうです。…恥ずかしい話、私、先輩と話していると、友達というよりは先輩と後輩…上下関係のほうが強い気がして…。そういう意味で言ったつもりだったんですけど…。すみません、誤解させてしまいました」
明美が珍しく困った顔を見せながら謝ると、尾木先輩はブンブンと首を勢いよく振って否定の意を示した。
「いや、そんなに気にしないで! 俺はそれが知れただけでも嬉しいよ! そうだよね…うん、確かに…先輩とフレンドリーに話せはしないよね…」
「はい。…あ、」
ふと顔を上げると前方に飾られている時計が、授業の始まる時間まであと数分であると告げていた。慌てて目の前の尾木先輩に声をかける。
「せ、先輩っ。と、時計! 時間、見てくださいっ」
「んぇ? なに…あぁあああっ。やばっ、次、移動じゃんっ。ご、ごめんね、明美さん。じゃぁまたっ。教えてくれてありがとぉおっ」
ここで、明美なら絶対しない…いや、前までの明美ならしないことをした。
これはただの明美の気まぐれ。
そう、ただの気まぐれだ。
そう自分に言い聞かせて、慌てて荷物をまとめて明美の教室を出ていこうとする尾木先輩に声をかけた。
「尾木先輩っ。先輩は私の中で大切な…本当に大切な人ですっ。これからも、私と仲よくしてくださいね!」
「え、あぁうんっ」
ふわり。
ここではじめて。
はじめて明美は笑顔を見せた。
この笑顔は、尾木先輩の面白い話を聞いたときのものとは違う。
嬉しさからくるものだった。
明美の言葉に曖昧な返事をした尾木先輩は、ひらひらと手をふって前を見ずに明美の教室を去った。
「ふふふ…あははは…すっげぇ嬉しいっ。まじか」
移動先の教室。
尾木先輩は椅子に座り、口元を押さえて嬉しそうに笑っていた。
思い出すのはここに来る前の、明美のあの嬉しそうな笑顔だった。
2
『あの女』、明美の母親が死んだ。
いや、死んでいたというべきか。
その日の朝、いつもどおりの時間に明美が起きて自室を出た。
すると二階の廊下が暗い。
これはいつものことではあったが、変だった。
明美の部屋は二階の一番奥にあり、階段がある部分はふきぬけとなっている。
一階の明かりが二階に漏れてくるように設計されているのだ。
そして、その日は一階からの明かりがない。
いつもと違うのだから、不思議に思うのも当然で。
明美は自室の電気をつけ、その心もとないが、漏れている明かりをたよりに廊下を進んだ。
そして、階段近くにある二階の電気スイッチを押し、一階の様子を窺う。
……人が動いているようには感じない。
ここで、明美は一度、おそるおそると一階に降りて様子を見ることにした。
まず、自室の余分な電気を消す。
次に、二階の廊下にある一階の電気スイッチを押し、一段ずつしっかりと踏みしめていった。
一階は、リビングとダイニングキッチンが隣接されている。
が、そこに明美の母親の姿はない。
リビングのソファに寝そべっているわけでもない。
トイレ、洗面所、風呂場と一階にある個室は探したが、どこにも明美の母親の姿はない。
少しずつ、明美のなかに焦りが湧いてくる。
玄関にも行ったが、明美の母親の靴はあった。
朝はやくのバイトに出かけてはいないらしい。
玄関からリビングに戻って、ダイニングテーブルの傍に寄る。
異変が起こる前からあった置き手紙は、明美の推測どおり、テーブルの上でその存在を主張していた。
明美へ
ごめんなさい
お母さんはもう疲れました
本当はこんなこと言うべきじゃないのはわかってる
もう明美のことが 怖くて怖くてしかたないの
私 あなたになにかしたのかしら
あなたのこと心配するたびに……
いえ なんでもないわ
お金のことは心配しないで
あなたが大人になる分はあるから
さようなら
(…さようならって…。どういう意味…? 何でさよならって言うの?)
さようならという言葉。
不穏な手紙。
少しずつ募っていた不安がぎゅんと明美に集中した。
その不安が一気に放たれた衝動のままに、バッと今いる場所から急いで階段を駆け上がり、明美の母親の自室に向かった。
バタバタと階段を駆けあがり、ノックをせずに部屋に入る。
勢いよく開けられた扉は、強い音を立てて壁にぶつかり、ビンビンと震えながら跳ね返る。
扉に目を向けるよりも、もっと目を逸らせないものがあった。
カーテンから透けた日光が、ほんのりと部屋を照らしている。
かろうじて、小さな本棚とベッド、そしてスタンドが見える。
ベッドの上はこんもりと盛り上がっている。
明美はいったん、人がいることにほっとした。
心臓をドクドクと忙しく活動させていた不安が、すこしだけ、人がいる気配を確信したことで薄らいだ。
まだ寝ているのだろうか。
あの不穏な置き手紙はなんのか。
尋ねなくては。
そういう気持ちから、明美の母親の部屋に一歩ずつ踏みこんだ。
ベッド近くに来てみると、パキリとなにか小さいものを踏んだ。
しかも一つではなく、何個もの小さなそれの上に足を乗せた感覚がした。
ぶわりとまた、不安が湧き戻ってくる。
「…お母、さん?」
声をかけてみたが、身動きをしたり寝惚けながらでも返事をしたりする様子は見られない。
ゆさゆさと体を揺すってみる。
なんの反応もない。
(……?)
違和感があった。
かけ布団の下の隠れている母親の片手を取る。
服から出ている素手の部分を触った。
まるで氷を触ったようにひんやりと冷たい。
その冷たさに驚き、一瞬で母親の手を放り出す。
じりじりと母親が横たわるベッドから離れ、部屋の出入口に向かい、その横の壁に設置されている部屋の電気スイッチを押す。
カチッと音がして、部屋の中を見やすくなった。
ドクドクと血液が送られて胸が苦しくなる。
それでも、またベッドの隣に寄った。
「……お母さん……?」
ベッド近くの、背の低い本棚の上に置かれた瓶。
床に落ちてところどころ砕けた錠剤。
ベッドの上で、まるで本当に寝ているように寝そべり、血色の失せた明美の母親の顔。
…………………
……………
………
すぐに警察を呼ぶことはできなかった。
警察が来てから、明美が疑われることはなかった。
母親が手紙に残した、明美に向ける負の感情。
一人でいたため、アリバイといえるものを証明できる人がいなかったこと。
それは確かだった。
しかし、ベッド脇の小さな本棚にあった小瓶からは、明美の母親の指紋しか発見されなかった。
この小瓶の中身は睡眠薬で、これを大量に、それも致死量を飲みこんだと考えられたのだ。
ここから自殺の線で捜査された。
いくら嫌いで気に食わないかったといっても、ぽっかりと心に穴が開いた。空しい気分になった。
———明美の母親が死んだ。
成城学園の高等部に進学して、やっと学校生活に慣れたと思われた矢先のことだった。
3
母親の死から数日経った。
やっと学校の授業に戻ることができた。
関わらなかった同じクラスの同級生から、表面だけの心配の言葉をもらった。
尾木先輩が明美に話しかけてくるようになってから、声をかけてくるようになったのだ。
尾木先輩も心配して顔を出しにきたが、授業があるために、明美に一言二言を話して自分の教室に戻っていった。
周りがざわざわしているのに気がついた。
それがなかなか終わらない。
大人数で明美の周りに立ち、ざわざわしている。
気づいてほしそうに。
しかも、そうしている同級生の顔が浮かない。
「…あの、どうして私のまわりで話してるの?」
「どうしてって…あれ、もしかして安藤さん、知らないの?」
一人の女子生徒が明美の質問に質問で返した。
近くにいた別の女子生徒に諫められる。
「ちょっと。安藤さん、休んでたんだから知るわけないでしょ」
「あ、そうか。ごめんごめん」
たはは…、と軽い、謝罪の入ってない言葉でじゃれてくる。
「えっと…なんの話?」
聞かないと明美の中に疑問を残したまま終わりそうだった。話題を終わらせないために再び尋ねる。
「安藤さんが休んでた間に、あー…、うんと、佐藤みずなって言って、わかるかな?」
「あぁ、うん」
佐藤みずなは、明美をいじめてきた女子グループのうちの一人だ。
そういえばと思い、ざっと教室内を見てみる。
彼女らしき人物の姿はない。
「で、その人がどうかしたの?」
「佐藤さん、安藤さんが休んでいる間に家出したんだって」
「…家出?」
(なんだ、それだけのこと。…でも、それでここまで動揺する?)
「でも、ただの家出だけじゃなくて」
「…うん」
「昨日、その佐藤さん、遺体で見つかったの」
「——遺体で?」
「そ。どぅも自殺らしいの。全然、別の町の公園で、その公園にある林みたいなところで首吊って」
最初に、明美と話した女子生徒もくわわってくる。
「私たち、あの子のグループと仲がいいわけじゃないから、あんまりどぅも思わなかったんだけどね? 佐藤さんと…あと二人、いたじゃん? わかる? ……そう、その二人がさ、佐藤さんが死んだって聞いてすっごいパニクッちゃって。今日、安藤さんが来るって聞いて、こりゃまたすっごい怒鳴ってたんだ。『あいつがみずなを殺したんだ』とか『今度は私たちを殺す気なんだ』とか。もうね、ほとんど正気じゃなかった。やばかったよ、顔が。もう、すっごい形相でさ。このままじゃ安藤さんがちゃんと学校に来れないって、先生が二人を強制的に早退させたんだよね。ほんとう、嫌な感じ。安藤さんだってお母さんが亡くなっちゃって、意気消沈? してるっていうのに」
「あぁ、うん…そうだね」
曖昧な返事と笑顔で応対して、会話をうちきった。
聞いていなければ、もしかしたらまだあったかもしれない疑問が別の形で明美のなかに現れる。
明美の母親が死んで。
明美が休んでいた数日で、明美をいじめていた相手の一人、みずなが死んだ。
これはあまりにもできすぎではないか?
どっちも自殺だ。
仮に殺人だとしても、明美はやっていない。
やっていないと断言できる。
でも、証拠はない。
しかも、明美は自分の母親のことを好いていなかったし、むしろ嫌いでもあった。
では、みずなは?
どうだろうか。
確かに、自分がいじめの対象であることを十分に把握していた。
いじめられていたことについて少し嫌な気もしたが、しいていうなら、そのいじめで被害を受けたノートやら衣服やらをまた買いなおさなければならない、ということのほうが嫌だった。ここまで考えて、ふと明美はあの夢を思い出した。
『…私の思う、嫌なことを消したい』
「いいだろう、叶えよう」
(———まさか、これのこと?)
確かにどちらも、明美の母親もみずなも、明美の〝嫌だと思うこと〟にあてはまっている。
だが……。
(私が〝嫌だと思ってることを消す〟って…こういうことなの…?)
そう考えた途端、ずん…と体が重くなった。
自分が、直接とか間接であるとかそういうことよりも、〝自分のせいで人が死んだかもしれない〟〝私は人を殺したかもしれない〟という罪悪感と自己嫌悪が明美にのしかかってくる。
しかし、こうも考えられた。
(でも、まだそう思うことは早計なんじゃ…? 偶然、たまたまの可能性もある…)
まだ二人という考えがあった。
でも嫌な予感は拭いきれず。
明美は憂鬱な気持ちで、学校生活を送るはめになった。
学校からの帰り道。
日課となっていた尾木先輩との下校。
今日は、尾木先輩が明美を家まで送っていくことになっていた。
明美はだいじょうぶだと言ったが、尾木先輩はそれを聞かなかったのだ。
『明美さんを教室に迎えにいったとき、クラスの子が言ってたよ。パニックになって早退させられたって。明美さんのこと、すっごい怒ってるって。一人で帰ってるときに絡まれて怪我したら嫌でしょ? …ね、今日だけでいいから送らせて』
尾木先輩にそう言われて、確かにその可能性もありそうだ、と明美は思った。
先生たちも出てくるような大きいヒステリック。
あの女子生徒たちを保健室ではなく家に送り返したのなら、ありえないことではない。
とりあえず、尾木先輩の言葉に甘えることにした。
雑談をしながら歩いて十五分、あと十分もかからずに家に帰れる目印である踏切が見えてきた。
遮断機の腕は下りておらず、一時停止をした車が歩行者と自転車に気をつけながら速度を落とし、次々に渡っていくのが見えた。
尾木先輩と談笑しながら、踏切を渡ってむこうに進もうとしたとき。
後ろから強く肩を掴まれた。
それは痛みをともなっていて、あまりにも強い力に明美の体は無理やり後ろを振り向かされる。
そこには明美と同じ、成城学園の高等部の制服を着た女子生徒がいた。
走ってきたのか。息が途切れ途切れであった。
この女子生徒に見覚えがある。
佐藤みずなと仲がよく、明美を一緒になっていじめていた女子生徒。
かつ、今日の学校で、情緒不安定なために早退させられた。
田中智穂だ。
ギッと明美を睨みつけ、肩を掴んだ手を離さない。
踏切のむこうで尾木先輩が不思議そうに、そして不安そうに明美と智穂の二人を見ている。
尾木先輩を待たせている。
そちらに行きたいのに、智穂はなにも言わずピクリとも動かない。
これでは動けないではないか。
せめて肩の手を離してくれと頼もうとすると、
「…んで」
小さく智穂が呟いた。
智穂がなにかを先に言ったため、自然と明美は話すことを止めて智穂の次の言葉を待つかっこうになった。
「なんで、あんたが生きてんのよっ」
いきなり大きな声で叫ばれて明美の肩が跳ねる。
それに構うことなく、肩を掴んだ手を離さないで智穂は怒鳴り続けた。
「みずながあんたになにしたってのっ? いじめたのがそんなに気に喰わなかったっ? だったら、私たちに言えばいいじゃんっ。それですむじゃんっ。みずなのこと、あそこまで追いこんで……っ。自殺なんかさせてっ。あんたがみずなのこと殺したんでしょっ」
そこまで言って、軽く笑って続けた。
「どんな気持ちだよ? 自分をいじめたやつが追いこまれて、自殺して…この世から、いなくなってさぁっ! さぞかし嬉しいだろうなぁ!」
明美と智穂を避けて歩くみしらぬ人々は、なにごとだと好奇の目を向ける。
二人をすれ違いざまに見て、智穂の怒鳴り声を心底やかましく思っているかのように顔をしかめて通りすぎていく。
尾木先輩はヒステリックに喚く智穂を見て、これはまずいと思ったのか。
明美と智穂を引き剥がそうと足早に近づいてくる。
「そうやって…そうやってさぁ、どうせ私のことも殺すんでしょ…? ……ふざけんな、誰があんたなんかにっ…」
カンカンカンカン。
上下に赤を点滅させて、遮断機が電車の接近を告げる。
遮断桿が一定の速度で下り、止まるべきところにおさまった。
智穂は興奮して気がついてない。
明美は暴行を加えようと躍起になる智穂の腕から逃れようとしている。
尾木先輩が二人のところにやってきた。
明美を智穂から離すために智穂に声をかけながら、明美を自分のほうへ引っ張っている。
視界の隅でこちらに走ってくる電車が見えた。
なかなか、智穂は明美から離れない。
さきほどよりもはるかに明美たちに近づいていた。
尾木先輩は焦っていて、また苛立ちもしているようで。
智穂をほとんど突き飛ばすように明美から離し、明美と一緒に遮断機のむこうへと転がった。
そして、すぐ、今度は智穂を連れてこようと体を起こした
瞬間。
尾木先輩の目の前を電車が走り去った。
電車がその足に歯止めをかけ、無理やり速度を落とそうとしている音。
ドンッと重いものがぶつかる。
それから数回、なにかが固いコンクリートにぶつかった。
尾木先輩は中途半端に体を起こしたままで。
明美は顔だけを線路のほうに向けて。
智穂がさきほどまで―音が聞こえる前まで―いたと思われる位置を見つめた。
だれもいない。
明美のすぐ隣にいる尾木先輩は、嘘だろ…、と口の中で呟いた。
なにが起きたのかをまだ理解できていない明美の近くでは、突然の事故にざわざわと通行人が騒ぎたてる。悲鳴も聞こえた。
「え、嘘、轢かれた?」
「ちょ、やばい、警察呼ばないと!」
「うわっ、まじかよ…」
「あそこの二人、超ギリじゃん」
「一歩間違ってたら、あの子たちも轢かれてたよ。やばくね」
それから警察が二人に話しかけるまで、明美と尾木先輩はその場から動けず、じっと踏切を見ていた。
4
「えー、いつもどおり、まず出席を取っていきたいところだが。みんなに言っておかなきゃならないことがある」
朝のHR。
点呼を取る前に担任の教師が告げる。
その内容は、今日の早朝、羽山亜紀という女子生徒の家族が急きょ引っ越したというものだった。
亜紀も、智穂と同様に、みずなと一緒に明美をいじめていた人である。
これを聞いて、明美は制服のポケットに入っている手紙を触る。
そしてHRが終わってから、それを取り出した。
簡素なルーズリーフを折り畳んだだけのもので、明美が学校に来て教室に入ると、自分の机から見つけたものだった。
放課後、一―二の教室で待ってて
(…これは、どうしたらいいんだろうか?)
正直、待っていなくてもいい気がした。
恋愛とか青春的なイベントであるなら、待っていてもいいとは思えるが。
そもそも、明美は少し前までいじめられていて。
だから、そういった異性とのやりとりを全く経験したことがない。
これからだって可能性はないだろうと自分勝手に思っている。
それ以前にこの手紙だ。
これは手紙といえるようなものではない。
内容がたったの一行ですんでいて、しかも、明美の名前も、差し出し人の名前も書かれていないのだ。
だから、これが恋愛関連のルーズリーフではないとわかった時点で怪しさしかないのだ。
見ず知らずからのルーズリーフ。
その人間の名前もわからず、なにをされるかわからないという怪しさ。
少しの恐怖。
この考えから、明美はその差し出し人を待つ気がなかった。
……なかったのだが。
「え? 明美さんももらったの?」
昼休み。
もはや恒例となっている尾木先輩との昼食でのこと。
実はよく分からないルーズリーフをもらい、もてあましていると尾木先輩に零すと、自分ももらったと言う。
「いやー、いつの間にかカバンの外ポッケに入っててさ。びっくりしたよ。で? 明美さんのは? 名前、書いてあった?」
「いえ、書いてありませんでした。尾木先輩も…書いてなかったんですか?」
「そー。なんなんだろうね、これ」
「…さきほど、鞄の外ポッケに入ってたって言ってましたけど、だれが入れたのか見ました?」
「いや、いつの間にかだったから見てないよ」
「そうですか」
ここで区切って、明美はもう一つ気になっていることを尋ねてみた。
「尾木先輩は待ちます? この人が来るの」
「そういう明美さんは?」
「不気味なんで気が引けます」
「あーわかるぅ。んーそうねぇ…俺は待っててみようかなって思ってる」
「本当ですか?」
「うん。この手紙をくれた人がどういうつもりなのかわからないけど。俺と明美さんに送ってきたってことは、俺と明美さんが関係しているなにかなんだと思うし。先生ではなさそうだよね。普通に呼び出せばすむからこんな形じゃなくていいし。あと、俺はカバンで明美さんが机っていうのが気になる」
「…あ」
(この違いは確かに気になる…)
明美は尾木先輩に言われてその違いに気がついた。
気づくとどうしてそれに思いいたらなかったのか不思議ぐらいだ。
「たぶん、俺のほうは席がわからなかったからだと思うんだけど。でも、それって俺の友達に聞けばわかるし。ってことは、わざとそれをしなかった」
「というと…私の席を知っていた…?」
「そういうことだと思うよ。可能性が高いのは、明美さんのクラスメイト」
「確かに」
「ね? 俺のカバンに入れた理由は会わないと聞けないし。明美さんのクラスのだれかだったら信じてもいいかなって思えるじゃない。少しだけど」
明美は尾木先輩の推測に納得していた。
怪しさと不安よりも好奇心のほうが勝ったのだ。
「尾木先輩。私も行きます」
「うん、そうだね」
放課後の一―二の教室には、明美以外にだれも残っていなかった。
橙よりも赤に近い夕暮れが外の風景で。
教卓、クラスの生徒数に並んだ机と椅子、教室に置かれている用具も、薄められたその色を吸ったようで。
明美がぼうっとしていると、開いていた教室の前方の扉から、尾木先輩がやぁと片手を挙げて入ってきた。
それからしばらくの間、二人で軽く雑談をしながら、ちらちらとかけ時計を見て時間を気にしていたのだが。
十分……十五分……二十分。
だれかが現れる気配はしない。
教室が暗くなった気がして、明美は席を立ち、扉近くの電気をつけた。
「…遅いね」
「遅いですね。まさか、騙されたんでしょうか?」
「えー…それは嫌だなぁ」
「いやーごめん、遅れてっ。あと、待っててくれてありがとう!」
明美がガッカリしながらもどこかホッとしていると、突然、そんな声が響いた。
明美と尾木先輩はビクリと体を震わせてから、声のした方を見る。
教室の後方からだった。
「失礼しますも、変だね。だって、俺、この教室だし」
「…だれかな?」
尾木先輩は知らなかったのか、そう声をかけた。
一方の明美は、その声と姿でだれであるのかを察することができた。
「えっと…剣上君だよね。剣上、龍矢君」
「そうだよ、安藤さん」
にっこりと人懐っこい笑みを浮かべる。
オレンジと黄色の間の髪色、幼さの残る顔立ち、赤い両の瞳。
明美が龍矢のフルネームを言ったことで、尾木先輩もなにかを思い出したようだ。
「あぁ、君がバスケ部の期待の新人って言われてる子なんだね」
「先輩も知ってるんですね。そうです、さっき部長に部活を休みますって言ってきたところで……予定があるんで」
「予定?」
明美が聞き返す。
龍矢は教室の中に入ってきて、自分の席だと思われる場所で肩からカバンを降ろした。
ドサリと重そうな音を立て、カバンが机の上に置かれる。
龍矢は、ぱっと二人の方を向いた。
「え、だって先輩も安藤さんも、俺を…その手紙の差し出し人を、待ってたんでしょ?」
「…ってことは、これ。剣上君が書いたの?」
「そうだよ。いやー実際、二人が来てくれるか不安でさー。だって名前書かなかったから……無記名とか怖いって思うだろうし…。ラブレターとかだったら嬉しいけど。内容そうじゃないし。リンチとかボッコとか嫌じゃん」
尾木先輩はとにかく、明美と龍矢は特別、仲がよいわけではない。最後の記憶といえば、落とした栞を拾ってもらったときだ。
龍矢はムードメーカー的な存在で、頻繁に友達と思われる人物と喋っているのを目にする。
目立つのは、目の色もそうだが、中等部を経由せずに外部から成城学園に編入してきたというところだ。
編入してきてすぐ、クラスの中心的存在になれる人物と明美が、友達の関係を築けるわけがない。
だからこうやって、まるで今までよく話して遊んでいましたというように話している龍矢に吃驚する。
「あのさ、どうしてこれ、俺たちに渡してきたの?」
「それは先輩もわかっているはずですよ」
「え? …俺が?」
「はい。あ、あと安藤さんも」
「私?」
「…んー」
じぃ…と明美から尾木先輩へと視線を動かして唸る。
「…あー二人とも、色々と聞きたいことはあるかもしれないんだけど。ちょっと待っててもらえます? まだ一人来てないんで」
「まだ、だれか来るの?」
この問いに微笑みながら頷いた。
明美は、それを見てまた不安になってきた。
龍矢は、はたから見ると決して暴力を好む人間ではない。
もともと、こうして明美と尾木先輩を呼び出した相手は一人だけだと思っていたのだ。
もう一人来ると聞いて、実は、龍矢のこの態度はカモフラージュなのではないか。
そのもう一人が来た途端、豹変して明美と尾木先輩に暴行を加えるのではないか。
そう、想像してしまった。
しかし、龍矢と同じクラスであるので、その可能性はすぐ消えた。
関わりはないけれども、龍矢がそんなことをする人間ではないとわかっているからだ。
明美と尾木先輩の二人をわざわざ呼び出して、暴行を加える理由なんてなさそうなお人好しでもあることも知っている。
ならば、なぜ…、と考えていた明美をコンコンと鈍いノックが現実に引き戻す。
尾木先輩はすでに音のしたほうを向いていたので、釣られて明美もそちらを向いた。
いくつもの窓が並んでいる教室の校庭側の壁。
そのなかで、人一人が楽に通れる二つの窓がある。
一つは、教室の前方にある窓。
もう一つは、後方にある窓。
全ての窓のむこうにはベランダがあるのだが。
後方にある窓のむこうに女性が立っていた。
黒いコートを着ていて、顔半分を仮面で覆い隠している。
明美と尾木先輩、それに龍矢の視線が自分に集中しているのに満足したような笑みを浮かべている。
そしてもう一度。
コンコンと窓ガラスを叩き、口を動かし、ベランダと教室を隔てる窓を指さす。
声も出していたらしく、くぐもった声で「この窓を開けろ」と聞こえてきた。
女性の声としては明らかに低く、へたをすると龍矢のほうが高い。
その龍矢は、女性がいることに顔色を明るくさせ、ご機嫌にその女性のいるほうへ歩いていく。
「はやかったね、シドー。なんでそんなかっこうなの? それ、仕事服でしょ?」
パチンと鍵を開け、女性を招き入れた。
教室に入った女性は龍矢を見る。
「ばぁか、仕事だろ、ある意味。なのに私服で来れるかよ。授業参観じゃねぇのに」
「仕事なの? …仕事、なのかな…?」
荒い口調で答える。
ここまできても、この女性——龍矢によると〝シドー〟らしいが——、ベランダでこちらを見たきり、明美と尾木先輩のほうに一瞥すらもよこしていない。
ずっと龍矢の方を向いたままだ。
龍矢とこの女性は、女性の身長が龍矢よりも高い。
また、ルックスもよい。
黒いコートと不気味な仮面がなければ、モデルかなにかだと思えもする。
尾木先輩は、おいていかれていると感じて、二人に話しかけた。
「あの、あなたはだれですか?」
その声でようやく女性がこちらを見た。
明美をちらり、尾木先輩をちらりと見て、フムと顎に手をあてる。龍矢に目線をやった。
「こいつらがお前の言ってた、アレ?」
「そう。匂いもするでしょ?」
「…あぁ。するな」
動物のようにスンスンと匂いを嗅ぎ、龍矢の言葉を肯定した。
「…俺はシドウだ」
「…シドウ?」
女性が尾木先輩を見ながら答える。
明美がその名前をくりかえすと、あぁ、と言って指を空中に走らせる。
「〝死ぬ〟に〝導く〟で、死導だ。…女につける名前じゃないって思ったか? じゃぁ、いったい誰につけるものだ? ……どう思う? はっ、おまえらはそうかもしれんが、俺は気に入ってる」
なんて恐ろしい名前なのか。
明美はそう思った。
ふつう、死を連想させる名前を人につけない。
それなのに気に入っているというこの女性は、まとも人なのであろうか。
そう感じたのは尾木先輩もであったようで、死導を青ざめた顔で見つめている。
二人は、死導という女性が恐ろしかった。
死導はスタスタと教室のまんなかまで入ってきて、近くにあった机にどかりと座った。
明美と尾木先輩のほうを向いて芝居がかったふうに、さぁ、と笑った。
「まずは、お前らからだ。龍矢に質問があるんだろ? 聞いたらどうだ?」
一体どうして知っているのか。
明美はこの死導という女性にまた恐怖を覚えた。
尾木先輩が龍矢の方を向く。
「なら一つだけ。なんで、明美さんは机で、俺はカバンなの? 俺の下駄箱に入れてもいいし。最悪、俺の友達に聞いて同じように机に入れればいいじゃん?」
ん? と首をかわいらしく傾げ、龍矢は答えた。
「だって先輩の机も、下駄箱もないじゃん? そんなの入れらんないでしょ」
「は?」
—————先輩の机と下駄箱がない?
どういう意味だ?
一瞬いじめられているのかと思ったが、下駄箱がないと言った。
先生たちがわざと生徒の下駄箱を作らない、なんてことはない。できるはずがない。
なら一体どうして?
「な、なに言って…」
この龍矢の発言に相当驚いたようで、尾木先輩は言葉につまった。
「いやー、俺もねぇ、おかしいなって思ったんですよ。もし仮に、いじめだとしても。机は壊されたーとかだったら説明つくけど。下駄箱はそうもいかないし。あと、先輩の同級生にも聞いたんですよ、俺」
「…! まっ…」
尾木先輩はここでハッと明美を見たあと、龍矢を止めようとした。
が、止められなかった。
その尾木先輩の同級生とやらの口調をまねて、そのときの状況を再現する。
一人二役だ。
「『すみません。尾木って人の机ってどこですか?』」
「『? だれ?』」
「『え? いや、尾木っていう名字の人ですよ。このクラスだって聞いたんですけども』」
……だれ?
龍矢の声で、しかし同級生の疑問が明美のなかでくりかえされる。
だれってどういうこと?
尾木先輩のクラスメイトなら机の場所を知っているし、ましてや知らないなんて言うわけがない。
さっきから、不思議で理解できない会話がされている。
なんなの、これ。
「『それってだれのこと?』」
「やめて…」
「『えっ、だれって…。尾木先輩っていう人ですよー。あれ、もしかしてこの教室の人じゃない? それだったら俺、恥ずかしいなぁ…』」
「やめろ…」
「『いやそうじゃなくて。そもそもこの学校に尾木なんて名字のやついないよ』」
「やめてくれっ」
尾木先輩が顔色を悪くさせている。
耳を押さえ、徐々に声を大にして懇願した。
「なんで…」
弱々しく、泣いているのか。
震える声で龍矢に言う。
「どうして、明美さんの前でそんなこと言うの…」
龍矢は泣いている尾木先輩を見て、バツが悪そうに声をかけた。
いつも明るくふるまっている尾木先輩の泣く姿に明美は動揺した。
尾木先輩がこの学校の生徒ではないということにも動揺した。
明美は隠しごとをされていたのだ。
「…すみません。俺、あなたを泣かせるつもりはなかったんです。悪いことはしてないみたいですし…。俺は、このままでも、って」
「…悪いことだと?」
ギロリと死導が龍矢を睨みつける。
ビクリと肩を揺らした龍矢の顔は青くなり、冷や汗もかいていた。
「悪くない? ふざけんなよ。こいつのせいで死んだんだぞ。まだ死期をむかえてねぇやつらが。いいか? 俺の仕事が増えたんだぞ、こいつのせいで。」
「え、いや…だって…」
「あ?」
「あ、スイマセン。なんでもないです、ハイ」
言いわけをしようとした龍矢はまたギッと鋭く睨まれ、ドスの効いた声と視線に委縮した。
今、気になる発言があった。
明美はおそるおそる死導に尋ねた。
「あの、死んだってなんですか?」
ちらりとまだ機嫌が悪いらしい。死導は明美を睨みつけた。
「…まず、お前の母親が睡眠薬の過剰摂取で死亡」
「え」
「そのすぐあとに、この学校の女子生徒が自殺」
「!」
「それから、翌日、そいつの取り巻きの一人が電車に轢かれてぐちゃぐちゃになった」
「な、なんで…」
知っているの、とは続かなかった。
というより、死導の次の発言で声にすることができなかったのだ。
「今日、また取り巻きが交通事故で亡くなった。そいつの家族もだ」
「っ」
どの発言も明美は理解することができた。
しかし、最後には心当たりがなかった。
その取り巻きの一人は、羽山亜紀であろうとは思える。
それだけだった。
明美はこの考えに確信がなかった。
死導の発言が本当であるのなら、今日の放課後のHRに連絡があるはずだ。
身近な人間が……こんなにはやく……?
信じたくなかった。
明美の脳は「そんなことはない。きっとなにかの間違いだ。いや、もしかしたら、この死導という女が、私達を怖がらせるためにでっちあげた作り話。そう、嘘である可能性も。もしくは私の知らないところで、たとえば、ほかのクラスにもう一人、佐藤みずなの取り巻きがいるかも…?」と明美に期待を持たせる思考を働かせている。
ほんの少しばかりは逆に、「そんなわけない。もう一人、べつの取り巻きがほかのクラスにいたとしたら、佐藤みずなと一緒になって私をいじめてる。そんなところ見たことないじゃない? それに、今朝のHRで羽山亜紀の家族が引っ越したって先生が言ってた。時間的に、羽山亜紀の事故って考えた方が自然…」とも考えていた。
明美は恐怖からの冷や汗をかきながらも、期待を持っていたかった。
「それって…もしかして、羽山、亜紀って人の……こと、ですか?」
「…なんだよ」
死導は呆れた表情をして、
「わかってんじゃねぇか」
この言葉が明美の期待をバラバラに壊した。
ポジティヴに考えていた思考回路の部分を罪悪感が塗り潰していく。
死導は呆然としている明美に気づいていたが、素知らぬ顔で話を進めていく。
「今日の十二時二十八分。高速道路で、その羽山ってやつの車が逆走した車につっこまれた。相当な速度だったらしいぜ。フロントなんざ、ぐっちゃぐちゃでよ。見たが、汚ぇモンだったぜ。まったく傍迷惑なやつ、だよなぁ」
事故の状態を語ったときの死導の口元は弧を描いていた。
「…あなたは、警察かなにかなんですか?」
赤い目元から流れそうになっていた涙を拭って、尾木先輩が死導に聞いた。
「んなわけねぇだろ」
「それじゃぁどうして、事故の詳細を知ってるんですか。仮にテレビでやっていたとしても、そこまで言わないですよ」
それを聞いて、龍矢が咎めるように死導を見る。
それを軽く受け流した死導には、まだ笑みが浮かんでる。
「シドー。お前さぁっ」
「うるさい。…知りすぎてるって? 当たり前だろ?」
ガタンと音を立てて机の上から退き、フローリングの床に降りる。
その高身長をいかして、明美と尾木先輩を見下ろすように腕をくんだ。
「俺は死神。死んだやつを迎えにいくのが仕事」
普通の人からすれば厨二病のような発言を、恥ずかしがるそぶりも見せずに口に出す。
ここで明美はハッとして死導を見た。
驚いた表情で。
「あなたが、私の夢に出てきた『あの人』なの…?」
「は?」
死導は、なにを言っているのかわからない、と言わんばかりに眉を顰めてみせる。
「あなたが…! 私との約束を守るためにっ…私の〝嫌だと思ったもの〟を消すためにっ。あの人たちを殺したのっ?」
「? お前、なに言ってやがんだ? 頭イカれてんのか? ……あぁ、イカれてるのか。それは知らなかった。悪かったな、知らないでよ。言っとくが、俺はお前の夢にも、約束にも、関わってねぇよ。」
「う、嘘ばっかりっ」
「なんで俺が、お前なんぞに嘘を吐かなきゃいけねぇんだよ。メリットもねぇのに。人のこと、うそつき呼ばわりしてよぉ…。てめぇ、覚悟できてんのか? あ?」
ギッと目を鋭くさせて睨む。今までで一番、怒りの伝わってくる睨み方だった。
「…!」
「なんで、てめぇなんかに親身にならなきゃいけねぇ。アホみてぇ…うぬぼれも大概にしやがれ」
気分が落ちこんでいる明美をカッとさせるには十分な暴言だった。
「シドー、さっきから言いすぎだよ。そこまで言う必要はないよ。ね?」
誰よりも教室の後方に立っていた龍矢は、死導の肩を自分のほうに引っ張って諫める。
「俺がそこまで言う必要もねぇが、優しくする必要もねぇ」
「へ、屁理屈だ…! シドー、それ屁理屈って言うんだよ、知ってるでしょ?」
「なんだてめぇ、バカにしてんのか? 俺より、バカのくせに」
「くそぅ…! あぁ言えば、こう言いやがってぇっ」
死導の肩から手を離して、自分の整った髪をぐしゃりぐしゃりと両手でかき混ぜる。
死導は龍矢の行動を一度ちらりと見ただけで、なにごともなかったかのように明美と尾木先輩がいるほうに顔を戻した。
特に尾木先輩を見つめて。
「な、なに?」
「…お前か」
「へ? なに?」
死導の一言で全てを理解できなかったのか。
尾木先輩はぽかんとしている。
龍矢は死導の近くで、自分の崩してしまった髪を軽く整えていた。
「なにそれ? シドーがなにを考えてるのかわかんないけど、それって今、言う必要ある?」
「ならよ、いつ言うんだよ?」
「今でしょっ」
ビシッと龍矢は右手の指を死導に向けて、どこかで聞いたことのあるフレーズを口に出す。
が、死導には冷たい目で見られたため、しおしおと落ちこんだ。
「俺はべつに、そんなくだらねぇ茶番は求めてねぇ」
「く、くだらない…茶番…」
「まず、どれから話せばいいんだろうな」
5
「…あぁそうか、お前の先輩が、なんなのかっていう話から、だな?」
明美はバッと尾木先輩を見た。
そうだ、確かに。
自然と流れていたけれども、明美が気になっていたことの一つだ。
尾木先輩は、自分の正体が明らかにされるということに怯えているように見えた。
「お前の隣の…あー尾木って言ったっけ? うすうす気づいてるかもしれねぇけどよ。この学校の人間じゃねぇ。それ以前に、人でもない」
尾木先輩の名前をはっきりと知らない死導は、龍矢に確認を取って話を続ける。
明美は他人の口から明かされた事実に驚いた。
人でもないと聞いたショックが一番大きかった。
その言葉の重い衝撃が明美を殴りつける。
その大きさのあまり、それを真実であると受けつけることができなかった。
「せ、先輩が…本当に……。この学校の人じゃないっていうのは…その…龍矢君が言って…わかりましたけど…。どうして人じゃないって…。そもそも、人じゃないって…なに? もし、人じゃないなら、どうして尾木先輩は人の姿なの? 尾木先輩は…私の目の前にいる人は…なに?」
混乱しきった頭で出るだけの疑問を死導に投げつける。
死導はそれに答えるために、口を開いた。
「名前は?」
「え?」
「そいつの名前だよ。名字は尾木、だろ? あぁ、あと、家族は? どこに住んでる? 友達とやらの名前は? …それが理由になる」
「そ、そんなのっ…!」
尾木、とまで言ってその次が出てこなかった。
いくら考えても、記憶をたどっても。
尾木先輩の名前、家族と友達の名前、住所さえ出てこなかったのだ。
空白であると思えるほどに。
明美はまた、ショックだった。
ふつうであれば覚えているのだ。
そう、ふつうであれば。
ふつうでさえ、あれば。
信じられない気持ちだった。
でも、それが、死導の言ったことが、本当のことであると受け入れるしかないのだった。
「ほら、出てこない。ハッ、どうせおまえはなにも知らねぇんだ。知らねぇのに知ったような口を叩く。黙って聞いてろ」
明美は言われたとおり、黙って続きを聞くことにした。
死導が話すたび、尾木先輩の顔色は悪くなっていく。
「そいつ、尾木は〝陰摩羅鬼〟っていう怪鳥だ。知らねぇだろ」
知らないと明美は首を振る。
「満足に弔いをしてもらえなかった遺体から出る気体の妖怪。一般的に、寺の僧だとか住職だとかのもとに出るって言われてる。…そうだよな?」
言い終わったとき、尾木先輩に確認をとるが、尾木先輩はそれに答えない。
答えないというよりは言葉が出てこないのだ。口をパクパクさせ、なにかを言おうとしていた。
「まぁどうせ。寺のやつらに気づいてもらえなかったんだろ?」
尾木先輩はまだ口をもごもごと動かしている。
明美は、ふと、おかしな点に気がついた。
「お、お寺に出て…なにをするんですか? その人たちを…まさか…」
「殺らねぇよ。なんでもかんでも妖怪が人を殺すわけじゃない。〝陰摩羅鬼〟は、寺のやつのところに出てきて、供養しなおせって鳴くんだよ」
「なら…どうして寺の人たちは気がつかなかったの? 尾木先輩、私にも…クラスの人たちにも見えてたんだから、見えてもおかしくないんじゃ…」
「……お前は、最初から自転車に乗れたか? 泳げたか?」
「え?」
唐突に、この件に関係のない質問を言われた明美は拍子抜けする。
焦れたように死導は急かした。
「答えろ」
「え、いやできませんでしたけど…」
「つまりは、そういうことなんだよ。赤ん坊だって最初から歩けやしない。俺たちだってそうだ。最初から、自分の力の使い方を知ってるわけじゃない。知っていくんだ。当たり前だろ。…まずこれが、第一の理由」
「第一の理由?」
明美がくりかえすと、死導はこくりと頷いて続きを言おうとする。
しかし、龍矢がちょんちょんと死導の肩を叩いてその存在を気づかせ、自分を指さす。
「俺もわかったから、言っていい?」
「言ってみろ」
「ズバリ! 寺の人たちが視える人じゃなかったから!」
「正解」
「ど、どういうこと?」
このなかで、当事者の尾木先輩を除いた明美だけがわかっていない。
わかりたくて龍矢と死導に説明を求める。
「安藤さんは、今、このご時世に、本当に幽霊が視える人がどれだけいると思う?」
「え、えぇ?」
また関係のない話をされた明美は戸惑う。
「はっきりとした数なんてわからないけど、俺は少数派だと思うんだよね。だってみんな仲よくしてたいじゃん? それなのに「俺、幽霊視えちゃうんです」とか、「私、霊感があるの」とかって言いたくないでしょ? 人って自分と違うと弾くしぃー。いじめるから。それを避けるために、自分を変わってるって思う人はそう言わないんだよ。逆に自分がそうであることを言ってる人は、目立ちたがり屋で偽物だよ。ま、本当のところは知らないけど」
「…まぁ俺もそう思うぜ。これは、住職にも言えることだ。視えるやつだけがそういう職に就くわけじゃねぇ」
「つまり、その住職は…」
「龍矢が言ったとおり、視えないやつだったってことだ。〝陰摩羅鬼〟に意思があるってことは霊体に近い気体だからな。資格がねぇやつには視えない。自分の力を制御できない。その仕方がわからなかった。それと…相手にその素質がなかったってことだろうな。そいつが気づいてもらえなかったのは」
「…先輩、そうなんですか…?」
死導と龍矢の話をここまで聞いて、明美は納得しているところがあった。
視えないのなら。
認知されないのなら。
尾木先輩の同級生が彼を知らなかったことも、下駄箱も、机がなかったことも筋が通る。
尾木先輩は諦めたように、はぁ…、とため息を吐いた。
「…そうだよ。明美さんには言いたくなかったけど、そう。あの人、俺のこと視えてなかったんだ…。自分を気づいてもらえないって結構クるよね。俺は今、人じゃない。元、人間だった。…俺みたいなのはそう言うんだね…。知ってたら、その名前を使えばよかったなぁ…」
「…使えばよかった?」
明美は、今度、この言葉に引っかかった。
尾木先輩が明美のほうを向く。
もう全てを明かそうとしている顔だった。
悲しそうに微笑んでもいた。
「明美さんは、『あの人』が出てくる夢を見たんでしょう?」
「は、はい…」
「『あの人』は死導さんじゃないんだよ。あれは……俺だ」
夢を見たことを確認してきた尾木先輩に、明美の心臓は、次の言葉を聞きたくない、とその鼓動で。
耳に届かないように妨害しようとしていた。
それでも、尾木先輩の声は入ってくる。
「じ、じゃぁ、あれは、尾木先輩? 佐藤みずなも、ほかの二人も…お母さんも…全部? 尾木先輩がしたの?」
明美が言ったことに、いや、と否定をする。
「俺は一人も殺してないよ。本当に偶然。みんな、事故で死んでしまったんだ」
「え…そんなわけっ」
「そんなわけないだろっ。四人だよ、四人っ。連続して、しかも短期間で、安藤さんのまわりの人が死んでんだよっ」
明美に全てを言わせず、自分を律しきれなかった龍矢が口を挟む。
「でも本当に。俺はやってないんだ。そう思ってるんだから、そう言うしかないだろ」
「ちょ…! そうだけど…! そんなので、俺も安藤さんも納得できないよ! ねぇ、シドーっ」
バッと近くにいた死導を見て、ビクリと肩を震わせる。
死導は見てわかるほど、あけすけに尾木先輩を睨みつけていた。
「てめぇが誰を殺っただとか殺ってないだとか、そんなのどうでもいいんだ、俺は。問題は、お前が俺の名前を使ったってことだ」
「それ、さっきも言ってたけど、なに?」
「まだ、わからねぇのか。こいつはそこの女の夢に出てくるとき、自分の名前じゃなくて俺の〝死神〟って肩書を自分の名前にしやがったんだ」
「…? …あ、あっ」
龍矢はこの言葉でピンときた。
それと同時に、明美も死導がなにを言わんとしているのか、ようやく気がついた。
死導が自分のことを死神だと自己紹介したとき、明美がそれに反応したことで、『あの人』=死神という名であることが確定した。
くわえて、尾木先輩が明美の夢に出てきた『あの人』は自分であると言ったことで、『あの人』=尾木先輩という式もなりたったのだ。
これをまとめると、『あの人』=死神=尾木先輩、となるのだ。
だが………————。
「それがなんで、あなたが怒ることになるの?」
「頭が固いな。これはいわば、乗っ取りの犯罪なんだよ。お前が被害者で、そいつが加害者。んで、俺が加害者に名前を盗られたやつ。お前、勝手に知らないやつに自分の名前を使われて、変なものを買われたりとか、大量の金を盗まれたりしてもキレねぇ自信があんの?」
明美を被害者、尾木先輩を加害者と指さした。
「それはぁ~…怒る」
龍矢はうぅんと唸って、死導の挙げた例を具体的に想像していた。
ねぇ…、と自分の考えを主張した。
「でも、なんでシドーの死神って肩書だったんだろ? ねぇ? 不思議」
「知らん。心が読めるわけじゃねぇんだ。…そこはそいつに聞くしかねぇ」
話を振られたことに気がついた尾木先輩は、
「有名だったから、だよ。こういう姿になってから、まぁ、同じようなヒトたちからの噂が入ってきてね。そのなかでも、特に噂になってたみたいで。ヒトはやっぱり強いヒトに安心感を覚えるからさ。明美さんから話を聞くのにぴったりだと思ったんだよ」
「…どうだろうな。それは〝俺たち〟の目線でしかない。人間どもは一般的に、死神が現れたら、早死にするって思ってるからな。怖がる可能性のほうが高いぜ」
死導は尾木先輩の説明にたいして馬鹿にするように反論したが、尾木先輩はそのことを気にせず、素直にそれを認めた。
「確かにそうだ。つまり、俺は、自分が死んでからの短時間で〝彼ら〟の考えかたに染まってしまったってことなんだよねぇ。…でも、そうだ。勝手に名前を借りてしまったのはよくなかったな。ごめんなさい。」
そう言って頭をぺこりと下げた。
死導はそれを黙って見つめたあと、ぐしゃぐしゃと長い髪が崩れるのを厭わずにかき上げる。
「まぁ、いい。それよりもだ。俺たちには、すこし気になることがある。」
「気になること?」
死導の許可を得てから尾木先輩は顔を上げていて、死導はそれに、いや、と答える。
「さっきも言ったが、お前がそいつの親といじめてたやつを殺した。そういう、あーだこーだってのはどうでもいいんだよ、俺にとっちゃ。そもそも、お前が怪しいんじゃないかって言ったのは龍矢だ。」
明美は、てっきり、死導が気づいて龍矢に指示したとばかり思っていた。
このなかで唯一、そのたちふるまいと外見から、成人していると思えてしまうからだ。
「剣上君が?」
「俺がどうやって、この学校の生徒でもねぇのにお前がいじめられてるとか、尾木がお前と仲よくしてるって情報を知れるんだよ。龍矢が俺に言ってきたんだよ」
「君はどうして、そうだって気がついたの?」
「匂いだよ」
尾木先輩に聞かれ、龍矢は穏やかに答えた。
龍矢の発言にたいして、死導は特に反応を示さなかった。
尾木先輩と明美は首を傾げる。
「それは…なに? 匂い?」
「俺、シドーみたいに妖怪に詳しくないからさぁ。尾木先輩がなんなのかまではわからなかったんだけど。尾木先輩が安藤さんに会いにこのクラスに来るとさ、甘い匂いと土の匂いがするんだ。その甘い匂いがお菓子とかなら気にしないんだけど。あー、俺、お腹すいてんだなぁって。でも、ふつうに生きてたら嗅がない匂いでさぁ。しかも、その匂い、安藤さんにもうつってて。ちょっとおかしいと思って」
「え、私も?」
すんすんと自分の肩あたりに顔を近づけて嗅いでみるが、そんな匂いはしない。
尾木先輩も試していたが、わからないようで眉を顰めている。
自分の匂いがわからないのはしかたない。他人の匂いには敏感ではあるけど。
…これはそういうことなのだろうか。
それとも。
「剣上君も…その、死導さんみたいだったりするの?」
ピクリと反応をした龍矢。
明美と尾木先輩は、一瞬、龍矢のこわばった表情を目にするが、
「…んー内緒」
パッともとの笑顔に戻ってそう言った。
それから、龍矢自身が疑問に思っていたことを話し始める。
「俺が気になったのはね、尾木先輩はどうやって、安藤さんが自分のお母さんのこと嫌いで、あの三人組が安藤さんをいじめてたって知ったのかなってことなんだ」
あの三人組——佐藤みずな、田中智穂、羽山亜紀——が、明美をいじめていたことはなんとなくの雰囲気で知ることはできる。
ただ、明美が母親を嫌いであるということまではわからない。
例外として、明美がだれかに話さないかぎりは。
「安藤さんは、先輩に言ったの? そのこと」
「い、言ってない…。うん、言った記憶ない…」
「ほら、ね? どうして知ってたの?」
「…まるで俺が犯人だって言うような話し方だね。さっきも言ったじゃんか。俺は知らないよ」
「でもあの四人のこと知ってたんでしょ? なんで?」
「…確かに俺は、彼女たちの顔を知ってたよ。こう言うと誤解されそうだけど、俺、見てたんだよね。明美さんのお母さんが家でなにしてるのとか。彼女たちがどうやっていじめてたのかとか」
「うわっ…変態。おい、おまえ、そいつから離れとけ」
そこまで聞いた死導は、汚いものでも見るかのように顔を顰めた。
「だから、違うって! へ、変な意味じゃないんだよ!」
「そういう意味じゃねぇっつってもそう聞こえんだよ、ばかが!」
「ご、ごもっともなんだけど! ありのままを伝えるってなると、どうしてもこう言うしかないんだ!」
「えー…見てても止めなかったんだぁ…」
失望の調子をこめた声で龍矢に言われたとき、このままだと話を進められないと判断した尾木先輩は強引に続けた。
「~~~~~っ! …明美さんに言われたとき。彼女たちがなにをしてるのかは知っていたけど、お母さんのことはわからなかった。そもそも、明美さんがなにを嫌っているのかも知らなかったからね。だからまず知ることから始めなきゃいけなかった」
「あ、その前に」
龍矢は注意を集めようと軽く手を上げて、尾木先輩の話を遮る。
明美も尾木先輩も話を中断されたことに拍子抜けしながら、龍矢に視線をよこした。
死導が答える。
「なんだ、なにかあんのか?」
「いや。時間的に、そろそろ校務員さんが見周りに来てもおかしくないんだよ。だから、なにかしないとなって。これ、学校の外で話すわけにもいかないじゃん?」
「あ? 今、何時だよ…六時…四十、三分、か。…学校ってそういうモンなのか?」
死導は、左手首につけている腕時計の時刻を口に出した。
「あんまり遅いとね。ウチの学校の場合は七時。シドー、なんかないかなぁ」
「だったらこれ。そっちに貼ろうぜ。どっちの扉にも、な」
ぺらりと数枚の長方形の紙をコートのポケットから取り出して、龍矢に手渡す。
渡された紙束と死導を交互に見た龍矢は、
「えっ、俺が? 貼るの? …全部?」
「当たり前だろ。お前が言い出したんだから。おら」
「パ、パシリ…」
死導が廊下側に二つある教室の扉を指す。
ぶつくさと文句を言いながら、龍矢はそちらに歩いていって、ペタペタと貼っていく。
「お前ら、結構な時間が経ってるんだしさ。座れば?」
近場の椅子を指さした。
明美と尾木先輩はおずおずと自分の近くの椅子に腰をかけていく。
死導はずっと立ったままで、龍矢が戻ってくるのを待っていた。
龍矢が戻って来て、明美と尾木先輩を見習って自分も近くの椅子に座る。
それを見た尾木先輩は、途切れた続きを話し始めた。
6
明美さんに出会ったあと。
俺は悩んだ。
嫌いなものをなくしてほしいってどういうことなんだろうって。
もし、本当の意味で、なくすってことなら…どうしようって。
俺も、元は人間だったから。
殺したくはないし、でも…約束は……守ってあげたいし…。
…なにも知らないままじゃ、そういうのってどうにもできやしないから。
だからまず。
本当にもうしわけないけど、明美さんの行動を監視することにしたんだ。
もちろん、あんまりのプライベートは避けたけど。
で、見ててわかったのが、明美さん、お母さんのことあんまり好きじゃないんだなぁって。
よく愚痴も零してたし、お母さんが作ったお弁当を捨ててるところも見た。
…なんだろ、あのときはまだ、明美さんのお母さんのこと、知らなかったからなんとも言えなかったけど。
年相応の扱いをされてなくて。
それが嫌いみたいだった。
つぎに、明美さんのお母さんを見てたんだけど。
…彼女は本当に明美さんのことが心配だったんだね。
お母さんが過保護すぎるっていうのは見ててわかったよ。
明美さんがお母さんを嫌ってて、顔を合わせるのを避けるぐらいっていうけど。
どうしてもそれができないときがあるわけじゃないか。
俺にとってその時間が一番、二人の関係がわかりやすかった。
そうやって監視をして、どれくらいになるのかな…。
日が経つに連れて、お母さんに会える頻度が減ってった。
仕事場にはさすがに行けなかったから、家だけですませてたけど。
はやめに出かけて遅くに帰ってくるんだ。
出かける前も、帰ってきたあとも…。
まるでなにかに怯えてるみたいに、不安そうな表情で自分の行く先々を見てたりもした。
…俺は、明美さんがお母さんを嫌う要素はないんじゃないかって思った。
確かに過保護ではあったけど。
結局、お父さんには会えなくて、でもそうなんだろうなっていう遺影はあったから。
いない父親の分も含めたあの愛情なんだろうなって。
でも約束は約束で。
…恥ずかしい話。
明美さんの嫌なものを知れば知るほど、俺のその約束への気持ちが鈍っていった。
いっそのこと、明美さんのお母さんがもっと嫌な人であればって。
知らないままでいればよかったって。
なんで知らないままでいなかったんだろう。
そのままなくせばよかったのに。
なんで俺は明美さんを見つけて、明美さんは俺を見つけちゃったんだろう。
そもそも、明美さんがお母さんを嫌いでなければ…。
そうだ、どうしてあんなに愛情を注いでくれている人を嫌いになるの。
明美さんは我儘がすぎるんじゃないか、身勝手すぎるって。
そうやって、明美さんへの恨み言とか約束を守らなきゃとか。
明美さんを自分勝手に恨んでる自分にも嫌気がして、優柔不断になってた。
そのときを鮮明に思い出したらしい尾木先輩は、最後にいくにつれ、声が震え、じわりと目元に水気を孕んできていた。
それを片手の親指の腹で軽く拭って、ふぅ…と一息吐いてから続けた。
つぎは、明美さんをいじめてたあの子たちだった。
彼女たちも明美さんと同じように見張ろうと思った。
そう思ったのは、確か……明美さんのお母さんを監視し始めて、のときだったかな。
お母さんをどうにかしてからじゃ、遅い気がして。
でも俺は一人しかいないから。
こんな姿になったあとだって。
……俺は、ヒトリだったから。
だれかに、手伝って、って言えるわけがなかった。
学校の三人の様子は、校内で見かけたりとかすれば足りたけど。
彼女たちのだけのときとかは家での態度とかわからない。
ここで俺は〝この姿〟になった俺の利点を考え始めた。
さっき、死導さんが言ったように俺は気体で。
気体ってことは、俺っていう意思があるまま、霧みたいに広がったりできるんじゃないかって。
広がるイメージを持ってやってみたら、できた。
…嬉しかった。
達成感があった。
これを利用しない手はなかった。
そうやって俺は彼女たちを見続けた。
学校で、彼女たちは明美さん以外の人もいじめてた。
こっちを睨んできたとか。
だれそれに愛敬を振り撒いてたとか。
本当にそうなのか、疑わしい主観でされていた。
学校の外だと、道を通ってる知らない人の悪口とか。
大声で笑ったりとか。
家だと、家族の目を見て会話してなかったりとか。
ほかの、関係ない人たちへの態度が酷かった。
まるで自分のしていることが全て正しいんだ、自分を否定するほうがおかしいんだとでも言ってるみたいで。
はっきり言って、自己中心的だった。
…見てて気分が悪くなった。
イライラが募ってた。
これは明美さんが嫌になるのもわかるな、って思った。
でも明美さんのお母さんとは反対に。
ちょっとしてから、ぱったりといじめをしなくなってた。
なるべく、まわりと関わらないように三人だけで固まって動くようになった。
動くっていっても、ボソボソ話してたり教室を移動してたりとか。
やっぱり、なにかに怯えてるっていう感じではあったけど。
いじめをしなくなって、迷惑行為が減ることはいいことで。
明美さんもほかの人も、いじめられてる様子がないならいいんじゃないかって。
でも。
そうやって気を抜いてて、再発したら?
それから対処したらいいの?
考えればいいの?
それだといろんな人がまた被害に遭うじゃないか。
…そもそもなくすってどういう定義なんだ?
こうやって考えてたのは、明美さんのお母さんのことで悩んでたときだった。
考えて、考えて、俺は閃いた。
「嫌なことを消す」っていうのは。
一度なくなれば、それは、消えたことになるんじゃないかって。
明美さんのお母さんが死ぬとか、俺が彼女たちを殺すとか。
その存在を消す以前に。
明美さんの目の前からそれが消えたら。
明美さんが嫌いって感情を持たなくなったとき、約束を守ったことになるんじゃないか。
やっと、体が軽くなった気がした。
ならもうすこし、彼女たちも明美さんのお母さんも見てて。
それで、特に彼女たちがいじめそうになかったら、いいんじゃないのかな。
そうやって、様子を窺ってたら…。
「あぁなったってか?」
尾木先輩は口を出さない。
雰囲気でわかる部分を死導が言うと、コクリと頷いた。
「嘘…私が言ったことで、そんな悩んでたなんて…」
そもそも、佐藤みずなが死んで、すこし思っただけで。
なにもせずにいたことも、すべて尾木先輩に任せていたということにも顔色を暗くした。
「つまり、お前は、なんであいつらが死んだかわからねぇってか?」
「…あぁ」
死導に問われて、返事をした尾木先輩。
死導はツカツカと歩み寄った。
尾木先輩の胸倉を掴み上げ、自分のほうへぐいっと引き寄せた。
ガタンと派手な音を立てて、尾木先輩が座っていた椅子が倒れる。
死導と尾木先輩の様子を、明美と龍矢は呆然と見つめていた。
「な、なに?」
「ばかなおまえに教えてやるよ。ホラーで、恐怖のひとつに〝視線〟が描かれる理由をな」
憎々しげに死導は尾木先輩を睨みつける。
尾木先輩は、恐怖してなにも言わなかった。
龍矢は離れた位置で縮み上がり、ポツリと、怖っ…、と零していた。
「得体が知れねぇからだよ。どんなやつだって、姿が見えねぇと怖ぇんだよ。ストーカーだってそうだろうが。姿を見せねぇで、でも、手紙やらなんやらで、その存在を知らせる。てめぇ、前に人間だったんだからわかんだろうが。てめぇがしてきたのは、それと一緒なんだよ。あいつらはてめぇの姿が見えなかった。でも見られてる。どこにいても、だれといても。そうやって怖ぇ時間が続いたんだよ。なぁ、てめぇが続けてたんだよ。あの人間どもを追い詰めたのは、てめぇだって言ってんだよっ」
ドンと自分から尾木先輩を離した死導は、明美にギッと視線を向けた。
どうやら随分と死導の力が強かったようで、尾木先輩はほかの椅子や机をガタガタといわせて床に倒れこむ。
「あいつらが、気が狂って…追い詰められたんには、てめぇにも責任があんぞ。くそ女」
「ひっ」
「てめぇがこいつに助けを求めなきゃ、あいつら死なずにすんだんだよ。なんで教師に言わなかった? 教師が信用できないとか、気取ってたんか? 復讐されるのが怖ぇとかそういうことじゃねぇんだろ? 頭が固いてめぇのことだ。どうせ、丁度よかっただけなんだろ? …図星かよ。なぁ、こいつの安心しそうな雰囲気に呑まれただけなんだろ? …本当、どうしようもねぇよなぁ、おい」
そうやって、死導は怒涛に明美を追い詰めた。
明美から距離を取って、振り返り、明美と尾木先輩を見つめる。
「さて、おまえらの言いたいことはだいたい終わったな? なら、つぎはこっちの番だ。俺はおまえらの行動で、腹立たしいことに仕事を増やされた。まさか、なにもしないで、はいすみませんでした、って言って終わるとでも思ってるわけねぇよなぁ…?」
その言葉を聞いて、明美の体は緊張した。
ちらりと龍矢を見てみる。
さきほどから、龍矢は一言も発していない。
どうにか、助太刀をしてくれないだろうか。
死導に働きかけてくれないだろうか。
そう願いをこめて龍矢を見つめる。
視線があった龍矢は、ふっと笑みを浮かべた。
明美はそれを見て、あぁ気持ちが通じたんだ、と安堵した。
「ごめんね、安藤さん」
「! う、うぅん…」
「俺ね、やっぱり…。死導の言ったことが正しいと思うの」
「えっ…」
「あ? なに?」
明美にたいして謝った龍矢。
それを不思議そうに見つめる死導。
「シドーの名前を借りたことも、確かに、怒ることだったよ。でもさ、二人の身勝手さはよくなかったと思う。なんの被害も出てないならいいけど、そうじゃないじゃん? …シドーの言うとおりであれば、死ぬ必要のない人が」
「死ぬ必要がねぇってか、まだ死ぬ予定じゃなかったってところだな」
「うん、そういう細かいところはおいといて」
尾木先輩は、近くの机を掴んで体を支えながら立ち上がる。
床について埃をかぶった自分の体をパンパンと叩いて、倒れた椅子をもとあった場所に立てる。
「だ、としたら…。あなたは俺たちになにをしてほしいの?」
「そうだなぁ…」
明美は死導に再び見つめられ、びくりと肩を揺らした。
「——まずは、お前に死んでもらおうかなぁ」
顎に手を当てて数秒。
考えるそぶりをした死導は、その顔にきれいな笑みを浮かべて、明美を見た。
「—っ」
「…と言いたいところだが」
顎の手を外して笑みを消す。
そのあとにふわりと欠伸をして、大きく開いた口を手の平で覆う。
「あいにくと、俺は人間を殺すのを許可されていない。そもそも、今回のこれでもう、イレギュラーなことが続いてんだ。これ以上、俺の仕事を増やす真似はしたくない」
「そぅだね。シドーがここで安藤さん殺すとか矛盾だもんね」
「あぁ」
しぱしぱと瞬きをして、欠伸の際に出た涙を誤魔化した。
「じゃぁ、なにかな? 明美さんのかわりに俺を?」
「だから。なんでもかんでもそぅやって死に結びつけんな。…お前を殺したところで、俺は憂さばらしができるってだけだろ。まぁそれでもいいが? それよりも…こういうほうがおもしろい」
「それは…なに?」
尾木先輩が聞くと、死導はまたニッと笑った。
「安藤明美。お前はそのうち死ぬ。はやくて———…3日。遅くて、はは、どれくらいだろうな」
「えっ」
「はぁ?」
「ちょ、なにそれ。シドー! 聞いてないよっ」
突然の知らせに、明美だけでなく尾木先輩、龍矢でさえも驚いた。
—————私が、死ぬ—————?
チッチッチッ。
教室の時計が、素知らぬ顔をして時を告げる音が余計に響く。
あれから確実に三十分は経っている。
ここに集まったときは、まだ明るさがあったのに。
外は暗闇に変わっている。
それにともなって、ほとんどの部活が活動を終えたのか。
つぎつぎに、活動していた場所の光も消えていく。
「言ってないからな。今はじめて言った。文句あるか?」
「どぅしてお前はそぅっ。上から目線なのっ。いやそもそも、文句って言うか……っ」
「ちゃんと説明してくれ。どうしてそうなったのか、わからないから理解ができないんだ」
「そうそうっ。そういうこと」
龍矢の言葉は、尾木先輩が引き継いだ。
「なんで…ど、どうして…」
「死ぬ理由か? 俺も詳しくは知らない。読むかぎり、おまえのせいだよ。」
言われたことを整理しきれていない尾木先輩を指さす。
「死ぬっていうのは、まるで伝染病だな。一人が死ぬほどまで思い詰められて。それで死んだら、ほかの人間も死にたくなる」
「なに、言って…」
指名された尾木先輩は、死導の言う意味がわからずに困惑していた。
「たとえば、おまえらのまわりの…だれでもいい。そのだれかが落ちこんでいたとする。開けた空間だと浸透は遅いが、狭い空間だとどうだ? 自分の気分まで、暗くなる気がしねぇか?」
「それは…」
「する。めっちゃする。まさかだと思うけど、シドー。今回のは、それってこと?」
尾木先輩が想像していると、龍矢が答えた。
「さぁな。でも、ありえるだろ」
まず、尾木の監視で心を追い詰められたその女の母親が自殺した。
つぎに佐藤みずなって女が。
佐藤みずなが死んだ、そのことに悩まされた田中智穂が。
そして、二人の後を追った羽山亜紀が。
尾木の監視が起因であろうがなんだろうが。
それだけで、そいつのまわりにいたやつらが全員、死ぬことになった。
ストーカーに悩んでいる人間が警察に相談するように。
自然な流れで。
まぁ、命を絶とうとは思わないけどな。
死んじまったその四人がまわりの人間に……仕事先であったり学校の先生であったり…に相談したかとかできたかは、定かじゃねぇ。
相談しても信じてもらえない。
相談できなくて、自分だけで抱えこんでいたかもしれない。
自分でも、気のせいだと思おうとしていたのかもしれない。
「でも…なんで、わ、私の、お母、さんも、佐藤…さん、も、死んじゃったの? だって二人とも、面識ないんだよ?」
「二人ともねぇけどよ。でも、そいつが関係してるじゃねぇか」
顎をかすかに動かして、尾木先輩を示す。
「どぅいうこと?」
「だぁかぁらぁ、言っただろうが。〝陰摩羅鬼〟は死んだやつが化けた気体だってよ。もともと、『死んだ』やつなんだよ。そいつは。死んだやつが長く、そいつらの近くにいたせいじゃねぇの? そう考えると、説明できんだろ」
龍矢が、つまり、と死導の言ったことをくりかえす。
「先輩の〝死〟っていう…その…特徴? が、安藤さんのお母さんと佐藤さんに影響したってことなの? で、佐藤さんのが、ほかの二人にもうつった?」
「まぁ簡単にすると、な。そうなるってこったろうな。その佐藤ってやつだけじゃなくて、ほかもそいつが監視してたんだからよ。そいつのソレが、ほか二人にも与えたんじゃねぇの? 影響ってヤツを」
「ちょっと待って。お、俺が原因…だってことはわかった」
尾木先輩はまたもや、死導の話にストップをかける。
自分が原因であるというところでは、冷や汗をかきながら、苦しそうに顔を歪めてはいたが。
「なんだ? 認めたのか?」
ケラケラと空笑いをした死導にたいして、尾木先輩は額に手を当てた。
「認めたくはないし、いまだに信じられてはいないけど、どこか納得してる自分もいるよ」
「へぇ。それで?」
「それが、どうして明美さんが死ぬっていうのに繋がるんだ?」
「だから。さっき言っただろうが。病は気から、ってよ」
「だ、どういう意味で…?」
突然、なにかに気がついたように、尾木先輩は口を噤んだ。
そして、顎に手を当てて、なにかを考えるそぶりをする。
斜め左下をなんの意図もなく眺めていたが、次には死導を見た。
「もしかして、その…今までの、俺の存在と、明美さんのお母さんと、あの三人の死、で…?」
「かもな」
それを聞いて、お世辞にもいいとはいえない顔色をした尾木先輩は、いっそう青ざめて、明美を見た。
死導は話を続ける。
「そこで、おまえらにはゲームをしてもらう」
「ゲ、ゲーム…?」
「わ、私、自分が死ぬかもっていうときに、そんなことできないよっ」
「シドー、さすがにそれはちょっと酷いっていうか、空気が読めてないよ。俺もないと思う」
確かにそうだ。
普通の人間であれば——頭でもおかしくなっていなければの話だが——死ぬのがいつだかわからないとはいえ、ゲームなんてできやしない。
それがたとえ、過去、どんなに楽しめたものでも。
「おまえは死ぬ」と言ってきた人物に、死にたくない、なんとか助けてくれ、と懇願しさえもするだろう。
死導は、少々ヒステリック気味に叫んでいる明美に、片手を軽く振り、それを制した。
「黙れ黙れ。たとえが悪かったな。確かに人が死にそうなときに、ゲームをしようってのは俺の趣味じゃねぇ。どこぞのゲームか、漫画じゃねぇんだからな」
「あ、それ、俺も思った。ってかなら、なんで言ったのシドー」
「ありゃぁ、たとえだって言ったろ。ゲームとはちょっと違う。これからその説明をすんだよ」
「…ラスボスとの取引…デスゲームの始まり…」
「てめぇ、あとで覚えてろよ、おい」
死導は龍矢がぽつりと言った、自分を貶した言葉を聞き逃さなかった。
「…女、おまえ、死にたくねぇならちゃんと聞いとけ」
「う…うん。わかった」
死にたくない、生きていたいという気持ちで頭がいっぱいになった。その感情が明美の許容範囲を超えてしまったのか、涙となって溢れている。グズッと鼻を啜って、零れた涙を拭った。
「これから、この女を死なせに、死が動き出す。事故だか他殺だか自殺だか…手段はわからん。この女だけじゃぽっくり逝くだろうから、おまえに任せる」
そう言って、死導は尾木先輩を指す。
「俺?」
「そう。お前、こいつと家に帰ってたとき、こいつが轢かれそうになったのを助けたらしいじゃねぇか。お前が同じようにこれからの死を止めろ。いいな?」
「なんで、それ知って…」
尾木先輩が驚いたように死導に聞いたが、その問いには答えが返されなかった。
「そもそも今回の発端はおまえだ。その女にすこしでも好意があんなら、助けてやったらどうだ?」
「こ、好意って…あら、いやだっ」
好意という言葉の意味を恋愛的な意味であると解釈してしまった龍矢は動揺して、すこし顔を赤くした。そのまま期待する眼差しで、明美と尾木先輩を交互に見つめる。
龍矢の誤解に気がついた死導は、スパァンといい音を立てて龍矢の頭を叩いた。
「いたっ」
とっさに叩かれた場所を手で押さえる。
「家に帰って、辞書を引け。ボケ」
「なんで?」
「…わかった、やるよ」
尾木先輩は、死導と龍矢のちょっとしたじゃれ合いを気にすることなく、明美を救うと断言した。死導は口角をニッと上げる。
「上等だ。もし、失敗してその女が死んだら、消滅させてやっからな。その女の命だけじゃなく、自分の命もかかってんだってこと、忘れんなよ」
「あぁ、もちろんだよ」
「よし。なら、俺も、おまえも、もぅ、ここには用はねぇ。帰れ帰れ。ガキがうろつく時間じゃねぇ。おら、行け。おまえもだ、龍矢」
そう言い放ち、死導は来たようにベランダに向かう。閉まっていたガラス戸を開け、するりと外に出た。体がすべて外に出たあと、後ろ手にカラカラとガラス戸を閉めた。
「俺たちが二人をこんな遅くまでつきあわせたんじゃないか。もぉ~! あ、廊下にある札を外さなきゃ…。って、あっ。シドー、いないしっ」
死導が外にいるために閉められなかったガラス戸の鍵を閉めた。
龍矢は教室の出入口があるほうに行き、張りつけた長方形の紙を外した。
ベランダ側に顔を向けるが、ガラス戸を隔てた先に死導の姿はなかった。
明美も尾木先輩も龍矢がそう言うまで、死導が消えたことに気がつかなかった。
ヒトはやはり発言をしている人に注目する動物であるので。
死導が帰ろうとしているときには、明美たちは死導を見ていた。
しかし、つぎに龍矢が話してしまったことにより、注目する対象が死導から龍矢に移動したのだ。
俺が持って帰るのか…とブツブツ呟きながら、龍矢は制服のポケットに回収した紙をしまった。
そのあとに明美たちのほうへ振り向き、
「じゃぁ、来週ね~」
バイバイと手を振って、龍矢は教室から出ていった。
明美たちのほかにだれもいなくて、賑やかではないからなのか。いや、暗いためか。
龍矢の上履きの音がいつもよりも大きく響いていた。
7
朝、明美は何気にテレビをつけていた。
もうこれは日課になっている。
朝食を食べながらその日の天気、ニュース、コマーシャルを眺める。
ここ最近は、自分でちゃんとした食事を作れるようになっていた。それも二人分。
明美の母親が生きていた頃には簡単なものしか作れなかったが、よくもここまで変わったものだ、と明美は思う。
…いや二人分も作る必要はないのだ、今でも。
もう一つの皿に載せられた料理を食べる人はいないのだから。
「明美も変わったなぁ…。前まではパンだって焦がしてたのに」
「…うるさい」
しかし、彼が…透が用意してほしいと言うのだ。
食べれない、食事を必要としないくせに。
『いいじゃない。確かに俺、食べれないよ? でもほら、仏様とか神様に、ご飯とか出すじゃない? あんな感じ。それにね、懐かしいの。目の前にご飯が出されるの。そっかぁ、明美は俺が家族だっていうのに。家族にはご飯出してくれないんだぁ~』
断じて。
明美はこの言葉に腹立ったわけではない。
そう、ただ、自分だけがご飯を食べている傍らで、羨ましそうに、自分もほしそうにしていたこの男の眼に負けたわけでは、断じて、ない。
透は、尾木先輩の下の名前だ。
あのあと教えてもらったのだ。
もう自分は明美の先輩でもなんでもないのだから、呼び捨てで構わない、と。
自分も明美を親しく呼ぶから。
最初、明美は、それはどうなんだろう、と思った。
いくら透が明美の先輩でも、成城学園の学生でないからといっても、透はもともと明美より年上なのだ。
教えてもらうことは…ないかもしれないが、人生における先輩ではあった。
もはや人間ではないが、元人間であるのだ。敬語は必要ではないか。
それだけではない。
自分は明美が死なないように見ておかねばならない。
でも、今までどおりだと、いざというときに急に駆けつけられないから、一緒に住もう。
そうも言ったのだ、透は。
これにかんしても明美は渋った。
互いの家に遊びに行ったりしてないのに、それは急すぎないか。
というか、明美は女で、透は男だ。
彼氏彼女の関係じゃない。
そんなに気軽に互いの家に行き来する関係じゃない。
ただの友達だ。
それなのに?
家に?
いや、友達だったら行くのかもしれないけれども。
…透には、関係ないかもしれないけど。
まぁ、自分の母親が生きていたときだって広かった家が、今では、さらに広く、寂しく感じていた。それは事実だ。
それに、明美は透といることに苦は感じていない。
どちらかといえば楽しいのである。
しかし、明美は自分の欲望を口に出して言ったことなど、ほとんどなかった。
だから、まるで渋々と見えるようにそれを承諾した。
それから過ごしていて、二人は互いを兄妹、家族と思えていた。
その傾向は明美よりも透に強く表れた。
「尾木先輩」と呼んでいたときに比べて、身の回りの世話を焼きたがる。
でも明美の母親と違って、明美位の年代がなにをされると嫌がるのか知っているようだった。
世話は焼き、助言もするが、適度にいい距離を保ってくれるのだ。
明美にとって、生活しやすいものだった。
透の助言は生活面でも勉強面でも役に立っていた。
もそもそと朝食を食べながら、過去に意識を飛ばしていると、透が明美の肩を軽く揺すってきた。
それに驚き、口に残っていた食物を危うくそのまま飲みこみそうになる。
それを非難しようと顔を上げて透を見た。
透は明美を見ていなかった。
小刻みに指を震わせてつきっぱなしのテレビを指し、そちらを見ていた。
なんだろうと明美もテレビを見て、固まった。
テレビの左上には現在の時刻が、右上には見ているニュース番組とどんなニュースなのかの内容が表示されている。
ニュースは、今、人気の女優が新しく始まるドラマの主役になったと言っている。ドラマが始まることも、人気女優が主役であることも、明美と透にとっては問題ではなかった。
問題はそこではない。
『いやー、今回もまた! 主役に抜擢されましたが、お気持ちはどうですか?』
『そうですね…。この主人公、私よりも正義感が強すぎるんで、そこはちょっと私じゃなくても? って思いましたね』
『そうなんですか?』
『いや本当に。台本を開いて、主人公の性格を見て、これ合わないだろ…ってなりました。まぁ、でももう決定しちゃったんで、やってはみますよ? もしかしたら放送時、主人公役が別の人になってる、なんてこと、あるかもしれませんけど』
『あはは! それは嫌ですねぇ。私、絶対に見るって決めてるんで』
テレビ番組のアナウンサーがその人気女優にインタビューをしている。
問題は、その人気女優だ。
髪色に長さ、声色、佇まい、そして、彼女が浮かべている笑み。
どう考えても既視感がある。
おそるおそる。
明美と透は、その人気女優の隣に出ている名前のテロップを確認した。
——————菊地シドウ——————
あの日、紹介されたときの漢字ではない。
でも、読み方はそうだった。
名字はいいとして、これほどに印象の強い名前は絶対ない。
明美と透は、もう、この女性があのときの死導であると確信した。
「う、うすうす…そんな感じはしてたけど…まじでか」
(さ、触らぬ神に、祟りなし…)
透がそう言ったとき、明美は気づいてしまった。
気づかないほうが幸せであったことに。
いやもしかしたら、透も同じように気がついていたかもしれない。
あの日の学園で。
死導は自分を人間ではないと言ったのだ。
最初は信じていなかった。
あぁやって話が進んでいたときも半信半疑だった。
でも、それが最後には信じずにはいられなくなってしまっていた。
帰ろうと死導がベランダに出たとき、龍矢が口を開いた。
明美たちが死導から顔を逸らしたのは、ほんの少しの間のことだった。
一分も…いや三十秒でさえ経っていないかもしれない。
そんな時間だった。
その秒の出来事で、死導はベランダから忽然と姿を消したのだ。
明美たちの目の届く範囲から。
龍矢が普通に教室を出ていって帰路にある間、特に明美は呆然としていた。
明美と透がいる教室は三階にある。
もしベランダから飛び降りたなら。
なにかしらの音が立つ。
ジャリッと着地して、砂が靴に当たる音。
ドッと頭が地面に力強く当たる音。
しかし、どれもなかった。一つの音もしなかった。
元からそうであったと外の景色は振舞っていた。
死導なんて。
長い黒髪の女なんて、もともとここにいなかったじゃないか?
話が逸れた。
つまりはこうだ。
テレビに映っている女性が死導であるならば。
人ではない死神であり妖怪という生物が、テレビに出ていることになる。
だが、明美も透もお互いでそうだと確認はすれど、それを多くの人々の前で強く主張する気はない。
言った場合、死導からなにかしらの恐ろしいコンタクトがあるかもしれない。
そういう気持ちも、あるにはある。
それだけではなく、世界の何億もの———有名女優を知っており、死導が人ではないということを知らない———人々にたった二人が声を揃えたところで、なんの力もなりやしないと理解しているからだ。
よく漫画やアニメで、「圧倒的な力の前に、俺たちは無力だった」と意味する台詞があるが、あれはこういうことなのだと。明美は悟った。
だから。そう、明美は思ったのだ。
触らぬ神に、祟りなし…と。
―了―