7・覚醒者とグラタン
翌週の月曜日。
土曜日からずっと龍崎さんの事を考え続けていて、寝不足だ。生あくびがたて続けに出てくる。そういえば今日はスズメちゃんが飛びついてこなかったな……なにかあったのか?
そんな事をぼんやり考えていたら、削生が偵察部隊のように、各クラスの動向を知らせに僕の席に来た。
「おい大地! お前、〝あの〟龍崎由樹と夜一緒に歩いてたんだって!?」
世の中は広い様で狭い、狭すぎる!
「な、何で知っているんだ!?」
「学年中で噂になっているぞ! あの『雪龍』が男と二人で歩いていた、ってな!」
ボケていた僕は、クラスの中の妙な雰囲気にようやく気付いた。クラスの女子の何人かが僕をちらちら見ながらクスクス笑っていたり、男子の何人かが怪訝な表情でこちらを見ている。
「お前、結構有名人なんだぞ? そんなお前が龍崎さんと一緒に歩いてたなんて噂が広まれば、今頃彼女のファンの男子達はお前に対する嫉妬と羨望に身を焦がしているだろうし、彼女を神聖視する女子達には大いなる疑問を提供しているぞ」
神様、僕に罪はありません。
「今日の部活は気をつけろよ、日良さんや王虎さんが結構ショックを受けている」
「ええっ?!」
死刑宣告に近いぞ、その情報。
その時ようやっと僕は今朝スズメちゃんが飛びついてこなかった理由に気が付いた。
「日良さんはいつも通りの烈火の様な怒り方なんで周りも慣れたものだが、王虎さんはちょっといつもと違ったらしい」
「?」
「彼女のクラスメイトによるとな、仁王像みたいな憤怒の顔でまわりの取巻きを30ヒキメーターぐらい引かせて、その後不幸を嘆くような顔で頭を抱えて考え事をしていたそうだ」
削生は仕草まで真似て説明し、僕の前の席に座りこんだ。
「スズメちゃんはともかく、王虎さんまでがなんでそんな様子なんだ? たまたま一緒に歩いてただけで、そんな大袈裟に驚く様な事なのか? 不思議だよ」
「お前、女心が解かっていないな」
「僕には、お前が王虎さんの気持ちが解かる事のほうが奇跡な気がするよ」
「心理戦も現代戦の一環だ、俺にとってはお前のその茫洋とした考え方は神業に近いぞ。明日、お前が無事な姿でここに座っている事を祈っているからな」
今日の放課後の部活の時間が……怖い。
◇
もの凄―く用心して、家庭科教室にそろそろと入って行ったが、予想外にスズメちゃんはおとなしかった。おとなしいというよりも努めて冷静にしようとしているようだ。
王虎さんの視線攻撃の方がキツイ。いつもは整えられているはずのショートヘアーが乱れて前髪が垂れていて、その垂れた隙間から煮詰まったクリームシチューの様などろーんとした視線で僕を見ている。
王虎さん、お願いだから事のいきさつを聞いてからにしてください。
その日の部活では、包丁の研ぎ方を教わる事になっていた。
霧咲先生は包丁だけで10本近くを部活にいつも持ってきている。使っている包丁の良し悪しも料理には関係あるという事、包丁も使う素材によって使い分けなくてはならず、家庭にある文化包丁だけでは料理に支障がある事を先生は部員達に教えていた。
「包丁も道具ですから、当然目的があります。ただ切るだけではなく、素材にあった切り方があります。今日は普通の文化包丁の手入れの仕方と使い方を教えます」
さすがに本物の刃物を前にしてふざける生徒はいないが、そんな状況で先生は更にもう一押しする。デモンストレーションとしてよく研いだ自分の包丁で、ソーセージをオリエンテーションの時の様に片手でみじん切りにしてしまったのだ。
「気をつけてね、指一本無くすなんて簡単なんだから」
にっこり笑いながら注意する先生の言葉は、免疫のない生徒には恐ろしく聞こえた事だろう。
包丁を研いでいたら、後ろからスズメちゃんが小さな声で呼び掛けてきた。
「……総くん」
今日はたまたま、僕のすぐ後ろに居たらしい。
「……龍崎さんと、どーいう関係なのだ?」
「……特別な関係はないよ」
「特別な関係もない人がたまたま助けてくれたり、バイト帰りに一緒に帰ったりするのか? そんな恋愛ゲームのような都合のいい話があるものか、なのだ」
「僕が聞きたいぐらいだよ」
「……じゃあ、王虎さんは君とどういう関係なのだ?」
スズメちゃんはジト目で王虎さんをチラと見る。
「そっちも知らないよ、それも僕が聞きたいぐらいだよ。」
「嘘をつけ! 総くんに対して妙に積極的ではないか、なのだ。それに龍崎さんの件を聞いた後のあのやつれ様! 何かあるに決まっているのだ」
「本当に知らないよ。中学までの同級生とかなら、スズメちゃんだって知っているじゃないか」
「う……確かに……スズメちゃん言うな! 愛をこめて雀美ちゃんと呼ぶのだ!」
「はいはい」
「……長い海外生活の間に、どこかで隠し子をつくったな……」
「同じ年の隠し子が居るか!」
「じゃあ、現地妻なのだ! 総くんは忘れていても相手は総くんの事を思い続けていたのだ!」
「……あのねえスズメちゃん……」
「……だが別にいいのだ、総くんがなにをしていようと、なのだ」
「?」
「龍崎さんと一緒に帰ろうと、王虎さんと一緒にお昼を食べていようと、あたしはあたしが想う処に居るだけなのだ」
こちらを向かず真剣に包丁を研ぎながらのスズメちゃんの言葉は、とてもいじらしく聞こえた。
「スズメちゃん……」
「だが他の人はどうだか判らないのだ。世の中には総くんのそんな行動を見て、『ブスッ』と行きたくなる人もいるかもしれないのだ」
そう言われてハッと気付いて周りを見ると、確かに王虎さんが僕を見つめながら変なうすら笑いを浮かべ、スイーッスイーッと包丁を研いでいる。
そしてさらに後ろから『ギギィ~ギギィ~』と変な音が聞こえてきた。
そう言って振り返った僕の目に飛び込んできたのはククリと云うイギリスのグルカ兵が愛用するナイフを研ぎながら、ダークなオーラを放出している亀沢さんだった。
亀沢さんがククリを持ち上げて、ニヤリと笑った。
「ウケ……ウケケケケケ……」
そのダークな雰囲気にビクッとした僕は、自分の指が研いでいる包丁に思わずタッチしたのに気付かなかった。
研ぎ澄まされた包丁が、僕の指の薄皮一枚を切り裂くのは一瞬の出来事だった。
「っ!」
思わず声を上げてしまった。
包丁を置いて左手の人差指を見る。2ミリくらいの長さだが少し深く切ったみたいだ、血が少しずつこぼれてくる。
「総くん!」
スズメちゃんが自分の包丁を置いて僕の前に来る。
「大丈夫?」
いつもと違う、おしとやかな雰囲気にドキッとする。そう思った瞬間、スズメちゃんは僕の人差指をパクッと咥えた。
僕もびっくりしたが、周囲の部員もかなりびっくりしたようだ。王虎さんなどは『戦慄!』と言うほどの驚きの顔をしている。
「ス、スズメちゃん!?」
「ふ? どうひたの? ひゅうがっこうのとひは、ひょく舐めてあげふぁじゃない」
「いや、も、もう高校生だし!」
殆どの部員はひやかし程度の反応だが、ごく一部の部員が過剰に反応している。
亀沢さんも顔が上気して真っ赤だし、王虎さんに至っては『ハッ、ハッ』となにか変な雰囲気に興奮している。スズメちゃんも王虎さんの変な反応に気が付いたようだ。
「なに? どうした? 羨まひい? ほれほれほれ」
スズメちゃんはそんな事を言いながら、王虎さんに僕の人差指をぺろぺろ舐めてみせる。
それを見た王虎さんも顔が上気して更に息が荒くなっている、まるで『あたしにも舐めさせて』と言っているようだ。
しかしスズメちゃんにぺろぺろちゅぱちゅぱ舐められ、くすぐったいやら気持ちいいやらで……
「あ……」
思わず声が出てしまう。
「なふぁけないひょえをひゃふな!」
その時、スズメちゃんの頭を後ろからポンと叩く人が居た。
「一体部活中に、何をしているのかな」
霧咲先生のドスの利いた低音が響く。
「は、あわわわわ!」
スズメちゃんは思わず僕の手を離す。先生は僕の手を取り、流しまで連れてくると水を出し、流水で僕の指を洗う。
「いい、みんな。調理中の傷は食材についている雑菌が侵入する恐れがあるから、傷が出来たらまず流水でよく洗う事。舐めたりしても雑菌が侵入するからしない様に。いいわね」
「はい」「はーい」
各班から答えが返ってくる。
「どれ、傷は……あれ? どこ?」
「左手の人差指の先です」
「……もう血は止まっているのね」
「大丈夫ですよ、大したことないです」
「わははは! 雀美ちゃんの治癒力を甘く見るな、なのだ!」
高笑いするスズメちゃんの襟首を後ろから副部長がガシッと掴んだ。
「あほ! お前には説教だ!」
「ええええええ!」
スズメちゃんはうめき声を上げながら副部長に準備室へ連れて行かれた。
「さあ、みんな集中して。今度は研いだ包丁で野菜を切ってみるわよ」
先生がみんなに言うが、部内の一部には不穏な空気が漂ったままだ。王虎さんや亀沢さんを含む一部の生徒がちらちらと僕を見ている。
スズメちゃんの行動のせいだけではないようだ。一体なんだろう、この雰囲気は。
その時僕は気付けばよかったのかもしれない、あの王虎さんの不穏な反応に実は重要な意味があった事を。
◇
水曜日の夕方家庭科教室に行くと、数人の女の子達が副部長の周りに集まって何かを話している、何かあったんだろうか?。
「どうしたの?」
僕は部員の一人に尋ねる。
「王虎さんが、二年生の二人にどこかに連れて行かれちゃったの」
副部長はちょっと困ったような顔をしている、部長はまだ部室に来ていない。
その子に聞く限りでは、今日の後片付けの件で、王虎さんが片付け当番の二年生に何かを言い、それに対して二年生が反論すると皆で部屋を出て行ってしまったそうだ。力ずくの展開にはならないだろうとは思っているが、一応念の為に様子を見に行ったほうがいいかもしれない。
そう思ってかっぽう着を着る前に部屋から出て行こうとしたのだが……
そこに片付け当番の二年生が帰ってきた、何か呆れるような顔に少し恐怖を滲ませた様子で……。
そしてその後ろから、いかにも戸惑い気味の王虎さんが入ってきた。僕の顔を見ると涙声に近付いてくる。
「総司く~ん……」
二年生の先輩達は、僕らの方を見てこう言った。
「今日の部活の後片付けは王虎さんにお願いするわ、ちゃんとやっておいてね!」
口調は強いが、その中に僅かだがヘンな遠慮の色が感じ取れた。そう言うとその二年生達は今日の実習の準備の為に炊事場に向かった。
副部長がその二人に何か行っているのが聞こえたが、その二人も何か言い難そうだった。
「王虎さん、何があったの?」
「今日の片付け係はあの二年生のお二人だったんですけど、『大地くんは男だから後片付けで遅くなっても問題ない、今日の後片付けを一緒にやってもらおう』って言っていたの聞いちゃったんです。それを聞いたあたしが『それは平等じゃないです』って言ったら、言争いになっちゃったんです。だから私が『今日はわたしが一人でやる』って言っちゃって……」
「そんな王虎さん……だったら僕も手伝ってあげるよ」
「だって大地くんは当番じゃないじゃないですかぁ~悪いですよぉ~」
「いいよ、先輩たちの言うとおり僕は男だから多少遅くなっても問題ないし、王虎さん一人でやってたら時間がかかるよ」
「あ・有難う、大地くん……」
王虎さんはうるうると涙を浮かべて僕を見つめる、一昨日のどよよんとした王虎さんとは別人の様だ。
「あたし達も付き合ってあげよーかぁ! なのだ!」
スズメちゃんが声を上げる。横で亀沢さんが無言でゆっくりこくこくと頷いている。
「有難う、でもそんなみんなに手伝ってもらっちゃ悪いし、二人いれば大丈夫だから~」
王虎さんが遠慮がちに言うが、穏やかな言葉の割には目つきが厳しい気がするんですけど?
表面上の言葉はどうあれ、その眼は『こないで・ほっといて・邪魔しないで』といった殺気に近い気迫が大さじ二〇杯ほど満載されているような気がした。
しかしスズメちゃんはそんな様子を気がつかないのか、無視しているのか一向に平気だ。周りの一年生たちは王虎さんの殺気に近いモノを当てられて、委縮している。
「いや、遠慮しなくていいいのだ! 大勢でやった方が楽しいし、早く終わるのだ!」
また亀沢さんが、横でゆっくりこくこく頷いている。スズメちゃんの表情もあくまで何気ない笑顔なのだが、その視線は王虎さんのモノに負けず、
『チョーシのいいこと言ってんじゃないわよ・何勝手に仕切ってんのよ・自分だけに都合のいいように仕組んでんじゃないわよ』
という気迫が大さじ三十杯程こもっている気がする。
さらによくよく見ると亀沢さんの視線にも『…………』とハッキリは読めないが同じような気配が小さじ一〇杯ほど盛ってある気がする。
「有難う日良さん、でもあたしと大地くんのふ・た・り、いれば大丈夫だから~」
と言いつつ、さらに殺気の様なものまでが増大している。このままじゃらちが明かないので、
「スズメちゃん、皆で遅くなっちゃったら意味が無いから、僕ら二人でいいよ」
「スズメちゃん言うな! 二人で夜の校舎で何をするつもりなのだ!」
「何って……片付けだけど? 他になにをするの?」
「何って……その、あの……ほら……」
「?」
スズメちゃんの言う事は要領を得ない。
「まったく日良さんは心配性ですねぇ~。そんなに自信がないんですかぁ~」
火に油を注がないでください、王虎さん。大体一体何の自信ですか?
そう言われて、スズメちゃんもカチーンときたようだ。
「ふん、胸ばっかり成長過多の虎っこ娘! 総くんが何かするわけないもんね! なのだ!」
そう捨てゼリフを残して、スズメちゃんは今日の班の方へ去っていった。亀沢さんも僕の方を気がかりそうにじーっと見ていたが、
「亀沢さん心配しないで、だいじょうぶだから」
と僕が言うと、ようやく自分の班の方へ戻ってくれた。
しかし僕はスズメちゃんや亀沢さんから見て、そんなに心配になるほど頼りないだろうか?
はぁ……。
こういうときに限って今日の調理実習はグラタンだったりする。
キャセロールと言う耐熱容器を使うグラタンなどの料理は、作っているときと食べている時はいいが後片付けだけはほんとうに手間がかかる。焼き付いたクリームが内側にこびり付き、焦げたチーズやパン粉がはみ出たりすればそれらは皿の後ろにまで付く。それらをふやかしてキャセロールからはがし、一つ一つ丁寧に洗わなければいけない。
オーブン内にもはみ出した、焦げたチーズやクリームのかすを丁寧に真鍮ブラシでこすり落として綺麗に掃除した後、磨き上げる。
「王虎さん、終わった?」
「はい、大地さんの方は?」
「終わったよ、疲れた」
「じゃあ上がりますか?」
全部の作業が終わったのは十時を超えていた。父には連絡してあったので、父の分のグラタンを保冷ボックスに入れて帰り支度をする。
学校は廊下の電気が消され、真っ暗だ。家庭科室の電気を消したら本当の真っ暗になる。
そんな真っ暗な中、王虎さんの目だけがキラキラ光っている。
「王虎さん、目がキラキラして見えるね」
「えっ?いやあの、こんな時間だからじゃないですかぁ? ちょっと恥ずかしいですぅ……」
とてもボーイッシュなその容姿からは想像も出来ない発言だ。
「さあ、帰ろう」
部室を閉めて鍵を掛ける。暗い廊下を二人で歩いていると、王虎さんが腕を組んできた。
彼女のほうが背が高いので、腕を組むというより肩を組んだ方がいいんじゃないかと思うが、悪い気もしないのでそのまま歩く。ふと彼女の方を向くと、相変わらず目は爛々と光っているが表情には微妙なおびえの表情が浮かんでいる。やっぱり女の子だなぁなんて思っていると彼女の方から僕に尋ねてきた。
「大地くん、大地くんは色んなところをお父さんと旅してきたんですって? すごいですぅ~」
階段を下りながら僕は答える。
「でも、とんでもないところばっかりだよ。ジャングルとか砂漠とかツンドラとか……」
「どんな動物が好きなんですかぁ~?」
「大体どんな動物も好きだよ、鳥や獣や魚も」
「それは、食べる方の事じゃないですかぁ?」
不満げな声色だ。
「ごめん、そういう質問なのかと」
「じゃあ、もし食べられるとしたらどんな動物がいいですかぁ~?」
? 夜の校舎でされるような質問ではない気がするが……。
? まてよ? 同じような言葉を先日龍崎さんからも聞いた気がする。
「例えばライオンや虎なら食べられてもいいとか、鳥についばまれるならいいとか……」
? 変な質問だな? そんな違和感を覚えながら、下駄箱のところにたどり着く。
そこで突然、王虎さんは僕から離れ勢いよく頭を下げる。
「大地さん、ごめんなさい! 大事なお願いがあるんです!」
「えっ? それってこの間言っていた、『僕にしか出来ない』事の件?」
「そうです、その事です」
「……僕に出来る事で、王虎さんの役に立てる事ならいいよ」
「本当ですか!」
「うん。でも出来ない事は出来ないって、はっきり言うよ。」
「大丈夫です、日良さんがもうやっている事ですから」
「え?」
? スズメちゃんがやっている事? なんだろうそれは?
「その……」
王虎さんが言い淀む。
「……舐めさせて欲しいんです……」
「……何を?」
「ほんの少しでいいんです、あなたの……」
「僕の?」
「……血を私に舐めさせてください!」
「………はい?」
「あなたの血を、日良さんのように舐めさせて欲しいんです!」
……一体どういう趣味なんだ? 確かに僕にしか出来ない事だが、させて欲しい事が僕の理解の範囲を超えている。
「どうしても血がダメなら唾液とかでもいいです! あなたの遺伝子が含まれていそうなモノなら何でもいいんです、私に分けてください!」
「えっとごめん、王虎さん。ちょっと言ってる事の意味が解らないんだけど……」
すると思わぬところから声がした。
「要は『あなたを食べてみたい』ということですよ、大地くん」
ドキッとして入口の方を見ると『経済的食生活研究会』の暮井が立っている。
? こんな時間に何をやっているんだ?
「さっきの質問ですが例えばハイエナに食いちぎられる、というのはどうですか?」
王虎さんと同じように目がキラキラ、いやギラギラ光っている。
さらに入り口あたりに二十人くらい人が居る。うちの学校の制服に交じって他の学校の生徒や、学校外の私服の人間もいるようだ。
いやな予感が……予感を感じたか感じなかったかのタイミングで、僕は王虎さんの手を引いて玄関とは逆の方向に走った。後ろから追いかけてくる音がする。
自然の中で獣から逃げる時は上に逃げてはいけない、一部の捕食動物は木に登れるからだ。まして建物のような足場のあるところで上に逃げても、結局は屋上に追い詰められるだけだ。
急に角度を変えて非常口から運動場に逃げる。広いトラックを持った運動場が校舎の下にある、そんな広いところの方が早く走れる。
しかし追手の連中も慣れたもので、予め二手に分かれていて運動場で取り囲まれた。
「大地くん、僕たちと一緒に来てもらえますかね?」
暮井がいかにも悪役のようなセリフを吐いてくれる。
「いやだよ」
何人かが近付く。手を掛けられそうになったところで僕は行動を起こす。
今日は相手が始めから力づくで来ているので遠慮はしない、相手の鼻先を掌底で叩く。獣でも人間でもこれをやられればしばらくは動けない、二人が倒れる。
王虎さんもキャーキャー言いながらカバンを振り回し、他の連中を寄せ付けない。
「くっ」
暮井が変な声を出した。
「この時間ならいいだろう、誰も見ていない!」
取り囲んでいる連中が動きを止めると、突然体から白い物が噴き出してきた。イギリスの降霊会で見たエクトプラズムに似ている。それが暮井達の体を包むとだんだん形を変えていき、犬のような姿になり…いつのまにか僕らは白く光るハイエナの群れに囲まれていた。
……ありえない。エクトプラズムに包まれた人間がハイエナに変わることも、ハイエナに僕らが囲まれている事も。信じられない様な危機が今、目の前に展開している。
いきなり2匹が、同時に飛び掛ってきた。
ハイエナはチームワークが良く、決して1匹ずつ掛かってきてくれない。そういう時は確実にかわせる方をかわし、かわせそうに無い方のハイエナの顔に掌底を叩きつける。
「キャン!」
悲鳴を上げて、1匹が地面に転がる。
王虎さんはと言うと身のこなしも軽くよけているが、その表情には何かをためらっている感じがする。いつも『大地く~ん』なんて言っている王虎さんがまるで別な表情だ。
だが多勢に無勢で状況は変わらない、切り抜ける為に真剣に頭を働かさなければ。
助けを呼ぶ? 呼べるぐらいなら奴らも襲ってこないだろう。
血路を開く? どうやって? 銃どころか武器になりそうなモノも無い。あるのは学生カバンとグラタンだけだ。
空でも飛べるなら、と上を仰ぎ見た……なんだ? 空中に人が浮いている? 校舎の二階ぐらいの高さだ、こんな時に幽霊か?
僕の視線に気が付いたのか、ハイエナたちも王虎さんも僕の視線を追った。
その時耳に届いたのはクスクスという笑い声。
「クスクス、いやね、所詮はイヌ? やり方がえげつないったらありゃしないわ」
その声、その姿……龍崎さんだ。
腕組みをした龍崎さんが空中に……浮いている? ??
? なんだ? ハイエナたちが怯えている? 何匹かはもう今にでも逃げ出しそうだ。
「お、降りて来い!」
ハイエナ姿の暮井が、怯えを隠して言う。
龍崎さんがまたクスクス笑った。
「何言ってるの? あたしはもう地面に足を着けているわよ」
そう言うや否や、彼女の周りが光り始めた。
白色のエクトプラズム! それが彼女の周りを被っていた。
『それ』はやがてゆっくり形を現してきた。校舎の三階まで届くほど巨大な白色のエクトプラズムに形作られた……
ティラノサウルス・レックス。
約6800万年から6500万年前の中生代白亜紀・マーストリチヒアン期に生息していた世界最大・最強の肉食恐竜。それが今僕たちの目の前に立っている。
サバンナの掃除屋ハイエナあたりとは格が違いすぎる、何匹かのハイエナはその場で気を失ったようだ。
ティラノサウルスの半透明の姿の中に龍崎さんが浮いている。よく見ると龍崎さんのあの巨大なリボンは、ティラノサウルスの首に結んであるかのように見える。この殺伐とした光景の中ではそれはとてつもなく可愛らしく、またとてつもない違和感を僕に感じさせた。、
呆然としていた暮井のハイエナが、ようやく我を取り戻した。
「あ、あの巨体なら素早くは戦えない! 大地を拉致するんだ!」
ハイエナたちが方向を変えようとするが、龍崎さんはそれを読んでいたかのように、クックッと笑いながら嘲る。
「いやね、イヌは。頭が悪くって」
そして龍崎さんのティラノサウルスは一声吼え声を上げると、ハイエナの群れに突っ込んできた。必死に逃げようとするハイエナたちだが、五匹ぐらいがその大きな顎に挟み込まれた。
ティラノサウルスが顎をかみしめる、バキンバキンと嫌な音が深夜の校舎に響く。
怯えた何匹かが運動場から逃げようと駆け出す。龍崎さんのティラノサウルスは軽くジャンプをすると逃げ出そうとした何匹かの前に立ちはだかった。その時数匹が足の下敷きになる。
残った一〇匹ほどが悲痛な覚悟で立ち向かい、二手に分かれて前後から陽動して飛び掛かるが、後方の半数は尾の一振りで叩きつけられた。
あるものは競技場の壁に、あるものは地面に、またあるものは天高く放り飛ばされる。まるで毛玉が転がるように。
「あははははは!」
戦いの最中に龍崎さんの笑い声が響く。彼女の笑い声は歓喜に溢れ、自分の力を思う存分使えるこの戦いを楽しんでいるようだった。
残りのハイエナは形勢が悪いと見るや、逃げ出そうとしたところを追いかけてきた大きく開かれた口の中に消えていった。またバキンバキンと嫌な音が響く。
勝ち誇ったティラノサウルスは一声雄叫びを上げると吸い込まれるように消えていった……龍崎さんの中に。
今度こそ龍崎さんは自分の足で地面に立っている。
龍崎さんの周りには喰われた連中が転がっている。人間の体の横にエクトプラズムのハイエナが転がっている。一体どういうことだ?
やがてエクトプラズムのハイエナは徐々に実体化し、人間とハイエナが同じ姿勢で横に並んで倒れている風景が運動場のあちこちに広がった。
「大地君、大丈夫?」
「りゅ、龍崎さん……今のは?」
「あたし達は〝進化の記憶〟と呼んでいるわ」
「〝進化の記憶〟?」
「いわゆる前世の姿よ、はるかはるか昔の」
「それは一体どういう意味なの?」
その時悲鳴が上がった、そういえば王虎さんは?!
振り返って見ると、王虎さんがハイエナの1匹に押し倒されている。
「だ……大地君……」
「まだ居たの、イヌふぜいが」
凶暴な顔の龍崎さんが言う。
「王虎さん!」
「大地くん……助けて……」
思わず龍崎さんの顔を見るが、彼女の表情は『なんであたしを見るの』と言っている。
「はい、そこまでね」
突然声がして、ハッと見るとハイエナの後ろにいつの間にか霧咲先生が立っている。
霧咲先生はむんずとハイエナの首根っこを掴むと楽々と持ち上げた。
ハイエナは必死に逃げようとするが、先生の腕はハイエナの首から離れない。
先生がハイエナの首根っこを掴んだ手に力を入れると、何かが砕ける音がする。
「ゴキッ」
ハイエナはどさっと地面に落ちると再び人間の体とハイエナの体に分離し、力なく横たわる暮井の姿がそこにあった。
突然運動場に黒いRV車が突入してきた。アフリカや中東で活躍しているランドローバーの軍用車だ。その後ろに同じランドローバー製のトラックが続く。
僕らの横の開いたスペースを突っ切り、ランドローバーが先生の横に停まる。中から出て来たのはなんと! 神味刀子シェフと竹内さん率いる<進化の声>のスタッフだ。
竹内さんは僕に軽くウィンクをして、テキパキとスタッフに指示を出して倒れているハイエナと人間の体を軍用トラックの荷台に運び込む。まるで軍隊のような統率の取れた行動だ。スタッフの面々はティラノサウルスの足跡やハイエナの足跡を大型の耕運機のようなもので消し、その後をローラーで均して痕跡を完全に消してしまった。すべてのハイエナと倒れている人間を収納して、勢いよくリアゲートが閉じられる。
神味刀子シェフが僕に近付き、肩に手を置いてこう言った。
「あたしに聞きたい事があれば、今度お店に来た時に出来る限り答えてあげる、今は落ち着いて姉さんの言う事を聞いて」
そしてシェフはランドローバーの助手席に乗り込み、校庭から出て行った。
運動場から消えていくランドローバーの後姿を確認して、霧咲先生は僕に向き直った。
「さて、大地君。説明してあげる。ついていらっしゃい」
◇
保健室で先生は僕らにコーヒーを淹れてくれたあと、王虎さんの擦り傷の手当てをしている。龍崎さんは僕の後ろ、保健室の入り口辺りに立っている。
「これで良し」
先生が王虎さんの足を叩く。
「キャッ!有難う御座いますぅ……」
王虎さんがかわいらしく返事をする。龍崎さんはどうにも王虎さんのそういう態度が気に入らないらしい、ムスッとして見ている。
先生は王虎さんから離れると、自分の机の前に座る。
机の後ろには見慣れない図形が描かれた旗と真命学園の校旗がクロスして飾られている。どちらにも内部に幾つもの枝の様なものが分かれた円形の図が描かれている。なんだあれは?
「さあ大地くん、聞きたい事がいっぱいあるでしょう? どうぞ」
先生に促されて、僕は頭の中に渦巻いている疑問をぶつける。
「先生、いったいさっきのはどういうことなんですか? あのハイエナといい、それから<進化の声>のスタッフの皆さんといい……。この学校でいったい何故こんな事が起こるんですか?」
先生はそんな切実な僕の問いに対し、意外にも質問で返してきた。
「大地君、ハイエナに襲われて怖かった?」
「当たり前じゃないですか!」
「何故怖いの?」
「そりゃ、食べられちゃうかもしれないからですよ」
「じゃあ大地君は食べられちゃうことが怖いって、知っているんだ」
「当たり前でしょう! 誰だって食べられちゃうのは怖いですよ」
「じゃあ、なんで大地君は『食べられることは怖い』って事を自分が知っていると思う?」
「えっ??」
「大地君自身が食べられた事も無いのに、何故君は『食べられることが怖い』、と知っているのかしら」
確かにそうだ、僕は食べられた事はない。でも僕を含めて人間は意識の中に『食べられる』という事、噛み砕かれて飲み込まれ、消化されて吸収されることへの恐怖を確かに持っている。それは何故だ?
……僕が思索を巡らせようとする前に霧咲先生が口を開いた。
「大地君、人間は〝食べられる恐怖〟を知っている。というよりも〝食べられる恐怖〟を〝記憶〟として持っているのよ」
「えええええっ? 『知っている』では無くて、『記憶を持っている』ですって?」
「そう」
「食べられてもいないのに?」
「ええ。……確かに君は食べられた事は無いでしょ、でも……」
先生はいたずらっぽく笑う。
「食べてはいるでしょう? 色々な生き物を」
何かが僕の中で、カチッと歯を合わせたような気がした。
確かに僕は食べられたことは無い、しかし食べてはいる。多くの哺乳類・爬虫類・魚類・植物を……。それとどういう関係があるのだろう?
「大地君はこんな話を知ってる? 内臓移植を受けた人達にその臓器の提供をした人の記憶や嗜好、興味や感情がフィードバックするという話」
「聞いたことがあります。行ったことも無い場所の名前を知っていたり行きたくなったり、会った事の無い人の名前を知っていたり、肉が嫌いだったのに好きになったり……。それがすべて臓器の提供をしてくれた人に当てはまる特徴だったりするって……」
「それは臓器の中に、いや臓器を構成する細胞それぞれが記憶野を持っているのではないか、と言うのが最近の研究では仮説になっているの。コンピューターを考えてみて」
いきなりコンピューターへ話が飛んだ?
「コンピューターはデータを読み込んで、ハードディスクに溜め込んでいくでしょう? そして溜めた情報の中から有効な情報を使用していく」
「ええ」
「それを食べることに置き換えてみて?」
……データを読み込む……蓄積する……何かがまた僕の中で、カチッと歯を合わせたような気がした。
「ああっ?! それってもしかして?」
「そう、人間は食べることによって、様々な動物の情報を読み取っているなら? 嗜好や記憶、そういったものも含めて」
「だから人間は……」
「そう、食べられる恐怖を知っている。それは自分達が食べたものからその記憶や行動の情報を、それどころか遺伝子情報までをも吸い上げて自分のものにしているからなのよ。それは一例に過ぎないけどね。海を泳ぐ、陸を走る、空を飛ぶ、そういう行動を人間は見る・聞くだけではなく、遺伝子レベルまでの情報として消化吸収し自分の遺伝子に組込んでいるの。そしてその情報を子孫に残すことで受け継いでいるのよ」
途方も無い話だ。つまり生物は食べたり食べられたりすることで情報を共有化しているというのか? いやまてよ?
「人間が他の生物の記憶や嗜好、もしかしたら遺伝子も食べることで吸収しているんじゃないか、って言う理屈はなんとなくわかります。でも、それとあのハイエナや龍崎さんのティラノサウルスはどう繋がってるんですか?」
「人間の行動は食べて蓄積された生物の遺伝子に影響されるの。例えばファーストフードの食べ過ぎによる弊害は肥満だけではないわ。気が付かない? 世界で、特にこの国で見られる顕著な現象……。横並びで特徴を嫌う、怠惰で刺激の無い生活に向かってしまう行動……。そんな生活をしている動物・植物は?」
頭を巡らす。区画された空間、刺激の無い生活、餌になるためだけの生命。
「家畜、それに栽培野菜……」
「そう、どこかの誰かが考え出したのよ、人々を骨抜きにするコントロール方法を。食の安定供給に名を借りた食による支配……もちろんそれも『覚醒者』が考えた事なんでしょうけど」
「『覚醒者』?」
「あたし達はそう呼んでるわ。さっき言った様に、ひとつ所に押し込められた生活をしている牛の肉を食べ続ければ、蓄積された遺伝子情報のせいで行動はそういう生活をしている牛に似てくる。けれども同じような食事をしても影響の出ない人もいる。そういう人は別の遺伝子情報が多く蓄積されていて、影響が軽微になるの。もしそういう人に多く蓄積された情報がハイエナやティラノサウルスのものだったら?」
「ど、どこでそんな物を!」
言った瞬間、気が付いた。シェフが提供していた料理、それを食べていた人々、龍崎さん……。
「<進化の声>……」
「そう、自然に生きていた生物・或いは既に死に絶えた動物・ありとあらゆる生物を原料にした食事を『食べる』事で、自分の遺伝子レベルの中の情報を蓄積し『育てて』いく。それを続けていくと……自分の中の前世、というか自分のルーツの生物の遺伝子情報が覚醒するの、そしてそれは態度や行動に現われる。飛躍的に運動能力が発達したり、カンが冴えたり、思考や行動がアグレッシブになったり……。そういう人たちを私たちは『覚醒者』と呼んでいるわ」
「……『覚醒者』……」
「そしてそれをさらに続けていくと、自分のルーツの生物の中でいちばん情報が蓄えられた生物の姿を顕現出来る様になるの。エクトプラズムを媒介にして」
僕はさっきの校庭のハイエナや、龍崎さんのティラノサウルスを思い浮かべていた。
「エクトプラズムを媒介にして自分の体細胞のデータを組み替えてしまう。パソコンゲームのキャラクターにスキンという外観プログラムがあるでしょう? 人間である自分の体のデータの上にエクトプラズムに現したデータを走らせる、と言った方が解かりやすいかしら?極端な表現だけど、そうやって自分のルーツになる生物を現出できるようになるの。そこまで出来るようになった場合は『覚醒者』ではなく『顕現者』と呼ばれるようになる。まあ覚醒した人の中でもそんなに多くの人がそれを出来るワケでは無いみたいだし、さらに自分の意思で動かせるようになるには時間がかかるけどね。自分のルーツとはいえ、もとはといえば別の人格……ああ、動物だから人格とは言わないか、意識を持った生物だからね」
理屈は通っているように聞こえる。食による生物情報のデータ収集、データの蓄積による行動や意識の変革、溢れ出た情報の顕現……。
「『覚醒者』はそれぞれのDNAの蓄積に差があって、ハイエナなんかの現存生物を『顕現』させられる『覚醒者』は結構多いけれど、龍崎さんみたいにティラノサウルスなんていう太古の姿を『顕現』させられるのはごく僅か。現存生物などの方が『覚醒』するきっかけになる食材を入手しやすいという理由もあるけど、例えばマンモスの肉を食べたとしても、マンモスのDNAを『覚醒』させられるのは、『覚醒者』の中でもごく僅かな……一握りの特別な人間だけなの」
目の前で起こったことだから理解するしかないが、到底理解しきれるコトじゃない。
「なぜ世界で問題にならないんですか? そんな特別な能力を持った人々がこの世界にいることが知れたら、マスコミが大騒ぎしたり政府が捕獲しようとしたりしないんですか?」
「そりゃ、問題になったらね。でも問題にならない……なーぜだ?」
問題になったら? 問題にならないのが前提なんですか?。
「……問題にする人がいない」
「もう一声!」
「……問題になることを防いでいる人間がいる……?」
「ピンポーン!」
「ど、どこにそんな人たちが?」
「さっき会ったじゃない、校庭で。あたしも含めて」
……<進化の声>のスタッフの人達か……。
「多くの国の指導者やその側近、企業やマスコミの役員や重役の中にも『覚醒者』は大勢いるわ。そういった人たちと、普通の人たちが協力し合ってこの現象を隠しているの。<進化の声>のスタッフはその一部でしかないわ」
「先生は……いったい?」
「ウチの学校の校旗にも描かれている、この円形のマークは何だか判る?」
「いいえ……不思議な図形ですね。まるで木の枝を丸めた様な……」
「あたしたちの組織の名は『進化の環』と云うの」
「『進化の環』?」
「進化の樹形図は見た事があるでしょう? どの生物からどの生物が枝分かれしたかを表す木の形をした図形。それが最近の研究では進化の形態はあの木の様な形では無く、このような円形なのではないかというの」
先生は後ろの図形を親指で示す。
「木の形の樹形図では進化の究極に到達したのは人間だけになっている。人間こそが進化の頂点への到達者であるという考え方……しかしあたし達はそうではないと考えている。どの生物も進化の過程で淘汰されたとしてもそれは敗者になったのではなく、我々を構成する一部になって今も生き続けていると考えているのよ」
「…………」
「そう考えると、進化の系統図は樹木のように枝分かれしているだけでは無い、すべての生命は繋がっている。その考えを表しているのがこの図なの。これが『進化の環』」
「…………」
「あたしたちは守りたいだけなの、自由な食の選択による『覚醒』を。それが『顕現』という現象を伴っていたとしても。『食育』という言葉があるのを知ってる? 総司君」
「『しょくいく』……ですか?。」
「様々な経験を通じて『食』に関する知識と『食』を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を『育てる』、と言うのが一般的な理論なんだけどね。それは自然の中で育てられた食べ物を食べる事だとあたしは思っているの。今のこんな飽食の時代に『なぜ?』と思うかもしれないけど、食べるってことは生きていく上でもっと大事なことなのよ。それがコストとか効率だけで作られた食事、いや単なるエサや栄養分の補給の為だけのモノであって欲しくないの」
「…………」
「自然の中で蓄積された知識や貴重な遺伝子が『食べる』ことによって栄養と共に吸収され、みんなの体内で生き続け『育まれる』、そんな素晴らしい事は無いんじゃない? 私はこの世界を自由な食と遺伝子の宝庫にしたい、と思っているの。それがあたしの考えている『食育』」
「……『食育』……」
僕は先生の言う事をかみしめていた。確かに出来合いの味気ない食事より、新鮮な食材を調理して食べる、そんな機会が少しでも多い方が人間にとって自然なのではないかと考える。
「そんなあたしのもとに大地君、君をこの学園に迎えたられたことを本当に嬉しく思うのよ」
ちょっとMADな雰囲気が入ってきた、姉妹だけに本当にシェフに雰囲気が似ている。
「まるでこの学校の持ち主みたいな事を言ってますね」
龍崎さんが、やれやれという雰囲気で口を開く。
「何言っているのよ、学校案内をよく読んでないわね。ちゃんと最初のページから読んだ?『真命高校理事長/霧咲順子』って書いてあるわよ」
「えええええっ!?」
先生は僕に静かに微笑む。
「飛んで火に入る大地クン、そんなことじゃ、女の子の本音が見抜けるようになるのはまだまだ先ね」
あああああ、恥ずかしい……そんな事は気にもしていなかった。
「で、でも、よく『覚醒者』でない一般の人たちも一緒に隠してますね。そんな特別な力を持っていたら異端視されて差別されそうですが」
「社会活動を行う上で、メリットが多ければ人は協力するわ。世の中にアグレッシブでフロンティアスピリットのある人が居なければ、世の中は発展しないもの。そういう活力を活用していくためにも『覚醒者』は必要なの」
「でもティラノサウルスなんてモノが実体化するなら誰かが、たとえば軍隊とかが利用しようとか考えないんでしょうか?」
「大地君、怪獣映画の見すぎね。いくら体が大きいからといっても近代兵器には敵わないわ。兵器は安価で数が揃えられるから有効であって、1体ぐらいのティラノサウルスで戦争に勝つことなんて出来ないわよ。確かに『覚醒者』を索敵や監視に使っている軍隊はあるみたいだけど、主戦力には向かないわ」
そりゃそうだろうな、いくら生物として強くても、兵器としての強力さは別なものだ。1体のティラノサウルスよりも100人のコマンドーの方が役に立ちそうだ。
でも僕にはもっと大きな疑問がある。それを聞かなければ、なにも解からない。
僕は先生の顔を再度見つめ、そこで僕の気持ちは爆発した。
「でも何故僕が襲われるんですか?! 僕は『覚醒者』なんていう特別な人間なんかじゃありません、普通の人間です。目の前でハイエナになったり、ティラノサウルスを出したりする、そんなありえない事が出来る特別な存在じゃないんですよ!」
王虎さんが息を呑む音がした。龍崎さんが顔を歪ませたのがチラッと見えた。
「大地君、突然の事に動揺しているのは解かるけど、『覚醒者』が特別だと思い込むのはやめて。『覚醒者』って意外に身近なものなのよ、ネッシーって知ってるでしょう?」
「ええ」
「『外科医の写真』っていう有名な首だけ出して泳ぐネッシーの写真は?」
「知っています、でもあれ撮った人がイカサマだって証言したんじゃあ……」
「あれはね、近所に住むウィラードじいさんがあんまりにも暑くって、誰もいないと思って〝進化の記憶〟のまんまの姿になって泳いじゃったの。そしたらたまたま遊びに来ていた外科医のグループに見つかって、写真に撮られちゃったの。全く、もみ消すこっちの身にもなって欲しいわ」
「ええええええ? そんな馬鹿な!」
「ヒマラヤの雪男は?」
「まさか……あれも?」
「ええ、現地のタマクさんが動きやすいからって……」
「『ミゴー』とか『チャンプ』も?」
「ええ」
「『クラーケン』や『モケーレ・ムベンベ』も?」
「そうそう」
「……………」
「全くみんないい加減にしてほしいわ! そりゃあ〝進化の記憶〟の姿で動く方が気持ちいいでしょうけれど、自分勝手に姿さらすから大騒ぎになっちゃうじゃない! こっちはみんなで必死にごまかして、包み隠して、適当に情報流して穏便にすませているんだから! ……ってところで大地君、なんでそんなに詳しいの? UMAばっかり?」
「すいません、父がどんな生物でどんな肉なのか食べてみたいって……」
「まさか……みんな探し行ったの?」
「……はい……初めは珍しい食べ物を探していたんですが、父がそれに飽き足らず……幻の生物の味はどんなものか試したいと言って……」
「現地まで行って? UMAを追いかけて?」
「……はい……」
「あはははは……」
先生はうつろな笑い声をあげ、龍崎さんは僕と父のあまりに常識から外れた行動を知って、前頭葉の一部がショートして焦げたようだ。おでこを押さえてうんざりした顔をしている。
ああ、僕と父の3年間かなりの時間を費やした夢とロマンのUMA探しの旅が、実は『覚醒者』の不注意の結果を探す旅だったなんて……しかもそれを各国政府や企業が隠そうとしていたなんて……。
無駄な時間を費やしていたよ、父さん。こんな処に見つからない理由の答えがあったなんて、夢もヘッタクレもあったものじゃない。
「でもね、あたしは『覚醒者』は自分のルーツを発見できた幸運な人たちだと思っているの。だってそうでしょう? 誰かの仕組んだ食による監獄から逃れる事が出来た、自由な体と心を手に入れた人たち。それはあなたとお父さんがやってきたことと同じでしょう?。」
確かに、僕と父は自由気ままに食べられる物は何でも食べてきた。それは流通とかコストとかに縛られない、自由な食事。
「でもそれと僕がどういう関係があるんですか? そんな食べ物のことで僕が誰かに狙われてしまうんですか?」
「さっき『食育』に関する話をしたでしょ?」
「はい、『自然の中で蓄積された知識や貴重な遺伝子が、栄養と共に食べることによって吸収されみんなの体内に宿り生き続け育まれる、自由な食と遺伝子の宝庫にしたい』って」
「君とお父さんが、すでに実践していることよね」
先生の言葉には微かに疑問形が入っている。
「はい。……それが何か?」
「そこが君の不思議な処なのよ、そして狙われる理由」
「えっ? どういうことですか?」
「はっきり言うわ、君は既に『覚醒者』になっていてもおかしくないはずなの」
「えええっ?!」
「話を聞いただけでも、あなたとお父様はこの世で手に入りそうなありとあらゆる物を食べている。<進化の声>の特製の料理も口にしている。君の中で何かが起こっていることはこの学校に入学する時点でDNA検査でも血液検査でも判明している。君の体の中にはほぼ、ありとあらゆる生物の記憶が存在している。それも膨大な量が。いついずれかの動物の記憶が覚醒してもおかしくないくらい。なのに君には何も起こらない。君の体からはまだ何の生物も覚醒しなければ、顕現もしない。こんな事はありえない、起こりえないことなの」
「…………」
「君の体はまさにありとあらゆる生物の遺伝子のプールなの。もし君の血液なり遺伝子なりをうまく他者に提供できたら、それこそ多くの覚醒者を生むトリガー(ひきがね)に出来るかもしれないぐらいなのよ」
「…………」
「逆に君がもしどんなに色々な生物を食べても覚醒しない体質だとしたら、今度は逆の事を考える人たちがいる。君を『覚醒者』を減らすために使おうとするかもしれない。だってそうでしょう? 覚醒しないとすれば、それを押さえる何かが君の体に含まれているんだから」
「僕は『覚醒者』にとって薬か毒かのどちらか、っていうコトですか」
「でも今のところどうすればいいのか、誰も判断出来ていない。だって君が本当はどういう存在なのか、誰も判っていないから」
「…………」
「もう既に一部の覚醒者のグループは、君を研究して自分の陣営にとって有利に使おうとしている。『覚醒者』も一枚岩ではないの。種族や類系、そして目的によって幾つものグループに分かれている。その全てのグループが君の事を知って、注目している。君は今『覚醒者』の間ではちょっとした……ごちそうなのよ」
な、なんてとんでもない話だ。『覚醒者』なんていうとんでもない人たちの話を前菜に始まり、最後には僕が最高のメインディッシュだなんて話しになった。
そう言われてやっと気が付く、あの食事会のメンバーの僕を見る視線。極上の料理がそこにあるかのような視線。あれはそういう意味だったのか。
困った、僕は微妙な立場に置かれているようだ。ん? ところで?
「龍崎さんはどういう立場なんですか?」
「彼女はあたし達の組織のメンバーで、私に協力してもらっているの。でも少なくとも今日の件については私は何も頼んでないわよ。ねえ、龍崎さん?」
先生が龍崎さんに視線を向けると、龍崎さんは気まずそうに視線を外す。
確かに、なぜ彼女は僕を助けてくれたのか? よく考えてみると彼女はずっと僕を見守ってくれていたような気がする、思わず僕は龍崎さんを見た。
僕の視線を受けて、彼女ははにかんだような表情を見せて横を向いた。
そのいじらしい表情に思わず引き寄せられていたが、僕はもう一人の人物の事を思い出し、視線を王虎さんに向けた。
「彼女はどうなんですか? 王虎さんは?」
「それは彼女に直接聞いて。私は彼女にも何も頼んでいないから」
先生は王虎さんを見据える……何か含みがありそうな視線。
王虎さんはスカートをじっと握り締めて先生の視線に耐えていたが、いきなり立ち上がり保健室から出て行こうとする。
僕の横をすり抜けていく彼女の横顔は泣き顔に見えた。
しかし、その王虎さんを龍崎さんが制した。片手を横に持ち上げ出口を塞ぐ。王虎さんは気丈にも龍崎さんを睨みつけた。龍崎さんも平然とした様子だが、目に敵意をむき出しにして王虎さんを見つめる。
「龍崎さん」
先生が龍崎さんに呼びかける、『通せ』と言っているようだ。龍崎さんはやれやれといった顔で腕を降ろす。
王虎さんは出ていこうとしたが、突然戸口で立ち止まる。
「…………」
王虎さんがぼそっと呟いた。
「ごめんなさい、大地くん……」
か細い声でつぶやき、
「先生、今日は…許してください……今日起きた事は、誰にも言いません」
そう言って王虎さんは走って行った。
「王虎さん!」
追いかけようとする僕を先生が腕を掴んで引き留めた。
「大地君、いまはあの子を追いかけない方がいいわ」
「彼女も一緒に危険な思いをしたんですよ! もし彼女が今日の事を誰かに話したら……」
「彼女は大丈夫、そのうち解るわ」
先生は優しくそう言って、僕を引き留めた。
「なによ、一人で盛り上がっちゃって」
龍崎さんはさらっと言い放つ。
先生は王虎さんの出て行った姿を見送ったあと、振り返って再び僕をじっと見る。
「大地君、君は今までの私たちの知識では考えられない存在かもしれないの。でも、今はまだ誰もが静観している。何一つ明らかになっていないから。だからもし何か自分でわかる変化があったらすぐ先生に教えて。必ず力になるから」
「…………」
先生の顔は真剣そのものだった。僕はその迫力に先生の顔を見つめることしか出来なかった。
「まあ、今日はもう遅いからこのくらいにしておきましょう。お家まで送って行くわ」
先生は僕の手を離すと、立ちあがっていつもの調子に戻って言った。
「はい、有難うございます」
「明日〈進化の声〉でバイトでしょ?。妹からも話を聞いてちょうだい。妹の方も話があると思うから」
「わかりました」
僕がそう答えると、先生は部屋を出るように促す。僕は龍崎さんの後について保健室を出た。
「はああああああ……」
僕は暗い校舎の廊下でもの凄い長い溜息をつく。
これから僕の学校生活はどうなっちゃうんだろうな、と思った。ホント。
僕は霧咲先生に自宅まで車で送ってもらった。龍崎さんも同じ車に乗っていたが、お互い口を開く事は無かった。
彼女に対する漠然とした疑問が膨らんでくる。しかし今口にするのははばかられた。
龍崎さんはというと、窓の外に流れる夜景をなんとなく眺めている様子が僕の前のガラスに映し出されている。
先生は龍崎さんに何も言っていない。という事は今日僕を助けたのは、龍崎さん自身の意思だということだ。何の目的も無く助けたはずは無い、彼女が僕に求めている事があるはずだ。
僕はそれを彼女に聞きたかったが、今はまず自分の気持ちを整理することが先だった。
「はぁぁぁぁぁ……」
考え出すと思わずまた、ため息が出る。
今年高校に入学して中間試験にも届かないうちにハイエナを纏う上級生、いやもっと衝撃なのは想像もし得ないティラノサウルスを纏う女の子との接近遭遇だ。イギリスやオーストラリア、アフリカやシベリア、果ては北極海までUMAを探しに行ったけれども、結局動く恐竜やモンスターを目の前にした事は無い。そんな僕が一番そんな事と縁のなさそうな日本でティラノサウルスを見てしまったのだ。
思い返せばため息の一つも出る、いや百ぐらいは出てもおかしくないだろう。
龍崎さんの様子を伺いながら、今日起こったことを考えている内に先生の車は僕の家に着いた。
先生は夜遅くまでクラブ活動に引き止めたことを父に詫びた。父は頷きながら何も問わず、龍崎さんの事も聞かずに僕を迎えた。




