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10・“地球の記憶”とパエリア

 川を挟んで対岸に二人の男が立っている。


 一人は地味なスーツに身を包んだ役人風、もう一人はTシャツにジーンズ地の短パンを履いたかなり太った、ぼーっとした男が手に海老煎餅の大袋を持ってバリバリと食っている。


 スーツを着た方の男が懐から名刺を出し、両手で差し出しながら慇懃に頭を垂れる。


「始めまして、我々は厚生労働省直属の外郭団体、《食料の安定供給を考える企業連絡会》の者です」

「し、《食料の安定供給を考える企業連絡会》? だって?」


 思わず絶句した。またなんてダサいネーミングの組織だ。いかにも役人らしい、あっちこっちに配慮したらただ単に行動がそのまま名前になってしまいました、というネーミングだ。


「そう、我々は世界に食料の安定供給を行うために日夜努力をしています。その為に貴重な自然の食物を浪費しないよう保護する為に、日々食品の生産と改良に努力している企業を応援しています」

「僕達に何の用があるんです?」

「用があるのは……大地君、君だけです。君に一緒に来てもらって、ちょっと君の細胞や血を研究させてもらいたいだけですよ」

「生憎ですけど、僕は何も覚醒させてないんです。あなたたちの役には立ちません」

「ああ! それならそれで好都合なのです、それでこそ君に使い道があるというものです」


 ? なんだって? 使い道?


「どんなに食べても覚醒しない遺伝子……それこそがこれ以上自然の食べ物を減らさないようにするための切り札です。これ以上『覚醒者』を増やさないように」

「なんでそんなに『覚醒者』を増やさないようにするんです? 別に誰が何を食べようと、そんな事は政府には関係ないでしょう」

「とんでもない! 政府には直接は関係ありませんが、食べ物を扱う企業にとっては大問題です。我々は政府と企業の間を調整する役割があるのですよ。政府に多額の税金を払い、省庁に便宜を図ってくれる大手の企業が量産した食べ物を、遺伝子操作や薬物で成長を調整したいつでもどこでも手に入るようにした食べ物を多くの国民が食べてくれないと、企業活動に支障をきたしますからね。これ以上自然な食べ物を好んで食べるような『覚醒者』が増えてもらっても困るんですよ」


 なんてことだ、この男、いやこの役所の手先の様な連中ときたら量産された食べ物を流通させる為に僕を利用しようとしているのか? しかも遺伝子操作や薬物投与だって? そんな自然から乖離した食べ物を食べて、本当に人が幸せになれるとでも思っているのか?


 僕は逃げるか、先生を呼ぶかを考えていた。その僕の前に龍崎さんが立つ。


「あたしの目の前で、そんな勝手なことが出来ると思っているの? おっさん」

「お、おっさん?!」


 スーツを着た男は、眉間のしわをピクピクさせる。


「企業の何か知らないけれど、あたしの相手をするのはちょっと無理じゃない?」


 そう言って龍崎さんは自分のエクトプラズムを展開する。それはあっという間に大きくなり、彼女の体は宙に浮いた。


 そのエクトプラズムは彼女を(コア)にして広がり、形を作っていった。


 ティラノサウルス・レックスを。


 間近で見れば誰でも度肝を抜かれることは間違いない、二回目の僕でも驚きは禁じえない。スーツ男も初めて生で見たのか、口をあんぐりと明けて彼女の〝進化の記憶〟が実体化するのを見ていた。


 しかし、すぐさま気を取り直して、


「お嬢ちゃん、君が居ることは前回の件で承知しているんだよ」


 こいつ、例のハイエナたちの仲間か?


「そのために彼が居るんだからな」


 スーツ男はボーっとした男の方を向いた。


「おい、出番だぞ!」


 ボーっとした男は相変わらずエビ煎の特大袋から煎餅を持ち上げてはバリバリと食っている。


「おい、さっさと〝進化の記憶〟を展開しろ!」


 ボーっとした男が煎餅を食う手を止めて言う。


「あの恐竜を止めればいいんだか? でっけぇなぁ」

「馬鹿な事を言ってないで、早くしろ! もう相手が目の前にいるんだぞ! クライアントの言うことを聞け!」


 龍崎さんのティラノサウルスは雄叫びを一声あげて、走り出していた。


「やれやれだぁな」


 そう言って男は自分のエクトプラズムを展開し始めた。


 本人の見た目の印象とは違う早いエクトプラズムの展開、こいつは今まで何度も同じことをやってきたに違いない。男の体が宙に浮き、エクトプラズムが形を作る。


 僕たちと川を挟んで対岸に出現したもの、それもやはり驚きを禁じ得ない生き物が出現した。そこにいたのはティラノサウルスと大きさで劣らない……


 マンモス? 『ケナガマンモス』が川の対岸に現われていた!


 ケナガマンモスは紀元前十三万五千年前くらいから一万年前ぐらいの更新世後期にシベリアで生息していた、頭にこぶがあり毛が長いマンガなどでお馴染みのマンモス。象の直接の祖先ではないが一応ゾウ科の生き物だ。


 《食料の安定供給を考える企業連絡会》はそれなりのコマを出してきたのは間違いない。以前霧咲先生は言っていた、『マンモスの肉を食べてもマンモスを覚醒させられるのはごく僅か』だと。そんな貴重な『覚醒者』をぶつけてくるとは、僕にも龍崎さんにも予想外の事だった。


 ケナガマンモスは一声上げて、川を渡って龍崎さんに向って走り出した。双方6トン前後はあろう巨体が川のど真ん中でぶつかった!


 その時、家政部が鶏を調理している場所にもその声と地響きは伝わったらしい。

一年生の部員が


「先生、あの……あの声は何ですか?」


 と不安そうに尋ねたのに対し、霧咲先生はさらりと答えたそうだ。


「今日ね、採石場の方で火薬を使った作業があるみたい。あの声みたいに聞こえるのは機械の音だって」

「なんだ、そうなんですか。ビックリしちゃいますねぇ」


 と明るく答えてその部員が作業に戻ったのを確認すると、霧咲先生は神味シェフに目配せをして僕たちの様子を見に行くように促し、シェフはあのオリーブドラブのセミハードケースを持って僕たちの後を追った。


 川の真ん中でぶつかった龍崎さんのティラノサウルスと男のケナガマンモスはお互いの力が拮抗し、動けない。お互いギリギリと筋肉が絞られていくような音がする巨体を密着させて、力のバランスが崩れるのを待つ形になった。


 その光景をスーツの男はちらと見た後、僕の方を向く。


「これで君を守る者はいない。おとなしく私と一緒に来てほしいんですが」


 そう言ってスーツの男も自分の〝進化の記憶〟を展開した、男をエクトプラズムが包むと、そこにライオンの姿が現れた。


 ライオンは川を渡ってゆっくりと僕の方に近付いてくる。僕は身構えて言った。


「いったい僕をどうするんですか?」

「さあてねぇ、結果が分かるまで死なない程度に血を抽出し続けられるか、バラバラにされて細部まで調査されるかどちらかでしょうねぇ」


 じりっとライオンが間を詰める。


「霧咲先生は、『覚醒者』は食の自由によって自分のルーツを見つける事の出来た幸運な人達だと言っていました。『覚醒者』が、なぜ同じ『覚醒者』を減らすようなマネをするんです?」

「同じではないんですよ、大地君」


 男はチラと龍崎さんたちを見て、


「彼らのように滅多に覚醒する事のない種を覚醒させられる人がいる限り、一対一では敵わない、ならば自分たちより強い者がこれ以上出てこないようにするのは自分の利益を維持する為には当たり前のことです」

「それはただの嫉妬じゃないですか! 自分より強いものを妬ましく思って、それに対抗するために強いものにすり寄っているだけでしょう!」


 ライオンは突然僕に飛び掛かってきた。僕は勢いに押されて地面に倒れ、ライオンの右前足が僕の体を押さえ込んだ。


「まったく小賢しい事を言うガキですね。この場で食い殺してやりたいですが、そういう訳にもいきません。おとなしくついて来るのが身の為ですよ」

「私利私欲に使うコトしか考えていない奴に、ついてなんか行くものか!」

「これも世の中の食を安定させるためです。世の中の為になるなら、君の犠牲も有益だとは思いませんか?」

「なぜそこまでして、政府や企業にとって都合のいい〝食材の安定供給〟を守ろうとするんだ!」

「世の中には、『食の自由』なんていうものが広まっては困る人がたくさんいるという事ですよ。現在の食習慣が続いてくれる方が、利益を得られる会社や人にとって、『食の自由』なんて言うのは危険思想なのです」

「何が危険思想だ、そんなのあんたが金を貰っている企業の為にしかならないじゃないか」


 その時、ライオンは真剣な表情になった。それは僕に何かの覚悟をさせる様な顔だった。


「食糧の需給はコントロールされなければならない。君は今のままの食糧の供給状態で、増え続ける人類をいつまでも支える事が出来ると思っているんですか? 只でさえまともに食事が出来ない国もあるというのに、〝自由な食の選択による『覚醒』〟なんてものが広まったら、世界はどうなると思います? 石油や水だけでなく天然食材までもが紛争の種になる。そんな世の中が来てもいいんですか?」


 この言葉には即答できなかった。確かに日本には食べ物が余っていても、アフリカや中央アジアには何日も食事にありつけない世界が存在する。世界を旅してきた僕には痛いほどわかる……思わず僕は言葉に詰まってしまった。


 ライオンは思いつめたように空を見上げ、言葉を続ける。


「もはや増え続ける人類はこの地球だけでは生活出来ない、人類は救いを求めて宇宙に出て行かざるを得ません。宇宙に行ったら〝食の自由〟どころか、空気すら自分の好きな様に吸う事も出来ません。そんな世界でも君は人々に〝自由な食の選択による『覚醒』〟なんて事を伝えようと思いますか?」


 不思議な決意に支えられた言葉に僕は呑まれていた、この男は、いやこの組織の行動原理は経済行為だけに支えられている様には感じられない。


 遠くからヘリコプターが近づく音がする。僕を連れていく為だろうか?


「迎えが来たようですね」


 ライオンがにやりと笑った。


 空を見るとヒューイタイプのヘリコプターが低空で近付いてきている。ボディーは全てオリーブドラブに塗られて所属や素性が一切わからないようになっている。


 しかし連中は僕を連れていく時に、龍崎さんをどうするんだろうか?

マンモスが居なくなったら、龍崎さんを止める者がいなくなる。いったい他のどんな方法で龍崎さんを止めようというのだろう。


 色々な事を考えながら、なんとか隙を突いて逃げ出そうと思ってはいるものの、さすがにライオンに抑えられてはぴくりとも動きが取れない。ああ、とうとう僕が食われる番なのか。


「嘘をついたな」


 突然つぶやくような声がした……王虎さんだ。王虎さんはややうつむき加減で少し離れたところに立っていた。


「大地君の力を研究すれば、あたしみたいに望まなくって覚醒する人を減らせるって言った。あれは嘘だったんだ」


 ライオンが僕を抑えたまま、王虎さんの方を向いた。


「申し訳ありませんね、あなたの様に覚醒していながらそれを拒む人間にはそう言った方が説得力がありますのでね。もちろん全部が嘘ではないですよ。これ以上我々より力のある生物を覚醒させられそうな人たちは、覚醒してもらわない方がいいんですよ」


 王虎さんの口の中で歯がギリッとなった。身を震わせて、怒りがこみ上げている。しかし、〝進化の記憶〟は現れない。


 ライオンが悲しげな顔を向ける。


「無駄ですよ、あなたのように覚醒者である事を拒否している人には〝進化の記憶〟を呼び出すことは出来ません」


 王虎さんは必死に自分の〝進化の記憶〟に語りかけているが、彼女の周りにエクトプラズムは展開しない。ワナワナと悔しそうに震えながら、自分の力を解放しようとしているのはあのいじらしい王虎さんだ。彼女の懸命な姿に僕は自分の身の危険も忘れて、彼女の名を叫ぼうとした。


 しかし僕以上に王虎さんに感情移入していたのは、マンモスと力比べをしている――

龍崎さんだった。


「いい加減にしなさいよ!」


 ティラノサウルスの中で浮いている龍崎さんが叫んだ。


「あなた、どこまでフリを続けるの? 普通の人のフリ、大地君に気があるフリ、かわいいフリ、全部あなたの本当の姿じゃ無いじゃない!」


 王虎さんはまたうるうるした顔を龍崎さんに向けた、そうじゃないと言わんばかりに。


「あたしだって、覚醒して初めは驚いたし悲しみもした。でも〝進化の記憶〟だってあたしのルーツ! あたしを形作るのに必要なモノ! それは拒否したって消えるわけじゃない、ならそれを受け入れていくしかないじゃない!」


 彼女の慟哭を聞いて、僕はぱっと視界が開けたような感覚で思考が展開された。


 龍崎さんが僕に解かって欲しかったこと……それは彼女の孤独だった。


 貴重なティラノサウルスの覚醒者、それは多分今の段階では彼女ぐらいなのだろう。そんな彼女に他の覚醒者はだれも近付かなかったに違いない。あまりにも力の差がありすぎるからだ。他の動物の覚醒者が嫉妬するほどの力の顕現者である彼女は自分と対等に、いや気兼ねなく話しかけてくれる相手をけなげに探し続けていた。


 そうして辿り着いたのが僕だった。ティラノサウルスの爪をいい匂いと感じた僕なら、もしかしたら自分の孤独を解ってくれる唯一の仲間かもしれないと考えたのだ。


「いい加減に目をさましなさいよ! 今、大地君を助けられるのはあなたしかいないのよ! 本当に大地君のことが気になっているなら、本気出しなさいよ! フリなんかじゃなくて!」


 ダイレクトに王虎さんに届くような言葉が、おでん鍋をひっくり返したような勢いでドカドカと出てくる。龍崎さんも同じような感情を我慢していたのだろう、それがスズメちゃんの言う『もの凄い熱意を抑えた』という事だったのかもしれない。


「でもね、大地君がハッキリするまであたしは渡さないからね! あなたがどんなに傍に居たってあたしは諦めないから!」


 彼女の啖呵は気持ちよかった、思わず力が出てくるくらい。僕は駄目もとでライオンの右足を掴み、力を込めて押し返そうとする。


 ライオンの足が……浮いた。


「! このガキ! なんて力を!」


 ライオンはまた力を込めて僕を押し返した。


 僕はまた地面に押し付けられる。苦痛に呻きながらも押し返そうと、体を起こそうとした僕の目にライオンの後ろに立つ別なモノの姿が目に入った。

 

 別なライオン…いや違う、もう一回り大きい……犬歯が異様に長い、まるで刀の様だ……サーベルタイガー……?


 いやあれはもっとも初期のサーベルタイガー、マカイロドゥス?!


 紀元前一五〇〇万年前から二〇〇万年前ぐらいまでにもっとも繁栄したサーベルタイガーだ! そ、そんなとんでもない、いや貴重な覚醒者だったのか? 王虎さんは!


 聞いたことのない咆哮が上がる。


 ライオンもそのとんでもない咆哮を聞いて思わず後ろを振り返り、唖然とした。ライオンが唖然とするなんて光景は今まで見たことがない、父だって見たことがないはずだ。


 重量級の地響きを響かせてマカイロドゥスはライオンに飛び掛かった。


 ライオンはマカイロドゥスの姿を見た瞬間にすでに戦意が失せていた。怯えきった状態のライオンに有効な手立てがあるはずも無く、くるっと向きを変えて逃走を図る。


 しかし王虎さんのマカイロドゥスは楽々とライオンの尾部を捉え、長い犬歯をライオンの腰に突き立てた。


「ぎゃあああああ!」


 絶叫が上がる。逃げようとしたって尾部に喰い込んだ長い牙は抜けない。


 必死であがくライオンは突然『顕現』を解いた。人間の姿に戻ったスーツの男は覚醒時の姿の時に噛まれた辺り、腰を押さえながら必死に走って逃げる。


 なるほど、覚醒時のダメージは人間の姿に戻った時も残るらしい。


 スーツの男が逃げだすのを見て、近付いてきたヘリも機首を来た方向に戻し、速度を上げて逃げていく。マンモスの男は置き去りにされたのか?


 白人の男が逃げた後、王虎さんのマカイロドゥスはターゲットをマンモスに移した。


 マンモスもさっきの咆哮を聞いては気にしない訳にはいかないだろう。何といってもマンモスが生息していた当時、マンモスの大敵は人間とサーベルタイガーだったのだから。


 しかし今は力を抜く事は出来ない、力を抜いたら龍崎さんのティラノサウルスに押し切られて押さえ込まれ、あっという間に食いちぎられてしまう。


 躊躇したマンモスの動揺は、龍崎さんにも伝わった。龍崎さんが押しを強める。

後ろからは王虎さんのマカイロドゥスが近づいてくる。前門のティラノサウルス、後門のマカイロドゥスだ。


 マンモスの焦燥がピークに達しようとした時、突然まるで鉄のロープがしなるような音がした。

「ビシュゥービューン」

 こんな音だ。


 龍崎さんのティラノサウルスの肩口に穴が開いた。


「ああーっ!」


 龍崎さんの悲鳴が聞こえた、誰かが龍崎さんを銃撃している!。


 これか! 《食料の安定供給を考える企業連絡会》の連中は龍崎さんを殺すための狙撃者を配置していたのだ。


 体勢を崩した龍崎さんをマンモスが押すが、龍崎さんのティラノサウルスが必死に押し戻す。再び龍崎さんのティラノサウルスとマンモスは膠着状態に陥った。


 一拍間をおいて第二撃が響く。


 今度の銃撃は王虎さんを狙ったものだ。しかし一撃目を受けて王虎さんのマカイロドゥスは河原の岩の蔭に伏せていた。着弾した岩が結構大きくダメージを受ける。


 30‐06や.308といったスタンダードな弾丸じゃこの威力は出ない、これはマグナムクラスのライフルだ!


 連射してこないという事は、自動的に装填排莢を繰り返すオートマチックライフルじゃない。ボルトアクション、手動で弾薬の装填・薬きょうの排出を行うライフルだ。


 今は猟期じゃないので、この銃撃を行っている人物は真っ当なハンターでは無い。ましてライフル特有の銃声がしないという事はサプレッサー=減音器が付いている。


 よく映画の中で消音器と言っているが、音は消すことが出来ない。特にライフルは弾そのものが音速を超えてしまい、音を出してしまうので完全に音を消すことが出来ない。しかし距離が開いているとどこから撃っているか判らなくなるメリットがある。


 そんな銃を使うこいつは殺し屋だ、しかも覚醒者を狩る専門の殺し屋だ。


 第三撃が来た。マンモスに体を押し付けた龍崎さんのティラノサウルスの頭のそばを、鞭がしなる様な音が通って行く。


「あっ!」


 龍崎さんの頭が揺れる。


 マンモスがプレッシャーをかけるが、龍崎さんのティラノサウルスが必死に押さえつける。


 狙撃者がマンモスの後ろ側に位置しているからまだ救いがある。マンモスと密着している龍崎さんのティラノサウルスは、マンモスの蔭になって全身を曝してはいない。もし龍崎さんの背後に位置していたら、今頃龍崎さんは撃たれ放題、ハチの巣だ。


 しかしこのままではいつスキをついて撃たれるか判らない。現にマンモスは龍崎さんの姿がライフルの射線にさらされるように体を揺さぶっている。


 龍崎さんは必死にその揺さぶりを受け止めてこらえている。

「大地君!」


 鋭い声に振り返ると。河原に出る手前の木陰の中に神味シェフの姿が微かに見える。


「シェフ! 出て来ないで下さい!狙撃者がいます!」

「そんな事だろうと思っていたのよ」


 神味シェフは姿を見せずに、対抗措置をとる準備を始めた。


 セミハードケースを開き、一丁のライフルを取り出す。銃床(ストック)は折り畳み式だが、折りたたんだ状態でもかなり長い。……これ日本で許可になるのか?


 その特徴ある姿はイギリスのアキュラシー・インターナショナル社のライフルだ。折畳み式の銃床は暗いグリーンのプラスティック製で機関部が長い、射程の長いマグナム弾を使う。


 シェフは銃床を伸ばし減音器(サプレッサー)を取りだす。銃口は一段細くなっていて、銃口制退器(マズルブレーキ)が付いている。シェフはその銃口の先端に減音器を差し込んで固定し、銃床先端についている保持器(バイポッド)を立て、伏せ撃ちの態勢に入った。ボルトを操作し、初弾を薬室(チャンバー)に送り込む。


 よく見るとシェフの腕に腕章が巻いてある。『有害鳥獣駆除/限定解除』……限定解除って何ですか?


「大地君、狙撃者はどこ?」

「わかりません! 結構距離があって見えません!」


 くそ、狙撃者とマンモス、どちらかでも先に何とかしなくちゃ。


 僕は考えた。奴らが僕を連れていきたいほど貴重だというなら、僕が龍崎さんの為に出来そうな事は一つだけだ。僕は立ち上がり、龍崎さんのティラノサウルスに向かって走り出した。


 マンモスとの押し合いで動きの取れないティラノサウルスの足に取り付き、登り始める。


「何やってるの? 大地君!」


 僕は龍崎さんのティラノサウルスの左の肩口辺りまで必死に登り、首にしがみつく。


「奴らは僕が大事なんだ、僕が君のそばにいれば少なくとも撃たれることはない!」

「なんてバカなこと考えるの? もし撃ってきたらどうするの?」

「その時はその時だ!」

「大地……総司君……」

「よけるだけだよ」


 僕が彼女に笑いかけると、龍崎さんはぽかんとした顔をしてそのあと微笑んだ。美人の笑顔ほど力になるものはない。


「龍崎……由樹!」

「?」

「僕がティラノサウルスじゃなくてもがっかりするなよ」

「するわよ」

「おでを無視するなぁ!」


 マンモスが吠える。


 彼女は微笑んだまま再びマンモスの方を向き、力を込めた。マンモスも押し返す。


 僕はティラノサウルスにしがみつきながら、自分も必死になってこらえる。


 少しでも彼女の力になれないのか? 僕も力を出せたら!


 思いが体を駆け巡る……体の内部(なか)で何かが叫ぶ。うるさいなぁ、解ってるよ。


 僕は由樹を助けたいんだ。ごちゃごちゃ言っているくらいなら出て来て力を貸してくれ、自分達の為だけに食物を利用するとんでもない連中に一泡吹かせるために。


 すると、僕の体が光り始めた。ああ、とうとう僕も覚醒者の仲間入りか……。


 しかし僕の体から出た光は形を作らず、まるで由樹のティラノサウルスに力を貸すかのように由樹のエクトプラズムと同化し始めた。


 由樹のティラノサウルスは徐々に輝きを増し、やがて全身が金色に輝き始めて更に撃たれた所までもが修復していく。由樹もその状況に驚いている。


「力が……力が来る!」


 しがみついている僕にもはっきり解る、彼女の力が増している。マンモスははっきり押し切られ始めた。


「だああああああ!」


 マンモスは必死に抵抗するが前半身が浮き上がり始め、前足が宙に浮く。由樹のティラノサウルスはその隙を突いて、マンモスの首筋に噛付いた。


 がぶ。


「ぎゃああああああ!」


 マンモスがじたばたと暴れる。しかしこの体勢になってしまったらマンモスは前足が浮いてしまっているので、踏んばることが出来ない。


「そおおおれ!」


 由樹はそのまま首をひねるようにして、マンモスを滝に向かって軽々と押し始めた。


 ◇


 そのころ、家政部の皆はダッチオーブンで鳥を蒸し焼きにしているところだったそうだ。


 静かになった広場に、由樹のティラノサウルスの声はかなり響いたらしい。一年生の別の部員が霧咲先生に不安そうに尋ねる。


「先生、あの……また聞こえたんですが、あの声は……?」


 先生はさらりと答えた。


「ああ、さっきも言ったんだけどね、今日ね採石場の方で火薬を使った作業があるみたい。あの声みたいに聞こえるのは機械の音だって」

「なんだ、そうなんですかぁ。でもなんか怪獣の声にも聞こえますねぇ」


 アハハハハハと先生とその生徒も、聞いていた他の生徒も声を揃えて笑った。


「でも総くんたち遅いのだ。料理がなくなっちゃうのだ」


 スズメちゃんが心配そうに言う。


「大丈夫よ」


 由比副部長が言う。


「シェフも探しに行ったし、そのうち戻って来るわ。でも……」

「?」

「罰は必要ね」


 スズメちゃんと亀沢さん、他数名がウンウンと頷いていたそうだ。


 ◇


「ああああああ」


 マンモスが慌てた声を上げる。


 ビシュゥービューンと再び銃声が響く。


 由樹のティラノサウルスに銃弾が飛んでくるが、どうしたことか金色の光に当たった瞬間、物凄い衝撃波と共にメンコの様につぶれて勢いを無くし、地面にポロっと落ちる。そこに固い壁があるかのようだ。この現象はすでに物理法則を曲げている。


「シェフ! あそこの少し色の変わった杉の木の根元に人間の存在を感じます!」


 王虎さんが伏せながらシェフに叫ぶ。


 動物は温度の異常に敏感だ、ましてマカイロドゥスのセンサーはどの程度の範囲まで感じられるのだろう。狙撃者まで約1,000ヤードはあるぞ。


 しかし狙撃者もたいしたものだ、1,000ヤードの距離をいくら的がでかいとはいえ命中弾を放つとは。


 ビシュゥービューン。


「ギャン!」


 変な声がした。王虎さんのマカイロドゥスが、いや王虎さん自身が撃たれた! しかも急所に近い!

胸の辺りから血が流れている!


 さっきの賛辞は撤回だ! よりにもよって女の子を撃つなんて!


 しかし狙撃者も慌てたようだ、木々の根元に乱れが生じたのが見える。


「シェフ!」

「まかせて!」


 シェフは1,000ヤードの距離の射撃の為に神経を集中している。


 この距離では筋肉のほんの少しのこわばりも着弾に影響がある。体はリラックスしつつも神経は集中するというとんでもない作業をしなくてはいけない。


 シェフが撃った。


 ビシュゥービューン。


 2秒ほどの間があって、その後彼方からバシン!と着弾の衝撃波があった。


 1,000ヤード先の山の中腹、杉の木の根元に着弾の土煙が上がり、そのあとに狙撃者が銃を暴発させた。狙撃者の弾は僕らの近くには来ることも無く、空に消えていく。


 狙撃は潜んでいるからこそ成果が上がる。位置を見つけられた狙撃者はすぐに対抗措置を取られてしまう。


「シェフ!」

「大丈夫、逃げていったわ!」


 僕を乗せた由樹のティラノサウルスはマンモスを滝から落とそうとしていた。ギリギリとマンモスが滝の淵まで来る。


「や、やめてくれ! 頼む! おでは泳げないんだ!」

「お約束のセリフね、じゃあ地面に叩きつけられる方がいい?」

「そ、そでもいやだ!」

「じゃあ、やっぱり……」


 由樹はマンモスを咥えたまま持ち上げる、物凄いパワーだ。


「頭冷やしてきなさい!」


 ぶん、と滝つぼにマンモスを放り込む。


「だああああああああ!」 


 絶叫が滝つぼに落ちて行き、最後にドボーンという音がしてマンモスは水中に消えていった。


「大地君!」


 シェフの鋭い声に振り返ると、王虎さんが荒い息をついている。まずい、マカイロドゥスが分離しかかっている! シェフは必死に王虎さんの傷口を押さえている。


 由樹がティラノサウルスをしゃがませ、僕は地面に飛び降りた。王虎さんに駆け寄る。由樹もティラノサウルスを収納して駆け寄る。


「王虎さん! 王虎さん!」


 僕は呼びかけ続ける。


「大地……総司くん」

「王虎さん!」

「ごめん……ね。隠していて……」


 王虎さんの目から涙がこぼれる。


「でも……総司くんだけには……解って欲しかったのかも……」

「王虎さん!」


 僕はシェフを押しのけて、王虎さんの上に乗って傷口を押さえる。


「龍崎……由樹さん……ありがとう……総司くん……あたし……」


 言われている由樹もさすがに動揺している。


 みるみる王虎さんの顔が白くなっていく。くそ、僕の力はこんなものなのか! さっきの力は何だったんだ?!


 また体の中から声がする。わかったよ、わかった! 覚醒するっていうなら、それでもいい! 王虎さんを助けられる力が欲しい。覚醒なんていったってそんなことも出来ないのか?


 僕の目に涙が溢れてきた、くそ、彼女を救える力は僕には無いのか!


 その時突然、またあの金色の光が滲みだしてきた。しかし今度は吹き出す量が違った。まるで僕の体が金色の炎に包まれたようだ。


 僕の脳裏に色々な食の光景が現れる。


 シベリアのカモ……インドネシアのシーラカンス……アマゾンのワニ……オーストラリアの芋虫。今まで食べてきた動植物の姿がまざまざと浮かぶ。こんなにいろいろな生き物を食べて来て、僕は生かされている。


 最後に映ったのはアンテロープ……僕が撃ち損なって苦しめてしまったあのアンテロープだ。そして謝りながら食べる僕の姿が映る。


 これは……僕の記憶じゃない。食べられた動植物の記憶だ。僕の体の中にある僕が食べた全ての動植物の記憶がほとばしっている。


 ありがとう、僕をここまで生かしてくれて。だから頼む、寿命が縮んだっていい、僕の命を王虎さんに、彼女に分けてやってくれ!


 泣きながら叫んでいた僕には、自分が金色の炎に包まれているという意識はなかった。


 あとで聞いたのだが、由樹とシェフには別のものが見えていたそうだ。僕の体から溢れた金色のエクトプラズムは噴き出した四本の光の柱に支えられていた。


 物凄く高いエネルギーを内包した四本の光の柱、赤・青・黒・白の各色に彩られた光の柱が僕の周りから吹き出し、力場を作っていた。


 その四本の柱の頂点にある物は…青く美しい球体。そしてそれに重なる美しい人のシルエット。


 人間ではない、しかし世に出ている文献の中でなら見たことのあるはずのその姿はあふれ出る生命にみなぎっていたそうだ。


「ま、まさか……大地……くん……」

「あれ……何?」


 驚愕のあまり言葉を失う由樹とシェフ。


 同じころ少し離れた霧咲先生と生徒たちもその光る柱を目撃していた。

 巨大な光る柱と青い球体、そしてそれを抱いた人物像……。その荘厳な美しさと迫力に、皆はあっけにとられていた。


「大地君……あなた……」


 先生は驚愕の面持ちでつぶやく。


 僕と王虎さんのマカイロドゥスを結ぶ、金色のエクトプラズムが太くなっていく。金色の光がマカイロドゥスに同化していき、傷が修復されていく。


 マカイロドゥスが目をパチッと開き、一声咆哮を挙げる。そして僕のエクトプラズムに敬意を表するようにこうべを垂れて、何事もなかったように王虎さんの中に消えていった。


 王虎さんが苦しむように腕を僕に回す。その力がだんだん強くなってきて、とうとう僕は王虎さんの胸に顔を埋めていた。そんなに王虎さんは苦しいのか?


 僕は何か間違ったことをしているのか? どちらかというと王虎さんの柔らかい胸に顔を押し付けられて、僕の方が苦しいくらいだ。


「総司……くん」


 王虎さんが呻く、まだ痛いのか? その時、ものすごい力で僕が王虎さんからはがされる。


「いいかげんにしてよ、このバカ」


 由樹が僕を片手で王虎さんから引きはがしたのだ。思わず由樹の顔を見て、王虎さんの顔を見る。


 王虎さんは上半身を起こしていた。顔には生気も戻っていて、いつも通りの様子だ。


「王虎さん!」


 僕は駆け寄った。


「よかった、治ったんだね!」

「有難う、総司君。総司君のおかげで……今の私のままで居る事が出来た……」


 また、ぎゅっと抱きしめられる。


「本当にありがとう、総司君!」


 く、苦しい。鶏の首を引きちぎる力で抱きしめられているんだと思うと余計だ。


 それ以上の力でまたぼくは王虎さんから引きはがされた、由樹だ。


「何度もさせるな、このバカ!」

「なんで邪魔するんですか~せっかく感動のシーンなのに~」

「あたしが居る限り、あなただけにいい思いはさせないわよ!」


 二人ともよしてくれよ、せっかくあれだけの思いをしてやっと落ち着いたのに喧嘩なんて。僕は呆れながらもなぜかホッとした気分で見ていた、孤独だった二人が、これだけの気持ちをぶつけあえる仲になったことがうれしかった。中間試験前の二人の印象とはえらい違いだ。


 二人が派手に言い合っている間に、僕は神味シェフに話しかけていた。


「……シェフは、食べる為なら何でもするような人じゃなかったんですね」

「あれ?そんな風に思った?」

「王虎さんが撃たれた時の表情に、嘘はなかったですから」

「ふふ、女の子限定かもよ。君は別腹」

「……ところでシェフ、もちろんそのライフルは日本で合法的に持っているんでしょうね?」

「当然でしょ?」

「その限定解除ってなんですか?」

「大地君、『007』の映画ってみたこと無いの?」


 空からまたヘリの音が近付いてくる。くそ、新手か?


 しかし、着陸態勢に入ったヘリのサイドドアから出てきたのは竹内さんだ。その後ろから出てきたのは、どう見ても自衛隊の人たち。


「大地君、まったく君はシェフの店を一件潰すつもりかい?」


 竹内さんは笑いながらそう言って、自衛隊の人たちに指示を出し由樹がマンモスと戦った痕跡を消しにかかった。あまりに規模の大きさに唖然としている由樹と王虎さんに、シェフは微笑みながら言った。


「さあもういいでしょう、長居は無用。みんなが待っているわ、早く行かないとローストチキンが無くなるわよ」

「あっ! そういえば!」


 こんな突拍子もない出来事が起きていたら、他のことなんて忘れてしまうよ、ホント。


 由樹と王虎さんも何をしにここまで来たのか忘れていたようで、大慌てで身づくろいをして走り出した。


 僕とシェフも二人を追って走り出した。ふと振り返ると、竹内さんが笑って手を振っている。


 山の斜面を走って登りながら考える。


 自分ではわからない何かを、僕は自然の中で生きていた色々な生き物を『食べる』事で『育んでいた』ようで、とうとうそれは『覚醒』してしまった。でもそれは由樹のティラノサウルスや王虎さんのマカイロドゥスの様な剣呑な代物では無いようだ。僕がそれをはっきり自覚出来ない処が問題だが、なんとか折り合いをつけていかなければならない。なんと言ってもそれは今の僕を存在させる元になっているのだから。


 今はそんな事よりも自分たちのローストチキンが大事で、由樹と王虎さんは僕の三倍くらいのスピードで走っている、こんなところで競わなくっていいのに。


 シェフは呆れかえってライフルケースを担いだまま僕たちより少し遅れて走っている。


「もうちょっとゆっくり走ってよ!」


 思わず弱音を吐いた。


 二人が立ち止まり、手を差し出す。追いつきつつ、僕はどっちの手を取るか悩んでいたところ、後ろからトンと背中を押された。思わずつんのめって倒れそうになる。


 倒れそうになって前に伸ばした両手を二人が掴むと、また走り出した。


 あまりの勢いに転びそうなぐらいだが、僕は思わず笑い出した。前を走る二人もつられて笑いだし、山の中に僕ら三人の笑い声が響き渡った。


 ◇


 人生の中で怒ったお地蔵さんを見たのは初めてだ。いや、正確にはいつもはお地蔵さんのようにほのぼのとしかしていないはずの部長が珍しく、あの表情のまま真剣に怒っているのだ。まったく表情が変わっていないので傍目には判らないが、人の肌を見る事の出来る顕微鏡でもあれば多分おでこの隅の方に血管が浮き上がっているのが判るかもしれない。


 部長は一言も発さず、山荘の食堂でかれこれもう一時間も王虎さんの前で腕組みをしたまま座っている。その横には由比副部長とカネカネ会計が立っている。


 僕と由樹とシェフは部屋に入ることなく、窓の外からその様子を覗き見ている。反対の廊下側の窓からはスズメちゃんや亀沢さんたち他の部員たちがやはり覗いている。


 ゆっくりと部長が副部長の方を向き、副部長が頷く。


「えー、部長が『説教はこのぐらいにしておく』とおっしゃっています」


 覗いていた全員がずっこけた。ええ? 今までのが説教だったのか?それでも王虎さんには精神的ダメージが見受けられる。恐るべし、部長の無言の精神攻撃。


「王虎さん、あなたはこの部の団体活動を理由は何であれ乱しました。その罰として奉仕活動を命じます」

「はい」


 王虎さんがシュンとしたまま頷く。


「今日のお昼に使用した食器が、そこの流しにあります。それを全部洗って拭き上げなさい。まな板は洗った後、漂白剤を染み込ませた布をかけて消毒すること。夕食までに終わらせないと、夕食は抜きです」


 結構な仕事量だ。とても夕飯までには終わりそうにない。


「罰金百万円でもいいわよ……ぐはっ!」


 カネカネ会計が言うが、すぐに部長の突きに口を閉じさせられる。


「す、すいません……部長……」

「先輩」


 突然由樹が手を挙げ、部長と副部長が由樹の方を向く。由樹は身軽に窓を飛び越え、食堂に入った。


「王虎さんは私とケンカしていた為に戻るのが遅れました。私にも責任がありますから、私も罰を受けます」


 そう言って由樹は王虎さんと並んだ。王虎さんは驚いた顔で由樹を見ている。


 部長はゆっくりとした動作で副部長の方を向いた。変化のない表情だが、さっきよりは柔和なお地蔵さんの顔だ。再び部長が由樹の方を向いたとき、副部長が言った。


「わかりました、あなたにも同じ罰を命じます」

「部長、僕もお願いします」


 僕も同じように食堂に飛び込んでいた。


 部長がさらににこやかな顔になったように見えた。副部長は表情を変えずに言う。


「はいはい、分かったわよ。君はダッチオーブンの手入れをお願いするわ。手入れの方法は、ちゃんと知っているだろうから」

「はい」


 部長が一声も発さずに立ち上がった。


「これにて一件落着。三人は食器の後片付けとダッチオーブンの手入れをする事、以上」


 副部長がそう締めくくると、部長と副部長・会計が食堂から出ていく。廊下にたむろしていた部員たちは蜘蛛の子を散らすように部屋に駆け戻っていく。


「さて、片付けようか」


 僕はそう言って、焼け焦げの付いたダッチオーブンをガス台の方へ持っていった。

ダッチオーブンは洗剤などで洗う事は出来ない、せっかく染み込ませていった油を取り除くことになってしまうからだ。焼け焦げた部分にお湯をかけてふやかして、竹のへらのようなものでこそぎ落としていくしかない。


 僕はお湯を沸かし始めた。ちらと流しに立つ二人の姿を見る。


 由樹と王虎さんの二人が並んで立っている。お互い色々と思う事もあるだろうが、今は協力している。お互い孤独だった二人が違いを超えて理解していくのはいい傾向だろう。


 美人が二人並んで家事をしているなんて言うのは滅多に見られるもんじゃない。しかしよく見ると由樹の手が動いていない。スポンジを握ったまま、目の前に並んでいる洗剤などとにらめっこをしている。


 王虎さんも気がついた様で、由樹の方を見ている。由樹がやっと手に取ったのが漂白剤なのに気付いて、王虎さんが止める。


「由樹さん、それは漂白剤ですぅ。それじゃ洗えないですぅ」

「えっ? そ、そうなの?」

「洗剤はそっちのカラフルなボトルの方ですぅ」


 慌ててカラフルなボトルから液をスポンジに付けるが、鍋を洗う方につけている。王虎さんが慌ててまた止める。


「由樹さん、それはお鍋とか洗う方ですよ! お皿をそれで洗ったら傷だらけになってしまうですぅ」

「あっ、ごめんなさい」


 今度は洗剤をスポンジにだらーっとかけている。


「由樹さん、そんなにつけたら泡切れが悪いですぅ。早く洗えませんよぅ」

「ご、ごめん」


 僕は初めて由樹と歩いた時の事を思い出した。


 あの時僕は『龍崎さんも家政部に入ったら? 一緒に料理を作ろうよ、そうすれば一緒に作ったものを食べられるし』と誘ってみた。


 それに対する由樹の返事は、『いっ! ……うん……』という快諾にはほど遠い答えだった。いつもと違うその姿はいじらしく愛らしい雰囲気を漂わせていたのだが……。


 あああああ? 僕は思わず由樹のところに行った。


「もしかして由樹、家事をしたこと無いの?」

「……うん」

「料理も、後片付けも?」

「……うん」


 少し申し訳なさそうに頷く彼女がいじらしい。


「しょうがないなぁ、僕が……」


 と言いかけたのを、王虎さんが止めた。


「駄目ですぅ、それじゃあ遅くなってしまいますぅ。私が洗いますから由樹さんは濯いでくださぁい」


 そう言って王虎さんは濯いだ後の出来栄えを由樹に教える。確かにそれなら流れ作業でスピードは速くなる。


 二人はせっせせっせと洗っては濯いで、水切りかごに食器を指していく。

 僕は二人のチームワークを横目で眺めながらダッチオーブンの手入れにかかる。焼け焦げを剥がして、その後サラダ油をオーブンの表面と内部に丁寧に塗っていく。塗った後にまた火にかけて染み込ませ、また塗っていく。


 父の物のように長く使ったものは油を塗る量が少なくてもよいが、僕の物のように使用頻度が少ない物はよく丹念に丁寧に塗り込んでいかなければならない。


 さて、先生とシェフの分の手入れを……うん? 先生とシェフのダッチオーブンが無い? 持って帰ったのか?


 顔をあげると、二人がせっせせっせと洗い続けている。何かいろいろと話しているようだ。


「由樹さんはウチでは料理しないんですかぁ」

「お手伝いさんがやってくれちゃうから……あたしも料理と後片付けぐらい出来なきゃダメね」

「お母さんは忙しいんですかぁ」

「……母親がいないからね」

「…………」

「…………」

「……亡くなったですか?」

「わからないの。父が教えてくれないからね」


 盗み聞きはよくないが、由樹の孤独の理由がまた判った。いつからか判らないが、お母さんがいない環境で暮らしていたのか……告白した由樹の横顔はかなりの陰りを帯びていた。


「……ごめんなさいですぅ。あたし、知らなかったから……」

「いいわよ、いつかはわかっちゃう事だしね。それよりも御免ね、偉そうなこと言った割にはあまり役に立ってなくて」

「一人でやるよりはいいですぅ。こうやって話していた方がはかどりますぅ」

「いろいろ教えてくれる……?」

「ハイですぅ。なんでも『私に』聞いてください!」


 ? なにか『私に』という所が強調されていたが?


 由樹も気がついた様だ。


「あっ! そうやってあなたに聞くと、総司君と近づく機会が減っちゃうじゃない!」

「……気がついたですか……」

「あなた、なかなかやるじゃない?」

「総司君はあなただけのものじゃないですぅ。独り占めはさせないですぅ」


 あっ、由樹の体が少し光り始めた……王虎さんの体まで光り始めている! おいおい二人とも!


「二人とも、こんなところで!」

「なにやってんの?」


 ? 別の声? ふと見ると、副部長が調理室の入口に立っている。


「少しははかどっているみたいかと思って来てみたら、手が止まっているわねぇ。ハバネロの粉末でも吸ってから洗う?」


 二人の顔が異常に歪んだ。慌てて流し場に向かい、ものすごい勢いで洗い始める。僕はほっと胸をなでおろした。こんな静かな山荘を破壊してティラノサウルスとサーベルタイガーが格闘するなんて光景、今日はもうおなかいっぱいです。


 副部長をふと見ると、副部長も訳知り顔でニヤニヤしながらウィンクをしている。


「あーっ、副部長が抜け駆けですかぁ!」


 通りがかったスズメちゃんがまた声を掛ける。


「何言ってんの。監視よ、監視。悔しかったらあなたも手を挙げるぐらいしなさい」

「だって、あたしたちは……」


 そこで彼女ははっと口を抑えると、僕たちの方を見てにへら~と満面の笑みを作って去っていった。


 副部長がにやっと笑っている。なんだ? 彼女たちには何か他の作業があるのか?


 再び副部長を見ると何やら含みがあるよう様子だが、今はそれを言うべきでないという顔で背中を向けて出ていった。


 ◇


 僕らが全ての食器を片付け終わったのは、山荘の周りもすっかり暗くなった午後七時ごろだった。僕はそうでもないが、二人は途中に余計な力を入れたことも関係あるのか、ぐったりとして床に座り込んでいた。


 由樹がお腹を押さえたまま、呻く。


「お腹すいた」

「あたしもですぅ」


 しかしもう夕飯時だというのに誰も調理に来ないし、部員の一人も顔を出さない。


 おかしい、何かあったのか? 一抹の不安が頭をよぎるが、先生とシェフが一緒にいるはずなので、そんな大事が起こるはずもない。


「あれぇ? いい匂いがします」

「本当だ、どこからだろう?」


 三人でそんな話をしていると副部長が入ってきた。


「終わってるじゃない、感心感心。じゃあ三人とも、そこの大きなスープ皿とスプーン、それと割り箸を人数分持って来て」

「はい…それはいいですけど、どこへ?」

「庭のはずれの駐車場よ」


 そう言って副部長は準備にかかる。僕と由樹と王虎さんは手伝い始めた。


 僕らが副部長と一緒に食器を持っていくと、すでに他の部員が集まっていた。その前で先生とシェフが何か作っている、というより出来上がっていた。


 シェフは台所から運んだ大鍋で使ってパエリアを作っていた。先生は自分のダッチオーブンを使って豆のスープを作っている。


 先生が僕らに気がついた。


「あら、お疲れ様。もう少し手伝ってね」


 先生は食器を折り畳みテーブルに乗せさせた。


「あたしがよそうから、手渡していって」


 そう言って持ってきたスープ皿に豆のスープをよそい始めた。片側ではシェフが紙の皿に盛ったパエリアを部員に配っている。


 由樹と王虎さんがそれを手伝っている。それが終わると今度は缶ジュースの配布だ。


 料理と飲み物の配布が終わり、全員が先生を中心に車座に座っている。先生が皆を見回して声を上げる。


「皆さん、お疲れ様でした。色々ありましたが、今年の入部記念野外活動は無事終了しました」


 えええ、入部記念? という事は今年あと何回もあるのか? この野外活動は。


「次回は夏休み後半に予定しています。皆参加してね」


 そして先生はジュースの缶を持ち上げた。


「それではお疲れ様でした」

「お疲れさまー!」


 みんな手元にあるジュースを飲みながら、今回の野外活動最後の夕食を楽しんでいる。


 僕が由樹と王虎さんと食事を始めようとした時、スズメちゃんと亀沢さんが他の一年生と一緒になって近づいて来た。スズメちゃんは手に耐熱手袋をはめて、シェフのダッチオーブンを持っている。


「総くん、お疲れ様なのだ! これ、1年生みんなで作ったのだ、食べてみるのだ!」


 蓋を開けると、中には出来立てのスタッフド・ローストチキン。


「どうしたのこれ? お昼の分を取っておいたの?」

「ノーノー、違うのだ! 虎っこ娘が飛び出したのを、総くんと龍崎さんが追っかけて行っちゃって食べられなかったのは残念なのだ! あたし達は自分たちでは鶏を絞められなかったし、せっかくやってくれた総くん達が食べられないのはかわいそうなのだ! あたし達は先生の許しを得て麓の農家から鶏を一匹貰ってきて、新しく総くん達の為に作ったのだ!」

「えっ! あれからみんなで麓まで行って? 鶏をもらって来て絞めて、イチから作ったの?」


 しかしそこで、スズメちゃんは少し悲しげな表情を見せる。


「でもやっぱり鶏を絞める事は出来なかったのだ……一年生みんなで押付けあって、結局最後は副部長に絞めてもらったのだ……総くん、まだまだあたしもダメなのだ……」

「そんなことないよ」


 そう、自分で絞める事が出来なくても、自分たちの生が他の生の犠牲に成り立っている事をしっかり自覚出来ればその思いは生きていく。いつかそれが助けてくれることもあると思うよ。


 僕は持っていたナイフでローストチキンを切り分け、由樹と王虎さんの皿に取り分けた。


「いただきます」


 僕はスズメちゃんと他の一年生に言葉を掛けた。一切れつまんで口に入れると、口いっぱいに香ばしい香りがひろがりとてもおいしい。


 その肉は太陽と緑と穀物の味がした。狭い鶏舎の押し込まれ人工飼料を詰め込まれ、卵を産まされ続けたあげく肉にされた鶏とは違う、自然の中で伸び伸びと育てられた記憶の味がした。


「おいしい! これスズメちゃんが味付けしたの?」

「えへぇ、詰め物の味付けと、外側にふった塩は副部長にお願いしちゃったのだ。でも調理はあたしたちがしたのだ!」

「いただきます」


 由樹もそう言ってローストチキンをつまむ。


「本当だ! おいしい!」


 由樹の顔にもスズメちゃんの顔にも笑顔が広がる。


 ふと見ると、王虎さんが複雑な顔をしてローストチキンを見ている。


 そこで僕は思い当たった。ああそうか、王虎さんはスズメちゃんみたいな娘でいたかったんだ。自然にかわいく振る舞えて、自然に優しく接することが出来て、自然に感情を出せる娘に。


 僕は王虎さんに耳打ちした。


「スズメちゃんの好意がこもった料理を食べれば、スズメちゃんの好意の記憶も取り込むことが出来るかもよ?」


 王虎さんが思わす顔を赤らめる。


 このローストチキンからは確かに別の記憶の味がした。


 僕がこのローストチキンを食べて感じた味、それはスズメちゃんを含む他の一年生の優しさの味だ。わざわざ山を降りて行った時の汗、鳥が絞められず押付けあった時の汗、詰め物をして鳥を固定し、ダッチオーブンに入れて火加減を見るときの汗……それらの記憶がこのローストチキンからした。


 人は料理を作るときに食材に触る。触った食材には触った人の肌から出る分泌物が付着する。そこに愛情があれば、愛情の記憶は食べた人に取り込まれる。そしてそれは食べた人にも記憶として受け継がれる。


 料理は生物の記憶だけでなく、作った人の記憶をも受け継いでいけるのだ。


 料理を作る記憶、料理を作ってもらった記憶、そして食材の持つ記憶。そういったすべての記憶を含んで料理は食される。機械で作られた食事には決して含まれない記憶、それらを頂くことで人は心も体も豊かに成長できる。


 だからこそ欠かす事の出来ない言葉がある。料理に関わるすべて…食材にされる『命』、食事を作る人の『思い』、それらに対して何の感謝も無く食べる事など決して出来ない、そのためにこそこの言葉はある。『いただきます』という言葉が。


「いただきます……」


 呟くように言って王虎さんはスズメちゃんたちの作ったローストチキンを口に入れた。まるで花が咲くかのように、王虎さんの顔においしさを実感した表情が広がっていく。思わず王虎さんがスズメちゃんの顔を見た。


「え、えへん! 虎っこ娘、さすがに血まみれになっちゃったらショックで引きつっちゃうのだ! 思わずあたしたちも引きつっちゃったのだ! そ、そんな事で食べられなかったら、かわいそうなのだ! べ、別に虎っこ娘の為だけじゃないのだ! もちろん総くんのためなのだ!」


 照れ隠しするように大きな声で言ってはいるが、スズメちゃんはやっぱり根本的に優しい。こんなナイスフォローをもらったなら、王虎さんも首を引きちぎったことを気にしなくてすむ。


「……おいしいですぅ……」


 王虎さんが恥じらうように声を出す。


 僕は由樹と王虎さんに挟まれていたが、二人とも他の部員に誘われて輪の中に入っていった。時折二人とも恥ずかしそうに、それでいて気にしてくれているように僕の方を見て微笑んでくれる。みんなの輪の中にいる二人が、〝進化の記憶〟の存在とは別に、自分そのものの存在を大事にしてくれればうれしいと楽しそうな二人を見てつくづく思った。


「天の川!」


 誰かが声を上げる。都会では決してみる事の出来ない肉眼で見える天の川だ。

部員全員が空を見上げていた。


 せっかく自然がこんな風に美しい風景から食事から、自然の中で生きる事の幸せを実感させてくれるのに、なぜ人間はつまらない事に血道をあげてしまうのだろうか?。


 組織を作って生きる事にこだわった挙句、異なった価値観や環境を否定する、固定した生き方を是とする社会になってしまったのはどうしてなのだろう?。


 こんなにも人は自然の中で協力して生きていく事を学べるのに。

 そんな考えをとりとめもなく考えながら僕は由樹と王虎さんたちが他の一年生たちと楽しく過ごすのを見ていた。


 みんなの明るい笑い声が夜の高原に広がった。


 ◇

 

 野外での夕飯が終わり、全員で片付けも終えて就寝の時間になった。宿舎の部員は皆部屋に入っていき、王虎さんも一緒に部屋に戻っていった。由樹は先生と一緒に外のテントだ。


 僕は自分のテントに潜り込んだが気になったことがあって眠れないので、テントから出てさっきの駐車場に歩いて行く。


 人気のない駐車場は寒々しく、そして静かだ。 静謐、という言葉がぴったりで、見上げると空一面の星がまるで降ってくるかのように覆っている。


「眠れないの?」


 後ろから声をかけられた。振り向くと霧咲先生とシェフが居た。


「覚醒おめでとう、っていうべきかしら?」


 とシェフ。


「自分の意志で顕現させられないので、本当の意味で覚醒したという訳でもなさそうですけどね。もう打ち止めかもしれないですよ」

「で、こんなところで何をしているの?」

「はい先生、ちょっと考え事があって……」


 僕は駐車場の真ん中で空を見たまま動かなかった。


 シェフが怪訝な顔で尋ねてくる。


「〝敵〟のこと?」

「はい、《食料の安定供給を考える企業連絡会》の連中は言いました、『企業が量産する食べ物、遺伝子操作で成長を調整し農薬などで危険を除去したいつでもどこでも手に入るようにした食べ物、それを多くの国民が食べてくれないと、企業活動に支障をきたしてしまう』と。でも全ての人がそういう食べ物で満足できるわけも無いと思うんです。効率だけ突き詰められて作られたものばかり食べていたら人はおかしくなってしまう、人は飢えを満たすことは出来ても心の飢えを満たすことはきっと出来なくなる。そんな気がするんです。」

「…………」


 先生とシェフは黙っている。


「スズメちゃん達が作ってくれたローストチキンを食べた時、あの料理からは鳥の自然で健康な味、それにスズメちゃんたちの気遣いと優しさの味がしました。連中の言う食の安定供給は、スズメちゃんが作ってくれたような優しい味のする料理から人間を遠ざけていく気がします」

「…………」

「でも連中は、変な事を言ってました。『食糧の需給はコントロールされなければならない、増え続ける人間はこの地球だけでは生活出来ず、人は救いを求めて宇宙に出て行かざるを得ない。宇宙に行ったら〝食の自由〟なんてものは無い。宇宙に行けば食べる物どころか空気すら自分の好きな様に吸う事も出来ない。それでも人々に〝天然食材による自由な遺伝子の開放〟を伝えられるのか?』と」

「…………」

「僕はそれを言われた時は何も答える事が出来ませんでした。地球上で生活しているからこそ、自然の中で採れた食材を食べられるからこそ、〝自由な食の選択による『覚醒』〟は可能なんです。もし連中が言うとおり、人類が宇宙に出て行かなければいけないとしたら、そこでは〝自由な食の選択による『覚醒』〟が成り立ちません。もしそんな事が目の前に迫っているなら僕たちはどうすればいいのか、わからなくなってしまったんです……」


 先生が静かに口を開く。


「……だからこそ、あたしは守りたいのよ」

「?」

「確かに世界の人口は増えていっている、自然の食事だけで全ての人々をまかなえる量は無いわ。でもそれと自然な食を欲することは別な事だと思うの」

「…………」

「現代の人間社会では効率も重要になってくる。でも多くの人はあまりに自分たちが今まで生きてきた生物と違った世界を作っている事に気がついていない。自分たちの前身は、野を駆け、森に潜み、海を渡り、空を飛んで生きていた他の生物だったはずなのに」

「…………」

「あたしは例え人間が宇宙に行ったとしても伝えたい。人が持っているはずの遺伝子の記憶を。自然の中で生きていた、自由を謳歌していたころの記憶を。自由な食と共に」

「大地くん、自分の言った事を思い出して?」


 シェフが軽く微笑んで言う。


「え?」

「例えばもし人が宇宙で生活しなければならなくなって、食が管理されてしまったら、日良さん達は今日の様に君の為に料理をしないかしら?」

「……?……」


 あのスズメちゃんの事だから、食材を奪ってでも作りそうな気がする……え? それって?


「でしょう? 人が誰かの為に料理を作ってあげたい、という気持ちはどんな事があっても止められないわ。あたしだってどんな所に居たとしても、誰かに『おいしい』と言ってもらいたいという気持ちは変わらないわ」

「…………」

「軍の携帯食糧の中には必ず塩やコショウ、タバスコさえ入っている国もあるわ。それは自分で美味しいと思う味付けにする事が出来るからよ。自分が美味しいと思う味付けにするだけでも立派な料理。そして料理をする、という事はその食材に触らなければならないでしょ」

「おいしくするためには、どんな所でも料理はしなければならない……?」

「そう、そうすれば記憶を伝える事は出来る。美味しいものを作る記憶、美味しいものを作ってもらった記憶、どんなところでもそれを伝えて行く事だけは出来る」


 僕は父との食事を思い出す。どんな場所でも、どんな食材でも美味しく食べようと工夫した日々。


「人間が味の無いものを食べる事を選択しない限り、人は必ず料理をしなければいけないの。そうする事で人はいつまでも美味しい味と自然の事を伝えていけるのよ、大地くん、どんな所に行っても人の食べ物に関する記憶は受け継がれていくのよ」

「…………」


 先生が厳しい顔で続ける。


「『覚醒者』の中にはそういう事を考えずに、連中の手先になって働く奴らもいるからね。あたし達や龍崎さんはそういう連中の相手をして戦っているの」

「…………」

「龍崎さんの〝進化の記憶〟なら、そう対抗できる相手はいないハズだったんだけどね」

「ええ、今日マンモスが出ました」

「連中も必死ね、そこまで貴重な『覚醒者』をぶつけてくるなんて……」

「ええ」

「だから君は、ウチの部の野外活動には全部強制参加よ!」


 先生は僕にビシッと指をつきつけて宣言する。その有無を言わせない勢いと内容に、驚きを隠せない僕は思わず動揺のあまり聞き返した。


「えええええ! なんでですか?」

「あたし達の眼の届かない所にいないように、君の覚醒状態をちゃんと確認できるようにね」


 まったくとんでもない姉妹だ、そんなにびっくり箱が開くのがみたいのか?


 しかし、先生の顔には見た事のない様な真剣な表情が浮かんでいる。


「なんで先生はそんな真剣な顔をしているんですか?」

「……実は君は連中の言ってる事を、自分自身の存在で否定しているのかもしれないのよ」

「え?」

「君が今日覚醒して見せたあの姿は、確証がないけどとんでもないものの様な気がするの。君は『ガイア理論』というものを知っている?」

「地球をひとつの超生物として捉える、という理論ですか? 父がよく話してくれました。僕たちの生態系を含めたシステムも含めて、様々な相互依存という形で実現されているこの地球も宇宙を含めた大きなシステムの中の一つの生命体であるという考え方……でしたっけ?」

「私たちの食の環境は水や大気や大地といった、地球の循環システムの中に依存して形成されているわ。降る雨水は大地を伝い川から海へ、大気は風に乗せて……生命に必要なミネラルや大気の成分が運ばれてくる。すべては生命にとって欠かせないものである上に、それこそが生命を育む上で重要な環境になっている。そしてそれらが含んでいる成分は地球の歴史の中で形成されたもの、《地球の記憶》と言ってもいいかもしれない」

「ち、《地球の記憶》?!」


 な、なんてスケールに話が展開していくんだ? しかし先生は真剣な表情を崩さない。


「そして《地球の記憶》はそれこそが生命そのものの記憶と言っても過言でないわ。君が今日龍崎さんや王虎さんにしたこと……それは生命そのものを制御する力だった……。君の力を説明しようとするとそんな事しか考えつかないの。以前、君の血や遺伝子を他の人に提供出来れば覚醒者を増やせるかもしれないと言ったけれど、今の君の力はそれどころか不毛の砂漠を緑の大地に変える事が出来るかもしれないほどなのよ。」

「か、考えすぎじゃないですか? 僕が《地球の記憶》を覚醒させているなんて……そんな……」


 あまりに突拍子もない話に飛躍した事に、僕は驚きを通りこして唖然としてしまった。


「君が『覚醒したモノ』のことは徐々に皆に知れ渡っていくはず。今までは食料をどうコントロールしていくか、という事が争いの種だったけれども、君の能力が明らかになってきたら、君の能力を使って地球というシステムをどう分析してコントロール出来るか、が問題になってくる。これからもっと今日みたいな事が起こる可能性があるからね。なるべく眼を放したくないのよ」


 先生の真剣な表情を見つめていたら、別な感情が湧きあがってきた。


「悲しいですね」

「え?」

「人間は自然の中で最弱の生物です。そのために地球から食料や水、資源の恩恵を授かって生きていかなければいけないのに、逆にそれが争いの種になってしまって……。地球から奪うだけ奪っていく永遠の消費世界になってしまっている中で、今度は僕の中の何かまでがその争いの種になってしまうなんて……」

「でも君が居れば、君の力がそんな状況をも変えてしまうかもしれない。地球の全ての記憶と力を君が再現できるなら、そんな世の中を変える立場になるかもしれないわ」

「先生……」

「あなたが人間同士、人間と地球の関係を修復できる存在になってくれるなら、それもいいわね」


 先生、そんな重荷を背負わせないでください、今は目の前にあることだけで精一杯なんですから。

 

 目の前の空いっぱいの星々全てが、僕に圧力をかけてくるように感じた。


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