1・新生活とワニフライサンド
朝六時、僕はキッチンに立って今日の朝食を作っている。
フライ鍋の中では衣をつけたフライが、ジュウジュウ・ピチピチと音を立てて踊っている。
僕はフライを一番いい状態で揚げようとしているのだが、なにぶん不慣れな男の手料理なのでどうしても満足のいかない結果になる事が多い。前回は温度が低くて揚げが足りず、ちょっとナマっぽかった。
ただそれは僕の腕の問題だけでなく、たぶん父が持ってきた特別な食材の性質にも関係があると思っているんだけど。
今日の朝食のメニューはインドネシア産ワニのフライのサンドイッチと有機野菜のサラダ・ベトナムのヘビとレモングラスのスープ添え。
とんでもないメニューに聞こえるかもしれないが、昨日の晩御飯のメニューは輸入したカブトガニの甲羅焼きだったから、それに比べれば今朝のメニューはまだ普通。
なんでウチの御飯がそんなメニューになるのかというと、父の食事に対する持論が『自然の中で生きていたものを食す、それが自然のあるべき姿だ』というものだからだ。
『歩いて五分のコンビニに出来上がった料理が並ぶ時代に?』
と言う人もいるが、それは
『コンビニに出来上がった料理があるのに、なぜ料理をするんですか?』
と訊くのと同じで、便利だからと云ってすべての誰もがそういうモノに依存するわけではない。人それぞれがもつ持論が相容れないことだってある。
僕の父は写真家で、世界中を渡り歩いてその自然の雄大さをカメラに収め、その写真を企業や出版社に売ったしながら、同時に狩猟家として各地のハンティングガイドやネイチャーガイドの仕事を請け負ったりしている。
そんな父にとって食事は現地調達が基本だ。写真に収めたくなるような自然の美しさのある場所は、歩いて五分以内にコンビニやスーパーが軒を連ねているような場所ではないから。
父は現地の人と一緒に狩りに参加し、現地で入手できる食材で食事をしているうちに、『その食材を使ってどんな料理が出来るか』というコトを考え始め、『奇食』にハマってしまった。それは父の食事に対する持論、『自然の中で生きているモノは何でも食べる、それが自然のあるべき姿だ』の基だ。
シーラカンスを釣りに行き、天然のカブトガニを獲り、野生の動物や深海魚を探してはヘタな料理にして食べ続けた。話を聞いた人は『何を好きこのんで』と思うだろうが、そう云う食材しか現地で調達出来なければ、食べて死ぬ事のない限り調理して食べるしかない。
父は自然の恵みを得る喜びを忘れない様に、日本に帰って来てからも各国から取り寄せたり、持ち込んだ『自然の中で生きていたもの』だけを『食す』と決め、実行している。
しかし最近の世の中は食する為とはいえ、好き勝手に生き物を狩る事は簡単には出来なくなった。そこで父は世界中に急速冷凍機を持ち歩き、珍しい食材があればすぐに凍らせ、日本に持ち込むようになった。税関で足止めされた父を迎えに行くのは年中行事だ。
あくまで『自然の中で生きていたものを食べる』にこだわる父、そんな父の行動もそれはそれで理解できる部分もある。
父がいない間に市販の出来合いの弁当を食べた僕は驚いた。なんと言う味気ない食べ物なのか?。そこには素材の持っている生命力というかエネルギーというか、そういうものをまるで感じる事の出来ない食べ物だった。
小学校を卒業してから、父は僕を連れて一緒に世界を旅して周り始めた。世界のいろいろな所を一緒に旅することは、父の食事に対する姿勢をより一層理解するきっかけになった。
僕は父と同じように現地で狩りに参加して食材を調達し、足りない食材は現地の市場で購入するという、あくまで現地で入手できる食材のみを使って食事を摂るようになっていった。
父と共に山を歩き、草原に潜み、丸木舟に乗って得た獲物の恩恵を授かる生活をしていれば日本の行き過ぎた食生活にはうんざりする。鹿や猪を一匹獲ってくれば3ヶ月は肉には困らないのに、日本のスーパーには何十頭・いや何百頭分かわからないほどの肉が毎日並ぶ。
僕たちが行くような国々では、天然の食材が朝市に並び、各家庭はみなそれを購入して一日の料理をそれで済ます。冷凍庫や冷蔵庫が行き渡らない世界では、その日の食事はその日に獲れた食材で作るのが基本だ。食べきれない食材を冷蔵庫や冷凍庫に保管して、挙句無駄にしてしまう事なんてありえない。自然の中で生きていた動植物を食べるという事は『生きていた命』を食べる事と云う事であって、『死んだものを食べる』と云う事とは全く違う。
自然の中で生きていた動植物を食べる事は何か目に見えないエネルギーを体に吸収している、そんな実感がある。オウムガイやシーラカンス、カブトガニのような太古からその姿を変えていない生き物は特にその感覚が強い。そう、それは体の中の深い深い処、深遠の記憶を呼び起こすような味だった。たとえそれが男二人のヘタな料理の結果であっても。
そんな事を考えながらフライが揚がるのを真剣に見ていると、父がキッチンに入ってきた。
「お早う、とうさん」
「オウ、お早う。おっ、なかなかよさそうじゃないか、今日は」
「うん、肉を薄く切ってみたんだけど、どうかなぁ」
ピチピチと油がはねる音が小さくなってきたタイミングでフライを網ですくい上げ、キッチンペーパーを敷いたお皿で余分な油を取った後に包丁で切ってみる。
「悪くないが……薄く切りすぎたか?ちょっとパサついているな」
「父さんが持ってきたこのワニの肉、料理するには難しいんだよ」
「そう言うな、こんなイキの良いワニはインドネシアでもそう簡単には手に入らないんだぞ」
「確かに。力強いよね、この味」
「付け合わせは?」
「有機野菜のサラダ、レモングラスと蛇のスープ」
「こんど弁当にする時は、ベトナムの椰子虫のフライも持って行けよ」
父さんが意地悪い笑みを浮かべて言う。
「勘弁してよ! 新しい学校で初めからそんな弁当持って行ったら、クラスのみんなが引くだろ」
「見ただけじゃフライドポテトと変わらん」
「食べりゃ一発じゃないか!」
「はっはっは、そりゃそうだ」
僕は残りのワニのフライを網で全てキッチンペーパーの上にすくい上げると、今度はトースターを開けて、焼いておいた厚切りのトーストを取りだす。
刻んだキャベツをトーストの上に散らし、ワニのフライをソースに浸けてその上に乗せ、更にキャベツを散らし、もう一枚のトーストを乗せて軽く押しつぶす。ある程度形になった所で包丁を入れて、サンドイッチの形にする。
父の分と自分の分をテーブルに並べ、さっき落としておいたベトナムコーヒーを父の前に出して、自分も席に着く。男二人の色気のない朝の食卓が僕と父の1日の始まりだ。
テレビでは、火星への移民を前提にした調査団を乗せた宇宙船が、アメリカから今日打ち上げられるニュースを大々的に取り上げている。
乗りこんでいるのは僕とそれほど年の変わらない若いパイロットたち、その姿を眺めながらワニのフライのサンドイッチをかじる。
手製のソースに入れたフルーツの味がフライによく合うが、やはり少し薄く切りすぎたかパサついた。それでも父の言うとおりイキの良さが感じられる。目をつぶって噛んでいると、インドネシアの川を優雅に泳いでいる気分になる。広大な川、明るい太陽、覆い茂ったジャングルの空気…。そんな感覚が頭にダイレクトに感じられる。
「どうだ? 高校の雰囲気は? 卒業するまではお前を連れ回すことはないから、当分は学生生活をエンジョイする事が出来るぞ」
「逆に当たり前すぎて、退屈になっちゃうんじゃないか心配だよ」
サンドイッチを平らげてベトナムコーヒーを飲みながら、ふと時計を見るとバスの発車時刻が近付いている。
「少し早いけど、僕は学校に行くよ」
「おお、今日は朝食有難うな。明日はオレが頑張る」
「よろしく」
そう言って僕は食べ終わった食器を流しに持って行き、エプロンを外すと椅子に掛けてあった上着を取って着る。テレビでは宇宙船の打ち上げのカウントダウンが始まり、火星への初の有人飛行に出発するところだ。
「しかし、人間はどこまで行こうとしているのかね。自分達が食料を調達できない果てまで行くことに何の意味を見出そうとしているやら」
父の何気ないぼやきを聞きながら、僕は横に置いてあったカバンを持ち上げ、玄関に向かう。
「行ってきます」
「新しい生活の場だ!楽しんでこいよ!」
父の声を背中に受けて、僕は新しい学生生活の一歩を踏み出した。
僕は父と学校からバスで1kmほど離れた家に二人で暮らしている。
今の家には中学生のころから住んでいて、昔は周囲に家など無く自然に囲まれた静かなところだったが、段々と開発が進み今では新興住宅地になってしまった。バス停に向かう道を歩いていると、あらためて大きく変わった自宅周辺に驚いてしまう。昔は僕らの他にはタヌキや鳥が居たぐらいだったのに。
なぜ男二人の生活かと言えば、母は自由気ままな父の暮らしを羨ましく思い、『あたしはあたしの好きにするわ』といってひとりで同じ市内のマンションで生活しているからだ。ときたまウチに帰ってきてはいろいろ話してまた出ていく。
『建設的別居生活』と父は言っていた。
そんな事を考えながら、真新しい制服のきつく感じられるワイシャツの襟を少しゆるめようと指をいれた時、どこからともなくいい匂いがしてきた。
それはいい匂い、なんてレベルではなく、『魅了された』と言えるぐらいだ。
匂いのした方を見ると、僕の登下校路に面している最近出来た新しいレストランの裏口、そこに今まさに業者の人が運び込んでいる荷物から出ている匂いが僕を魅了した。僕は匂いにつられてフラフラとレストランの裏口に近付いてしまう。
つられた……なんていう生易しいものじゃない、匂いに引き寄せられた……いやもっと強いな、匂いが僕の鼻をつまんでこのレストランまで連行してきた。
僕は匂いの素が何かをどうしても確かめずにはいられなくなり、開いていたレストランの裏口から入っていってしまった。バックヤードに山と詰まれた野菜の間をぬって、ふらふらと前方の微かに開いた扉に向かって歩いて行く。
扉の隙間から厨房の中を覗くと、コックコートに身を包んだ背の高い女の人が業者らしい人と話しながら、仕込み作業に追われている厨房の面々にテキパキと指示を出している。その女の人がどうやらこのレストランの料理長らしく、シェフと呼ばれていた。
女の人はストレートの短めの髪、陸上選手のようながっちりした体格、調理する者のたしなみとして化粧はしていないが、それでもそのハッキリした目鼻立ちは隠しようが無い。美しいアスリート選手がシェフをやっている、そうとしか見えなかった。
次に僕の目に入ったのは、梱包を解かれた食材だ。よく見る肉や魚といったものは無く、干物や燻製のような不思議な食材が厨房台に並べられている。それどころか石としか見えないようなものまでゴロンと置いてある。それらを吟味するシェフの目には不思議な光が宿っているように見える。
どれが僕の鼻をつまんだ匂いの元なんだろうと体を少し伸ばした時、後ろのレタスの山にカバンが当たり、ゴロンと音を立てる。シェフの目がじろり、というよりギン!と音を立てたように変わるとこちらをにらんだ。
ひえっ! 見つかった!
シェフはツカツカと僕が覗いていた扉に近付くと、勢いよくガッと開いた。
「……君は?」
あまりの厳しい視線に僕は身動きが取れないまま、
「あ、あの、すいません……美味しそうな匂いについ……」
「あー君……? 美味しそうな匂い?」
シェフは先ほどの厳しい顔から少し警戒を解いた顔で僕を見る。眼には少し珍獣を見る様な戸惑い。
「あ、はい……とても美味しそうな匂いが外までしていたので、ついふらふらとつられてしまって……と言うか匂いに鼻をつままれて連行されてきて……」
「……? 匂い?」
シェフは周りを見回す。
確かに厨房内は下ごしらえの準備はすすんでいるが、そこまで強い匂いを発するような食材はなさそうだ。さっきまでの戸惑いの浮かんだ表情から、緊張が解けたかなり柔和な、笑みまで浮かべたシェフの顔が僕の顔に近付いてくる。
「……どれが君の鼻をつまんだの? 教えてくれない?」
「ええっ? ……って?」
「いいのよ、遠慮せずに入ってきて」
とても優しそうな表情を見せてシェフは僕を招き入れる。そろそろと厨房に入っていく僕に、厨房の人たちや業者らしい人の視線がイタイ。
煮込んだスープの匂い、ソースの元になるような匂い……しかし僕の鼻をつまんだ匂いは違う。
その匂いは僕の頭を、神経を、心を、いやもっともっと深い何かを揺さぶった。揺さぶるどころではない、まるで目覚まし時計に体全体をぶん殴られて起きろ!起きろ!と耳元で騒がれている感じだった。
それはもっとも匂いとは無縁なところ…さっき見ていた調理台においてあった石、そこから匂って来る。近付いて行くとそれはただの石ではなかった、古代の首飾りに使われる勾玉が大きくなったような黒ずんだモノが埋め込まれた石。
これはなんだろう?でも匂いは確実にここからしている。
「これです。この石の匂いです」
僕はまじまじとその石を眺めながら、シェフに言った。その瞬間厨房は騒然となり、まるで僕はレストラン漫画の主人公になったかのようだ。
「ごほん」
わざとらしいセキが一つ聞こえ、厨房は静けさを取り戻した。
シェフが僕を見つめている。さっきまでの柔和な顔が、今度はまるで妖怪か宇宙人を見るかのような戸惑いの色が広がった目になっている。しかも目の底にはさっきまでとは違う、何が何でもこうと決めたが最後絶対こうするぞ!という決意の様な物が感じられる。
シェフが僕の肩に手を掛ける。異常に力のこもった手。
「きみ、名前は? 名前はなんていうの?」
「大地……大地総司です」
「そう……」
僕の肩を掴んだ手の力が更に強くなる。ひっぱたかれでもするのかと、キンチョーのあまり体を固くしていたら……
「そう、君が大地くんか……トレビア~ン♪」
突然シェフが軟体動物になってしまった? と思ったら、僕に絡みつく様に抱きついてきた!
「ひええええええ!」
必死にシェフのハグから逃れようと、慌てまくってじたばた悶える僕をまるで無視して、シェフはベラベラと僕の嗅覚を褒めちぎる。
「トレビア~ン♪トレビア~ン♪! この食材の良さがわかるなんて君は素晴らしい! 君はぜひこの店で修行を積むべきよ! いや、積まねばならないわ!」
今まで嗅いだ事も無いもの凄く良い女性の香りと、想像上の産物でしかないボヨンと柔らかい軟体動物による拘束。
「あ、あわわわわ!」
母以外の女性から受ける初めての抱擁から必死に逃れると、僕は罠から逃げようとする草食動物の様に一目散に裏口に向けて走り出していた。
「勝手に入って御免なさい! さよなら!」
裏口に向かって走って行く僕の後ろから、シェフの呼び声が聞こえる。
「大地くん! ウチの料理に興味があるならいつでも来てね! 待ってるわぁ~」
 




