春風の回廊
お願い、本当に人が足りないんだ。
こんな風に友人に懇願されたのは3日前のことだった。「HARU」は、学校の沿革から先生のインタビューコーナーまで、高校生活の全てが記された広報冊子である。新入生は入学と同時にこれを配られ、これから始まる高校生活に想いを馳せながらページをめくり、卒業生はこれまでの高校生活を追想しながら涙を流してページをめくるのである。
当初は私に編集委員など務まるはずもないと申し出を拒否していたのだが、友人があまりに気の毒になったために引き受けてしまったのである。私はほとんど部活らしい部活に入っていないため、適任と言えば適任なのだろうが、うまくやっていけるのか不安で仕方がなかった。
「あっ」
不安を抱えながら、顔合わせを兼ねた第一回目の編集会議に出るために生徒会室の扉を開けると、そこにはよく知った顔があった。クラスメイトの瀬崎海斗が佇んでいたのだ。
春風の回廊
編集委員の仕事はこうである。まず、総務班、インタビュー班、アンケート班に分かれる。総務班では、スケジュール管理、印刷所への依頼、イラスト作成の依頼、各種文書の作成を行う。インタビュー班は主に先生、時に生徒にアポイントを取ってインタビューを行い、それを元に記事を書く。アンケート班は全校生徒に答えてもらうため、様々な項目を考え、インタビュー用紙を作成、結果をまとめあげる。どの班も締め切り直前に倒れる生徒が多数いるという噂がある。何が言いたいかというと、かなり忙しい。
それでも私と海ちゃんこと瀬崎海斗は、3年生のギリギリの時期まで編集に携わり続けた。そして、今日は「HARU」の締切日である。つまり、ほとんど私たちの役目が終わったのだ。あとは出来上がった「HARU」を私たち卒業生に届け、もう関わることが叶わない新入生に届けるだけだ。
「はぁー、もう終わりとか実感ないなぁ」
「ほんとにねー」
先ほど最後の編集会議を終えた。
私を誘った友人は編集委員長にまで上り詰め、「HARU」の完成を本当に喜んでいた。智子が編集委員に入ってくれてよかった、私の目に狂いはなかったと言われ、なんだか照れてしまう。無我夢中にやっていただけだ。
「変なミスとかしてないか不安なんだけど……」
「出来上がりを祈りながら待つしかないね」
私のクラスの教室でジュースで乾杯し、ささやかなお祝いをする。今ではクラスが違う海ちゃんがこの教室にやってきて、あーでもないこーでもないと会議をしたものだった。
そうだ、と何か思い立ったかのように、海ちゃんはこちらを見る。
「……今から3年間の集大成するからちょっと見てて」
「えっ、どういうこと?」
「大崎さんに今からインタビューする」
「私に?」
うん、そう言うと、海ちゃんはごほん、とわざとらしい咳をする。
「えー、本日はお忙しい中インタビューを引き受けていただきありがとうございます」
「ふふ、はい」
なるほど。そうそう、こんな感じだった。インタビューをするのは結構難しい。どんな質問をすれば先生の魅力を引き出せるか。どんな内容なら生徒は喜んでくれるか。そんなことを考えながら、時には原稿にないことを挟みながら先生と対峙する。インタビューはボイスレコーダーで録音していたが、その音声を聞けば自分の声は終始上ずっていて、苦笑してしまう。
「大崎さん、この3年間はどうでしたか?」
「とても楽しかったです。私は「HARU」という冊子の編集委員をやってたんですが、これのおかげで充実した日々を過ごせました」
「編集委員ですが、大崎さんはどんな仕事をしていたんですか?」
「私はインタビュー班に所属してまして……」
こんな感じで、海ちゃんはいくつか私に質問を続けた。彼の言うように、確かに話すのがうまくなっていた。最初の頃は私も彼も先方に心配されるほど緊張していたというのに。
「ああ~!あの時はめちゃくちゃ怒られたよね、すっごい落ち込んでた」
「本当にあの時ばかりは編集委員なんてやめてやるって思ったよね……」
いつのまにか私たちはインタビューという形式を忘れて思い出語りを始めていた。私たちの毎日、失敗、嬉しかったこと、悔しかったこと、それでも楽しかったこと……話が尽きることはなかった。
「さて、次の質問で最後にしますね、答えていただけますか」
「はい」
下校時間が迫る。
教室は夕日に包まれ、薄汚れたカーテンが、煤けた机が、私たちの横顔がオレンジ色に染められる。
「大崎智子さん」
「はい」
海ちゃんの表情から、先ほどのにこやかさが消えた。ああ、これはまずい。後ずさりたいような思いを必死に打ち消す。何を聞かれるかはわかるような気がした。
「好きな人はいますか」
「はい」
あなたがずるいことはもう嫌という程知っている。編集委員である間は、あなたはその言葉を言わないこともわかっていた。今なら?私はインタビュアーから目をそらさずに、こう言った。
「瀬崎海斗さんです」
海ちゃんは驚いたような、そしてどこか傷ついたような表情をした。そして少し目を伏せて笑った。冬に向けて歩き始める教室の体温が下がっていくような気がした。
「あー、だめだぁ」
沈黙を破ったのは海ちゃんの方だった。頭を抱えてしゃがみ込んで絞り出すような声で彼は言う。
「ここ出ていくんだ、来年」
海ちゃんはもう推薦で4月から通う大学が決まっていること、そこがこことはかけ離れた場所であることを教えてくれた。親戚が近くに住んでいるらしく、そこに厄介になるらしい。
「遠距離とか無理だよね」
「そうだねぇ」
そもそもエンキョリとかキンキョリとかを考える前に、私たちの関係性が「レンアイ」というものにふさわしいかすら分からない。しかしこの曖昧さが、海ちゃんの残酷な優しさが、私たちをここまで運んできてくれたことはわかっていた。
「帰ろっか」
「うん」
3年生は受験が近づいているため自由登校になっており、しかもこの時間となるともうほとんど人気はなかった。教室を出て、廊下を歩く。編集委員の仕事に追われ、幾度となく走り回ったこの廊下を愛おしむようにゆっくり一歩ずつ踏みしめる。階段を降り、下駄箱を経由して校門を出る。
私たちはまるで先ほどの告白がなかったかのように、いつも通りに帰り道を歩いた。
私はそっと海ちゃんの手に触った。彼は驚いたようだけど、何も言わなかった。彼の手がびっくりするほど冷たくて、私は無性に泣きたくなった。
「寒いところに行くならちゃんと防寒しなきゃだめだよ」
「そうだね」
その人は、真冬なのに手袋もマフラーも一切しなければ、コートも着ない。曰く、心が温かい人間だから、寒くないのだとかよくわからないことを言っていた。重ね合わせていた手のひらを一度離し、私たちは自然と指を絡め合っていた。通いなれた学校から最寄り駅までのほんの短い間だけ、私たちは恋人になった。海ちゃんの手は私より少し大きく筋張っていて、手の甲を絡めた指先でなぞると彼の手はくすぐったそうに揺れるのだった。それでも私たちは一瞬の恋人期間、お互いの顔を見合うことはしなかった。
「寒いね」
「うん、寒い」
私たちはまるでその言葉しか知らないかのように、「寒いね」の応酬を駅に着くまで続けた。空は雲一つないほど澄み渡っていて、真っ白い月が浮かんでいた。駅に着くとやっと温まってきた彼の手を放して、改札口で別れた。その瞬間、私は急にぐったりと疲れてしまった。大学受験用の赤本や参考書を入れたリュックサックが肩に沈み込むのを感じる。来年の春には、もう海ちゃんはいない。永遠に思われた日々がもうすぐ終わる。
「海ちゃんはどうして編集委員になろうと思ったの?」
確か編集委員を始めて2年目の春に聞いたんだと思う。職員室に届ける資料があるからと編集室から出て行こうとすると、海ちゃんが付いていくと言ってくれたのだった。コの字型になっている廊下を資料を抱えながら歩いていく。職員室は少し遠い。
「んー、人手が足りないって聞いて。微力でも自分の力が役に立てばいいなって思った。人のために何かしたいんだ」
その時だった。突如強い風が吹き、校内の木々を揺らした。桜の花は突然の嵐に耐えられず大量の雨を降らし、外でお花見をしていた生徒たちは歓声を漏らし喜んだ。
全開になっていた廊下の窓からも桜が雪崩れこんで、海ちゃんと私を包んだ。そして、舞い散る桜の花びら越しに海ちゃんの笑顔を見た。
「あはは、頑張ろうね、大崎さん」
ああ、まるで春みたいな人だ、そう思った。
誰にでも平等にあたたかく降りかかるけれど、決して誰をも待ってくれない陽だまりだ。
卒業式で記念品として配られた私たちの3年間の集大成は、本当に見事な仕上がりだった。手の込んだイラストがどのページにも施され、大変だった先生へのインタビューも執筆者の味が出た文章で丁寧に綴られていた。校内図、ジンクス、部活動紹介、この冊子には高校生活のすべてが詰め込まれていた。最期のページは編集委員のコメント一覧になっており、私はすぐに海ちゃんの言葉を探した。そこには「この学校がいつまでも多くの人に愛され、この「HARU」もまた愛されますように」と記されていて、「T.O.さん、あなたが好きです」と小さな文字で締めくくられていた。私は式典の途中で生徒会長が素晴らしい言葉を述べたときにも、もうこの先の人生で歌うこともないだろう校歌を歌った時にも、担任が涙ながらに私たちの明るい未来を祈った時も泣かなかったのに、この時ばかりは一滴涙をこぼしてしまった。
「HARU」―――あなたに春が訪れるように。あなたの未来が晴るように。
海ちゃんは、どこへ行ったって今までと何も変わらずに生きていくのだろう。静かな優しさで誰かを助け、照らしていくのだろう。
「海ちゃん、海ちゃん」
一人でも生きていける私が、一人で生きていけるあの人と一緒にいるためにはどうすればよかったんだろう。私から何をも奪う気がなかったあの人から、私が何をも奪えるはずがないことをわかっていたのに。
もうすぐ春が訪れる。私の心を温め、かき乱す春を、決して留めることのできない春を、私はただ待ち、手放すことしかできないのだ。
2017/12/22に執筆したもの。
「泡沫の庭」「水底の校舎」とこの「春風の回廊」を三部作として書きました。