記録4
清貴の日記から
我らの一族が、この地にたどり着いてから幾年。我らの御先祖様はここを安住の地と定め、結界の外には出ぬようにとの禁忌を作った。
しかしながら、あさぎりの里から流れ込む霧が、結界をゆるがし、結界に狭間を作った。 そのような時、御先祖様たちは、その結界のほころびから、源の追っ手が現れはしないかと怯えたそうだが、幸いにもそのようなことは一度も起こらなかった。その代わりに、結界の狭間に何度か見張りに立った者らから、奇妙なことが伝えられるようになった。
霧の中に見え隠れするあちらの世界の様子が、僅かの間に変化していたというのだ。木々は僅かの間に成長しており、建物も増えたり減ったりしていたと。
古に一度、物見の者二名をあちらの世界に送り出したことがあったそうだ。一名の者は一刻も経たぬ内に帰ってきたが、もう一人は結界のほころびを見つけることが出来なかったのか、あちらの世界に行ったままになってしまった。その者が行方知れずになって三年が経ち、一人の見知らぬ老人が現れた。陰陽師がその男の素性を質すと、行方不明になっていた物見の者だということが分かった。何故、その物見の者はたった三年の間に老人になってしまったのか。
陰陽師は、私にその仕組みを語ってくれたことがある。
陰陽師は地面に二筋の溝を掘った。それぞれの溝の端に笹舟を置き、一方の溝には少量の水を、もう片方の溝には大量の水を笹舟の置かれた端から流し込んだ。大量の水が注がれた方の笹舟は勢いよく進み、少量の水の方はゆっくりと進んだ。
そのことを私に見せてから、陰陽師はこう言った。
「清貴様、時の移ろいというものは目にも見えますが、時そのものは見ることが出来ませぬ。ですから、我らはその時の流れの中にあって、身を任せることしかできません。速い流れの笹舟に乗っているか、遅い流れの笹舟に乗っているかで、隔たりが生じるのです。しかしながら、時の流れが速いかどうかは、その中にいる者には分かりませぬ」
「でも、速い船に乗っていたら怖いよ」
幼き私の問いかけに、陰陽師は笑って言った。
「船に乗っている時には、船の周りの様子が見えるから速いと分かるのです。過ぎ去っていく景色や、川の水の流れ、水の音がそれを分からせます。ですが、それが一切合切見えぬとしたら、聞こえぬとしたら、船に乗っている者には、自分が乗っている船が速く進んでいることは分かりますまい」
陰陽師の話は、幼き私には理解することは難しかった。
そんな私に、陰陽師が語って聞かせてくれたのが、『浦嶋子』の話であった。
浦嶋子という若い男が一人で舟で釣りに出る。浦嶋子は三日三晩の間に、五色の亀を釣りあげる。
浦嶋子がうたた寝をしている間に、亀は絶世の美女に変わっていた。
浦嶋子は美女に誘われるまま常世へと赴く。美女は自分の名を亀姫と告げる。常世で姫と結婚した浦嶋子は夢のような三年を過ごす。
しかし、故郷が恋しくなった浦嶋子は帰ることを決める。浦嶋子は亀姫との別れ際に、亀姫から玉櫛笥を渡される。しかし、浦嶋子が故郷に戻ったときには、三百年が経っていた。浦嶋子は、あまりのことに失望し、開けてはならぬと亀姫に言われてい玉櫛笥を開けてしまう。すると浦嶋子は瞬く間に天空へと砕け散った。
幼き私には、浦嶋子の話は面白いおとぎ話であった。陰陽師に何度もその話をしてくれるようにせがんだ。
ようやく陰陽師が私に伝えたいことが分かるようになったのは、私が十を過ぎた頃だった。
あちらの世界とこちらの世界では、時の流れが違うのだ。この地は浦嶋子の話で言うところの常世なのだと。
この地では、時がゆっくりと流れている。
我ら一族にとって、それは何を意味するのか。