ハルに寄す
目の前の門の先の古い洋館には、誰も住まなくなって久しい。
定期的に手入れはされているらしいが、しんと静まり返ったその佇まいは、かつて人が中で寝起きしていたとは到底思えないほどに、冷え切って見えた。
僕は、右掌にすっぽりおさまっているものを、ぎゅっと握りしめた。
生垣の周りに、その形を残したままにばらばらと散らばる、茶色く変色した白い椿が月あかりの下に、形影相弔うように浮かび上がる。
十年ぶりに訪れたそこで、見えない影をじっと見つめるように、僕は立ち尽くしていた。
………
僕は、港町の閑静な住宅街を、京紫色の小さな風呂敷包みを片手に、少し足早に歩いていた。
月もまだ出ぬ宵闇の中、家々の門の灯りが、行く道を照らす。
小高いところにぽつんとある、大正時代に建てられたという洋館の門の前で立ち止まった。
琴の音色がかすかに耳に触れる。
僕は少し思案して、それから門はくぐらずに、雪白の椿の花が順々に咲き始めた生垣伝いに、小さな木の扉の前まで回り込んだ。
葉に覆われ見落とされがちなその扉は、この家の先代のおじいさんがまだ生きていた頃、秘密の花園のお話が大好きだった、僕と、そして今はこの家に住むおじいさんの孫娘のために作ってくれたものだ。
少し屈んで扉を抜け、視界の先の、光と音の漏れ出す窓辺に足音を忍んで歩み寄った。
薄く開かれたそこからそっと覗くと、磨き込まれたフローリングの床の上に畳を二枚敷き、そこに少し斜めに端座して琴を弾くハルの姿が見えた。肩の上で切りそろえられた艶やかな黒髪を片方の耳にかけた、僕と同じ二十歳の幼馴染が奏すのは、六段の調べ。
秋も深まった凛とした空気にたなびく幽玄の音色は神聖で、奥の方からじんわりとあたたかいものが満ちてくる。
僕が図らずもいつも泣きそうになるのは、感に耐えないのもあるけれど、それにも増してなんだか彼女が触れられない遠い存在に思われてくるからだ。
しゃん、という二の音で四段が終わり、余韻の残る束の間の静寂の中、僕は窓をパッと開いた。窓枠に包みを置き、それから軽く助走をつけて窓枠を越え、部屋の中に降り立つ。
こちらを振り向いたハルは、「はーくん、」と口を形どりながら、少し驚いたような顔をした。そして次の瞬間には、ふうわりと空気は柔らぎ、花のほころぶような笑顔を見せた。
僕はゆっくりと間合いを詰めて、腕の中にハルを抱き込んだ。ハルも応えるように僕の背中に腕を回す。
幼い頃から僕たちは、こうしてお互いの些細な変化を感じながら、状況を確かめ合ってきた。
なんだろう。僕は少し違和感を感じた。
ハルは感情も豊かに表せるようになったし、その象る輪郭も以前よりずっと、確かなものになったように思われる。
けれど今、僕の腕の中にすっぽりと収まっているハルは、なんだかその存在がよろめいて、危うげな感覚を覚えた。
それでも僕は、勘違いだろうと思い直し、ただこの瞬間に感じる体温に、心は満たされた。
それからハルの前髪をかき分けて、額に触れるだけの口づけを落とす。
ーー僕が遥でハルは春香。
おじいさんの家に遊びに来ていたハルと、この近くに住む僕が初めて会ったのは、幼稚園に上がる前だった。
「おんなじなまえだね、」と笑いあった僕たちは、はるちゃん、はーくん、と呼び合い、いつも一緒だった。背も、食べる量も、好きなお話も、眠くなる時も同じだった。
時が流れるにつれ、僕たちは互いに秘密を持ち、互いに知らない友達も出来た。ハルはいつの頃からか、人の前で僕と手をつなぐのを恥ずかしがったし、僕はいつの間にかハルのことをはるちゃんと呼ばなくなった。
けれど、小さな変化は重なっても、僕たちが一緒にいることには変わりはなかった。
「はーくん、大きくなったら、わたしをはーくんのおよめさんにしてくれる?」
無邪気に笑うハルに、五歳の僕は照れくさくってそっぽを向いて、「うん」と答えた。
「やくそくしようね。そうだ、たからものをこうかんしようよ」
そう言って小さなハルは、カラフルなものががたくさん詰まった宝石箱をひっくり返して、その中から透明な丸い玉を見つけ出して僕にくれた。
「おじいさまがくれたの。ガラス、きらきらひかってきれいでしょう?」
僕は、もらった大きなガラス玉を掌から落とさないように慎重に持って、慌ててポケットの中をもう片方の手で探った。すると、その時のお気に入りだった、スーパーボールが指先に触れた。キラキラ光る金のスパンコールが混じった透明なそれを僕が差し出すと、ハルは小さな両手で大切そうに包んで、「これでやくそくをわすれないね」と、陽だまりのような笑顔になった。
あの甘酸っぱい日から、僕たちの淡い恋は、わたあめのようにふわふわと、けれど確かに連綿と、続いている。
窓から現れた僕に、ハルは不思議そうに「ミネさんはいなかった?」と訊く。
ミネさんは、この家で住み込みで身の回りのお世話をしてくれている、七十過ぎのおばあさんだ。
「秘密の扉から来たんだ。ふと思い立ったから。それにミネさんも、もう寝る支度をしているかもしれないでしょ?」
着て来た黒のコートを脱ぎながら答える。
都内の大学から車で帰って来ると、どうしてもこの時間になってしまう。
ミネさんは僕のことも小さい頃から本当の孫のように可愛がってくれて、今でも何かと世話を焼いてくれるから、僕が今顔を見せると、きっと寝る間を惜しませてしまうだろう。それはちょっと心苦しいから。
ハルは、そうだね、という風に微笑んだ。
この家には、ハルとミネさんしかいない。ハルの家族は都内に家を構え、この家は一線を退いた先代たちが隠居先として使ってきたものだ。
去年の初夏に、幼い頃からそばに居たミネさんに伴われ、ハルはこの家に移り住んだ。
合格していた僕と一緒の大学にも終ぞ通うことなく、休学したままになっている。
「外は寒い?」
家からほとんど外に出なくて、ちょっと感覚の鈍っているハルが、僕のコートを受け取りながら問いかける。
「うん、今日は冷え込んだよ。大学でも、マフラーや手袋をしている人をたくさん見かけた」
「そっか。私も昨日の夜、ずっと編んでたセーターがやっと出来上がったから、着てみたの」
そう言って、白い木綿の柔らかそうなスカートの上に着た、クリーム色のセーターを指先でつまんで見せた。袖や襟元も丁寧にリブ編みされたそれは、シンプルだけれどとても完成度の高いものだった。
「あったかそうだな。編むのに時間がかかったんじゃない?」
「うん、すごく。夏の始めから編み始めたんだよ」
それから、奥から包みを持ってきて、その中身を僕の前に広げて見せた。
「ミネさんとはーくんの分も編んだの。サイズが合うといいんだけど…」
そう言って、僕に深いブルーの毛糸で編まれたそれを渡してくれた。アイスグレーのタートルの上から被ると、とてもあたたかくて、仄かにハルの纏う、ウォームコットンの香りがした。
「よかった。サイズ、ぴったりだね。ミネさんのはね、ラベンダー色の毛糸にしたんだよ」
ほわりと笑うハルに、「ありがとう」と言うと、嬉しそうに頷いた。
それから僕は窓辺の包みの存在を思い出し、ハルに手渡した。
「蘇芳庵の和菓子だ!わぁ、嬉しい!」
ハルは少し大げさなくらいに声を弾ませると、お茶の準備をしだした。
そばのアンティークテーブルの上に、紫千振が一茎生けられている、飾りのない華奢な花瓶が置かれているのが目に入った。部屋を見回すと、あちらこちらに同じように生けられた花瓶が置かれている。花が好きなハルのために、季節折々、ミネさんが心を配ってくれているのだ。
おじいさんが生前書斎にしていたレトロな壁紙の十五畳ほどのその部屋は、好きなものだけをいっぱい詰めこんだ宝箱なんだと、ハルはいつだか言っていた。そこかしこにハルらしさが溢れている。
いつだって鷹揚な抱擁力で迎えてくれたおじいさんが居たこの部屋が、ハルの唯一心を解き放てる場所だ。
僕は、いつかこの繭なしでも、僕の隣でハルが安心して羽を休められるような存在になりたいとは思うけれど、その準備がお互いに整うまでは、僕も一緒にこの繭に包まれながら、ハルとの時を重てゆければいいと思っている。
手持ち無沙汰に、先程までハルの弾いていた、琴の置かれた畳に腰を下ろす。
斗の琴糸を、ぽろん、とつまはじいたその音はよろよろ惑い、広がりを見せずに消えてしまった。
焦ることはない。急ぐこともしない。
大丈夫、ここに来ればハルはいつだって、陽だまりのあたたかさで、僕を迎えてくれる。
そう、何の疑いもなく信じていた。
ハルがいつものように、「今日はどんな一日だった?」と訊くので、講義の前に上野の美術館でMET展を鑑賞したことを聞かせる。
「METかぁ、高2の夏休みを思い出すね。あの時は人が多くてゆっくり見られなかったよね」
「人が多かったのもあるけど、ハルは夜のオペラが楽しみで、そわそわして気もそぞろだったからじゃないの?」
「そうかも。だってあのソプラノを目の前で聴けるなんて、夢みたいだったから」
「ルチアの狂乱の場では魅入っていたよね」
「うん。今でも思い出すと震える」
僕ももちろんあの場面には胸を打たれたけれど、ふと隣を向いた時に目に映った、ハルの頬を細く流れる透明な涙に、何か純粋な感動を覚えた。
今だって、真剣な面持ちで黒文字で和菓子を切り分け、それを大切そうに口に運ぶ仕草を見て、沁み入るような微かな胸の震えの連鎖を感じる。
僕もハルに、同じように今日のことを訊いた。
「ひとりでパンを焼いてみたんだけど、思っていたようなふわふわにはならなくて…」
「かたいパンになっちゃったの?」
「うん。ミネさんに教えてもらった通りにしたはずなのに、ミネさんのようにはいかなかったの」
「そりゃあ、ミネさんは偉大だからね。一朝一夕にはいかないんじゃない?これから練習したら、ハルもきっと上手くなるよ」
僕の言葉に、ハルは困ったように曖昧に微笑んだだけだった。僕はそれに一抹の不安を覚えたけれど、ハルはすぐに明るい声で、「ミネさんに、パンがかたくなっちゃったって言うと、スープを作ってくれたの。それに浸して食べたら、とっても美味しかったのよ。やっぱりミネさんは、偉大ね」と言って、にっこり笑ったので、僕の感じた不安も霧消した。
ーー幼い頃からバカがつくほど真面目だったハルは、生まれ持った才で何でもそつなくこなしてしまうから気づかれにくいが、本当はとても不器用だ。融通の効かない性格は、自分で自分の首を締めてしまう。
小さい頃はそれも笑い話にできた。
小学校に上がったばかりの頃、新卒の女性の先生を呼ぶ時に、思わず間違えてお母さん、と呼んでしまったことがあった。
ありがちなことなのに、ハルはおじいさんに会って慰めてもらうまでの一ヶ月間、ずっと鬱々と落ち込んでいた。
「先生の年でわたしくらいの大きな娘がいるはずないのに、とっても失礼なことを言っちゃった・・きっとわたしのこと、嫌いになったに違いないわ」と、おじいさんの膝の上でおおよそ六歳の子供らしからぬことを、この世の終わりのような顔で延々と嘆く姿は、今思うと可笑しいけれど、遊びに来ていた当時の僕は、隅のソファの上で神妙に聞いていたものだ。
「先生に聞いてご覧、先生は春香のことがもちろん大好きに決まっているよ。こんなに愛らしくて、いい子なんだからね」
大きな手で頭を撫でながら目を細めて言うおじいさんは、僕には魔法使いの様に見えた。
だって、僕がどうしたって元気付けることの出来なかったはるちゃんを、いとも簡単に笑顔にしてしまうんだから。
僕はこの頃から、いつか僕がおじいさんのように、ハルを守るんだと心に決めていた。
けれど大きくなるに連れ、ハルは自分を追い込むようになり、僕はそんなハルにかける言葉が見つからなかった。
ハルは自然と人を惹きつけ、期待され、それに答えるべく努力した。もちろんそれに甲斐も見出していただろうが、ハルの対外的な人となりの形成が、周りの期待に沿った形でなされていくのを見て、僕は絶えず違和感を覚えていた。
十四歳の時に唯一の拠り所だったおじいさんが亡くなり、人前では気丈に振舞っていたハルが一人になってじっと空を見つめていた時、僕はどうしても近づくことが出来なかった。ハルは人を寄せ付けない絶対的な空間に、たった一人で閉じ込められているかのようだった。
僕は、あの時のハルの姿と、僕の感じた虚無感を忘れられない。
ハルが孤独だったら、僕の世界だって、色をなくすんだ。
「はーくん、ピアノを弾いて」
ハルは天井から吊られた柔らかい天蓋に覆われたベッドの上で、僕はカウチの上でそれぞれ本を読んでいると、ハルがおもむろに声をかけた。
僕は素直に頷いて、本にしおりを挟み、琴のそばのピアノに向かう。
ハルがすぐそばに寄ったのを確認して、鍵盤の上に指を添える。
いつものように、まずはムソルグスキーのプロムナードを弾き始めた。
「はーくんがいつもこれを弾くから、私、ムーさんの肖像画を見てみたの。きっとムーさんは展示会で、のっしのっしと悠然と歩いていたんだと思うわ」
高名なる作曲家をムーさんと呼んでしまうハルは、至極納得したような顔つきで口を開いた。僕はそれが可笑しくて、そうかもね、と笑って頷いた。
「そもそもプロムナードって言葉だけを考えると、フランス語で散歩って意味だから、そうだな、ハルのプロムナードは…」
僕は子犬になったハルを連れて散歩に出かけることを想像して、頬を緩めてショパンの子犬のワルツを弾く。
「もう。私が落ち着きがないって言いたいの?」
ハルが頬を膨らませる。「じゃあ、はーくんのプロムナードは?」とハルが言うので、僕はなんとなく思いついたモーツァルトのトルコ行進曲を弾いた。
するとハルはすぐに「違う」と言い、「はーくんはそんな風に、ファンファーレの中を華々しく歩く感じじゃないよ」と言うので、僕はついでにベートーベンのトルコ行進曲も弾いてやった。
ハルは、「だから、違うって言ってるじゃない」と笑った。
それから僕は、「二人のプロムナードだよ」と言って、グリーグの春に寄すをハルに聴かせる。
その抒情的な曲を弾きながら、子供の頃の情景を思い出していた。
……零れそうなくらいにたわわの花を咲かせる桜道を、僕とハルは手を繋いで歩く。
淡いピンクの間隙から、無数の柔和な筋が降り注ぎ、僕たちの足元ではその光がはしゃぐ。
その世界の瞬きをしなやかに感受するハルは、陽光の中に空いている方の手を伸ばし、その指先から光がじわじわと全身に向けて侵食する。
そして傍らの僕は、そんな柔らかい光に包まれたハルを、眩しさに目を細めて見つめていた……
…蘇るいつかの僕たちの、優しいはずの桜色のプロムナードに、今日は何故だか僕は切なくなった。
ハルは、僕の背中に自分の背中を預けるようにして、春に寄すを聴いていた。
その顔は見えなかったけれど、微かに伝わる震えに、僕は俄かに胸の奥がざわめいた。
いつのまにか、空には月が浮かんでいた。
しっとりとゆらめくベールのカーテンに、そっと、儚い影が忍び寄る。
ーーおじいさんが亡くなった後すぐに、僕は通っていた男子校に退学届を出し、ハルのいる都内の中高一貫校に編入した。
それまでは遠くから見守るしか出来なかったけれど、これからはそばにいようと思ったからだ。
高二の秋、満場一致でハルは生徒会長に選ばれた。全校生徒の前でステージの上に立つ姿は堂々たるものだった。その天性のリーダーシップは遺憾無く発揮され、ピンと背筋の伸びた美しい容姿も相俟り、尊敬と羨望の眼差しを向けられた。
けれどハルはやっぱり不器用だった。
不特定多数の前での威風は、クラスメイトの一人ひとりに対しては意味をなさなかった。
距離のはかり方が下手で、空回りばかりしていた。
いつもは本当にただそばにいるだけだった僕も、その時ばかりは前に進み出て潤滑役に徹した。
僕はバカ正直で一生懸命なハルがどうしようもなく愛しかったし、そんなハルの性格により生じる障害があるのなら、僕は道化にだって悪魔にだって、ハルを守るためなら何にだってなれた。
本当に、何にだってなれたはずなのに。
けれど僕は、子供の頃に誓ったような、おじいさんのような存在にはなれなかった。
注目を一身に受けて朗々と答辞を読み上げ、優秀な成績で卒業したハルは、家に戻るなり、ぷつりと糸が切れたように何もできなくなった。
僕はハルに、ピアノと琴で一緒にさくら幻想曲を弾こうと提案した。
背中合わせのハルが頷いた気配がした。
それからハルは琴の前に端座し、調弦をし出す。
ピアノの前に座った僕からは、ハルの顔は斜向かいの位置に見える。
僕たちでアレンジしたその曲は、ハルの琴が主旋律を奏で、僕のピアノが伴奏する。
巾、為、十、為、、
と、ハルの哀愁の高音が先行する。
僕も鍵盤に指を滑らせ始めながら、ハルの手元に目をやる。
右手で琴糸を爪弾く一方、ハルの左手はその一本の糸を、琴柱を挟んだ反対側から絶えず気遣う。音を鳴らした後でもその指先は繊細な動きを見せ、余韻を高めることに努める。
ひとつの音が愛でられて、たまゆらの色を変幻させる様は、麗しい。
僕はハルと一緒にさくらを弾くこの時間を、何か荘厳な儀式のように思っている。
粛々たる音の連なりには、ハルのその時そのときの感情が、意図せずして滲み出る。
終盤に差し掛かる頃、僕は譜面通りに一旦演奏を止める。
ハルのトレモロが、水を打ったような静寂に響き渡った。
悲哀に満ちた、絶望にも似たその細かい往復は、次第に穏やかに、そして甘さをも滲ませながら、止んだ。
ー…やっぱり何かがオカシイ。
僕はこの数時間でわだかまっていたことを確かめるために、この曲を選んだのだ。
そして、このトレモロは、僕の恐れていたことを如実に物語っていた。
ーーあの卒業の日から、ハルの濡羽色の瞳は何も映さなくなった。
大切にしていた庭の花に目をかけることも忘れ、味がしないのと食事を拒み、大好きな琴に触れることもしなかった。
可愛がっていた猫がすり寄ってきても、虚空を見るような眼差しを向けるだけだった。
何をするわけでもなく、ただ窓のそばの籐椅子に腰かけ、日がな一日見るともなしに空を見上げていた。
一方ですっかり自分に自信をなくしていた僕は、慣れない大学生活を理由に、ハルに会う回数は間遠になっていた。
その間、気づけば僕は昔の記憶を丹念に辿っていた……
「はるちゃんがね、ぼくのおよめさんになりたいんだって」
「ほう。春香がそう言ったのかい?」
「うん、そうだよ。ぼくね、いいよって言ったんだ。でも…」
「ふふ、遥くん、少し不安になったんだね」
「いやなんじゃないからね!…ただね、なんだかわかんないけど、このあたりがね、ぞわぞわするんだ」
名状しがたい燻りを、胸のあたりを抑えながら、おじいさんに訴えたことがあった。
ポケットをぱんぱんに膨らませるガラス玉が、一入重たく感じた……
今振り返ると、それは何か予感めいたものに思える。
そのくすぶる感じは、今も僕の胸にあり、そして、依然それは言葉にならない。
ハルがこの家に行きたいと言った一年半前、ハルを持て余し始めていた両親はそれを了承した。
一回り年の離れたハルのお兄さんは唯一渋ったけれど、お兄さんも多忙を極める中で十分に目を掛けられなかったため、両親の説得に応じざるを得なかった。
あれからハルはミネさんと二人、この家に住んでいるが、ハルの元を訪れるのは、僕とお兄さんだけだ。
お兄さんも滅多に顔を出すことが出来ないから、ハルは僕がいない昼間のほとんどを、この部屋でひとりで過ごしている。
だから、僕は一日の大半のハルの様子が分からない。
分からないのだからしょうがないと、僕は、今日のはじめの抱擁の様に、昔と違って、些細な変化を見て見ぬ振りをするようになった。
けれど、今日の違和感は、見逃しグセのついた網目の大きな笊にも、容易に引っ掛かってしまうようだった。
僕は、演奏を終え、視線の先の俯くハルを見極めるように眺め見た。
ハルは、あの春に寄すから、一言も喋らない。
これはやはり追及すべきだと判断した僕は、緊張を与えないように、努めて自然にハルを窓辺へといざなった。
これくらいの寒さだったら大丈夫だろうと、窓を開き、二人並んで窓枠に腕を休め、星空を見上げる。
追及と言っても、僕は口を開かない。
昔からハルは、話したいことには饒舌になり、そうでなければ頑なに口を閉ざす。無理強いすればするほど、その堅牢さは増すから、僕の手法はその場の雰囲気作りだ。
ハルは僕のこの対応策を知っているから、僕の意図に気づいて、話す気になってくれた暁には、縷々と言葉を紡ぎ始める。
僕はハルに全面的に甘かったが、ハルも僕に対しては心を許してくれていたから、大抵のことはすぐにその口を割る。僕を困らせたいがために、わざと黙ることさえあった。
けれど、今、隣のハルは何も言わない。それどころか微動だにしないように感じる。
思い余って、頭ひとつ分小さいハルの横顔を見下ろした。
僕は、驚きに息を呑んだ。
ハルは、静かに涙を流していた。
それは、あのオペラで見た涙とは、なにか根本的に違うもののように思えた。あの、自分の外側で起こったものが身体の中を巡り巡って、純粋な想いとなって再び雫となって零れ落ちたようなものではなかった。
それは、ハルの胸のずっとずっと奥の、穏やかに水嵩の増す緩やかな湖面が、俄かに波うった拍子に溢れ出た、ハルの内側から湧いた涙だった。
僕は、ハルのそんな涙を、記憶の限り一度も見たことがなかった。
ー…潮時か。
これから二人の形がどんな風になるのかは分からない。
けれど、僕は漠然と、そう思った。
冷静さを取り戻した僕は、敢えてハルの涙のことには触れずに、おもむろに小さな頃によく二人で歌った歌を口遊んだ。
"Twinkle, twinkle, little star.
How I wonder what you are...."
『遠いお空で瞬いているお星さま。僕は、宝石みたいに輝く君が、一体誰なのか気になって仕方がないんだ』
その時の僕にとって、空の星も、隣のハルも、はるか遠いことには変わりのないことのように思えた。
そして、その存在も、全く知らないもののように感じた。
…………
次の朝早く、ハルは姿を消した。
夕方に僕がハルの好きなマカロンを片手に訪れると、知らされて急いで駆けつけたというお兄さんが、憔悴し切った様子で状況を説明してくれた。
早起きのミネさんがいつものようにまだ暗いうちに起き出すと、いつもは日の出の後にしか眠りにつけないはずのハルの部屋から、物音ひとつしなかった。不審に思ったミネさんがノックをして扉を開くと、そこはもぬけの殻だったらしい。
「警察にはすぐに捜索願を出したよ。でも、どれくらい現金を持って行ったかも分からないし、置き手紙もないし、行く宛ての見当も全くつかなくて捜査は難航するって言われてね。ミネさんは警察の質問に答える途中で倒れちゃうし、それから、..........ーー」
僕は淡々と聞いていた。
、否、聞いたそばからするするとひらがなが通り抜けてしまって、意味をなさなかったという方が正しい。
ただ、もうハルは戻ってこないだろうなと、感じた。
僕はふらふらとハルの部屋に入って、呆然と部屋を見回した。
まだ、ハルの匂いがそこかしこに残っている。
ー…本当に?ほんとうに、ハルは僕の前からいなくなってしまうの?
ふと目の端に、窓枠がキラリと光るのが映った。
近寄ると、あの日のスーパーボールがぽつんと置かれていた。
僕が前に誕生日にプレゼントした、繊細な刺繍のあしらわれた白いレースのハンカチの上にのせられたそれは、記憶の中と違って、夕日を受けてもちっとも輝かない。
金のスパンコールは錆びたように鈍く沈んでいて、さっきの光が最後の瞬きだったとでも言うように、暗い、持ち重りのするものになってしまった。
ハルは、思い出も約束も、何もかも置いて、身一つで行ってしまった。
(ハルはちゃんと、コートを着て行っただろうか?)
僕は、見当違いなことを、霧がかった思考の中で、ぼんやりと思った。
けれど、僕は、今度こそ悟った。
ー…ハルは、もう戻ってこない。
……………
ハルを失って得たものなど、何もなかった。
あの後すぐに僕はアメリカに渡り、現地の大学を卒業し、就職した。
伝え聞くことには、ハルらしき遺体が南の離島の海岸に上がったらしいが、それは原形をとどめておらず、特定する術もなかったらしい。ミネさんも数年前、ひっそりとこの世を去った。
時々思い出したようにグリーグの春に寄すを聴いてみたが、それでハルの姿を思い描くことは出来なかった。
あの日のような、優しい光に包まれた春の陽気の印象は見る影もなく、僕にはどうしても、春の埃っぽい、どんよりした鈍色の空しか浮かばない。
この十年、僕がどんな風に生きてきたのか、よく思い出せない。
ハルの顔も、そこだけ黒く塗りつぶされたように、思い出せない。
どうやってここまで来たのかも、全く思い出せない。
けれど、父親の会社を継ぐのに、十年ぶりに日本に降り立ち、そして、僕は気づくとここに立っていた。
「ハル、これ、ガラスじゃなくって水晶じゃないか」
今更になってその事実に気づき、僕は、小さく笑って、それを空高く投げ放った。
《完》