其ノ参拾五 ~少女ノ遺言~
鵲村の公園では、待ち侘びたとばかりに子供達が遊んでいる。
数日に渡って降り注いだ雨がようやく止んだ今日、外で遊ぶ事がついに解禁されたのだろう。
しかし、空に太陽は見えず――灰色の雲が支配している。
草木に残留した雨水の雫が、微かな光を反射していた。
「痛くないですか?」
ベンチに腰かけた瑠唯の母に、世莉樺は問う。
瑠唯の母が負った傷を洗い、持ち合わせた絆創膏を貼り付けた所だ。
「ありがとう世莉樺ちゃん、もう大丈夫だから……」
瑠唯の母は小さく頷き、世莉樺へと応じた。
二人の弟妹を持つ姉としての気質故か、世莉樺は絆創膏を常備していたのだ。
「自転車でも当て逃げです、警察に行きますか?」
ベンチの側に立っていた一月が、瑠唯の母に提案した。
彼の片手には、瑠唯の母が持っていた買い物袋が下げられている。
「……ううん、いいわ」
瑠唯の母は、首を横に振った。
そして彼女は視線を上げ、前方を見やる。
世莉樺と一月も、瑠唯の母の視線を追った。
その先には――木材で組み上げられた、大きな櫓が佇んでいる。
「そう言えば明日でしたね、夏祭り」
世莉樺が発する。
組み上げられた櫓が、世莉樺に夏祭りの事を思い出させた。
今の今までは、そんな事を思い出している余裕など無かったのだ。
世莉樺は、瑠唯の事や真由の事に完全に気を傾けていたのだから。
雨上がりの草木の独特の匂いを纏った風が、世莉樺達を緩やかに覆い包む。
「あの子が……瑠唯が亡くなってから毎年ね、私ここに来てるの」
公園で遊ぶ子供達の声を背に、瑠唯の母が発した。
彼女は続ける。
「世莉樺ちゃん知ってるでしょ? 瑠唯が蝶を好きだって事」
「え……はい」
どこかぎこちなく、世莉樺は瑠唯の母へ返した。
一月は、その手に下げた買い物袋をベンチへと置く。
瑠唯の母は、問いを重ねる。
「お祭りの最後にある、綺麗に光る蝶を沢山空へ放す行事の事、知ってる?」
「……『月送り』」
一月が呟く。
世莉樺と瑠唯の母が、一瞬彼を向いた。
瑠唯の母と視線を合わせつつ、彼は問う。
「綺麗に光る蝶っていうのは、『カササギユキシズク』の事ですね?」
「! 瑠唯ちゃんが一番好きだった蝶……」
瑠唯の母は、小さく頷く。
彼女は、視線を組み上げられた櫓へと戻した。
「あの子ね、楽しみにしていたの。私が縫った浴衣を着て……月送りを見に行く事」
由浅木瑠唯は、蝶が好きだった。
中でも、彼女の一番の気に入りの蝶は、『カササギユキシズク』。
月の光を受けると、羽から淡い光を発する生態を持つ、鵲村特有の蝶だ。
鵲村の風習となっている、この蝶を沢山捕まえて夜空に放すという『月送り』と呼ばれる行事。
瑠唯は今年も楽しみにしていたが――彼女が夜空へ舞い行く蝶を見る事は、無かった。
夏祭りの前に、瑠唯は死んでしまったのだから。
「あの蝶の模様の浴衣……ですよね」
瑠唯の母の前を訪れた時、世莉樺は瑠唯の母が娘の為に縫ったという浴衣を目にしていた。
見ただけでも、丁寧に縫った事が世莉樺には理解出来た。
同時に、瑠唯の母が自身の娘を如何に大切に思っていたのかも。
「私も楽しみだった、瑠唯があの浴衣を着て喜ぶ姿が。あの子の笑顔を見ることが……」
瑠唯の母の顔は、世莉樺と一月には視認できない。
しかし、彼女の発する言葉を聞くだけでも伝わってくる。
瑠唯の母が抱く、表現しようの無い悲しみが。
「世莉樺ちゃん……貴方にはまだ、話して無かったわね」
「え……」
悲哀を露わにするように、瑠唯の母は世莉樺へと打ち明ける。
「私……瑠唯に酷い事を言ったの。あの子が一番傷つく言葉を……」
世莉樺は既に知っていた事だったが、改めて瑠唯の母自身の口から聞き、唾を呑む。
彼女の側で、一月はその視線を瑠唯の母に向けていた。
表情を表向きは変えていなかったものの、一月には思う所がある。
「……『化け物』って言ったんですね、瑠唯ちゃんに」
「……!」
瑠唯の母は驚愕した。
何故、世莉樺が知っているのだろうか。
瑠唯の母は世莉樺を振り返る、彼女は手の平を差し出していた。
手の平には――オレンジ色の折り紙で折られた、折り鶴が乗せられている。
「信じられないと思いますけど、この折り鶴……瑠唯ちゃんが私に託しました。瑠唯ちゃんのお母さんに渡して欲しいって」
瑠唯の母は、世莉樺の言葉に僅かも驚きを示さない。
驚きも、違和感も示さない。
世莉樺に話していない筈の事――瑠唯に酷い事を言った事や、死んだ筈の瑠唯が世莉樺へ折り鶴を託した事。
普通に考えれば、正気を疑われそうな事ばかりだ。
「……瑠唯が」
瑠唯の母は漏らしつつ、オレンジ色の折り鶴を受け取った。
そして――物憂い眼差しでそれを見つめつつ、
「瑠唯……世莉樺ちゃんの所にも現れたのね」
「!」
瑠唯の母が漏らしたその言葉を、世莉樺は聞き逃さなかった。
確かに、『世莉樺ちゃんの所にも』と言った。
その言葉が意味する事は――。
「あの子……姉ちゃんの所に来る前に、自分のお母さんの所に行ったんだね」
そう発したのは、世莉樺でも一月でも、瑠唯の母でも無かった。
その言葉の主を――世莉樺と一月は振り返る。
ただ一人、瑠唯の母だけは反応しなかった。
「残留思念になってもなお、この人に……お母さんに、会いたかったんだよ」
声の主――炬白は、何時の間にか世莉樺達の側に居た。
炬白の視線の先には、ベンチに座った瑠唯の母の背中。
瑠唯の母が居る前で彼に反応すると、独り言を行っているように聞こえてしまう――同時にそう思ったのか、世莉樺も一月も炬白に言葉を返そうとはしない。
黒着物の少年と視線を合わせ、軽く頷くのみである。
「そうでしょう? だから世莉樺ちゃん……その事を知っているんでしょ?」
「……!」
瑠唯の母の、微かに涙の混ざった声で――世莉樺は我に戻る。
「はい……瑠唯ちゃんが、教えてくれました」
世莉樺が瑠唯から伝えられた事――それは、瑠唯の母が瑠唯を傷つける事を言っただけに留まらない。
瑠唯の死の真相だ。
瑠唯が単なる事故死ではなく、自身の担任の教師に襲われて逃げ出し、その際に高所から転がり落ちて母を呼びながら無念の死を遂げた事。
伝えるべきか――世莉樺は迷ったが、瑠唯の母が発し始めた悲痛な涙声に、言葉を詰まらせる。
「最低よね……母親失格だわ、たった一人の自分の娘にあんな酷い事を言うなんて……!」
瑠唯の母は、両手で顔を覆う。
彼女の嗚咽が、世莉樺にも一月にも、炬白にも届く。
「瑠唯ちゃんは、瑠唯ちゃんのお母さんに心配をかけたくなくて、嘘を……」
「分かってたわ、瑠唯は良い子だもの……あの子が何の理由も無く、私に嘘を吐くような子じゃないって事ぐらい……」
瑠唯の母が娘と仲違いした切っ掛け、それは瑠唯が母に嘘を吐いていた事だった。
学校での虐めは無くなった、もう心配しなくても良いと。
本当は、瑠唯に対する虐めは無くなってなどいなかったが、瑠唯は母にその事を隠し続けていた。
しかし、瑠唯には決して悪意は無かったのだ。
ただ一心に、自分の母に心配を掛けたくなかったが故の嘘なのだから。
「私、あの子の気持ちを少しも考えないで……!」
瑠唯の母を覆い包むのは、後悔と罪悪感。
娘が自身に嘘を吐いていた事を知った時、彼女は瑠唯に辛く当たってしまった。
嘘を吐き続け、娘が虐めの事を一人で抱え続けていたことが悲しかったのは確かだ。
それに、瑠唯が嘘を吐いていた事実そのものが堪えられなかった事もある。
だが――多少は、娘の気持ちを考えてあげても良かったのではないだろうか。
嘘を吐いてでも、一心に母の事を思い遣ってくれた少女の優しさを、酌んであげても良かったのではないだろうか。
瑠唯の母は、自身が娘に投げつけた言葉を後悔し続けていた。
あんな事を言うよりも、共に悲しむべきだったのだ。
娘が嘘を吐いている事を知った時――怒鳴りつけて理屈を言うよりも、黙って瑠唯を抱き締めてあげるべきだったのだ。
「瑠唯……きっと私の事を恨んでる、もう謝る事も出来ない……!」
瑠唯はもう、この世には居ない。
娘の笑顔も、娘が自身を呼んでくれる事も、娘に謝る事も――全て、叶わない事となってしまったのだ。
震えるような涙声で、瑠唯の母は繋ぐ。
「もう一度、あの子に……瑠唯に会いたい……!」
その言葉を最後に、押し黙るような沈黙が訪れる。
公園で遊んでいる子供達に、瑠唯の母は生前の瑠唯の姿を見た気がした。
(瑠唯ちゃんのお母さん……)
瑠唯の母に感情移入した世莉樺は、その瞳に涙を浮かべている。
正直に言えば――真実を知った時、世莉樺は瑠唯の母に疑いを抱いてしまった。
自らの娘を『化け物』と言うなど、親としてあってはならない事であるから。
けれど、瑠唯の母が如何にその言葉を後悔しているのかが、世莉樺には伝わってくる。
瑠唯の母を責める事など、世莉樺には出来なかった。
「娘さんが恨んでるなんて事、無いと思います」
沈黙を破ったのは、一月だ。
瑠唯の母は、涙を拭いつつ――彼に発する。
「どうして分かるの? 何も知らないのに……」
瑠唯の母からすれば、一月の言葉は根拠のない戯言に等しかった。
一体、何が分かると言うのか。
「…………」
一月は押し黙る。
彼は視線を下に向け、悲痛な面持ちを浮かべていた。
やはり、先程の言葉は上辺だけの言葉だったのか、瑠唯の母はそう思う。
しかし、一月が次に発した言葉で――瑠唯の母は、自身の考えを変えざるを得なくなった。
「……僕にもあります。一番大切だった筈の人を、汚い言葉で深く傷つけてしまった事が」
「え……?」
瑠唯の母には、予期しえない言葉だった。
一月の表情を見れば、瑠唯の母には彼が出まかせを言っている訳では無い事が分かる。
少年の瞳は悲しげで、後悔と悲哀の色が滲み出ていた。
(この子もしかして、私と同じ気持ちを……?)
瑠唯の母には、一月の瞳を見ただけで分かった。
出逢ってから間も無いが、それでも。
彼は、自分と同じ痛みを抱いている。
彼も自身と同じく――大切な人を、傷つけてしまった事があるのだと。
(一月先輩、琴音さんの事を……)
傍らで、世莉樺は思う。
一月が誰の事を思い浮かべているのか、世莉樺には分かる。
彼は、かつての自分自身の姿を瑠唯の母と重ねているのだ。
大切な人を傷つけたまま、謝る事も出来なかった自分自身と。
「でも、その子は……琴音は僕を助けてくれました。僕は彼女を傷つけたのに、それでも彼女は僕を救う為に、尽力してくれたんです」
一月は、思い返す。
彼が鬼と成った琴音と遭遇した時、同時に現れた少女の事を。
白い和服に身を包んだ、幼い女の子の事を。
彼女――『千芹』と言う精霊は、亡くなった琴音の片割れであり、琴音の本来の優しい人格が形を成した存在。
琴音が一月を心から恨んでいたのならば、現れる筈の無い存在だ。
彼女が現れた事こそ、琴音が一月を恨んでいなかったという証拠なのだ。
一月と、瑠唯の母――互いに大切な者を傷つけてしまった過去を持つ二人。
恐らく同じ痛みを抱いているであろう瑠唯の母へ、一月は紡ぐ。
「それに……相手を思い遣って、自分が痛い思いをしてでも嘘を吐ける子が、その人を恨むだなんて事、無いと思います」
瑠唯が母に吐いていた嘘は、悪意のある嘘では無い。
ただ一心に、母に心配を掛けたくない、ただ一人の家族に悩み事を与えたくない――純粋に家族の事を思えばこそ、吐けた嘘だ。
自分が辛い思いをしてでも、母が笑ってくれるのなら――幼い少女ながら、瑠唯はそういう優しさを、自己犠牲心を持ち合わせた子だったのだ。
「私も、そう思います」
続けたのは、世莉樺。
瑠唯の母は――世莉樺から手渡されたオレンジ色の折り鶴を、手の平の上で弄ぶ。
その時、
「あ……!?」
瑠唯の母が発した声に、世莉樺と一月は反応する。
折り鶴の翼の裏に、鉛筆で小さく文字が書かれていた。
自身の母に宛てた――瑠唯からのメッセージが。
『お母さん、ごめんなさい』
瑠唯の母には、それが間違いなく瑠唯の字だと分かる。
たった一人の家族――亡き大切な娘のメッセージ。
瑠唯が母に贈ったのは、母を恨む言葉でも、母を糾弾する言葉でも無かった。
ただ、母に許しを求める言葉のみ。
「っ……うっ……! 瑠唯……!」
瑠唯の母がすすり泣く声が、世莉樺と一月、そして炬白の耳に入り始める。
幼い子供達のはしゃぎ声が響く公園で、世莉樺達は瑠唯の母の震える背中を見つめていた。




