其ノ弐拾 ~瑠唯ノ母~
翌日――世莉樺は炬白と共に、鵲村の道に歩を進めていた。
傘を差している事は同様だったものの、今日の彼女は制服ではなく、私服姿だ。
世莉樺はふわふわとした質感の白いニットの長袖Tシャツに、水色のショートジーンズを着用していた。
そのすらりと長い足には、茶色いハイソックスが通されている。
動きやすそうで、活発な印象を醸すファッションだった。
世莉樺が向かう先は瑠唯の家、彼女の目的は、瑠唯の母に会う事である。
悠太には『剣道部の仕事』と理由を付け、家で留守番をさせていた。
幼い悠太は、特に疑問も無く信じた。
「姉ちゃん、瑠唯の母さんの事知ってるの?」
炬白はいつも通り、黒い着物姿である。
世莉樺は頷いた。
「瑠唯ちゃんのお母さんとはね、何度か会った事あるの。公園で瑠唯ちゃんと一緒に遊んだ時に、瑠唯ちゃんのお母さんが瑠唯ちゃんを迎えに来た時とか、私が瑠唯ちゃんの事、家まで送って行った時とかに」
雨や草木の匂いを帯びた風に、世莉樺の茶髪いロングヘアが空を泳ぐ。
傘を持っていない方の手で髪を押さえながら、世莉樺は続けた。
「けど、最後に会ってからもう結構経ってるし……瑠唯ちゃんのお母さんが私の事、覚えててくれてるかは分からないけど」
瑠唯の母と会ったのは、世莉樺が小学生だった頃である。
世莉樺は瑠唯と仲が良かった為、その関係で瑠唯の母と顔を合わせる機会も数度あった。
しかし、数年の時を経て――世莉樺は成長した。
瑠唯の母が、今の彼女を見ても世莉樺だと理解出来るか、疑わしい物がある。
さらに、何の前触れも無く突然押しかけて迷惑では無いのか。
そう考えれば、世莉樺は遠慮の念が込み上げる。
「でも、瑠唯の母さん以外に居ないんでしょ? 生前の瑠唯を知ってて、姉ちゃんが今でも会えそうな人」
「……うん」
世莉樺は確かに、遠慮や配慮の気持ちはある。
けれど――彼女には瑠唯の母以外に希望が無い。
瑠唯の真相を知らなければ、天照は世莉樺には抜けず、鬼と成った瑠唯を止めることは出来ない。
さらに、真由を救う事も叶わないのだ。
「でも、どう説明したらいいんだろう。こんな事……」
呟くような、覇気に欠ける世莉樺の声が雨音に吸い込まれていく。
一体、どう説明すればいいのだろうか。
貴方の娘が鬼に成って人を殺し続けているんです、そんな事を言える筈が無い。
不安な念が、世莉樺の足を鈍らせる。
「でも姉ちゃん、急がないと真由も……」
「!」
我に返るような面持ちを、世莉樺は浮かべた。
今も真由は、病院のベッドの上に居る。
目を開ける事も泣ければ、何かを発する事も無く、植物人間のように昏睡しているのだ。笑う事も、何も出来ずにいる妹――彼女を救うには、前に進むしかない。
僅かでも可能性があるのならば、世莉樺はそれに賭けるしかないのだ。
昨晩世莉樺の下に現れた、瑠唯の本来の人格。
彼女が提示してくれた希望を、無駄にするわけにはいかなかった。
「そうだよね、こんな所で立ち止まってる暇なんて、無いよね」
世莉樺は決意を新たにし、雨水でぬかるむ道に、躊躇なく歩を進め始める。
冷たさと生温かさを含んだ鵲村の空気が、彼女を覆い包んでいた。
◎ ◎ ◎
「え……世莉樺ちゃんなの?」
すりガラス付の引き戸を開けつつ、女性は発した。
その木造住宅の表札には、『由浅木』と。
世莉樺は、生前の瑠唯が暮らしていた家に来ていた。
既に世莉樺は、傘を閉じている。
「お久しぶりです」
世莉樺は、女性――瑠唯の母にお辞儀する。
彼女の茶髪が、ニットのTシャツに流れた。
数年振りに会ったものの、瑠唯の母は世莉樺を忘れていなかった。
成長した世莉樺を、瑠唯の母は一目で世莉樺だと理解したのである。
一方、世莉樺の目には、瑠唯の母は全く変わっていなく思えた。
初めて会った頃と変わらず、瑠唯の母は若く、優しげで――嫋やかな雰囲気を持つ女性だった。
その瞳は澄んでおり、見つめられただけで心が落ち着くような気すら感じられる。
瑠唯の母は、世莉樺を家の中へと招き入れた。
その後ろには、炬白も付いて来ている。
「よく来てくれたわね……こんな雨の中、大変だったでしょう?」
「いえ、全然……それよりも、突然押しかけてごめんなさい」
床に敷かれた座布団に腰かける世莉樺。
瑠唯の母は、彼女に紅茶の入ったカップを手渡しつつ、応じる。
「ううん、そんなこと気にしないで、世莉樺ちゃんには私……とても感謝してるから」
瑠唯の母は、テーブルを挟んだ向かいの位置に腰かけた。
世莉樺が怪訝な面持ちを浮かべると、
「世莉樺ちゃん、ずっと瑠唯の味方でいてくれたでしょ? 他の子達と違って、貴方だけが瑠唯を嫌わずに、あの子と普通に接してくれたって」
「あ……」
考え込んだ後、世莉樺は小さく頷いた。
すると、瑠唯の母は――視線を横に向ける。
世莉樺がその方向を追うと、畳張りの仏間があった。
「世莉樺ちゃん、瑠唯はね……もうこの世に居ないの」
「!」
世莉樺は既に知っている事だった。
それを知っているのも変に思われるかと思い、世莉樺は驚きの表情を取り繕おうとする。
しかし、それよりも先に――世莉樺の母が、告げた。
「あの子に挨拶してくれない? その紅茶、飲んだ後でいいから」
「……分かりました」
その後、世莉樺は瑠唯の母と取り留めも無い会話を交わしつつ、紅茶を飲んだ。
世莉樺は立ち上がり、仏間へと歩を進める。
そして、仏壇の前に敷かれた座布団に腰を下ろした。
仏壇には、生前の瑠唯の写真が飾られている。
今となっては鬼と化した瑠唯の笑顔が、そこにあった。
(……やっぱり、瑠唯ちゃんのお母さんには伝えるべきじゃない)
世莉樺は鈴を二度鳴らし、両手を合わせた。
鬼と成った瑠唯の事、さらに世莉樺の下に現れた瑠唯の事を、瑠唯の母に伝えるべきか――世莉樺の結論は、『伝えない』だった。
世莉樺の目には、どうみても瑠唯の母は娘の事に悲しみを抱いている。
そんな最中で、『瑠唯が鬼に成っている』等という非現実的な事など、言いだせる筈が無い。
世莉樺は両目を開けた。
「! あの、瑠唯ちゃんのお母さん、これは……?」
世莉樺は、仏壇の前に畳んで置かれた衣服に気付き、問いかける。
気付けば、それは紺色の浴衣だ。
紺色の地に、白い色で蝶の模様があしらわれている。
「それ……私が瑠唯の為に縫った浴衣なの。夏祭りに着て行こうって、あの子の為に」
だとすれば、蝶の模様があしらわれている理由は世莉樺には容易に想像が付く。
蝶が好きだった瑠唯の為、瑠唯の母は蝶の模様を縫ったのだろう。
「でも……その浴衣を瑠唯が着る事は、無かった」
「……!」
瑠唯の母の言葉が何を意味するのか、世莉樺は簡単に理解出来た。
世莉樺の面持ちが、悲しい物へと変わる。
瑠唯の母に促され、世莉樺は居間へと戻った。
「その浴衣を着る前に、夏祭りが来る前に……瑠唯は、亡くなってしまったから……」
雨音が、残酷に響き続けている。
瑠唯の母は、世莉樺から視線を外し――その瞳に、薄らと涙を浮かべていた。
生前の一人娘の事を思い出しているのだろう。
世莉樺は戸惑う。
今、自分が発せようとしている言葉は、発しても良いのだろうか。
瑠唯の母を深く傷つけるかも知れない質問を、こんな最中で――。
「……瑠唯ちゃんの、お母さん」
しかし、気付いた時には既に、世莉樺は発していた。
瑠唯の母が顔を上げる。
涙の浮かんだ瞳に見つめられても、世莉樺の決意は揺るがなかった。
(立ち止まってる暇なんて無い。このままだと、真由も瑠唯ちゃんも救えないんだから……!)
ここで一歩を踏み出さなければ、道は閉ざされてしまう。
決断しなければ、全てを失うという最悪の結果を招くことになる。
拳を握り、意を決し――世莉樺は発した。
「こんな事を訊くなんて、非常識も甚だしいって分かっています。でも、それでも……! もし差し支えなければ、私に教えてくれませんか? 瑠唯ちゃんに何が起こったのか、どうして瑠唯ちゃんが……あんなに優しい子が……!」
気付いた時――世莉樺の声には、涙が混ざっていた。
どうして泣いているのか、世莉樺には自分でも分からない。
娘を亡くした瑠唯の母に、感情移入してしまったのか。
それとも、昏睡する真由の事が心配で、訳も分からず涙が出たのか。
或いは、自身が知る心優しい瑠唯が亡くなってしまった事、鬼となって居る事に理不尽さを感じ、悔しさが涙となって現れたのか――。
「! ごめんなさい、私……」
世莉樺は自身の涙を拭いつつ、大きな声を出してしまった事を謝罪する。
すると、瑠唯の母は首を横に振り、世莉樺に応じた。
「世莉樺ちゃん……あの頃と変わってないのね」
「え……?」
瑠唯の母は、寂しげでありながらも嫋やかに微笑んだ。
「小さい頃も貴方、自分が虐められるって分かっていても、それでも瑠唯の事を守ってくれたでしょ? 世莉樺ちゃんは、自分よりも他人を思い遣る事が出来る子なの。それって、すごく難しくて……とても大切な事なのよ」
そして――瑠唯の母は、続ける。
恐らく、世莉樺が最も欲していた答えを。
「ただ一人、瑠唯の友達でいてくれた貴方になら、話してもいいわよね。瑠唯の事……」




