バレることで効果を発揮するおまじない
鷲尾和彦は夕刻、大学の薬学専攻教室で棚の陰に隠れ張り込みをしていた。ここしばらく薬学専攻教室のホワイトボードに悪戯をする輩がいるからだ。いつの間にか、同じ専攻教室の一年上の女の先輩、東葵の名前がピンクのインクで書かれているのである。
もちろん、この程度なら他愛のない実害のない悪戯である。だがしかし、どうしても彼には看過できない事情があったのだった。
「これ、多分、おまじないですよ。10日間、好きな相手の名前をこっそりと相手の所属する組織の何処かに書き続けると、恋が成就するっていう……」
そう教えてくれたのは、小牧なみだという噂話に精通している女生徒だった。彼女の言葉を信じるのなら、誰かが東先輩を好きで恋の成就のおまじないをしている事になる。
“別におまじないを信じている訳じゃない。訳じゃないが……”
彼はそれがどうしても気になってしまっていたのである。
夕闇が色を濃くし続けている。犯人に見つからないようにする為に、鷲尾は電灯を点けていなかったから、専攻教室内はすっかり暗くなっていた。そんな中、彼は次第に“自分は何をやっているのだろう?”と馬鹿馬鹿しく思い始めていた。ここまでして犯人を突き止める程の話ではないし、見つけたところで何をすれば良いのかも分からない。恋愛成就のおまじないの妨害はできるが、どうせ効くはずがないのだし。
“そろそろ帰ろうかな?”
そう悩んでいるところで物音が聞こえた。
“犯人か?!”
緊張を覚え、彼は身構える。すると、ホワイトボードの辺りにだけ灯りが点いた。きっと犯人が東先輩の名前をホワイトボードに書こうとしているのだろう。
“書かせて堪るか!”
彼はほぼ反射的に棚の陰から身を乗り出していた。ただ、どう声を発すれば良いのか分からず、気が付くと「どなたですか?」という随分と間抜けなセリフを口にしていた。犯罪でも何でもないから、糾弾するのもおかしい。それくらいしか言えなかったのである。
すると、その何者かは直ぐに返した。
「おや? 鷲尾君じゃないか。まだ残っていたのかい?」
その声と姿に彼は面喰ってしまう。
ややいたずらっぽい口調でそう返したのは、なんと東葵本人だったからだ。おまじないの犯人ではなかったのかと彼は考えたのだが、彼女はピンクのマジックを手に持っていた。滅多に使わない色である。それこそ恋愛成就のおまじないをするくらいにしか。
「……図書館でレポートを仕上げていてね。ここしばらく毎日残っていたんだ」
鷲尾が「もう帰ります」と言うと、東先輩も帰るところだったらしく、「一緒に帰ろう」と誘われてしまった。やや気まずかったが、断るのも変である。そのまま彼らは一緒に大学を出た。無言の中、足音だけが響く。彼はコンクリートの道路の堅さを足の裏に感じながら、彼女に尋ねあぐねていた。彼女が“おまじない”の犯人であるとは限らない。いや、そもそもあれが本当におまじないであったのかどうかすら分からないのだ。一体、どう尋ねればいいのだろう?
すると、彼のそんな様子に気が付いたのか、彼女はフッと笑うと口を開いた。
「うちの大学のサークルに、民俗文化研究会というのがあるのを知っているかい? あまり熱心に活動してはいないのだが、一人だけ真面目にやっている女生徒がいてね。鈴谷さんというのだけど」
「はあ……」
“それがどうしたのだろう?”と彼は首を傾げる。
「その鈴谷さんが言うにはね、おまじないや呪術の類は、誰がやったのかバレないようにするのが一般的だそうなのだよ。
しかしだ。なんと、上手く工夫をすれば、バレることで効果を発揮するおまじないもあるっていうじゃないか」
“上手く工夫をすれば?”
彼はその表現が妙に気になった。そこで彼女はいたずらっぽく笑う。そしてその顔で彼は瞬時に真相に気が付いてしまったのだった。
“まさか……!”
解答を教えるように、東先輩は口を開いた。
「そのおまじないのお陰で、君の気持が分かったよ。少々、子供っぽいところがあることもね」
それを聞いて、彼は軽く溜息を漏らす。
つまり、おまじないの話は嘘だったのだ。彼を罠に嵌める為の。彼はまんまと罠にかかり、彼女に気がある事を伝えてしまったのである。しかも、恋の成就のおまじないの妨害をするという恥ずかしい行為で。
ただ、それでも彼は彼女を怒るつもりにはなれなかった。色恋沙汰に疎い自分は、こんな切っ掛けでもなければ、自分の気持ちを伝える事もできなかっただろう。
そして、彼は或いはそれは東先輩も同じだったのかもしれない、とも思っていた。だからこそ彼女は“バレることで効果を発揮するおまじない”に頼ったのかも。
……そう思うと、なんだか彼は、彼女が堪らなく愛おしく思えてしまったのだった。




