Saturus (サトゥルス)
Iというアルファベット(それともローマ数字の「Ⅱ」だったのだろうか)を目にした瞬、三歳の僕は解脱した。一〇年以上経った今、真剣にそう語ると笑われ蔑まれ、挙句の果てには妄想甚だしい、その齢でさよう記憶のあろう謂れなしと斥けられる始末だが、これに関し言わせてもらえば尋常の筈がない。
卓上の一片の紙切れ、濃い鉛筆が遺す粗い痕。紙の繊維の毛羽尖に、黒鉛と粘土との煉製である粉は粒を晰らかにし、僕との距離が縮むくらいに映えていた。
斯くの如く屹然たる潔い字形に胸のすく思いがする。根拠もなくそれ一文字をサトゥルスと読んだ。当時の僕独自語で蜥易(蜥蜴)を示す言葉であった。そして、唐突に思念の場に龍神の表象が開示され、波羅彝曾良寺本堂の天井にある画、八方にらみの龍だと気が附く。解った瞬間、天啓の如く脱自に襲われた。
エクスタシスを経験したことのない人がいるなら教えて上げよう。それは人間を行動へと駈り立てる幸福だ。生きている瞬間の眞實、晰らかな、そのとおりであること、生へと導く便宜的な措定、生存の為の餌、地上の天国だ。畢竟、あのときの僕について言えば、こうであった。
まず胸がすうっとし、血液が新しくなったような心地がする。全てが異様にリアルに映える。静寂が絶叫する。途方もない肯定感(PRESENCE)が訪れる。もう死ななくともよいと宣告されたかのような身も裂ける解放、全てを赦され、命奪われてさえ快哉と叫びたくなる、驚くべき拡がりと自在。時が止まったかとすら覚える。
強烈だった。肺が清冽さに炙られるほどの空気。その後幾度か僕を襲ったこの類いの現象の中でも、最大級のひとつだった。一四歳のあのときを最後に起こらなくなってしまったが、今もはっきり言い切れる、人間にとって幸福とはこの清新清明のことであると。
暫時恍惚とした後、どうしたかは憶えていないが、以来「I」が僕にとっては戦士の旗や楯に後足立ち(ント)する獅子紋となった。
真言宗室生寺派波羅彝曾良寺は貞観一一年(八六九)、当地の豪族須磨螺氏の甚布施を基に建立され、宝暦七年(一七五七)再建された本堂の天井画「疾風怒浪三鈷杵龍図」が有名だった。
立騒ぐ波を巻きたて群雲の旋回する中、右前脚に三鈷杵を握って目を滾らせる龍神の図で、瞬きを知らざるが如く睜かれた眼がどの位置から仰いでもこちらを凝視しているよう見えることから、八方にらみと呼ばれる。
僕は幼少の頃から何度もそれを見ていた。結婚式や法事や葬式や祭りのとき、只遊びにゆくときなどなど幾度となく眺めていた。住職の孫は同級生だった。
家からも遠くない。村の中心である名嘉身瀬通りがそのまま古参道に繋がっており、あちこち缼けた石段を、一本筋の貫く匂い粛たる大杉に囲まれ、五〇余段を登るとそこが山門だった。
平安後期の遺構を伝える門は翼広げる鷲のようだといつも思う。これをくぐって、境内をゆけば杉の他に樫、檜、楢、橅、楠の木など閑たる道を辿る。やがて五重塔を左、金堂が右手にして、奥に本堂が横たわる。
必ず本堂を目指した。靴を放るように脱ぎ、木段を上がり、堂内の薄暗さへと入ると、すぐに見上げる。目が慣れ、恫喝する青龍の姿が顕われる。斯くの如くに龍が見られ、僕がいられる。龍が「僕に見られ」させるから、僕はここにこうしていられる。
次第に胸のすく思いが檜の匂いのように染み渡ってくるのは、先天的な恩寵であって、自分自身にすら解らない。
ひとつだけ言えることは意味など解っても何にもならないということだ。何をどう説明しようが言葉を別の言葉に換えている他の何事でもなく、それが何だと言うのか。同義反復的な廃墟、実際、何の為にもなっていない。理解やら納得やらと言ったって、経緯のない暴虐的な唐突さで、忽然とある力(FORCE)でしかあり得ない。
五歳のときだった。
台風一五号の迫る豪雨の日。村の樋を溢れさせ、畦は低く稲は波の如し、伽藍の甍が炸音、唸り揺れる山林、風景全て叩きつける瀑布の飛沫で白く煙る。
僕は母に見送られ、送迎バスに飛び乗った。彝曾良村唯一の幼稚園は、園児が歩いてゆける距離にはない。
一つ前のピックアップポイントから乗車していた叭羅蜜多(「ぱらみた」と読む。波羅彝曾良寺住職の孫)が最後列にいた。
彼が喚わる。
「龍肯(「りょう」と読む。僕の名前)!」
彼のひとつ前の列に坐った。窓側が空いていたからだ。叭羅蜜多とは親友と言える仲だったが、会話はそれで終わり。僕は窓枠に肘を突き、すぐに空想に耽った。雨が好きなのだ。
想像の中で、僕や叭羅蜜多ら園児は古代の戦士であった。激烈な雨の降る中、装甲された六頭立ての大型馬車に搬送され、暗鬱な、未知なる戦地へと赴くのだ。穹はどす黒く、馬にはチャンフロンと呼ばれる金属製の顔あてが附けられ、時折り嘶いて緊迫を裂く以外は非情なマシンのようであった。
僕はスキアヴォーナ(籠状のナックル・ガードが附いたブロード・ソード)を抱くようにして膝を立てている。各戦士らの持つ長剣やフランキスカ(投擲戦斧)、フレイル(殻物を繋いだ棒状の武器)やメイス(鎚矛)なども同様に無表情で虐戮に満ちていた。僕はやはりここでも馬車の鎧扉の隙間から雨を眺めている。
送迎バスが楠、欅、橅などの大木十数本からなる天然のトンネルをくぐった。僕の表象の中では、それが厳しく殺伐たる王城の門であった。濠を跨ぐ跳ね橋を渡って城下へ出る。民衆の生活は相変わらず悲惨。人々は裸足で泥塗れになって歩いている。一年中着ていると思われる粗い羊毛織の衣服。窓越しに桶から放り捨てられた汚物汚水が主要な通りの両端を流れている。
城外区域を走る小川が氾濫し、粉挽き水車が悲鳴を上げて回っていた。粉挽業は領主の専管事業で、高い税を払わなければ民間では行えない。だから、遠い村などでは無許可業者が絶えなかった。
出発前の朝食は山羊のチーズと香辛料入りの温かい葡萄酒、それと。
突如、叭羅蜜多の声で僕は呼び戻される。
「で、サトゥルスってさあ」
衝撃を受けた。
「叭羅蜜多! どうして、サトゥルスを知っているの!」
その後、僕らがどんな会話をしたかは、思い出せない。彼がなぜあのときその話を持ち出したのか、二人とも今では憶えていない。
当時、僕は全く個人的な体験で説明不能のサトゥルスを叭羅蜜多が口にしたとき、躬を抉られるような感じを覚えた。
叭羅蜜多とは以来盟友となり、同盟を称した。
普齊(「ふせう」と読む)が僕らの同盟に加わったのは、小学校に上がったときだった。
或る日彼は言う。
「なあ、ぼくらはどうしているんだろう? いるって、不思議なことだよ。違うかい? いったい、これは、どういうことなんだ? なぜ、いないのではなく、いるんだろう? いるって、どういうことなんだ? ほら、不思議じゃないかい、ぼくらこうしていられるって? 笑うなよ。もちろん、分かっているよ、あたりまえさ。でもだから、何をどう分かっているのか解らないんじゃないか」
休憩時間のことだった。普齊が教室でそういう主旨(実際、彼が述べた言葉は、もっとごちゃごちゃだった)の疑義をいかにも訳知り顔で語り始めると、級友の誰もが退いた。当然だ、皆、六、七歳なのである。
僕は叭羅蜜多と目線を交わす。興味深いね、そういう挨拶のつもりだったのだが、叭羅蜜多は大きく頷き、一歩前に出て得意げに教示する。
「ばかな奴だ、そりゃサトゥルスのせいさ」
僕は多分赤くなったと思う。俯いて、三日ぐらい学校を休みたい気分になった。
「何だ、それ。叭羅蜜多」当然、普齊は瞠目しながら問う。
「普齊、おまえは」 叭羅蜜多が斜め下から見上げる視線でゆっくり神妙に言う。「自分がいるってことをどう考える?」
「あのな。だから、それをぼくが訊いているんじゃないか」
無論、普齊は自分の説を持っているのだ。だから、それを披露したくて、わざとらしくとぼけて喋り出すのである。叭羅蜜多はそこを逆手に取ってからかっている。
「へええ、何も考えてないんだ」
「何だよ。その手には乗らないよ。それより何、さっきのサトールって」
「サトゥルスだよ。本当に知らないのか?」
「・・勿論、聞いたことはあるさ」
僕はおかしさを堪えようとしたが、既に遅し。噴き出してしまった。
「何なんだ、龍肯、君もか。おかしな連中だな」
「じゃあ、言ってみろよ。サトゥルスってことの意味を」叭羅蜜多が強く挑発する。
普齊がくしゃみのような咳払いをした。
「ふん。仕方ないね。ふぇっへん。サトゥルスってぇのはねえ、つまり」眉を歪め虚空を凝視。「ザインのことさ」
「ザイン?」今度は僕と叭羅蜜多とが目を丸くした。
僕らの驚きを見て、普齊が急に眼の輝きと余裕とを取り戻す。
「そうともさ。ザインだよ」
「何だ、それは」
「知らないのか!」さも驚いたように言う。非常にわざとらしい。
「知るか」
「困ったね。どう説明すべきか。・・いやいや、これはね、英語なんだよ」いや、ザインとはドイツ語なのだが、それは随分後で判ったことだ。「まあ、日本語で言えば、存在ってことかなぁ。知っているかい? 存在っていう漢字を」
「まだ習ってないよ」僕は応える。
「ぼくもさ。けれど、知っているよ。君ら、勉強したまえ。学問とは自分の意志で進めるべきものさ。
まあ、ともかく、存在は英語で存在と言うんだよ。憶えておきたまえ」
「何で、それがサトゥルスなんだ?」
普齊がにんまりと得意満面になった。
「おやおや、君たちこそサトゥルスを知っているのかい? 本当は知らないくせに、ぼくから聞き出そうとしているんじゃないのかい?」
「ふん」叭羅蜜多は鼻尖でせせら笑った。「サトゥルスってのはなぁ、そんなもんじゃぁないんだぜ」
再び普齊の表情が震える。
「なんだよ。じゃあ、言ってみろよ」
僕は叭羅蜜多が何を言うのか心配になった。
「いいか、普齊。サトゥルスってのはな、マジックさ。魔法なんだ。不思議なことなのさ。この世がある、俺らがいる、見ろよ。マジックじゃないか。こうしていられるってのは、摩訶不思議じゃないかよ」
僕は少し感心した。サトゥルスの意味を考えたことがなかったからだ。言われてみれば叭羅蜜多の言うとおりかもしれない。
ぽかぁんとしていた普齊が急に意地悪な表情になった。
「へええ。そうなんだ。なんかジミ・ヘンドリックスが同じようなこと言ってたよなあ。まあ、それはいいとしてもさあ、叭羅蜜多、君の立派な御説は、実のところ、何の説明にもなっていないよ」
「それがどうした。世の中のこたぁな、説明じゃない。人生は御託じゃない」
波羅彝曾良寺の子らしい発言だと思う。
「なるほどね。君の言うとおりさ、叭羅蜜多。でも、そんなことじゃ知っていてもいなくても同じだよ」
「本当のことってのはそんなもんさ。世間は問題集でも解答篇でもないんだぜ。都合よくゆくもんか。俺たち皆、本当のことの最中なんだ」
「なるほどね。いずれにせよ、それじゃ時間の無駄だよ。
いいかい、ザインってのは、ぼくらがいるってことさ。世界が在るっていうことなんだよ。ぼくらは感じたり考えたり欲しがったりやったりするけれど、それは世界があるっていることと異音同義、同じじゃないか? 解るかなあ」
「全然」叭羅蜜多とは答える。でも、僕は少し解るような気もした。「で、それは何かの足しになるのか?」
普齊は少し赤くなった。
「なるさ。これは大発見だ。ぼくが世界で初めて見附けた窮極の大真理だよ。これが全ての科学や哲学の基礎になるんだ」
「なるほどねえ。それがサトゥルスだったのか。そもそもサトゥルスって何語だ?」
「だから、つまり、・・・うう、そうだねえ。・・・だから、それは別に関係ないと思うよ」
「思うよって、おまえが言い出したことだろう」
「だからさあ、そうだよ。その、・・・どうやら、ぼくも勘違いしたようだね」
「何が『ぼくも』だよ、おまえだけだよ」
「弘法も筆の誤り、猿も木から落ちる。色々憶えているからね、さすがに混乱するのさ。そうそう、ちょっとサトゥルスと似たような言葉があって勘違いしたんだよ」
「どんな言葉だよ」叭羅蜜多が嬉しそうに追求する。
「忘れたよ。残念ながらね。多分、ザインの類似語さ」澄まして普齊は答えた。
「るいじご? 何だ、それ」
結局、授業の開始によって中断されたものの、僕らは放課後まで延々議論し続け、下校時も田圃の畦道を歩きながら話し続けた。ともあれ普齊の博識には僕ら二人感心する。
斯くして彼は盟友となった。
同じく七歳のとき。
「蒼いんだぜ」叭羅蜜多が交渉する。
「ふうん」
と言っただけで、〆裂(「いれつ」と読む)は縁側に胡座を組んだまま、木刀傍らにして山野を遠望、話に興味を示さない。
菅原家は須磨螺家の直流を自称する名家で、江戸時代には村の庄屋であった。菅原〆(い)裂の家には、代々継承された幾つもの山が所有され、龍涎川の清流下りや点睛湖が観光地として名を成すこの地域で、その地所には十数の別荘が建てられている。最近、そのひとつに外国人の館ができたと聞いて、叭羅蜜多と僕とは居ても立ってもいられなくなっていた。斯くして同級生〆裂の許へ、所謂推参した次第なのである。
「〆裂よ、おまえも見てみたくないのか。紺碧の眸をよぉ」
当時、叭羅蜜多が紺碧という色を具体的且つ正確に知っていたとは思えない。〆裂にしても同じだろう。僕も然りだ。ただ、凄く綺麗な蒼を想像してそれだけで陶酔した。例えば、蒼や青や碧や藍や紺の瑠璃がモザイク状に鏤められたよう、ステンドグラスを嵌められた薔薇窓のような、燦然たる睛。
「別に。俺は興味ない」
「そう言うなよ、〆裂」
叭羅蜜多を援護せんと、僕も口を揃えて言おうとしたが日頃から無口な方で次が出ない。隣の普齊を横目で見たものの、そもそも興味がなくて盟友だからついて来ただけの彼にいつもの多弁さを求むべくもなかった。
外人さんたちが居る別荘の場所は大体分かるが、〆裂の案内があれば精確だ。けれど、僕らの狙いはそこじゃなかった。僕ら村の子たちが悪戯心で興味半分に別荘地のプライベートな空間をうろつけば苦情が来る。〆裂の父や祖父から怒られる。ただし、〆裂が一緒であれば幾分正当性が生じる。そういう企みであった。今思えば、〆裂を巻き添えにしてしまう作戦なのだが、その頃はそんなことに気が附く筈もない。
菅原家は農家だが、幕末に農民の間で武芸を習うことが地域一帯で流行ったとき以来、武術を嗜む家風が復活していた。〆裂の家の父も祖父も厳しく怖い。
この作戦は是非成功させなければならなかった。
「頼むぜ、〆裂」叭羅蜜多が拝む。
〆裂は首を縦に振らず、背筋を伸ばして黙したままだ。
附き合わされていい加減、業を煮やしたのか、普齊が唐突に口を開いた。
「伍樫山の中腹に瀧があるんだってね、〆裂」
〆裂が普齊の顔を見た。
「ああ。一条之瀧と言うんだ。冬場に寒稽古で使うよ」
「いいところかい?」
「無論だ。身も心も清冽になる」
「ぼくらに見せてくれたことがないじゃないか。そんなにいい場所なのに」
「見たいと言ったことがあるか」
「だって知らなくっちゃ、言えないよ。そこへ皆で探検に行こうよ。で、ついでに異人さんたちのお家も遠くから見させてもらおう。それならいいだろう?」
〆裂がにやりと笑った。
「うまいことを言う」
「何だよ、だめかい。そんなに親父さんや爺様が怖いのか」
「ばかを言え! 俺を嘲るのか」
「じゃあ、決まりだな」すかさず叭羅蜜多が言葉を挟む。明日、七月三十一日午前五時の出発となった。
翌朝、四時に起きる。妹の由伽(「ゆか」と読む)を起こす。二歳下の彼女に知られてしまったについては所以がある。楽夏(「らっか」と読む)のせいだった。
楽夏は隣に住む同級生の女子で、幼馴染中の幼馴染だ。始終僕をかまう彼女は、〆裂の家の庭先で盟友らと交渉しているのを見かけて、これを怪しみ、妹の由伽を使って探りを入れてきた。そして、妹の報告から凡そ僕らが何を企んでいるかを見抜き、巧みにこう言ったのだ、『ねえ、由伽ちゃん。龍肯があなたをおいて菅原さんのところの別荘区に出かけようとしているから、お母さんに言いつけるよって脅かして一緒に連れていってもらいなさいよ』妹を連れて行かざるを得なくなり、案の定、楽夏本人も便乗、同行することになってしまったのである。
僕は由伽と手を繋ぎ、静かに障子を開け、早暁の廊下へ出た。小鳥の囀りが処々から響く。足音を忍ばせる。畑仕事に行く祖父母と出会うのは仕方ないと諦めていた。見つかっても咎められないし。だが、父母は違う。寝ているのを起こさないように努めなければならない。
僕は妹を玄関で待たせて台所に戻り、かえるのはちよつとおそくなります、と念を入れて置手紙した。
門を抜けて道路に出ると、既に楽夏が待っていた。リュックの中身を見せて、「ほら、お弁当だよ」と言ってにっこり笑う。赤い髪に赫い丸顔で、細い目尻がやや吊り上がり、唇は薄いけれど大きくて、歯並びもいい。「さあ、いこうね。由伽ちゃん」「うん!」
すっかり気をそがれた僕は二人を連れてとぼとぼ菅原家へ向かって歩き始めた。朝靄が山林を這い上がっている。
水田に白鷺が立つ。
〆裂の家は御屋敷だ。土塀と瓦屋根。両側に蔵を附けて家のような門。僕と妹とはそこをくぐり、剪定された大松の傍らを巡るように抜けて、飛石を渡り、石の前庭に出る。
普齊は予想どおり来ていたが、もう一人をいた。
燎々(「りょうりょう」と読む)だ。彼女は〆裂の従兄弟でやはり同級生だった。
「どういうわけか、知られちゃってね」〆裂が申し訳なさそうに言う。「すまないけれど、こいつも一緒に行かせてくれ」
燎々(りょうりょう)が癇の強いかすれ声で言う。
「おはよう、楽夏! あんたも来たの? 全くぅ、ひどいったらありゃしないよ! 私を置いてゆこうなんさぁ。ほんとぅだよっ、〆裂ったら!」
いずこも事情は似ているようだ。
そして、最後に叭羅蜜多が来て僕らは出発した。
伍樫山は御屋敷から二㎞のところにあり、既に見える。尖頭が〆裂、以下は燎々、叭羅蜜多、僕と由伽、楽夏、普齊の順に縦列で進む。舗装路から畦を渡り、水路を越え、笑いさざめきながら山の麓に着いた。
朝霧がまだ深い。中腹の別荘地へは、ジグザグに登る車道が続く。
「近道をしよう」
〆裂はそう言って、指差した。つづら折れに伍樫山を上がってゆく車道を、串刺すような具合に直線的に上昇するその道は、道と呼ぶに足りず、草が分けられ、斜面が踏まれ、辛うじて足場をなす程度の獣道並だ。
「待ってくれよ、由伽がいるんだ。無理だよ」
僕は反論した。
〆裂が厳しい顔で言う。
「だが、まっとうに行ったんじゃあ、夕暮れまでに戻れないぜ。外人の家も見て、瀧も見るのなら、可哀想だが他はない」
妹を見た。僕を見上げて由伽は笑顔する。
「ゆかは、だいじょうぶよ、おにいちゃん」
頷かざるを得ない。だめなら引き返せばいいんだ。
「ゆっくり行こう」
〆裂はそう言って、道を外れ、僕らの背丈より高い草を掻き分け姿を消した。
燎々が言いながら続く。「何よ、草がちくちくするでしょう? 痒くなりそうよ、本当にもう! 待ってよ、〆裂」
「それより虫に刺されるよ」叭羅蜜多も不平そうに言いながら進んだ。
「由伽ちゃん、本当に大丈夫?」楽夏が心配そうに妹の顔を覗く。
「うん」由伽が元気に応える。
「やれやれ」普齊が諦めたように言う。
僕は由伽と手を繋いで叢に飛び込んだ。朝露に濡れる。あるかなしかの道を、叭羅蜜多の背を見失わないように上がる。
「蝮に気を附けろよ!」
姿の見えぬ〆裂の声。僕は妹を振り返り後悔した。気遣う楽夏の見上げる視線とぶつかる。
「龍肯、本当にいいの?」
「行けるだけ行こう。気を附ければ大丈夫じゃないかな」
楽夏の後ろで普齊が苛立ちを放つ。「早く進めよっ!」
僕は憤った。
「こっちには由伽がいるんだ。分かんないのか」
普齊がさらに怒鳴る。「分かっているさ。だからって、行かないのかよ。ぼくはどうなるんだ。兄貴がしっかり引っ張れよ!」
何て奴。妹は物じゃないんだ。引っ張れよだと! 理不尽さをどう言い表し伝えていいか、僕はあふれる言葉で喉がつかえた。様々な種類の怒りがグラデーション状に絡まり滾り、次々湧き籠り上げてくる。
しかもあろうことか、暴言を吐いた普齊はこちらを睨んでいる!
楽夏の声が割って入った。
「ちょっと、やめなさいよ。喧嘩なんかしたってしょうがないでしょう、こんなところで。ねえ、楽しく遊ぶ為に来たんでしょ? それが目的でしょ! 友達なんだから、仲良くしてよっ」
「普齊が悪いんだ!」
「何言っている、さっさと行かない方が悪いんだろう」
「ねえ、良いとか悪いとか言い張り続けても埒が明かないよ。普齊、龍肯は由伽ちゃんを庇っているだけでしょう。分かっているくせに、なぜそんなことを言うの? 龍肯もすぐむきにならないでよ。普齊はちょっと焦っただけなんだから。あんただって、結構せっかちなくせに。自分の普段も考えなさい」
僕は黙った。
確かにそのとおりだが。どうして女はこう、理の立ったことが言えるのだ。いつもだ。全く不公平だ。僕らは毎度このありさまで、楽夏たちは常にああいう風なんだ。彼女らだって自分でそういう自分を造ったわけではあるまいに。僕らだって、そうだ。
反論できないまま膨れっ面で、進行方向へ向き直る。由伽が言った。「お兄ちゃん、ねえ、ゆこうよ」
僕は哀しくなる。「ああ、行こう、由伽」そう言って妹の手を引いた。
「〆裂っ、もっとましな道はないの!」
燎々の喚く声が遠い尖で響く。しばらくはその非難が間歇的に聞こえた。
僕らは顔にかかる草の穂先を払って斜面の湿った土に足を踏ん張る。見えるのは、足下と一メートル尖とだけだ。妹を看遣る。
片側一車線の舗装路に出た。左右を皆で確認し、一斉に横断した。また順を守って〆裂を尖頭に草を分け、柔らかい土を踏み分ける。薮蚊が気になった。寺の鐘が聞こえる。椚の枝葉の暖簾をくぐった。靴底で小枝が折れる音がする。
二〇分ぐらい登っただろうか。少し開けた場所で〆裂らが大磐に坐って待っていた。
「休憩しよう。由伽は無事か?」
「わたし、元気よ!」由伽が応える。楽夏が屈んで、その額を拭ってくれた。僕は切ない。
「心配しないのよ、龍肯。意外と女の子の方が強いもんよ!」燎々が言う。君はそうだろうさ、僕は目を逸らした。
「この辺で朝飯にしようぜ、皆食っていないんだろう?」叭羅蜜多が言う。
「そうだ、そうだよ、ぼくも腹ぺこだ」普齊も同調。
「そうよね、そうしましょう、〆裂」燎々。
楽夏がリュックからおむすびを七つ出す。〆裂が水筒を廻す。
誰もが明るい気持ちになった。僕も和らいだ。微風がそよぐ。好ましい青空。蒼草が揺れ。叭羅蜜多が冗談を言えば、皆が笑う。そう、食べられればよくて、食べられなきゃだめ。僕らは、そういう絡繰り機械みたいなものだ。
「さあ、行こうか」
〆裂の掛け声で再び進む。
少し行くとまた舗装路にぶつかる。横切る。渡り切ると路側に細水が流れていた。蔦をつかんで土手を一mほど攀じ登らなければならない。僕が笑い声を上げる由伽を抱き上げた。叭羅蜜多が受け取り引き上げてくれる。
森はやや鬱蒼としてきた。下草は幾らか低い。木の匂いがする。羊歯や葛蔦を眺めた。
そして、三回目の舗装路横断。蝉の騒がしさはもう感じない。
鬱蒼とした厳樫の森。木の葉の隙間から網状の蒼穹が眩しい。
僕はいつしか空想に入っていた。
未知なる山林で、蛮族らがどこかで待ち構え伏せている。僕らは皆聖なる戦士だ。神聖なる秘密を手に入れる為に、冒険の旅の途上にある。尖頭を行く〆裂は剣術に長けた名うての傭兵で隊列の副長、実質的なリーダー。
僕は想像のリアリティを高める為に現実の彼を見上げた。草が低く疎らになったせいで、二〇m尖に〆裂の後頭部が見える。
その後ろにすぐ附いているのは、燎々。獰猛果敢な女戦士。次の叭羅蜜多は大学を中退して参戦した皮肉屋の変り種。僕と由伽とは戦争孤児で、道中兵士らに拾われた。後ろを歩く楽夏は従軍看護婦、最後の普齊は、貴族の子弟というだけで将校になったインテリ隊長だ。
僕は知らず、微笑んでいた。汗をかきながら。そう言えば、大分暑い。由伽は無口になっていた。僕は声をかけられなかった。楽夏が背後から妹の表情を看る。「ねえ、由伽ちゃん、大丈夫?」由伽はおとなしく頷いた。「うん」妹は我慢している。本当は休みたいんだ。僕は涙が込み上げて来たので、木洩れ日を見上げた。真っ盛りの夏だ。〆裂らは顧みず進む。揺れる三つの背中があるだけだ。僕は彼らが憎くなった。だけれど、しょうがなかった。行くより他にない。
急勾配を力一杯駈け上がり、四つ目の舗装路に出た。
ガードレールをくぐる。腹這いになったとき、アスファルトの味がした。〆裂は皆がくぐり終わるまで待つ。
もう八時くらいだろうか。〆裂が指差す。「さあ、こっちだ」
僕ら今度は、舗装路を歩いた。一〇分も行かないうちに、〆裂が未舗装の枝道に導く。その細道の入口には、粗野な手作りを模した表札が立っていた。横文字で読めない。尤も当時、普齊以外は平仮名を読むのさえやっとだったが・・・
「ここから外人さんの別荘の敷地だ」〆裂が厳粛にそう言ったとき、一同甦るように声にならないどよめきを挙げた。
「万歳!」そう言いそうになる僕らを〆裂が制す。
「待てよ。いいか、ここはもう他所の人の家の庭なんだ。見つからないように入らなきゃ、怒られるんだ。いいか、分かったな?」
僕ら皆、同時に頷く。
そして、〆裂がこう附け加えると、僕は心が解けた。
「由伽、よく頑張ったな。大丈夫か?」由伽が初めて泣きそうな顔になる。張りつめていたものが緩んだのだ。僕は頭を撫でてやった。「お兄ちゃん」由伽はとうとう小さな声で嗚咽した。
もし〆裂が道中で同じ言葉を言ったら、妹はここまで辿り着けなかっただろう。途中で帰れば、苦しみは少なかったかもしれないが、ここまで来た今のこの気持ちを得られなかった筈だ。誰もが黙っていたこの瞬。〆裂は素っ気ない表情に戻って、皆を振り返る。
「さあ、目立たないところで少し休憩しよう」
はやる心を抑えて、僕らは道を逸れ、叢に入り、少し草を倒して木陰に車座に坐った。
「龍肯、俺のことを怒っているか」〆裂はそう訊いた。彼は敢えて非情に進んだのだ。僕はそれが解って少し恥ずかしい気持ちを覚えた。
「違うよ、〆裂」
彼はしばらく僕をじっと見ていたが、頷いた。
「そうか、ごめんな。龍肯」
僕は俯いた。彼は大人だ。
優しさだけが本当の優しさではない。そんな一遍通りのことじゃないんだ、幼心ながらそれが何となく僕にも解った。
「さあ、行こう」
一五分くらい経ってから、普齊が言った。勢いよく全員が立ち上がる。
「行こぉ!」由伽が元気よく声を挙げた。
僕らは出発した。
目的地に着いた途端、雄弁さを復活させた普齊が歩きながら、外国人について延々と講釈を垂れ始めたが、誰も文句も言わず、からかいもしない。
すっかり僕らは明るくなっていた。
坂になった小道を、身を屈めつつ(それにどのくらい意味があったか今思えば苦笑ものだが)侵入する。次第に空を背景に、上方に見え始める。
初めて別荘というものを見たのだが、今思い出そうとすれば、詳細が浮かばない。ともかくも瀟洒な印象だけが強く残っている。村にはない洋風の造りを憧れを以て眺めていた記憶だけがある。白い家だった。
角度のきつい切妻に煙突、欄干のある屋根附きテラスがあって、大きな窓のカーテンが鮮やかな青。そんなくらいか、憶えているのは・・・
僕らは見た。
刈り込んだ芝を植えた庭に、テラスの階段を白い夏服を着た一人の少女が降りてくるのを。皆息を呑んで、沈黙して見入っていたが、僕は誰よりも心奪われていたに違いない。
振り返ったとき、少女の髪が背中から肩に跳ね上がる。そして、その双眸。
光に照らされたダイヤモンドのように燦めく睛。太陽よりも烈しく、射抜くような、それでいて果てしのない透明感。晰らかでありながら、その円形の紋章の中にはくっきりと隈取られた文様が幾重にも奥行きを以て重なり、またその完璧な円そのものも見えない炎で縁取られているかのようであった。
『眞實』という概念が想起させられた刹那、僕にエクスタシスが恩寵の光の如く狭霧となって振り注ぐ。
事実、僕はこの情況を想定していた。だから、ここに来たかったのだ。心に描いていたとおりのものを見ることができた。いや、精確に言えばそうではない。想像以上だった。遥かに。ただしそれでも、いや、それだからこそあらかじめ自分が期待していた何かと身を裂くほど完全に合致していた。自身を超えて、炸放するほど嵌まっていた。幸福だ。
便宜的に措定された生存の意味、すなわち廃墟的な。
一二歳の真夏。
その頃には、あの少女がイヰリアという名前であることが判っていた。彼女はアメリカ合衆国に住んでいるが、父親の祖国である日本に夏休みに家族で帰省していたのだ。だが、日本人の父は実の親ではない。イヰリアの母親が再婚だから。実際の父親はギリシア系のアメリカ人であった。なお、母はスペイン系だと言う。
僕らが一〇歳の頃まで、彼女は別荘に毎年来ていた。
僕は夏になると独りで数度、伍樫山に登った。別荘地へ行くと、大楠に登って身を潜め、庭に出てくる彼女を、レンジローバーで父親と出かける彼女を待つ。いつも去り難い想いに今少し今少しと時を延ばし、暗くなって家に戻ると、母に叱られた。だが、止められるわけがない。衝動は僕を超えて、根源から自身として突き上げていた。彼は僕以上に僕自身なのだ。彼に比べたら、僕なんて上面みたいなものだ。
そうかと言って、イヰリアに声をかけることなんてとてもできなかった。
今年こそはと思った去年一一歳の夏、五回登っても彼女ら家族は来ない。今年も既に二度登った。いない。
僕は納まらなかった。
八月五日の蒸し暑い晩、眠れずに寝床から跳ね起きる。時計を見た。〇時だった。真夜中。先週読んだツァラトゥストラを思い出す。イヰリアの眸の感触が海の色に僕を滲ませた。
なぜ来ない。そんな筈はないじゃないか。アメリカはとっくに夏休みだ。
彼女への想いが身を苛み、僕は家を飛び出した。暗い道を走った。烈しい動悸。獣道を駈られ駈ける。死者の静止した表情のように、森が威嚇する。木が歪んで揺らぐ。木の葉が騒ぎ、僕は何かに見られていると感じる。全てが僕の鼓動だった。心臓の芯から込み上げてくる動揺に嬲られ、なすがまま。どうすることもできない。
山が震え、上下するようにすら感じる。
別荘に着いた。窓は瞑い。カーテンは閉じていなかった。足音を忍ばせて、テラスに上る。呼気だけが響いた。どれがイヰリアの部屋なのか判らない。月光の差す部屋を選んで覗き込んだ。人気はない。
僕は納まり切れず、様々試みたが、夜明けとともに断念した。ガラスを割ろうかとさえ衝動したが、そこまで逝けなかった。半端な自分を罵りながら僕は叢に突っ込んだ。
ここから道なき傾斜を登ると瀧がある。他に舗装された正規のルートもあるが、僕は迷わず山の斜面を疾駆する。
一〇分程度だ。瀧は三mくらいで水量は大したことない。裸になってじゃぶじゃぶと水に入る。滝壷で膝上くらいだ。そこで打たれる。水打音以外、何も聞こえない。遮断された感じだ。痺れるほど冷たい。
待った。
日射しが水面を刺す。燦燦たる眩さ。まるで無数に小魚が跳ねるよう。赫奕たる太陽。
瀧に打たれたのは初めてだった。これが禊というものかと思う。穢れが祓われるような気がしていた。真っ向から差す曙光に自ずと合掌する。何かとても善いことをした感覚。正しく為すべきことを為した充足が漲る。気持ちがいい。軽くなる。今まで煩っていたことが、実に重苦しく、鬱蒼としてあくどい、愚直な、好んで苦しみを求めるようなものに思えてきた。
自然と躯の中に光が刺すように観じたとき、身奥が明るくなった。爽烈であった。清明躬に在れば気志神の如し、その言葉がふと浮かんだ。
清明。これがそうなのか。分からない。現実のことに答えはないから。問題集のように解答篇が附いているのではないから。
だが、これがあれば、清明と呼びたいこれがあれば、多くの欲望はその本来的な要請を満たせる。満足とは欲望の要請が費えた状態を示唆するから。清明さえ身にあれば肯定に充たされ、自ずと執著を離れる。
ますます昇る朝陽は水面を燦然とさせた。
その燦めきに僕は思わず、イヰリアの瞳を想起する。これにリンクして空想は光速の如く廻った。
彼女もきっとこの瀧を見に来たに違いない。意識は勝手にそれを思い描いた。水辺で裸足になって戯れたろうか。既に脳裏にはイヰリアの素足が泛かぶ。
新芽のような指尖の皮膚、柔らかさが香り匂う。生命の横溢を告げる滑らかな、真奥へと透く肌色。親指がやや立って、人差指との間の小股が切れ上がっている無垢さ・・・
僕は再度、重苦しい執著に憑かれ、勢い余剰する血潮を滾らせた。大動脈を慟哭させる。イヰリアを失うことなんてできない。できやしない。絶対に失えない。
「知っているか、龍肯」
普齊が言った。
「何をだよ」
中学二年の夏休み前だった。
「イヰリアさ。帰って来ているらしいね。炎(「ぼの」と読む)が見かけたって言っていたんだ」
彼女の名前を他人の口から言われると、嫉妬と猜疑との綯い交ぜとなった苦い憤りと、どうしようもない動揺とが僕を襲うのが常だった。だが、それよりも衝撃の方が強かった。
「本当? どこで?」努めて平静を装おうとしたが、声が不自然になる。
「ふん」普齊が僕をじっと見る。何を探っているんだ、普齊。まさかおまえもそうなのか、普齊、汚い奴、いやらしい奴、貴様なんかがイヰリアを・・・、初めて皆で伍樫山の別荘を探検したときに、僕と諍った彼の表情が、脳裏に噴き上げてくる。
だが、逆にそれが僕を冷静にさせた。自分がまたも操られている無様さに気が附いたからだ。感情は僕の意志に関係なく黴や菌類のようにわき上がって僕から僕を略奪する。感情は他所者だ。全然、僕じゃない。爬虫類だ。別の生き物だ。
「何もったいぶっているんだよ」僕は笑って見せた。
普齊が興味なさそうな様子を造る。「別に。いや、思い出そうと考えていたんだ。君がそんなに知りたがるとは思っていなかったんでね」
「ああ、知りたいとも。凄い綺麗な女の子だったじゃないか」
僕は敢えてそう言った。だから、普齊も強がった。
「ああ。そうだな。ちょっと待って、ええっと、確か古参道のあたりを父親と散歩していたって言っていたね」
その後、憂貴(「ゆうき」と読む)から隣町のスーパーマーケットの女子トイレで見かけたとか、参廊(「さぶらう」と読む)がレンジローバーを目撃したとか、爽烈(「そうれ」と読む)が郵便局でイヰリアの母親を見たとか、様々な情報が入り、学級委員長の彝齋肯(「いさう」と読む)からも礬水本舗で和紙を買っている姿があったという情報を聞くに至って、僕は確信を得た。イヰリアは帰って来ているのだ。もう授業に身が入らないどころか、手足から力が抜けて震え出しそうだった。放課後、誰をも待たず、独りで一番に下校する。下駄箱で履き替えるのももどかしかった。
その日は豪雨だった。
傲然たる態度で降り頻っている。校門を抜けた。いつの間にか僕は走っている。瀧に打たれた日を思い出した。今ある全ての風景が画像のように思える。竹林の擾乱、道祖神の毀たれたる石像。遠く山景は寂寥を鼓し、田畑の向こうには雑木の丘を背負った人家。
伍樫山へ行くには村の中心通りを抜ける。ちょうど、家の近くを通るので鞄を置いて行こうと考える。名嘉身瀬通りに入った。礬水本舗もこの尖の四辻にある。このまま行けば古参道にも通じていた。
古瓦を襲う傾盆の雨が耳を聾す。代々の家々の甍が蕭然と烟っている。
傘などないも同然だ。頬を痛いくらいに撃ち、毛細血管を収縮させた。唇へ挿る滴。顎から次々落下する。靴は濡れ、歩く度に鳴った。合皮革鞄は濃く染み、型崩れしている。
爆竹ような路面。
竜垂涎通りと交わる四辻に出た。料紙巻子の礬水本舗、書肆葦彝磐堂、文房具清蘭洞、骨董綾聚庵、創業が江戸時代に遡る老舗ばかりだ。点滅する村唯一の信号機。僕は附近まで来て足を止めた。
傘も差さず、独り立っている少女。
肩にかかり燦爛たる金髪を垂らす後ろ姿、心臓が息を詰まらせた。紛れもない。痩せて長身のイヰリアが烈雨に彳む。
何がなんだか解らなかった。彼女はなぜ雨の中、ずぶ濡れになるに任せ突っ立っているのか。どうして今頃、こんなところに。全く予想だにしない状態、てっきり別荘にいると思っていたイヰリアが、絶対にこんなところで出会う筈がないと思っていたイヰリアが、ここにいる。余りの唐突さ、現実ではないように感じる。幻惑。突如、異世界に投げ込まれたような気分だ。不安が襲った。垂直に落下する瀧雨に全てが遮断される。
瞬時、意識が失われていたようでもあったが、気が附くと僕は言葉を交わしたことも、目が合ったことも、近附いたことさえない彼女へと走り寄っていた。
傍まで行ったが振り向かない。僕は語りかけていた。
「いったい、どうしたんですか?」
顔中の血管が膨らんで破裂しそうだった。頬骨の脇辺りが痛いくらいに。
向く。
ブラウスを浸し、十四歳の皮膚を透かせ貼り附いていた。
「ねえ、風邪引いちゃいますよ」
日本語が分かるだろうか。いや、少しは分かる筈だ。
黙って僕を見つめるだけ。
下瞼が堰のように涙を濫れさせている。その揺らめきが燦めきを以て移ろう双眸には、凛とした毅然があり、僕をたじろがせた。
眼の碧さは虹彩という、瞳孔を調整する筋肉の一種に因るものだ。虹彩の色素が少ないと、青い光線が吸われないまま亂反射し、為に生じる。
イヰリアの虹彩の亂反射が捉えられないほど眩いのは、虹彩を蔽う角膜と、角膜と虹彩との間にある前眼房を満たす眼房水とが、尋常ならざる透明の晰らかさを持つことに因る。
その透明度を喩えるなら、湖面から水深一〇〇mの底にある砂粒のひとつひとつが表面の凹凸の一々を、精緻な解析度で見せるような、目眩を覚えるほどの明晰さ。
移ろいつつ煥り為す青碧、または蒼燐が紺碧に燦々烱めく。ときに碧蒼なる燠火の如、炮烙し、奥になるにつれ炳焉かとなって、その奥にも燠せる青蒼を赫奕たる太陽の燦らかさで爍かせる。
尖燦に僕は射抜かれた。イヰリアの双眸に比べれば、僕らの生きる現実には眞實の欠片さえない。この全くの純粋の中に、魂を破裂させる鮮烈さに比べれば。
僕を空前の眞實が襲った。エクスタシスは凄すぎた。
笑い、我が身を裂きながら自分自身を超える。無際限を超える。僕の裂け目から閃光が八方に放射し、成層圏を突き抜けた。
そうさ。名嘉身瀬通りの街灯は大西洋を行く海賊の旗、老舗の古瓦が国民会議議長の襟飾り、雨はトレドのトランスパレンテ、或いはセヴィーリャ大聖堂で聖祭壇衝立の頂上にある十字架を睨む黒髪靡かせるレオン・フランシスコ・デ・セヴィーリャ、そうら、僕の眉毛は湖上城、若しくは謁見の間だ、伯爵ラグナレクの薄青の瞳、書肆葦彝磐堂の軒下が貴婦人の美しい歯並び、諸概念が僕とワルツを踊る、彼はヴェネツィアの仮面で仮装していた。見てくれ、崩壊した僕のバラバラの残骸、Sorge(関心)の女神像が冷たい眼差しでこちらを睥睨し、聳え立っている。パルテノン神殿だ。僕は甦ったアテナ・パルテノスを観た。イスラム建築の内壁面を覆い尽くす緻密な漆喰細工のような光燦を持った、その黄金の哄笑を。比べて人の生の何と惨めなことか。地を這う蟻。
無論、当然のこと。素敵じゃないか。答えは嵌まらない。サトゥルスとはマジックなのだ。
違うと言うなら応えてくれ。今まで何が解っていたと言うのか。いや、解りようがある筈がない。もとから、そうだった。それを知っていた。知っていたのに気が附かなかった。あたりまえすぎて。疑いの余地のない、晰らかなことだったから。
つまりそれは、ここが海鳥島、北緯二七度であるということ。裂南北大陸海(テラーノ )の中央、コリーダ・デ・トロス諸島の第五番目の島。有史以来、諸国列強に強姦され続けた僕らの第二の祖国であった。
だから、僕は、顔面の左半分から後頭部にかけて逆立つ青龍の刺青を彫ることとなる、龍肯という名の少年なのである。
そう、見渡す限りの海、蒼穹、ゆったり行く白雲。果てしない白砂。今までどおりだ。何でもない。僕と叭羅蜜多とは並んで坐っている、海辺に。
「俺は行くぜ」
彼がそう言った。
「どこへ」
僕は、世界を北と南とに引き裂く青碧の海を眺めたまま訊く。
「北大陸だ。ユヴィンゴさ」
僕は左隣に坐る彼の顔を見た。同時に左方遥か連なる海の向こう、北の大陸の方角を望む。すなわち僕らは島の東岸にいた。右手数千㎞尖には南大陸がある。「なぜ」
「分かっているだろう。ユヴィンゴ連邦のパリヴォ自治州は今滾っている。革命の気運が労働者の間で鬱屈している。数ヵ月後には何が起こっても不思議はない」
僕はいたたまれない気持ちになる。
「君は本当に民衆の革命を信じられるのか。君らの家族を殺したのも民衆じゃないか。あの大虐殺の日を忘れたのか」
叭羅蜜多は目を伏せて苦悶を浮かべた。
「忘れやしないさ。忘れられるわけがない。
あの七年前の朝はな。俺はまだ六歳だった。お袋がごみ捨ての桶に入れてくれて助かったんだ」
「無論、忘れられる筈がないだろうさ。
龍神信仰(島の先住民アリアノ人の宗教)の原理主義過激派が煽動して、難民キャンプのパーリ人家族数千人を虐殺した。
アリアノ人たちが羅教パーリ人を憎む理由はひとつだ。一一年前にこの島のユヴィンゴ王国勢力(当時はまだ連邦ではなかった)を駆逐してパスタリャ家が来たとき、それに伴って南大陸から来た羅教パーリ人が反動家の拠点とする村の島民たちを殺戮したからだ。その為に罪のない君ら家族がアリアノ人の報復を受け、殺された。糞も味噌も一緒くたじゃないか!
だって、君らは北大陸のイルーダから来た。南大陸との関係は薄い。どうして殺される? イルーダに住んでいたパーリ人移民の子孫で、イルーダがシルヴィエ帝国(北大陸の超大国。シルヴィエ聖教を奉ずる苛烈な宗教国家)に占領され、その迫害から逃れてきた北系パーリだ。そうだろ。だから君はシルヴィエの傀儡政権であるユヴィンゴ連邦政府に叛逆するパリヴォ(「パーリ人の」という意味)自治州の革命運動に同情的なんだ。
その君ら家族が殺されなければならない理由なんかなかった。明白だ。確かにパーリ人の中には搾取する者も残虐行為をした者たちもいる。だが、難民は晰らかに違った。
羅教徒にも過激な原理主義者はいるさ。だが、原理主義の全てが過激派ではない。パーリ人にも狂信的な民族主義者はいる。だが、民族主義の全てが狂信なのではない。パーリ人も様々な理由で歴史上残虐行為を行った。世界各地で。けれど、全ての羅教パーリ人に死を以て贖わなければならないような罪があるわけじゃない。あたりまえなことだ。だが、その明晰な事実を認めようともせぬ連中がいる。全く事実に照らして見ようとせぬ者らがいる。そして、そいつらも民衆だと名乗っている。
僕は何者にも与しない。
人は、ただ、自分の思いを遂げようとしているだけだ」
叭羅蜜多の表情がさらに苦しげに歪んだ。
「俺がそのぐらいのことを考えないとでも思うのか。だが、それは所詮、泣き言だ。俺たちはこの世界から逃れられない。何かを為し、闘ってゆくしかない。分かっていても、だ。
ならば、龍肯よ、おまえは、例えば妹の由伽が襲われたときに相手に対して応戦しないというのか。できないだろう? 自分だけの苦しみならまだ勇気ある者は堪えるだろう。だが、それが愛する者なら、堪えられる理由がない。
解るだろう。生きることは常に選択を強いる。窮極の選択を迫られたとき、人間は選ぶしかないのだ。人間なら、どちらかに与して闘う以外にはあり得ないのだ。
おまえが言うのは、同族であるパーリ人に父を殺されたからだ。おまえの父は南系パーリから裏切り者と喚われ、処刑された。だから誰も信じられない、それが心底の根拠だ。
別におまえを責めているわけじゃない。誰もが人間的な動機を持っている。それはもう仕方がない。超えられないことなんだ。だから、俺は言うんだ。
おまえだって俺と同じ北系パーリじゃないか。パリヴォを助けようという思いは無為とは言えない筈だ」
苦いものが僕の胸に込み上げた。
「叭羅蜜多、分かっていないよ。僕はそういうスタイルが嫌いなんだ。同族だから、同じ宗教だから庇うという身内贔屓の汚さがね。結局、それが戦乱を呼ぶんだ。同じ民族ならば同情するというなら、違う民族はどうなっても構わないということじゃないか。
確かに僕の一族はパリヴォからの移民さ。祖父の代に島に来た。君も知ってのとおりさ。
だからと言って、ユヴィンゴの革命家たちと協調する気持ちはない。
君が言いたいことは分かるよ。僕の父母は南系のパーリに殺された。父がユヴィンゴ側のパーリだったからだ。君はこう言いたいんだ、だから、おまえはパーリさえ信じられない、否定的なんだ、とね。
そのとおりかもしれない。どっちにしろ、僕が言っていることはそれ自体で義しい」
「分かっていないのは、おまえさ。
おまえの言うことは理屈としては義しいかもしれない。だが、何にもならない。いいか、そんなものは平和に生きられる人間の御託だ。俺がさっき喩えで言ったように、自分の家族が殺されようとしたなら、おまえだって剣を持ってどちらかへ附かずばならなくなる。それが現実なんだ。
俺はおまえが俺より平和に生きてきたとは言わない。むしろ、おまえの現状は俺より厳しい。どこにも行き場がないからだ。だから、おまえはニヒリズムに堕ちているんだ。その事実を事実として見据えた方がいい。
なあ、龍肯、おまえが言っているぐらいのことは俺にだって考えられる。だが、それを言っていられないのが、現実を生きる人間の状況なんだ」
僕らは黙り込んでしまった。人間って、それぞれの言い分が結構尤もだったりするから始末が悪い。だから、この地上に平和が訪れる日が遠い。
いったい、宗教や民族なんて何の為にあるのか。苦しい時代にはそこにアイデンティティを求め、享楽の時代には疎ましがられ、忘れ去られる。
全ての人がそうではないが、多くがそうだ。そう、紛れもなく全てではない。そして、こういう考え方は大事だ。真理の基本だ。物事を一面的に、端的に捉えたとき、大虐殺は起こる。
眞實は常に捉え難く複合的な要因が縺れ絡まり、複雑系的な構造を持たなければならない。大多数の民衆には受け入れ難い構造だが、事実だ。世の中、どうしてこうも始末の悪い設定ばかりなのか。
意のままになることなど、一つもない。心さえも。
だからこそ、世界は在り得ると言えるが。抵抗性がなければ、何も感じられず、実在しないことになるだろうから。
神が斯く創り賜うたのだ。確かに享受するしかない。だが、いや、だからこそ、神の与え賜うた範疇に於いて僕らは闘うのだ。
そう思うとなぜかさっぱりして、叭羅蜜多との諍いもこれはこれでよい気がしてきた。僕は自分に於いて、精一杯やってゆく、それでいいし、それしかない。
「帰ろう、叭羅蜜多。せっかくの休日だ。もっと、気分転換しようよ。
どうせ、君は行ってしまうんだ。で、いつ行くんだい」
「一ヵ月後、来月の今頃だ。俺らが渡航するには色々技術的な問題があるからな」
そのとおりだ。普通なら出入国を許される筈がない。全ての羅教過激派の行動にはパスタリャ家の監視が附いているし、受け入れる側にしても過激派と判れば入国させはしないだろう。
僕らは砂浜から小さな丘を超え、サボテンや潅木類の自生する斜面を左手に見ながら、小道を辿った。海鳥島の首都アルカサルへ帰る。
椰子の葉の屋根を持つ粗末な人家が並ぶ未舗装の埃っぽい通りをしばらく行くと、市壁と市門にぶつかる。門衛はいるがここ数年は何のチェックもない。通過税は廃止されていた。海からの関税だけで充分なのだ。
海は島に富を齎すが、島民には不幸を齎す。
南北いずれの大陸からも等距離にある為に、戦略的要所、海洋貿易の最重要中継地点として、南北の豪族や王侯らが海を渡って諍い、策謀しては代わる代わる占拠し、その度に各国のエゴに翻弄された我ら島民は、辛酸を舐め尽くしてきた。
石畳の細い路地を幾つか抜けて、旧市街に入った。洗濯物が紐に吊るされ、小さなベランダに真っ赤な鉢植えの花。ちょうどシエスタの真っ最中だった。五百年の永きに亘ってこの島に君臨した北大陸のユヴィンゴ王国の影響で、峻厳な北方様式の石造建築が目立つが、街の雰囲気は南方的な爛惰に満ちている。
民族・宗教紛争の内乱に起因するクーデターによって王政が斃れたユヴィンゴは今や連邦国家となったものの、国家基盤が不安定な為に全ての対外政策を縮小し、この島からも一一年前に撤退した。
今領有するパスタリャ家だが、後楯には南大陸の超大国マーロ帝国皇帝羅班が控えている。周知の事実ではあっても、北大陸の覇者、神聖シルヴィエ帝国との直接的対立というかたちを執らない為には、パスタリャの代理支配が必要形式なのだ。
だが、そもそもユヴィンゴ王朝が斃れたのは、内紛に乗じて軍事介入した北大陸の盟主シルヴィエの諜略であり(ユヴィンゴ連邦政府は帝国の傀儡政権で、事実上、属州の状態にある)、シルヴィエ皇帝ジュダスはユヴィンゴを手に入れた代償として北大陸側の制海権の足場をみすみす失ったのであるから、当然、海鳥島を北大陸側に奪回すべく、早期に起動することは必定であった。
現に島の反政府組織に莫大な武器や資金が北大陸から供与されている。
反政府組織は民族・宗教単位で幾つかある(数千年の歴史の中で数多の民族が来ては去って行った結果、ここもまた多民族多宗教国家である)が、最も大きな勢力を持つのは、北系パーリ人による『自由の聖なる海鷲』であった。全て羅教徒である。叭羅蜜多はその過激派だ。
僕らはカフェ・マルタで再び議論し始めた。叭羅蜜多が言った。
「龍神信仰者集団ヴァラジュが最近、また活発化しているんだ。既にパーリ人ら十数人が暴行を受けている」
「またか。とは言え、パーリ人羅教の過激派の中にも、全ての背教徒に死を、と唱えて、同族のパーリ人五名の喉を裂いた組織『聖人衆』もあるじゃないか。五名の中には、幼いこどももいたという。いったい、ああいった連中の頭の中はどうなってるんだか。奴らはただ失業中の若者で、社会的な不満をでたらめに暴発させているだけだ。何も分かっちゃいない」
「確かにな。幼いこどもの喉を裂くことが、どうして聖なる行為と言えるのか、俺にだって理解はできんよ」
「この前、港湾で荷降ろしの日雇いをやったけれど、船にいたヴァルゴ教のガリレオ人が言っていたよ、北大陸で家を焼かれ、さ迷っていたときにアルレリア人オーデ教徒のゲリラに銃を突きつけられたそうだ。ガリレオ人は『オーデの神は慈悲を説かれた筈です』と言って命乞いをしたが、アルレリア人は『死ねば神に会えるさ』と応えたそうだ。偶然、巡回中の正規軍の目に留まって助かったらしいけれど。
うんざりするよ。本当に。世の中、しようもないことばかりだ」
「自衛するしかない。全ての人間を幸せにはできないさ。理不尽も仕方ない。しなければ、されるのだから。
龍肯、おまえも気を附けろよ。ヴァラジュ過激派の先鋒は、武装部門じゃない。情報担当のリザドら一連の奴らだ。奴らは芥子の実を資金源にしていたが、去年辺りからおかしくなっている。普通じゃない。
ヴァラジュ幹部も手に負えなくなっているらしい。民族浄化と称して、無差別に女を犯し、男を殺しているんだ。俺らパーリが特に狙われる。南北の区別なんて奴らにはない」
僕は不安を覚えた。
日が暮れて家に戻ると、妹の鞄があった。由伽は叔母に預けられていたが、時々学校帰りにこうして寄ってくれる。
だが、ガランとした屋敷には人気がなかった。家屋敷はユヴィンゴ統治時代、我が家が裕福だった頃のもので、かなり広い。殆どの部屋は使われていない。風呂と台所とトイレ、それに僕の部屋ぐらいだ。維持できないので、早く売りたいのだが、買い手が附かない。結局、家を担保にパーリ人系の銀行から借金して税金などを工面しているのだが、後数年が限度だ。
多分、妹は僕を待ち切れなくて近所に遊びに行ったのだろう。
知らせが来たのは午前二時だった。
死体安置所で見た妹の姿は無残であった。まだ一〇歳の由伽の下半身に着衣はなく、どす黒い血がこびり附いて裂かれていた。靴は片方がない。残った靴が破れ泥だらけで激しく逃げ惑ったことを物語っている。内臓は暴かれ、子宮が持ち去られていた。右眼球は抉り取られてない。
晰らかに犯された上に虐殺された屍。僕は絶叫し、嗚咽し、慟哭に崩れた。
こんなことが赦されていいのか。まだ幼い少女が、何の罪もなく、どうしてこのような酷い目に遭わなければならないというのか。どれほど痛かっただろう、どれほど恐かっただろう。助けを求めても誰も助ける者はいなかったのだ。
聴取を終えて、警察を出たときは既に朝方であった。状況や手口から、ヴァラジュの犯行と断定されたらしい。
両腕を支えられて署の門まで来ると、驚いたことに外は人だかりであった。警察官が懸命に制御している。中には先住民族擁護団体がいて、警察に抗議していた。信じられない光景だ。年端も行かぬ少女が惨殺されたのに、こいつらは何を言っているんだ。またアリアノ人らしき男の罵声で、「貴様らは殺戮者だから、俺たちが清めてやるんだっ」僕に向かって言っているのだろうか? 考えられない。こんな目に遭わされて、まるで非道者扱いか!
どんな人間にだって堪えられないものがある。怒りが暴発した。殺してやるっ、それが頭を奔走した。拳を振り上げる。
そして、僕は警察官に抑えられ、彼処へ運ばれた。
自宅まで保護され、送られると、僕は大人しく家に入る。誰もいない家。もうここに由伽が帰ってくることはない。哀しみが僕を突き上げる。
外へ出た。
近所にアリアノ人の経営する雑貨屋がある。僕はそこには行った。店主は顔見知りでサクサという名だ。彼が悲しげな顔で挨拶する。
「やあ、龍肯。この度は何と言っていいか、由伽ちゃんが大変なことに・・」
僕は何も言わず、サクサの顔を殴りつける。鼻血が噴き上がる。掃除用の長箒の柄を持って滅茶苦茶に店内を暴れ、店に来ていたアリアノ人の客を次々僕打した。サクサが叫ぶ、「止めてくれ! 龍肯っ!」僕は止めない。五歳くらいの少年を見つけると、いけないっという思いが走った刹那、柄を真上から力の限り振り下ろした。昏倒して倒れるこども、母親が悲鳴を上げる。後悔が襲った。だが、それが余計に逆上を駈り立てる。僕は絶叫した。「貴様ら、皆殺しだっ」
集まってきた近隣の連中が僕を取り押さえようとした。僕は振り切って走る。家に一度戻り、有金全てをつかむと、裏口から出て街の路地裏を走り抜けた。そして、市門をくぐり、丘へ登り、よろけ転びながらも山に向かって走り続ける。何も彼もが破裂しそうだった。
僕は潅木の密生する雑木山に身を伏せる。
三日三晩歩き廻り、ようやく山賊に出会えた。首領は曹慈といい、ガリレオ人だった。父がユヴィンゴ王国海鳥島総督府の諜報部長だった頃に登用されていた情報収集分子の総括役だった男だ。
「やあ、坊ちゃんじゃないか。いったい、どうしたことだ!」
「実は」僕が事情を説明すると、曹慈は涙々と泣いた。
「分かりました。坊ちゃんを匿いましょう」
「それからもうひとつ御願いがあるんだ」
「何でしょう」
僕は金貨全てを差し出し、打ち明けた。曹慈が驚きの表情を浮かべる。「本当にそんなことを!」
「そうだ。構わない。頼むから、言うとおりにやってくれ」
そこまで言うと、気が遠くなり、意識を失った。
三日後、僕は曹慈の協力で信頼できる彫師を五人雇い、代わる代わる作業をさせた。僕自身は一週間一睡もしない。首から上の左半分が青龍の刺青で埋った。龍は僕の左鎖骨の上に赫く赤口を開き、長い首が喉仏左側をくねり、前脚を顎左に広げ、胴体が鱗を光らせ左頬を渡り、左目蓋を跨いで左額に後脚を泳がせ、のたうつ尾が左後頭部を走る。この為、僕は頭髪の左半分を剃った。
異様な風貌だった。だが、僕がこれを言い出したとき、曹慈が驚いた理由は別にある。
青龍は龍神信仰の象徴だからだ。
叭羅蜜多に見られたら絞め殺されるかもしれない。どういうつもりなのか自分でも説明できない。狂おしい自暴自棄な気持ちかもしれない。だが、そんな解説なんか要らなかった。湧き水に映した自分の顔を見て、久しぶりに身体が軽くなったような爽快を覚える。これでいい。
僕は山に入ってから三週間目の晩、山賊たちのキャンプから抜け出した。手に散弾銃を持つ。ポケットには干し肉。いずれも僕の資金で入手したものだった。皆寝静まっている。夜警番には銃を見られぬよう上着に絡ませて、月見の散歩をすると言い置いた。今宵静寂の中、喚く興奮が体内を反響している。
リザドの現時点でのアジトは判明していた。曹慈は未だ有能な男だった。山賊同様、ヴァラジュの連中も移動し続けている。急がねばならない。僕は夜中歩き、山を越えた。昼間数時間ほど、木の洞や洞窟などで眠る。干し肉を齧った。湧き水を啜る。
五日目の晩、リザドと取り巻き連中のアジトを見附けた。僕は平然と進んだ。
歩哨が鋭く糾す。
「近附くな、誰だ!」
構わずぶっ放した。十数人の男どもがテントをひっくり返し、飛び出してくる。既に数人が僕の散弾にあたっていた。焚火の光によって僕はリザドの顔を一瞬で認める。彼の面は知っていた。数年前にごろつきどもが集まるバーで見かけて教えてもらったことがあるのだ。黒髪荒ぶる彼の凶相が驚愕の表情に満ちていた。狂気の沙汰以外の何者でもない刺青顔を見て、魔神が舞い降りたように思えたのだろう。誰もが呆気に取られていた。
「リザド、龍肯だ。由伽の兄だ。妹の復讐だっ」
何のことか分からないようだった。僕は撃ちまくる。最初の発砲からここまで七秒と経っていない。大胆な奇襲で敵の大半が斃れた。僕も肩に二発食らった。逃げるリザドの背を撃つ。斃れる。跨ぐ。脳天に銃口を突き附けて発射した。
三人ぐらいが脱兎のように逃げていた。恐らく僕独りだとは思えなかったのだろう。
敵が全滅したのかどうかはどうでもよかった。どうせ死ぬ気だった。そのまま背を向けて、僕は歩き出した。撃たれたって構わない。
だが、撃たれず、僕は山を降り切った。午後になる。アルカサルに向かっていた。何も意味はない。頭の中で自分の行為を反復していた。僕は義しい。奴らは無差別に殺した。僕は当事者を殺した。アリアノ人を殺したのでも、龍神教徒を殺したのでもない。
そう繰り返した。繰り返さずにいられなかった。
やりきれない虚しさ。リザドを殺しても妹の苦痛はなくならない。由伽の時間は苦しみのまま止まってしまっている。彼女が怯え、絶叫し、苦しみ抜いた事実は消えない。過去はなかったことにならない。あの時間をなくしてあげられない。あの酷い事実をなくしてあげられない。復讐をしても何も変わらない。晰らかな、科学的な、非情な事実だ。
どんなに痛く恐かっただろうかを追体験しようとあれ以来、何遍も想像した。僕の苦しみを納得させ終わらせる為に。けれど、何度やっても納得に至れない。終われない。どこにも終わりはない。事実に答えはない。太陽の熱射が容赦なく襲った。乾いて風もない。
遠く陽炎のようにアルカサルが望まれた。
リザドらのアジトは首都からそれほど遠いところではない。あらためて奴らが大胆な連中だと考えた。それとも警察を潤沢な資金で買収済みなのか。
岩だらけで途切れがちな道。歩く度に炙られた砂埃が炎の如く、素早く熾りゆっくりと広がる。
失血の為、僕は首都まで辿り着けないことが判った。少し方向を変え、僕は郊外の共同墓地に向かう。両親が眠り、妹が眠っている筈の場所だ。思えば、妹の葬儀さえしてやらず、今日に至っている。弱り切った意識には、罪悪感も曖昧に揺らぐだけだった。日が暮れると同時に僕は倒れる。
朦朧とする中で、誰かが僕をゆっくり運ぶのを感じた。
気が附くと柔らかく小さな光と数名の人影が認識できた。暗いところだった。僕の口に水の入った木製のコップがあてられた。麦藁の上に寝かされている。
「さあ、ゆっくり呑んでください。ゆっくりとです。まだ出血は止まっていません。でも弾は貫通していますから、安静にして薬を塗れば大丈夫です」
それはイヰリアだった。彼女はこの世界ではどの人種に属しているのだろう。だが、その記憶は消え、海鳥島の龍肯の記憶に変わった。
「ここは、あなたは」
僕は訊ねた。非常に優しい気持ちになっていた。光の円やかさのせいか。或いは信じられないほど燦めくこの女性の青蒼の双眸のせいか。髪までも光を放つ。僕は無意識に凝視し続けていた。
だが、荒んだなりの刺青者の視線にたじろぐこともなく、彼女は暖かい目を瞬きもさせずに僕を見つめてくれた。
「わたしはイヰリア。そして、ここは安全な場所です。さあ、今はもう何も訊かないで。貴方の魂と身体とを癒してください」
僕は眠りに落ちた。夢を観た。何の夢だか憶えていない。そして、目が覚めた。
彼らは白皙金髪碧眼のシルヴィエ人であった。ただし、普通のシルヴィエ人ではない。シルヴィエ人は北大陸系の勢力範囲内を出て住むことは殆どない。安全の為に。それだけでも彼らは充分にあたりまえな人々ではなかった。
ここはシルヴィエ聖教原理主義の異端派、エレミタの集会する場所だった。彼らは人里を避け、墓廟の地下室に集まるのだ。エレミタは純粋な聖教原理を保持し、無抵抗主義である為、北大陸の覇者、神聖シルヴィエ帝国の拡張主義的国策とは相容れない。迫害を逃れ、この島に十数年前から住み、増え続けていた。
帝国側は聖教が一枚磐であることを主張する余り、異端を存在自体認めぬ為、彼らエレミタが外国でどんな仕打ちを受けようと、干渉せぬばかりかシルヴィエ人であることさえ認知しない。だが、シルヴィエ以外の諸国から見れば、彼らは紛れもなくシルヴィエ人で聖教徒である。シルヴィエは侵略主義的超大国で全ての国から畏れられ、忌まわしがられていた。特に南系の諸国の間では露骨にその存在自体が罪悪視され、シルヴィエであるというだけで充分に処罰の対象になり得る状況であった。
南大陸系のパスタリャ家が支配するこの島でも、彼らは公然と活動できない。温柔で、且つ帝国の反勢力であるゆえに、積極的な取り締まりは受けていないだけだ。ただし、当然民衆レベルでは相当な目に遭っている筈だし、表立って動けば政府からも処罰されるに違いなかった。
この目で見るのは初めてだ。北大陸全てを支配しようと目論むシルヴィエ帝国の残虐な侵略が有名なだけに、この慎ましく敬虔なシルヴィエ人たちを見ると不思議な気持ちになる。本来、全ての宗教は有益な筈なのだということに改めて気附いた。ただ、人間の行為に罪があるだけなのだと。
三日して容態が落ち着くと、イヰリアは僕に街へ帰って正規医師の治療を受けるよう勧めた。
「わたしたちはあからさまに街に姿を出すことはできません。でもだからと言って、全く没交渉でもないのです。巧みに身を隠しながら、一般市民の中に極少数の理解者を持っています。彼らの慈善に接して最低限の生活必需品を入手しています。アルカサルへの出入りは不可能ではありません。
貴方をこっそり搬び、適当な医者の家の前まで連れて行くこともできるのです。
わたしたちが貴方に施したのは、簡単な応急処置だけです。早く医師に診てもらう必要があります。幸い絶対安静にすべき山は越えたように見えますが、一日でも遅れてはなりません」
「分かりました。僕は確かにアルカサルに帰るつもりでいました。だが、それは自滅の為です。八つ裂きになる為だった、いや、既にこの龍神の刺青こそが、僕を裂き破っているのです」
イヰリアが愕いて言った。
「なぜそのような恐ろしいことを言うのですか、そのような言葉を口にすべきではありません」
そう、僕自身だって今はそれを望んでいない。心境の変化が起こっていたからだが、自分でも説明できない。
僕は衝動に捉われ、イヰリアに事情の全てを告白した。彼女は一切を静かに聞いた。
「僕は正当な復讐を遂げたと信じている。だが、法的には殺人犯だ。またヴァラジュの報復も考えられる。僕を留めて置くことは貴方たちに甚大な被害を与える可能性が高い」
それに対するイヰリアの答えは厳かな香気を持っていた。
「わたしたちに何が起ころうと、それは神の思し召しです。貴方のせいではありません。だから、わたしたちには、復讐することもされることもない。全てが恩寵です。わたしたちには、ただ神への敬虔な信仰と神の創り賜うたこの世界への畏敬と感謝とがあるだけです」
「では、僕の復讐は義しくなかったというのですか。なるほど、暴力は忌むべきもの、復讐は義しくない、そういう考え方も分かっています。だが、妹をあのように殺されて誰が黙っていられましょうか」
「わたしは貴方が義しいとも義しくないとも言いません。聖教では、『義不義は人にあらず』と言います。裁くのは神だけです。もし人間が自ら裁こうとするなら、それは神の行いを信じていない証です」
「神が本当に裁いてくれるか。いや、そうじゃない。我が手が義によって、すなわち神の正統なる命示によって裁く」
「では、なぜそれは正統と言えるのでしょう。貴方の妹が理不尽に殺されたからですか。それは分かります。けれど、貴方の行為が正統か、神の命示どおりかどうかは誰に判断を委ねるべきでしょうか。そして何よりも、貴方が遂げたいとする思い、すなわち妹の為の報復となっているでしょうか。
貴方の妹は本当に救われましたでしょうか」
その質問は僕の心臓を貫いた。それは、まさしく僕の心を苛んだ疑問であった。
「それは」
「貴方の妹が、苦しんだというその事実が、いったい、消えたでしょうか。
龍肯、聴いてください。過去は変えられないのです。復讐は生き残った者の為の慰めでしかありません。苦しみ死した者たちへの癒しにはなり得ない、どのような行為もなり得ないのです。それは既に起こってしまったことだから。
現実とは、この世界を御創りになった神の御言葉です。この現実だけが世界を御創りになった神の御言葉だから、一度起こってしまったことは二度と変えられないのです」
「そんなこと、堪えられないっ」僕は慟哭した。
「龍肯、赦してください。けれど、これが眞實です。なぜなら、事実だから。事実は神の御言葉だから」
「できないっ、僕には、できないっ」
「そうです。龍肯、できません。人間にはできないのです。憤りに苛まれ、焦がれ、復讐へと駈り立てられる。激情に捉われ、余りの理不尽に心止まず、これを遂げずにいられない。これが人間です。誰もが同じです。神が斯く創り賜うたのですから。仕方がないのです。誰にも責める資格がありません。礫を投げることができるのは、罪のない者たちだけだと言われます。もしそうならば、誰にも礫を投げる資格はありません。
龍肯、これが何を意味するかわかりますか」
「誰にも復讐する資格はないと言うのですか」
「ないとは言いません。ただ、あたかも無辜の者であるかのようにはできないということです。人は皆同じ、だからこそ同情や憐れみ、愛の余地があるのです」
僕はかつて叭羅蜜多に言った言葉を言い返されているような気がした。今では、彼が義しいと僕は認める。
「それでは生きられない」
「そうです。龍肯。それが現実の人間存在です。眞實です。神の御言葉です。
生きられません。苦しみに堪えられません。だから人間は諍うのです。あらゆる意味で。
これが生存です。貴方にとても厳しい言葉を言います。人間は全て生存に駈られて行為するのです。これが事実です。眞實です。神の御言葉です。
この御言葉を精確に聴従してください。生存ということを。それは日々の生活の中では幸福を乞い求めるというかたちで顕われます。そして、不幸に裂かれるとき、災厄を齎した者に対して逆上するのです。
わたしたちは誰も幸福を求めています。そのように創られたから」
「誰もが同じ構造を持っているということですか」
「そうです。復讐に駈られる自己も復讐に駈られる他人も仕方ないのです。けれど、わたしたちが求めているのは、本当は幸福なのです。とすれば、報復が報復を呼ぶその行為は余りに目的からかけ離れています。哀しい行為です」
「どうすればいいんだ」
「全ての人が幸福になること。人間は独りで幸福を実現することはできないのです」
「不可能だ。夢だ」
「そうです。でも、近附くことは可能です。復讐ではなく、もっと違うかたちを求めれば、幾らかは幸福に近附きます」
「そんなのは理論にすぎない。非現実だ。言葉だけの理想主義だ」
「けれど、そうやって生きるのと、貴方のように自滅に向かって生きるのとは、どちらが肯定的と言えるでしょうか。幸福を求める本当の気持ちにより近いと言えるでしょうか、神の知らしめす事実に近いと言えるでしょうか。
この大地に永遠の平和を。これが神の示す永遠の真理、眞實ではないでしょうか」
「死んだ者たちは、それでどうなる?」
「では、貴方の考え方ですればどうなるというのですか」
僕は黙った。
「貴方は納得できないでしょう。仕方がないことです。誰しも納得できるわけがありません、このような理不尽なことを。ただ、それは貴方の心の苦しみの問題であって、死者の問題ではないことをもまた、見附けてください」
僕は黙り続けるしかできなかった。結局、僕は自分の為に闘っているのか。妹を想ってこれほど苛まれているのに、だ!
「龍肯、辛いことばかり言ってごめんなさい。
貴方には、精確な事実の把捉をして欲しいのです。その心の苦しみから解かれる為に。神の御言葉に聴従し、現実を晰らかに見、憤る心の執著を離れ、清明を得て欲しいのです。永遠の平和への為に」
僕は最後の質問を放った。
「だが、なぜ。なぜ神は斯くもまわりくどいことをされるのか」
「どうしてそれが解りましょうか。いいえ、龍肯、いったい、解るとは何でしょう。わたしたちは何を解っていると言えるでしょう。解ったからと言って、それが何なのでしょうか」
そう、諸概念は無効だから。教科書の中に入ってしまったような気分だった。
僕は力尽きた。疲弊し、眠りが襲ってきた。結局、こんなもんだ、論議ではないのだ。僕は細胞の塊なのだ。科学的事実、神の御言葉か。
イヰリアもそれを見て立ち上がった。
「さあ、龍肯、もう終わりにしましょう。これ以上、神の御名を口にさせないでください。
わたしたちは、妄りに御名を口にすることを禁じられています。神を言葉にしてはならないのです。神を思うことさえ偶像崇拝として、禁じられています。直截、神へ語るべきだと。それはつまり、現実を生きている今この瞬間なのです。わたしたちには本来は、神を讃える言葉さえありせん。なぜなら、『聖なる者は自らを欲さない』と言われるからです」
僕は半ば夢でそれを聞いていた。よくできた話だ。なるほど、自らを欲さなければ、諍いも起こらないだろうし。だが、そんな間抜けな奴は現実を生きていられない。
手は速やかに、そして、唐突に来た。
パスタリャ家の官憲が来て、僕らは根こそぎ逮捕された。幾つかの罪状が挙げられたが、案の定、僕の暴行事件や殺人罪も混ぜこぜだった。ちょうどいい口実というわけだ。僕はエレミタに災厄を齎してしまった。
縄で両手を縛られ、繋がれる。惨めな姿を晒してアルカサルの市街を連行された。屠殺場へと牽かれる牛の気分だ。聖教徒たちは表情を変えなかった。民衆が集い、罵声が飛ぶ。
温厚なエレミタの人々も、民衆にとっては、非道の帝国シルヴィエ人なのだろう。あの平和な宗教を基幹とする帝国がどうして北大陸で虐殺・侵略を行うのか。思えば不思議だが、大概の国家は皆同じようなものだ。同じ構造なのだ。それは宗教自体や民族の問題ではなく、人間の問題なのだ。
シルヴィエ人たちは斯ように罵られているが、僕は、いったい、何だと思われているのだろう? 見る限りパーリ人だが、顔の左半分は刺青だ。どこかで幼児が僕を指して泣く。大人だって誰もが最初は言葉を詰まらせる。異様なものを眺めるように睜く。それから罵る。時々よくやったと喚く変わり者もいるが稀だ。本来ならリザドを嫌う人の方が多い筈だけれど、シルヴィエとセットだからうまくないらしい。素晴らしいことだ。僕は生まれ育ったアルカサルの古い、乾いた遺跡のような街並みへ目を遣る。何も彼もが全く変わってしまったように感じる。生々しい現実味があって違和感を覚えるほどに。よく知っているのに、突然この場面に投げ込まれて面食らっているかのように違和する。諸々の概念の齎す唐突的な意味感覚のように、だ。リアル。これに比べたら、僕らの持つ様々なカテゴリーや概念それ自体など児戯だ。安っぽい作り物だ。平板な戯画だ。
ぼんやりそんな考えに捉われていた。
僕は一つの声に目を覚まさせられた。
「人殺しっ! 息子を、息子を返せっ、息子を返せっ、返せぇっ」
僕は頭を挙げて、そちらを見ようとした。晰らかに僕に言っているのだ。それは、一人の老婆だった。群衆の中で揉まれながらも、杖を振り上げ飛び出そうとしている。警備役の官憲が制した。なおも叫び続ける。
「私の息子を返せ、リザドを、おお、神様、あんな母親想いの善い子がなぜですか、ああ、そいつを火炙りにしてくれっ!」
僕は愕然とした。リザドの母か。では、僕の妹はどうなるのか。この老婆は僕の妹の受けた仕打ちをどう考えてくれるのか。瞬時、その理不尽さに烈しく憤りが込み上げたが、すぐに虚しくなった。あんな男も母にとってはかけがえのないこどもなのだ。そして、妹を殺された僕が見えていない。僕はただの人殺しの悪鬼羅刹なのだ。ばかばかしすぎる。
「へっ」僕は無意識に鼻尖で笑ってしまった。
検察庁の拘置所に入れられた。男も女も同じ部屋だ。他の被疑者と一緒ではリンチの惧れがあるかららしい。檻の中に入れられるとき、司法長官である羅教の大司教が覧に来ていた。僕は金襴緞子の如き羅毘童大司教がイヰリアの素足の踝辺りを見る目が気になった。目尻が悦を湛えて横に長く狡猾そうに伸びたからだ。赤銅色の肥大漢が!
部屋の中でも聖教徒らは慎ましく殆ど会話がない。祈りすらない宗教と附き合うのは大変なものだ。尤も本国では、聖像もあり、祭典や儀式もあり、賛美歌も祈祷もあると言う。ただ、聖教聖典の原理原則からすれば、今僕の目の前にいる彼らの姿こそが正統な、あるべきかたちらしい。
僕は膝を抱えてすることもなく、壁に背を寄せて坐って凛々たるイヰリアの姿を、憧れを以て眺めていた。
裁判所附きの衛兵二人が場に合わぬ壮麗な軍装で現れ、呼ばわった。
「イヰリア、前へ出ろ」
「わたしです」
「大司教閣下じきじきに審問したい旨がある」
僕の胸で生々しい猜疑がどす黒く滲んだ。だが、何も言うことはできなかった。イヰリアは毅然とした態度を失わず、大人しく出る。僕は鉄格子に顔をあてて薄暗い廊下を行く後ろ姿を見送り続けた。見えなくなる。元の場所に戻った。物言わぬ石積みの壁面同様、言葉のない聖教徒たちと共に黙然と待つ。彼らときたら、イヰリアの無事を祈るでもない。仕方のないことだ。石の表面を触った。ざらざらしているだけだった。イヰリアが帰って来た。長い時間にも思えたが、一時間とは経っていなかっただろう。その双眸は震えるように青燐の閃きを以て睜かれていた。髪はやや乱れている。彼女が牢に入った瞬間、皆が寄り集まった。「どうしました、イヰリア」
「何でもないわ。落ち着いてください。彼は、大司教は、不当な要求をしました。わたしはそれを拒否しました。けれど、貴方たちに不利になるようなことはありません。龍肯、貴方にもです」
僕は思わず言った。
「だが、君には不利になるかもしれない、イヰリア。何があったかは想像が附くし、君がそれを拒否したのも様子で判る」
そう言いながら彼女を探索するように見据えた。揺らぎのない彼女の眼差し。僕は自分の言ったとおり間違いないことを確信し、大司教への拒絶がイヰリアの身に苛酷な災厄を及ぼし兼ねない可能性を充分に分かっていながら、深く安堵せざるを得なかった。
「まるで羅毘童の科白が目に見えるようだよ。
例えばこうさ、『特別の神の御慈悲を以て罪を清めてやらんこともない。我が聖なる身を以て、汝が身を浄化すれば、その罪軽くならんや。だが、この聖なる神の示すところに従わざれば、その罪死を以て報いても足りぬものとなろうぞ』とかね。
君は断った。それは義しいかもしれない。だが、僕はその先を心配しているんだ」
この言葉に嘘はないつもりだったが、気持ちの底にある本質が羅毘童と大して代わり映えしないことを僕自身感じていた。
イヰリアはスターダストを散らすように少し髪を振って、もう一度僕に向き直る。
「けして。何の心配もありません。そう、龍肯、貴方の推測したとおりのことが起こりました。そして、わたしはわたしの眞實を貫きました。答えはどこにもないのです。ただ現実があるのみ。わたしには、それしかできません。ただそれだけです」
「だが、それは、現実を生きる生身の人間の眞實だったと言えるだろうか、現実であると言えるだろうか。神の、いや、妄りに御名を口にしてはいけないのだろうけれど、まあ、僕は異教徒だから赦してください、その、つまり、神の御言葉である現実にそぐわないのではないだろうか」
「そうではありません。わたしが生存に逆らってでも行為することもまた現実です。答えはないのです。貴方の言うことだけが、現実だとすれば、基本的な本能に従う以外の選択肢がなくなります。けれど、それが現実的な人間の在り方の全てだと言い切れるでしょうか」
「では、君が貫く君自身の眞實とは、何を以て言うのだろうか」
「それは、以前にも言いました。人間の眞實とは、幸福です。幸福とは眞實により近附くことです」
「だが、死して、それも無辜の身で惨たらしく処刑されるようなことがあって、それを幸福と呼べるか」
「そうです。それは幸福です。なぜなら、幸福とは、幸福と感じることに他ならないからです」
叭羅蜜多が面会に来てくれた。無論、偽名を使って。彼は渡航用に造った偽の身分証明書で髭を蓄えて現れた。そして、一人ではなかった。僕の家の隣に住んでいた楽夏と一緒だった。叭羅蜜多は北大陸南岸の某国に住む商人という肩書きで、楽夏の従兄弟で、彼女の附き添いという設定だったのである。
もう一人見慣れない人物がいた。彼は名を普齊と称する。どうやら、彼が特殊な地位を利用して叭羅蜜多の出航の為の様々な便宜をしたらしい。この場に外国人でありながらすんなり同伴できていることからも、その力が窺い知れた。
叭羅蜜多が言う。
「龍肯、脱走するんだ。俺が手引きする。そうしなければ、よくても数十年は食らい込むぞ。下手すれば死刑だ。
なあ、ここにいる普齊男爵はユヴィンゴ出身のガリレオ人で、俺たちの味方だ。革命家たちの指導的役割にある人だ。今はシルヴィエの暗殺から逃れる為に亡命中だが、今のモスコクール(ユヴィンゴ連邦パリヴォ自治州の州都)の滾りを捨て置けず、危険を承知で隠密裏に帰国する予定なんだ。俺もそれに便乗してユヴィンゴ入りする。龍肯、選択肢はない。おまえも来い」
僕は返事ができなかった。
「龍肯、失敗を恐れているのか。だが、残ってどうなる? 俺だって心配だ。けれど、やらなければどうにもならない」
「違うよ、叭羅蜜多、違うんだ」
「何が」
楽夏も切羽詰った表情で小さく叫ぶ。
「どうして龍肯」
普齊は黙って僕を見据えている。パリヴォにガリレオ人の貴族がいるとは知らなかったが、彼の地でガリレオ人らが一般的に差別的な蔑まれた境遇にいることを思えば、貴族でありながら革命側につく彼の人間的動機は推測できた。それが僕を余計に釈然とさせなかった。
「叭羅蜜多、悪いけれど、脱走には清明がない。僕はそんな曖昧模糊とした確信の中で本当に幸福になれるかどうか疑問なんだ。尖塔のように潔く一直線でありたい」
叭羅蜜多が唖然とした表情をする。楽夏も「何のことを言っているの、龍肯」と思わず声を挙げる。看守が視線をこちらへ投げるのを見て、普齊が初めて口を開いた。
「さあ、彼の意志ははっきりしました。ぼくらには何も言えません。それに、これ以上は危険でしょう」
それは実践家の鋭い見極めだった。現実は常に選択を強いる。
叭羅蜜多はしばらく微動だにしなかったが、止む得ないといった顔で席を立った。去りがてに楽夏が振り向き、唇を動かした。それは、僕の名を小さく呟き、聖句を唱えているように思えた。
僕は俯く。
イヰリアの公判は誰よりも先んじて行われた。拘留から二週間後であったことを思えば、検事や公選弁護人が適正な仕事を行えたかどうかは疑わしい。恐らく判決文は既にできていたのだろう。有罪。
刑は恐ろしいものであった。
火炙りである。数百年振りにこの刑は復活したのだ。
僕は酷いショックで立ち上がることさえ苦痛であった。判決の日以来、イヰリアは独房入りとされてしまっていた。彼女の姿があり、言葉が交わせれば、まだ何か心に救いが得られたかもしれない。だが、会えないことは一方的で、心の行き場がなかった。結局、突き詰めれば、僕は自分の為に心を砕いているのだ。
公判の三日後が執行日だったが、その前日、楽夏が独りで来てくれた。彼女の表情や仕草は独特の魅力があって、温かく親しみ易い。けれど、この日は哀れなほど切実だった。
「龍肯! 御願い、もう一度考え直してちょうだい。
ねえ、あなたは見た目も中身も変わってしまったわ。シルヴィエのせいなの?
市街を牽かれていたときのあなたのその刺青を見て、私や叭羅蜜多がどれほど驚いて、ショックを受けたか分かる? ねえ、叭羅蜜多の家族はアリアノ人に殺されたのよ。由伽ちゃんだってそうじゃない! ねえ、それなのにどうして? 龍肯っ!
叭羅蜜多は凄く傷ついて悩んでいたわ。でも、あなたを助ける為に危険を冒そうとしたのよ。あなた、それが分からないの?
御願いよ、龍肯、普通の考えになって! わたしたちの幸福じゃどこがいけないの!」
解っていたことだが、改めて叭羅蜜多のことを思うと、涙が零れた。けれど、僕は言った。
「君らのその幸福が、虐殺を生むんだ」
処刑は市街のアストーリャ広場に於いて公開式で執行された。大量の薪と一本の磔棒が立てられた。周囲に柵が設けられ、民衆はその外に群がり、見物する。早朝から喧騒状態だった。
僕とシルヴィエ聖教徒らは柵のすぐ内側に列せられ、見物を強要させられている。イヰリアの死を以て僕らを苛もうとする気なのだ。
興奮した人々の御祭り状態。
僕は震えていた。羅毘童が現れた。口上を延べる。イヰリアが繋がれて引き出された。だが、その態度は痩せさらばえながら、凛として崇高であった。裁判官のピラススが立ち上がり、罪状を読み上げる。パスタリャ家の家長にして領主のヴィバスティが右手を上げた。執行のサインだ。梯子を使って、棒の頂上近くにイヰリアが縛り附けられる。歓声が上がる。
僕は蒼穹を背景にするイヰリアを仰いだ。
火が点けられた。
民衆の声はさらに烈しく、怒号のようになる。
巨大な扇風機が運ばれた。幾つも歯車を着けたこの機械は数人の屈強な男たちで回される。油が撒かれた。扇風で炎が大きく傾く。煙が斜めに流れる。
そう、これは煙で窒息死させない為の風なのだ。人間は焼かれてもすぐには死ねない。死に切るまで凄まじい光景が繰り広げられることとなる。
最初、炙られ始めのイヰリアはもぞもぞ悶えるだけだった。あれでも相当熱いのを堪えている筈だ。
だが、炎が一m強に近附くと、縛られた足を引き千切ろうとするかのように上下に激しく悶絶した。髪が縮れる。絶叫が上がる。獣の咆哮だった。堪え続けて黙っていたシルヴィエ聖教徒らが一斉に泣き叫ぶ。僕は引き裂かれた。
「イヰリア、イヰリア、ああ、止めろ、止めてくれ!」
数人の衛兵に抑えられた僕の眼だけが釘附けになる。炎がイヰリアの足尖に届く。もはや彼女の動きは常人のものではなかった。イヰリアは気を失う。余りの熱さに意識を取り戻した。凄絶な絶叫。意識を失った。再び取り戻す。絶叫する。これが何度も繰り返された。人間の光景ではなかった。
僕は叫ぶ。「嫌だ、もう嫌だっ、イヰリア、イヰリア、堪えられないっ、助けてくれ、ここから逃がして、出してくれっ」それは紛れもない、自分の為だった。イヰリアの苦痛を見るのが堪えられないのは、畢竟、自身の中に先天的に在る苦痛への畏怖、自分の為だった。
イヰリアの踵の肉が焼かれ、骨が露わになる。全身は黒く変色し始める。髪はもうないも同然。もがきは身を裂かんばかりでとっくに正気ではなくなっていた。
細胞の塊だ。
気が附くと、豪雨の中にいた。信号機の点滅が爆竹ような路面に映っている。礬水本舗、葦彝磐堂、清蘭洞、綾聚庵など老舗の並ぶ、名嘉身瀬通りと竜垂涎通りとの交差する四辻。古い家々の甍が粛然と雨に打たれ、樋があふれる。紛れもない。ここは彝曾良村。僕は。
目の前にイヰリアが痩せた身体をずぶ濡れにし、服を貼り附かせ、尖った棒のように立っていた。向かい合っている、あのときのまま。全ては一瞬の間に起こった彼女の双眸の、緻密な細工の薔薇窓のような燦めき。今ここに見ている現実と同じ。僕はそれを知らず覺っている。
その睛は限りなく透き徹った涙で濫れていた。この大地に永遠の平和を。だが、それは何と虚しい願いだろう。
「イヰリア」
僕の声はかすれた。振り絞られたように。
彼女は黙って見つめ続けている。僕を。唇が何かを切なく言いかけたが、イヰリアは俯いた。そして、再び挙げる。言った。貫くような響きで。日本語であったかどうかさえ定かでない。
「龍肯」
イヰリア、なぜ僕の名を。
「起こってしまったことはもう変えられないのよ」